不思議な鏡
番外編、ペコ視点
生まれて初めてこの言葉を使います。『ひょんな事から』旅先で、泊まる場所を探すことになりました。
まさか実際に使う日が来るなんて思いませんでした、『ひょんな事』。一体何なんでしょうね、『ひょん』って。
ニュアンスとしては日常の中の、何の変哲も無い出来事を指す言葉のようですが、『ひょんな事』が起きると大抵、日常が非日常に切り替わるような大事件が起きる、そんな気がします。
まあ、旅先と言ってもそれほど遠い場所ではありません。帰ろうと思えば帰ることも出来るのです。ですが、泊まっておいた方が明日は何かと楽だろうという事で、泊まる場所を探しているという訳で。
それと、自宅以外の場所で眠るという非日常的な出来事へのわくわくも、実はちょっとだけあります。
「そうは言っても、なかなか見付かりませんわねえ」
運転席でぼやいているのは、ローズヒップさんです。
まあ、仕方ありませんよね。行楽シーズンでこそ無いものの、休日に予約無しで泊まれるホテルなんてそうそうありません。何件か当たったホテルはどこも満室で、辺りが暗くなり始める頃、私達はまだふらふらと街を彷徨っていました。
やがて車は、段々と郊外へ。
「こっちにはホテルなんて無さそうですわね」
「ですねえ。あっ」
今、道路沿いに『ホテル』と書かれた看板が見えたような。
「ええっ、そんなのどこにありましたの」
車をバックさせて看板が見えた辺りを探してみると、やっぱりありました。
ちょっと古くなって所々錆びてはいますが、『ホテル・ベニーベニー、すぐそこ』と書かれています。
「下らない名前ですわね」
「それはまあ、はい」
ともあれ、すぐそこと書かれているからには、すぐそこにある筈です。車を発進させ、直進すること十分ほど。
ですが、ホテルは一向に姿を現しません。街の灯りはどんどん遠くなります。
「もう軽く山ですわよ」
「うーん」
確かにローズヒップさんの言う通り、街はすっかり遠くなり、辺りの風景に木々が目立つようになってきました。時々、民家らしき建物がぽつりぽつりと目に止まりますが、肝心のホテルは見当たらないまま。
でもまあ、ホテルって案外、山の中にあったりもしますし。なんて楽観して車を走らせ、また十分少々。
もしかして通り過ぎてしまったか、いっそ民家で訊ねてみようか、なんて話していると、それは唐突に現れました。
木々の中に佇む、綺羅びやかな電飾の施された建物。
看板には『ホテル・ベニーベニー』とありました。間違いありません、ここです。
「どーこーが、すぐそこですのっ」
「あはは、本当、随分掛かっちゃいましたね。運転お疲れさまでした」
ご機嫌が斜めになりつつあるローズヒップさんを宥め、駐車場へ。ゲートに取り付けられたランプは『空室』の文字を照らし出していました。
どうやら、ようやく泊まることが出来そうです。
「お城みたいな佇まいですね」
みたいな、というより外観は完全に西洋のお城の形をしていました。まさに非日常、といった感じで少しわくわくします。
中に入り、フロントを探しましたが何故か人の気配がありません。そもそもフロントというものが無いみたいです。
じゃあどうやって受付をするんだろうと、がらんとしたエントランスを見回すと、一箇所、目を引くものがありました。壁の一面に、お部屋の一覧表のようなものが取り付けられています。
壁にお部屋の写真が並べられ、それぞれにスイッチのようなボタンが付いています。
ボタンが発光しているお部屋と、そうでないお部屋があり、どうやら前者が今現在の『泊まれるお部屋』なのだと推測できました。
「これを押せばいいんですのね」
ローズヒップさんがボタンのひとつを押すと、がちゃん、という金属音がして、下の取り出し口のような所から鍵が出てきました。
鍵には、ローズヒップさんが押したボタンのお部屋と同じ番号が刻印されています。成程、これなら無人でも宿泊が出来ますね。便利です。
そしてようやく、お部屋に到着。
お部屋の入口に料金を支払う機械を見付けました。チェックアウトする時は、ここにお金を入れればいいんですね。とにかく無人にこだわったホテルのようです。なんだか不思議。
意外と言ってしまうと失礼ですが、室内は掃除がしっかり行き届いている感じがして、とても好感が持てました。
お風呂はぴかぴかで大きな姿見の鏡が目を引きます。
ベッドも広くて、しっかりと洗いたてのシーツが敷いてあってふかふかですし、枕も大きくて眠り心地が良さそうです。
という事はやはり、定期的にお部屋の手入れをする為の方がいらっしゃるんですね。その事に思い当たると、なんだかホッとしました。
先程、廊下を歩いていて男性の二人連れとすれ違った際に『こんにちは』と挨拶をしたら露骨に避けられてしまったので、少ししょんぼりしていたんです。
「はあー、疲れましたわあ」
「本当、今日は色々ありましたもんね」
ベッドにごろんと寝転がるローズヒップさんの真似をして、隣に寝転がりました。少し、はしたないかなと思いましたが、抵抗なくこんなことが出来たのも、非日常感によるわくわくのせいなのかも知れません。
