まほチョビ一切関係ない回
【優花里】
西住殿と逸見殿と私、今日は三人での飲みの予定。
私は仕事が早めに終わった事もあり、待ち合わせの駅前広場に一時間ほど早く到着しました。まだまだ時間があるとは分かっていても、とりあえずは一直線に現地を目指す。性分というやつですかね。
まあ待つことは別に苦じゃありませんし、ぼうっと人混みでも眺めていれば、一時間なんてすぐです。
とは言え一時間突っ立ったままというのも人目が気になってしまうので、近くの喫茶店に入りました。広場を見渡せるよう窓側のテーブルを選んで、暫しの休憩です。一旦現地に着いてからの寄り道。これは『寄り道』って言うんでしょうか。
空きっ腹にいきなりお酒というのも抵抗があるので何か入れておこうと思い、コーヒーとサンドイッチを注文。
一息ついたところでスマホが震え、確認すると西住殿からの連絡でした。
『ゴメンなさい優花里さん、どうしても抜けられなくて』
あー。キャンセルのお知らせでした。
まあ社会人である以上、お仕事の都合というものはどうしても付いて回ります。残念ですが仕方ありませんよね。ともあれその連絡に『お疲れさまです』と返し、丁度運ばれてきたコーヒーを受け取って一口啜る。
ふーむ。と言うことは、今日の飲みは逸見殿と二人。
これで逸見殿までキャンセルになった場合、今日はこれからどうしようかな、なんて事を考えました。まあ無いとは思いたいですが、可能性はゼロじゃありませんしね。
しかし、そんなことを考え始めて幾らもしないうちに、外の広場に見覚えのある顔を発見。心配は無用だったみたいです。
遠目でも見間違えようのない、際立った見目の麗しさ。いつの間にやら、逸見殿が到着していました。
ハッとして時計を見ると、待ち合わせまではまだまだ余裕。ああ良かった。一瞬、遅刻かと思って焦っちゃいました。逸見殿も早めに着いたんですね。
スマホを取り出して逸見殿にコール。
やっぱり、人違いじゃありませんでしたね。広場に居る『逸見殿』に繋がりました。
『もしもーし』
「もしもしー。今ですねぇ、広場のすぐ近くにある喫茶店に居るんですよー」
『えー、どこよ』
「九時の方向ですー」
手を振ると逸見殿は程なくしてこちらに気付き、お店の中に入ってきてくれました。私の向かい側に腰を降ろし、追加のお冷やを持ってきた店員さんにコーヒーを注文して、ようやく人心地ついたというように溜め息を吐く。
「お疲れなんですねぇ」
「あんたほどじゃないわ、秋山」
「えへへ」
それから間もなく逸見殿のコーヒーが運ばれてきて、私達はそこで軽く乾杯をしました。コーヒーで乾杯というのもなんだか妙な具合ですが、折角飲み物の容器がふたつあるのだから、ということで。
「そうそう、みほは来られないらしいから」
「ああ、連絡を貰いました。今日は二人飲みですねぇ」
なんて、文字通りの茶飲み話に花を咲かせるひととき。
正直に言えば、お話が出来ればアルコールじゃなくてもいいんですよねぇ、少なくとも私は。
「この間はありがとね秋山。ガスマスク」
「ああ、良いんですよ。困った時はお互い様ですからね~」
西住殿と逸見殿、お二方が一緒に暮らすお部屋で夏に発生した冷蔵庫の騒動。私は直接顔は出さなかったものの、お二方に私物のガスマスクをお貸しするという形で関わっていました。
結局、あのガスマスクを装着したのは西住殿でも逸見殿でもなくアンチョビ殿だったらしいです。話の顛末を聞かされて大いに笑わせて頂きました。
「笑い事じゃないのよ、全く」
「えへへー、すみません。それで、それからその冷蔵庫はどうしたんですか」
「まだ部屋にあるわよ。みほがカップ麺とか仕舞い始めたから普通に使ってるわ」
普通ではないと思いますけど。成程、冷蔵庫ではなくただの『庫』として活用してるんですねぇ。何でも使いようはあるものだと感心してしまいました。
と、そんなこんなを話している間にコーヒーも飲み終わり、それじゃあ『どん底』にでも移動しようか、なんて二人で相談を始めたところに店員さんが慌てた様子で駆け寄って来ました。
「申し訳ありませんお客様、遅くなりましたっ」
店員さんの手にはサンドイッチ。ありゃ、すっかり忘れてました。逸見殿と合流して二人でコーヒーを飲んで、危うくそこで満足してしまうところでした。
そう言えば頼んでましたっけね。何か行き違いでもあったものか、サンドイッチだけが遅れて到着。注文しておいてこんなことを言うのも何ですが、もう行こうとしていた所だったので調子が狂っちゃいました。
