【千代美】
お風呂のスイッチを入れ、ペパロニから送られてきた鮭を切り分ける。二人では消費しきれないので、隣に住んでいるダージリンにお裾分けだ。
切り分けたひとつを彼女に渡した。
「ふふふ、ご馳走さま」
にんまりしてそれを受け取るダージリン。それはどっちの意味での『ご馳走さま』かな。まあ、普通に考えたら両方か。彼女はそういう含みを持たせるのがとても上手い。
まほとイチャついている所をダージリンに見られてしまった。あまりにも不覚。まあ、別に関係を隠している訳ではないんだけど、こうやって見られてしまうのは恥ずかしい。
流石に私達だって、大っぴらにイチャつくような事はしない。してない、と思う。たぶん、きっと。
見られたショックでさっきまで固まっていたまほは、硬直こそ解けたものの、憮然とした表情のまま黙っている。果たして照れてるのか怒ってるのか。まあ、これも両方だな。
ダージリンが勝手に上がり込んで来た事については別にいい。なんだかんだで親しい間柄ではあるので、普段から互いに行き来している。それに、今回に関して言えば、呼んだのはこっちだ。
まほが怒っているのは、ダージリンが来ると分かっていながら迂闊な行動に出た私に対してだろう。あと、たぶん、それに乗っちゃった自身に対して。
そっちに関しては、私は嬉しかったけど。
まほが無言のままこちらをじろりと睨む。考えている事を見透かされたような気がして、たじろいだ。でも、ちょっとだけ睨み返す。言っとくけど私だけのせいじゃないし。
「あら、見詰め合っちゃって」
「うるさいぞダージリン。早く帰れ」
遠慮の無い悪態は親しさの証、なのかな。
ダージリンもそれは心得ていて、ちっとも堪えていない。まほの悪態を、まあまあとだけ言って流してしまった。
「寒くて外に出たくないのよ。もうちょっと居させて頂戴」
そっか、そういえば外は雪だ。隣の部屋に帰るための一瞬とは言っても、不精になる気持ちは大いに分かる。
一度暖かい所に座ってしまうと、外どころか廊下に出るのさえ嫌になる。
無碍にする訳にはいかないよなあ、と考えていると、またまほに睨まれた。そういえば夕飯の仕度の途中だった。まあ、そうは言っても材料が確保出来てるから大してやる事はない。鮭なら適当にソテーしてやるだけでも美味しく出来る。ご飯も炊けてるしな。
とりあえずお風呂が沸くまでは、ぷんと漂う魚臭さの中でダージリンと世間話でもしようかって所だ。まほの機嫌がさっきからずっと悪いのは、なんかもう、仕方ない。
「明日は積もるかしらね、雪」
「やだなあ、本屋に行く予定なのに」
「あら、何を買うの」
経緯を丸ごと説明しちゃうとややこしくなるのは流石に想像が付くので、まほにブックカバー買って貰うんだー、とだけ。
自慢っぽくなっちゃったかな。まあ自慢なんだけど。
「ブックカバーって、文庫本を買うと付いてくる紙かしら」
「いやー、布のがあるんだよ。デザインも色々あってさ、何より繰り返し使えるんだ」
「へえ、それじゃあ本を読む時はいつでも一緒なのね」
素敵だわ、とぽつりとつぶやく。
それがなんだかちょっと寂しげで、ドキッとしてしまった。
ダージリン、綺麗だなあ。ジャージで緑茶の癖に。地が綺麗なんだよな、羨ましい。時々、こうやって思い出したように『ダージリン様』の風格が垣間見えるのが面白い。
するとダージリンはちょっとだけ思案顔をして、不思議な事を言い出した。
「まほさん、そろそろ限界かしらね」
「んん」
不機嫌そうにまほが唸った。
否定とも肯定とも付かない、って事はたぶん肯定なんだと思う。図星なのが悔しくて、素直に肯定はしたくない、でも嘘はつけないから否定も出来ない。って言うか違うならはっきり違うと言う。そういう逡巡の末に出た『んん』だ。
まほはよく『んん』という声を出すけど、その時その時でニュアンスが違う。その解読が出来るのは、私のちょっとした特技。
