【エリカ】
帰りが少し、遅くなった。
時刻は夜の九時半。パッと見はまだ早いけど、これから帰ってお風呂に入ってメイクを落として、それが終わったら髪や肌の手入れ。そうやってバタバタして、落ち着く頃にはどうせ日付が変わる。後はさっさと寝て起きて、支度をしたらまた出勤。このままではご飯を食べる暇がどこにも無い。
それもなんだか寂しいから、無理にでも何か食べておきたいところ。帰りにコンビニで何か買おうかな、なんて考えながら電車に揺られている。
吊革につかまり思考を巡らす。
買い置きの菓子パンでも家に残ってたらそれを晩御飯にしてもいいけど、どうかな。まあ、残ってたとしてもみほが食べちゃってそうな気がする。
根拠は無いけど、なんとなくね。
考えているうち、自分が思いのほか空腹なことに気が付いてしまった。今の私の思考は最早すっかり、どこで何を食べようかという感じの流れ。こんな時間に食事なんて女としてどうなのと思わないでもないけど、私は女である以前に人間というか生物なので、時間なんか関係なく空腹は満たすべき。そういう事にしておこう。
コンビニでお弁当を買うもよし、どこかに寄ってサッと食べるもよし。真っ直ぐ帰って大人しく寝るという選択肢は、まあ無い。
さて、どうしようかな。
「あれっ、エリカじゃないか」
聞き覚えのある声に呼び掛けられて振り返ると、安斎さんがこちらを見て胸の前で小さく手を振っていた。
スーツ姿で眼鏡をかけて、長い髪を後ろでひとつに纏めている。こんな時間に外で会うことの珍しさもさる事ながら、見た目が普段の印象と違い過ぎて、正直誰だか一瞬分からなかった。
「あはは、いつも休日しか会わないもんなー」
一日の終わりかけとは思えないほど安斎さんは全くいつもと変わらない様子で、ふんわりと笑った。
お疲れ様と改めて言われ、慌ててお疲れ様ですと返す。
「いつもこの時間なのか」
「ああ、いえ、普段はもう少し早目ですよ」
とは言え、早かろうが遅かろうが安斎さんと電車の中で鉢合わせる機会が滅多に無いことに変わりはない。最寄り駅は同じだけど、安斎さんとは基本的に時間帯が丸っきり違う。
この時間帯に電車に乗っているのが珍しいのは、どちらかと言えば安斎さんの方。私の記憶違いでなければ、安斎さんは普段、夕方にはご飯の支度が出来るように帰っているはず。
「だなあ、今日は珍しく遅くなっちゃった」
困ったように笑う。
なんというか、よく笑う人。気が付けばこちらの顔も、つられていつの間にか綻んでいた。
それから最寄り駅に着くまでの間、みほの話をしたり、まほさんの話をしたり、改めて冷蔵庫の件のお礼を言ったり。
安斎さんには夏に、うちの冷蔵庫が壊れた時にかなり面倒を掛けてしまっている。その節はお世話になりましたと頭を下げると、安斎さんは気にするなという風に手を振った。
「あれから冷蔵庫はどうしたんだ」
「いえ、あの、実はまだそのままで」
夏に壊した冷蔵庫はまだ捨てることも運ぶこともなく、ただの常温の箱として、これまで通りの場所に鎮座している。
まあ、コンビニが近いから冷蔵庫が壊れててもそれなりに生活出来ているのが幸いというか、何というか。
「新しいの買った方がいいとは思うけど、まあ毎日忙しそうだしなあ」
「あはは、すみません」
忙しいのは確かだし、ついでにお金があんまり無いのも確か。でも、それより何より一番の理由が恐らく『めんどくさい』なのは、ちょっと言えないわよね。お世話になった本人には特に。
冷蔵庫が壊れて以来、私もみほも元々敬遠しがちだった自炊から更に遠ざかってしまった。今は冷蔵庫の無い暮らしにどんどん慣れつつある。
それこそ今も、私は頭の中で寄道の算段を進めている所だし。
そう言えば寄り道に思いを馳せている私と違って、安斎さんは真っ直ぐ帰るつもりでいるらしい。
「ああ。遅くなるって連絡したら、まほがご飯作って待ってるって言うから楽しみでさ」
