【千代美】
なんとも、複雑な心境だ。
「お母様、千代美に構い過ぎです」
「あなたは毎日会っているからそんな事が言えるのよ、まほ」
まほとしほさんの親子喧嘩。原因は見ての通り、私。
私の誕生日をお祝いしてくれるってことで、まほの実家に招かれたまでは良かったけど、まさかの展開に少しびっくりしている。
いつもは、到着するとまず菊代さんに出迎えられて応接室に案内され、そこで待っているしほさんに挨拶をするのがこの家での慣例だ。この『菊代さんに出迎えられて』というのが実は結構大切で、菊代さんに緊張を解して貰いながら、これからあの西住しほと顔を合わせるんだ、という心の準備をする時間になる。はっきり言って必要不可欠。
今日はそれをすっ飛ばして、しほさんに出迎えられた。
玄関先で『よく来たわね』と顔を出された時、私もまほも面喰らって固まってしまった。まさか玄関を開けたらそこに西住しほが立っているなんて思わないだろう。
それがとりあえず序の口。
その後も、しほさんは何やかやと世話を焼いてきた。
夕方に出す料理の味見をさせてくれたり、お勧めの小説を貸してくれたり、終いにはまほの部屋で寛いでいる所に顔を出して、座布団の具合まで訊いてきた。
それが決定打となって堪忍袋の緒が切れたらしいまほが、しほさんに突っ掛かり始めて現在に至る。
いやあ、どうしたらいいんだろうな、これ。
「放っておけばよろしいのですよ」
にこやかに言い放つ菊代さんに、ちょっとびっくり。だけど彼女が言うには、あれも親子のコミュニケーションなのだから、好きにさせておけばいいという事らしい。
そう言われると、まあ確かに。面と向かって喧嘩だなんてそうそうある機会じゃない。あの二人は特にそうだろう。
貴重っちゃ貴重、なのか。
「この間に散歩でも如何でしょうか。ご案内しますよ」
「うーん、そうですね。お願いします」
菊代さんに誘われ、まだやいやい言っている二人を置いて庭に出た。
西住家の敷地は広い。庭をぐるりと見て回るだけでも、ちょっとした運動になる。この家で飼っている柴犬を連れて、菊代さんと話しながらのんびりと歩いた。
「相済みませんね、折角の日に」
「いえ、そんな」
すみませんと言うなら、こっちの方こそ喧嘩の種として申し訳なく思っている。それに、菊代さんが謝ることもないと思う。
って言うか、よく考えたら誰も悪くないんだよな。まほもしほさんも別に悪気がある訳じゃないし。
二人とも不器用なだけなんだろう、きっと。
「ええ、本当に」
困ったように笑む菊代さんに、何故だか一瞬、自分が重なって見えた。似てるのかもなあ、私と菊代さん。どこがとは上手く言えないけど、なんとなく。
それからもう少し歩いた後、縁側に腰掛けて少し休憩。わんこがまだ歩きたい様子で鼻を鳴らしたり紐を引っ張ったりしてるけど、ちょっとだけおあずけ。ごめんなー。
「お茶を淹れて参りますね」
「あっ、どうも」
なんだか扱いが良すぎて、逆に恐縮する。
すたすたと行ってしまった菊代さんを見送り、ふう、と息を吐いて庭を眺めた。普段なら絶対味わえないほどの静けさだ。縁側で休んでるだけなのに非日常、って感じ。
少し冷たい秋風が気持ち良い。
思えば遠くに来たもんだな。距離の話じゃなくて、もっと別のこと。西住家の縁側で寛ぐ日が来るなんて、昔の自分が知ったら何て言うだろう。高校生の頃、西住まほにただ想いを寄せていただけの自分に自慢してやりたい話が沢山ある。
ふふふ、嬉しいなあ。
一人でにまにましていると、わんこが突然、大きく一声吠えた。
いきなり吠えられてびっくりした私は、迂闊にも紐を握る手を離してしまい、わんこはその隙を見逃さず走り出した。
あっ、やばっ。
慌てて追い掛けると、わんこはそれが嬉しかったらしく、最高潮に達したテンションで広い庭を滅茶苦茶に駆け回る。
暫く続いた追い掛けっこは、わんこが不意に立ち止まったことでようやく終わり、私はぜえぜえ言いながら追い付いて、その紐をまた握った。