でも、限界って何だろう。そこまで読み取る事は出来なかった。
「ふふ、それじゃお暇するわ。ごめんなさいね、お邪魔しちゃって」
さっきまで外に出るのを渋っていたのが嘘みたいにダージリンはそそくさと帰っていき、それを見計らったようにお風呂のアラームが鳴った。
お風呂が沸きました。
「千代美、お風呂」
あ。
「まほ。限界って、もしかして」
気が付いたのとほぼ同時。
腰をぐいっと引き寄せられ、そのまま強引に唇を塞がれた。
んん。
私の舌の上に僅かに残っていたコーヒーをまほの舌が舐め取り、それをごくりと飲み下す音が聞こえた。ぷは、と唇を離したあと、まほは不機嫌な顔のまま同じ言葉を繰り返す。
「お風呂」
それで私のスイッチも、すっかり入ってしまった。
「はい」
素直に、そう答えた。
と。
お風呂でどんな事をしたかは、まあ内緒にするまでもないと思うけど、内緒。
そのあと簡単な夕飯を済ませて、今はもう寝室だ。
少し、窓を開けた。
するすると入り込んできた冷たい夜風が火照った体に気持ち良い。
ペンとノートを取り出し、机に向かう。夕方にまほが言っていた事が思いのほか面白かったので、そこから着想を貰って形にしてみようと思い立った。
前々から考えてはいたんだけど、ずっと始められずにいた事。小説を書く。
書いてみたいとか、書きたいテーマがあるとか、そんな大層なものじゃない。日頃から読んでいるものを自分で書いてみたらどうなるだろう、というぼんやりとした興味。
そこに、まほの一言が上手く刺さった。
『鉄鼠という名前はマウスみたいだなと思ったよ』
なーるほど、と思った。まほの言葉がきっかけになって、私の中でひとつのお話が広がり始めた。それを形にしてみる。
でも、やってみて初めて分かるけど難しいな。
いやまあ、簡単だと思ってた訳じゃないけどさ。
書こうとしている話自体は頭の中にあるから、要点だけは簡単に書ける。それを書き出して始まりから終わりまでを並べてみると、それだけでちょっとした達成感があった。だけどそれだけ書いても文字の量は一頁にも満たない。
ああ、これがプロットってやつなのかと、遅れて気が付いた。この書き出した要点にそれぞれ味付けをしていけばいいのかなー。
「ここに居たんだな」
まほが部屋に入ってきた。時計を見ると、書き始めてから一時間ほど経っている。あっという間。
「書き物か」
「えへへ、小説だよー」
どれどれ、とまほが覗き込んできた所を咄嗟に隠した。書いたものを見られるのって、なんだかものすごく恥ずかしい。だってこれは、一字一句、私の内側から出てきた文字だ。
でもまあ、まほにならいいか、と思ってもじもじしながら見せてやった。
三つの話で構成したひとつの話。
「最初は、好きな人に好きな本を貸す女の子の話か。ふむ、どこかで聞いた事があるな」
気のせい気のせいと言って、とぼけて見せる。まあ、まほが気付くのは当たり前かもな。
これは、私がまほに初めて本を貸した時の話が元になっている。
タイトルは『文車妖妃』。ラブレターの妖怪の名前だ。まほが『鉄鼠』をマウスに例えたところから思い付いたネーミング。
その次は、一話目の女の子から本を借りたせいで、その子のことが頭から離れなくなった誰かさんの話。タイトルは『夢魔』だ。
そして、最後は。
まあ、まだ書いてないんだけどさ。ペンを置いて、欠伸をひとつ。
「続きを書かないのか」
「書かなくても続くからな」
ごろんと布団に寝転がった。その隣、布団の空いているところをぽんぽんと叩いてまほを呼ぶと、素直に潜り込んできた。可愛いやつめ。
ぴたりと体をくっつけてやると、まほはまた鼻の奥で『んん』と唸った。
「暑いぞ」
「いいじゃん」
夢中で書いてた時は気が付かなかったけど、ちょっと寒い。湯上がりだから当然と言えば当然か。
「明日は晴れるかなー」
「さあな。お休み」
えへへ、おやすみー。