寝転がった弾みで手が触れ合い、互いになんだか照れ臭くなって二人でくすくすと笑いました。
「ダブルベッドなのが照れ臭いですわね」
「ふふ、確かに」
寝転がったまま、暫く他愛の無い雑談を交わしていると、私の方がうとうとしてきました。
ふかふかのベッドが気持ち良くて、すっかり気が抜けてしまったみたいです。
そんな私を見てローズヒップさんは、うふふ、と嬉しそうに笑いました。
「眠っちゃっても良いですわよ、ペコさん。私はシャワーを浴びて参ります」
済んだら起こして差し上げますわ、と言ってローズヒップさんが立ち上がる。私はお言葉に甘える事にしました。
程なくして、シャワーのお湯が出る音が聞こえ始め、その音がまた心地好く眠気を誘います。
だけど、耳を澄ますと妙な事に気が付きました。ローズヒップさんのシャワーの音に混じって、どこかがカタカタと音を起てているみたいです。ボイラーの振動でも伝わっているのかも知れません。どこから聞こえるんでしょう。
体を起こして辺りを見回すと、それは簡単に見付かりました。
ベッドの脇、とても不自然な位置に引き戸があります。
その引き戸が音を起てているのです。
一瞬、押し入れか何かかなと思いましたが、違います。この壁の向こう側は、お風呂場です。
お風呂場の戸とは別に、何故こんな所に引き戸があるんでしょう。
不思議に思って、ガラッ、と戸を開けました。
「ひゃあっ」
思わず声が出て引き戸を勢い良く閉めました。
お風呂場が丸見えで、ガラスを挟んだ向こう側、私の目の前にシャワーを浴びているローズヒップさんが現れたのです。
『ペコさん、どうされましたのー』
私が引き戸を閉める音が聞こえたらしいローズヒップさんが、お風呂場から声を掛けてくれました。えっ、あれっ。
「な、なんでもありませんー」
誤魔化すように声を出し、恐る恐るもう一度、引き戸を明けてみる。
ローズヒップさんはこの窓ではなく、お風呂場の出入り口の方の戸に向かって声を上げているようでした。
気が付かない筈がありません。こちらから見えると言うことは、向こうからも見えている筈です。ローズヒップさんの立っている位置から推測して、この窓があるのはシャワーの真正面に掛けられている大きな姿見の鏡がある辺り、あっ、もしかして、これ。
マジックミラーなんでしょうか。
でも、何のためにこんな物が。
なんて変に冷静に考えていますが、忘れてはいけません。今、私の目の前にはローズヒップさんの裸があります。
ローズヒップさんの裸が、あります。
思わず、見入ってしまいました。
ローズヒップさんの身体は、私と違ってとても引き締まっていて、なんだか彫刻のような美しさがありました。腹筋もうっすらと割れていて、触ってみたくなってしまいます。
ローズヒップさん、素敵だな。
何だかんだ言って口調も整って来ましたし、最近どんどん格好良くなって来ているような、ううん。
さっきまで普通にお喋りしていたお友達の裸を目の前にして、何故私はこんな事を考えているんでしょうか。
それに、これは立派な覗き見です。良いことではありません。ローズヒップさんは今、私に裸を見られているなんて夢にも思わない事でしょう。
段々と、罪悪感が大きくなってきました。
ゆるゆるとその引き戸を閉め、ローズヒップさんがシャワーから出て来るのを待って、真っ先にごめんなさいを言いました。
「何の事ですの、ペコさん」
「あの、この引き戸なんですが」
からからと引き戸を開けて、ローズヒップさんにその先を見せました。
ローズヒップさん自身も、この鏡の仕組みに気が付いたらしく、段々と顔から血の気が引いていくのが傍目にも分かりました。
「あっあ、あの、えっと、ペコさん、見ちゃったんですのね」
こくり、と頷くと、ローズヒップさんはみるみる目に涙を溜め、ベッドに突っ伏して泣き出しました。
「お嫁に行けませんわぁ~」
「そっ、そんなぁ」
宥めようにも、見てしまったのは事実。私が宥めたところで説得力は皆無です。
ローズヒップさんは本気でショックを受けてしまったみたいです。これはもう、何か正式なお詫びというか、きっちりと責任を取らなくてはいけません。
となると、どうするのが一番良いんでしょう。ここでの宿泊費を全額持つか、いえ、それは何となく違うような。うーん。
あ。
「あ、あの、ローズヒップさん」
「何ですの」
これは、まあ、恥ずかしい事ですが、そうも言ってはいられません。恐らくこうするのが一番平等です。
意を決して、言いました。
「私もこれからシャワーを浴びますから、好きに見て下さい」
「マジですの」
マジです。これで平等。
同じことをするべきです。
ローズヒップさんは驚きのあまり涙が引っ込んだみたいで、そわそわしながら、言いました。
「そ、それは確かに平等ですけれど、何だか恥ずかしいですわ」
まあ、そうかも知れませんけど。
どちらかと言えばこれは、自戒の意味も込めての提案なんです。こうしないと罪滅ぼしをした気になれないと言うか。
そう言うと、ローズヒップさんは、もじもじしながら了解してくれました。
「わ、分かりましたわ。ペコさんがおしっこする所、しっかり見届けて差し上げます」
えっ。