「案外悪い子なのな、お前」
人差し指で額をつついてやると、わんこは不安そうに鼻を鳴らしてこっちを見上げた。
怒られて凹んだのかと思ったら、どうもそういう訳じゃないらしい。わんこが立ち止まって見つめる先。生え放題の草むらの中に、古びた井戸があった。なんだ、あれが怖いのか。
あれっ、この井戸って、もしかして。
近付こうとすると、握った紐の感触に抵抗があった。
振り返ると、わんこがその場に座り込んでいる。あれだけ走り回った癖に、今度は動きたくないらしい。ぐいぐい引っ張っても意外なほどに強い力で踏ん張っていて、頑としてその場を動かない。
紐を尚も引っ張ると、突然抵抗が無くなった。
わんこが動いたのかと思ったら、違う。
首輪が、すっぽ抜けたんだ。
「あっ」
その弾みで井戸の縁にぶつかり、私の身体はそのまま真っ逆さまに落下し、一番下で派手な水音を起てた。
「ぶへっ、げほっ、げほっ」
うええっ、飲んじゃった。大丈夫な水なんだろうか、これ。
逆さに落ちたせいでどっちが上か分からなくなり、水面から頭を出すのに少し手間取った。咳き込みながら、落ち着くように意識しつつ状況を整理する。
まあ、とりあえず、死んだかと思った。
頭から落ちて死ななかったのは、そこそこ水位があったお陰か。まさに九死に一生ってやつだ。とは言え『死ななかった』というだけで、助かったとは言い難いなあ。どうやって脱出したもんか、さっぱり見当がつかない。
よじ登るのも、勿論無理だ。
あんまり考えたくないけど、このまんまだと非常にまずい。
「おーーーい」
叫んではみたけど、わんこが鼻を鳴らしているのが微かに聞こえただけだった。
あいつめ、やってくれたなあ。反省しろよ。
しかし、こりゃ本気でやばいな。
誰かが探しに来てくれるのに期待するのが妥当か。お茶を待ってる所で居なくなったことを考えれば、菊代さんは探してくれるだろうけど、果たしてこの井戸まで来てくれるかは、分かんない。
水も結構冷たいし、長時間待つのはちょっときついなあ。胸まである水位のお陰で、私の身体は既にかなり冷えている。
誰かがきっと来ると思いたい。
はは、井戸の底で『きっと来る』だなんて縁起でもない。
誕生日だってのに災難だ。
まほに会いたい。
落ち着こうとしても、思考はなんだか支離滅裂だ。ほとんど不貞腐れたような気分で井戸の壁に凭れかかり、狭い空を見上げた。狭くて真ん丸の空。
ふと、見上げた空に浮かぶ雲の切れ間から何かが落ちてきた、ように見えた。
まあ雲から物が落ちてくる訳もない。たまたま『それ』が落ちてきたタイミングと私が見上げたタイミングが重なったってだけのことだろう。
でもその時の私には、そんな風に見えた。
「あぶなっ」
受け止めてみるとそれは、小学生くらいの子供だった。
何が起こったのか分からないというように、目を丸くしてこっちを見ている。うんまあ、そうだよな。井戸の底に人が居るなんて思わないよな、普通。
「落っこちたのか」
はい、という短い返事。愚問だった。
話を聞くと、この子は井戸の縁に乗っかって遊んでて足を踏み外したらしい。
話し始めていくらもしないうちに、真上から『お姉ちゃん』という叫び声が降ってきた。見上げると、この子に似た顔立ちの小さな子がひょっこりと井戸を覗き込んで青褪めた顔をしている。呼び掛けられた『お姉ちゃん』は然して取り乱した様子もなく『菊代さんを呼んできてくれ』と叫び返した。
妹の方は力強く頷いて顔を引っ込める。間を置かず、ぱたぱたと遠ざかる足音が聞こえた。
間違いない、あれは天使だ。
やれやれ、どうやら助かった。
あとは菊代さんが駆け付けるのを待つだけだろう。ただ、身体が冷えすぎたせいか、この子を抱っこする腕が早くも限界に近い。正直言って、菊代さんが来るまでの間、保ちそうにない。かと言ってこの子を水に浸けるのも可哀想だ。
って言うかこの水位じゃこの子の足は底に付かないから、離すのは無し。