そう言って彼女は照れ臭そうに、今日見た中で一番可愛い顔で笑った。
全く、羨ましいなあ。
やがて電車は最寄り駅に到着し、帰り道が逆方向の私達はそこで別れた。
「じゃー、またな。お疲れ」
「はい、お疲れ様でした。まほさんに宜しく伝えてください」
さて。
結局何を食べようか、答えが出ないまま駅に着いてしまった。
どうしたものかな。お腹は空いたし、でもカロリーは気になるし、そう考えると重いものは食べ難いからコンビニのお弁当は除外かな。
「うーーーん」
唸りながら駅前を歩く。軽く不審者。
時間も時間だし、開いてる店が居酒屋とかしか無いのも相俟って、一向に狙いが定まらない。歩きながら灯りの点いている看板たちをつらつらと眺めているけど、まあー居酒屋ばっかり。
残念ながら飲む気分ではないのよね。
寒くなってきたし、暖かいものが食べたいなあ。
「ん」
何かが琴線に触れた。
立ち並ぶ居酒屋の看板に混じって、何かこれだと思うものが見えた気がする。立ち止まってその辺をよく見ると、『蕎麦』の文字が見て取れた。
ああ、蕎麦。
合格。
看板の灯りが点いているから営業中なのは間違いない。気持ち早足で、その看板に向かって一直線に歩いた。店内の灯りが漏れて、入口の辺りの道を照らし出している。
ガラガラと引き戸を開けて店内に入った。古びてはいるけど、きっちり掃除が行き届いていて清潔な感じがする。お客さんも時間の割にはそこそこ入っているみたい。ああ、ここは居酒屋帰りのお客さんが寄るお店なのかと、その時になって気が付いた。
ひとまず店主らしきお婆ちゃんに営業時間を訊ねると、零時までやっているとのこと。やったあ。
早速カウンターに腰掛けて、壁に貼られた手書きのメニューに目を通す。あまり迷って時間を掛けるのもなんだか恥ずかしいので、手短に決める。
お腹空いた。
でも重いものは食べ難い。
でもお腹空いた。
そういう気持ちで決めた。
「肉そば」
あいよ、というお婆ちゃんの気の無い返事から数分。やっぱり気のない、お待ち、という声とともに目の前に肉そばが置かれた。
三四切れの豚肉と、半円型のかまぼこが一切れ、あとは刻んだネギと三つ葉。おつゆは茶色。
何の変哲も無い肉そば、それが只々ありがたい。
いただきますの意で、軽く手を合わせる。
まずは、おつゆを一口。
レンゲが見当たらないなとは思ったけど、見回すと他のお客さんもレンゲ無しで食べてるみたいだったので、郷に従って丼を持ち上げて口を付けた。
こく、と喉を鳴らす。
醤油味の熱いおつゆが食道を通って、空っぽのお腹をじんわりと暖める。
完璧。
箸を割り、蕎麦を啜る。
私はグルメでも何でもないので難しい事はよく分からないけど、この蕎麦が特別に美味しいものでない事は分かる。でも美味しい。
ぷりっとしたかまぼこも、弾力のある肉も、しゃきしゃきのネギも三つ葉も、全部普通。言い回しとしての『普通に美味しい』という意味じゃなく、ただ普通。それが美味しい。
空腹に寒さに疲労、そういうものが一体となってこの普通の蕎麦をご馳走に昇華させている。
「ん、ふ」
それから暫く夢中で蕎麦を啜り、最後にもう一口おつゆを飲んで、ごちそうさま。全部飲みたかったけど、そこは流石に我慢した。
場所は覚えたからまた来ましょう、今度はみほと一緒に。
時計を見ると十時半。帰る頃には十一時を回るかな、あまりのんびりもしていられない。でももうちょっと、立ちたくない気分。
さっさと帰ればいいものを、私はお腹を一杯にした余韻に浸りつつ、ぼんやりと店内を見回す。そこで案の定、余計なものを見付けてしまった。
蕎麦を注文した時点では見落としていた、メニューの端に書かれた文字。
いなり。
ああ。それはきっと普通で、とても普通で、普通の蕎麦によく合ういなり寿司なんだろうと容易に想像が付いた。
胃袋が『別腹』のスペースを空けるのを感じる。
どうしよ。