しかし一人で急いで食べるというのも気が引けるので逸見殿とシェアしようと思ったら、逸見殿は何やらあらぬ方向を見詰めて固まっていました。見詰めるその先には、たった今サンドイッチを運んできてくれた店員さん。
「小梅」
「あらっ、エリカさん。お久し振りですね」
「本当、久し振り」
なんとも奇遇。
店員さんは、あの赤星小梅さんでありました。このお店で働かれていたんですね。お仕事中ですから長時間引き留める訳にはいきませんが、逸見殿が話したそうにしていたこともあって、ちょっとだけ時間を頂きました。
「結婚したのね」
「ああ、いえ、これはただのナンパ避けですよ」
逸見殿が赤星さんの左手薬指に嵌められた指環に目を留めると、赤星さんは事も無げにそれを外して見せてくれました。
曰く、飲食店の店員さんというのはお仕事中にそういった声を掛けられるケースが案外多く、赤星さんもその例に漏れず辟易していたそうです。そこで思い付いたのが左手薬指の指環。その効果は抜群で、指環を嵌めて以降ナンパは激減したとか。
それが理由で、仕事中に限っては左手薬指に指環を嵌める習慣が付いているのだそうです。
と、指環を外した赤星さんの手の甲に痣(あざ)を見付け、ちょっと引っ掛かりを覚えました。
「怪我をされてますねぇ」
「あ、これはその、ちょっと、転んじゃって」
おやおや、それはなんとも、お気の毒な。
そして赤星さんは何故だかその怪我を隠すような素振りを見せ、『そろそろ行かなきゃ』と話を切り上げて仕事に戻りました。その素振りには逸見殿も何か思うところがあったらしく、若干の気まずい沈黙が二人の間に流れること暫し。
その後、なんだかモヤッとしたものを抱えたまま、私達は二人で黙々とサンドイッチを食べて店を出ました。『どん底』に向かう道すがら、話題はどうしても先程の赤星さんについて。
「秋山」
「んぇ」
「たぶんだけど、小梅、結婚してるわよね」
してますねぇ、と答えました。
まあ憶測の域は出ませんが。
赤星さんが指環を外した時、その下の部分の肌が白くなっていました。というより、あれが元々の地肌の色なんでしょうね。屋内で、しかもお仕事中のみという短時間だけ嵌めている指環では、ああはなりません。四六時中嵌めているからこそ、自然な日焼けなどが原因で周辺の肌との色に差が出るのです。
だから赤星さんの指環は滅多に外さないものである可能性が高く、それはつまり先程の『結婚していない』という言葉が嘘である可能性にも繋がる、と。
というか、もっともっと単純な話、名札の苗字が『赤星』じゃありませんでしたしね。
「よく見てるわね、相変わらず」
「えへへ」
逸見殿の誉め言葉って、なんだかいつまで経ってもこそばゆいですねぇ。
まあとにかく私はそういう訳で気付いたのですが、逸見殿が気付いた理由は分かりません。他にも何か手掛かりがあったという事なのでしょうか。
「直感よ」
「あはは、敵いませんねぇ」
久し振りだったとは言え、何だかんだで長い付き合いをした逸見殿ならでは、といったところでしょうか。表情や仕草の癖なんかは、やっぱり近しい人の方が読み取れてしまうものですからね。
では、きっと。
「手の甲の痣についてもお気付きなのでしょうね」
「うん。たぶんね、転んで出来た痣じゃないと思う」
なんとも、素晴らしい直感ですね。
一概には言えませんが、転倒によって怪我をするのは基本的には手の平であって、手の甲ではありません。実際に転んでみると分かりますが、無意識に地面に手をついちゃうんですよね。だから転んで怪我をするのは、手の平。
逆に、手の甲に怪我をするケースというのは、まあ、例えば、あくまでも例えばですが、殴られる際、咄嗟にその部分を手で庇ったりした場合、など。
「ねぇ秋山、色々すっ飛ばして訊くけど、家庭内暴力って警察は動いてくれるのかしら」
「実害が無ければ、基本的には相談窓口を紹介するなどして終わりですね」
それを聞いて、逸見殿は遣る瀬無さそうに肩を落とす。説明する方も遣る瀬無いんですよね、これ。
まあ今回は例外です。実害があると確信している方からの通報とあらば捨て置けません。逸見殿の『直感』を信用しましょう。
調べてみて、何事も無ければそれはそれで良いんですから。
「秋山、それって」
こちらに目を向けた逸見殿に、わざとらしく敬礼をひとつ。
「不肖、秋山優花里が承ります」
逸見殿の瞳が一瞬、潤んだように見えました。
「仕事増やしてごめんね。今夜は奢るわ」
「いいんですよ、そんなこと」
話している間に『どん底』の看板が見えてきました。
明日からまた忙しくなりそうですし、お酒は程々にしておきましょうかねぇ。