という訳で。
「水が結構深いから、肩車しよっか」
言って、その子を肩に乗せた。
私も全身びしょ濡れだから肩車でも冷たい思いをさせちゃうけど、それでも水に入るよりはいいだろう。
しかし、まあ、なんだ。
考えないようにしてたけど、この子も、走り去ったあの子も、めっちゃ見覚えあるんだよなあ。他人の空似と思いたかったけど、二人とも『菊代さん』を知ってるとなれば、まあ間違いないだろう。
二人とも、見覚えがある。
特に、いま肩車してる方。
なんなら毎日会っている。
たぶん、この子、まほだ。
理屈は分かんないけど、今んところ、そうとしか考えられない。顔を声もまほなんだもん。矛盾した言い回しだけど、たぶん確定。たぶん。
まあ、名前を訊いちゃえば分かるんだろうけど、訊いてもいいのかなという謎の抵抗があって、ちょっと躊躇っている。そんな感じで訊こうか訊くまいか悶々と迷っていると、頭の上にぽつぽつと水滴が当たるのを感じた。
嘘だろ、この状況で雨か。
そう思ったけど、すぐに違うと分かった。
私の肩に乗った子が泣いているんだ。
可愛い顔をくしゃくしゃにして、声を殺してぽろぽろと涙を零している。その涙が私の頭に当たっていた。
まあ、そりゃそうか。いくら『お姉ちゃん』とは言え小学生だ。毅然としてても、内心が穏やかな訳はないよな。
全く災難だ、お互いに。
「よしよし、怖かったなあ」
手を伸ばして、頭を撫でてあげた。
それで緊張の糸が切れたのか、その子は私の頭の上に突っ伏して、声を上げて思い切り泣いた。うんうん、我慢すること無いぞ。泣きたい時は泣いていい。
私はその涙の生暖かさを感じながら、暫くその子の頭を撫で続けた。
その子が泣き止む頃。ばたばたと足音が近付くのが聞こえて、少し薄暗くなった真ん丸の空に、さっきの女の子と菊代さんの顔が現れた。
ああ、若いなあ、菊代さん。やっぱりそういう事なのか。
自分で言っといて、どういう事か分かんないけど。
程なくして縄梯子が降ろされ、女の子は無事に救出された。
妹の方がぎゃあぎゃあと泣き叫ぶ声が聞こえる。
ああ、良かったなあ。助かって本当に良かった。私の方はもうずっと寒くて、なんだか眠くて、身体に力が入らなくなってきた所だ。
女の子が引き上げられるのを見届けると、今度は私の緊張の糸が切れたらしく、全身の力が一気に抜けた。
「千代美、おい」
「ん」
聞き慣れた声に呼ばれて目が覚めた。眠っていたらしい。
辺りを見回すと、ここはまほの部屋。私はいつの間にか、まほのベッドに寝かされていた。まほ、菊代さん、そしてしほさんの不安げな視線が私に注がれている。
「目が覚められましたね、安斎様」
「ああっ、良かったわ、千代美さんっ」
安堵する菊代さん、泣き出しそうな勢いで私の無事を喜ぶしほさん。
まほも安心したように、大きなため息をついた。
「大丈夫なのか」
「んー、大丈夫じゃないけど大丈夫」
わざとふざけた答えを返すと、まほはいつものように『馬鹿』と言って笑った。
まほは、私が落ちた水音が聞こえた時点で異変を察知し、続けてその直後に聞こえた私の呼び声で事態を確信して井戸に走ったらしい。相変わらず、とんでもない耳をしてる。私は一体、この耳に何回助けられただろう。
ともあれ、まほはそうして走った先の井戸で首輪の外れたわんこを見付けた。井戸を覗き込むと、その底でうつらうつらしている私が見えたので慌てて人を呼んで引き上げた、と言うことらしい。
じゃあ、思ったより早く救出されたのか。外を見ると陽はまだ高かった。
あれっ、じゃあ、さっきの騒ぎは夢か。『あの子』が引き上げられた時、外はもう薄暗かった筈だ。
「心配したんだからな」
脹れ面をするまほを見て申し訳なく思いつつ、ちょっと悪戯心が湧いた。
手を伸ばし、まほの顔を引き寄せてその頭を撫でる。
「よしよし、怖かったなあ」
そう言ってやると、まほは何が起こったのか分からないというように目を丸くしたあと、その目にみるみる涙を溜めた。