あやかしとひとのよを   作:ちゅんとー
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めおととなるとき

「りんをここに置いてゆく」

 

殺生丸の抑揚のない声がそう告げた。

 

 

 

 

何故…と、犬夜叉が問うより早く。

 

 

「頼む」

 

さわ、と銀髪が微かに揺れた。

 

気のせいかもしれないほどにわずか、だけど犬夜叉にはそれが気のせいではないとわかっていた。

 

 

 

 

殺生丸が、忌み嫌っていたはずの自分に頭を、たとえわずかであっても下げるとは。

 

 

 

 

 

何故、なんて。

 

聞いてどうなる。

 

 

 

大妖怪たる兄は、もう心を決めているのに。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

「りん、おまえはここに残れ」

 

 

 

それはなんて残酷な命令だっただろう。

 

 

 

 

殺生丸が告げたその言葉を、りんは幼い心で聞いた。

 

 

 

「いやだ…」

 

 

と小さく呟いたりんに、殺生丸は言葉を被せてくる。

 

 

「おまえは人間だ。人の世で、人としての暮らしを生きろ」

 

 

 

 

 

感情のない瞳が、逸らされることなくりんを射る。

 

感情のない声が告げるのは、''もう決まったこと''だ。

 

 

 

りんの否も応も、この大妖怪には意味のないこと。

 

 

 

 

それまでまっすぐ殺生丸を見ていたりんは、わずかにそっと後方を振り返る。

 

 

 

そこには犬夜叉がいて、弥勒がいて珊瑚がいた。

 

 

 

りんの視線を受けた珊瑚は、すっとしゃがみ、''おいで''と言うように両の手を差し伸べた。

 

 

 

 

りんはもう一度殺生丸に視線を戻したが…

 

 

 

 

物分かりがいいとは、なんと哀しいことだろう。

 

 

 

 

 

くるりと身を返し、珊瑚の許へとりんの足が一歩を踏み出したそのとき。

 

 

ふわ、と。

 

 

殺生丸の銀髪が風に揺れた。

 

 

 

 

珊瑚がりんを抱き留める頃にはもう、そこに殺生丸の姿はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

ここには食物があり、雨風をしのぐ屋根があった。

 

 

それはいつでもそこにあった。

 

 

盗る必要もなければ探す必要もない。

 

 

 

 

そしてここには人々の声があり、人々の暮らしがあり、それは生命の温度そのものだった。

 

 

 

 

 

殺生丸とともに渡り歩いていた頃、それを不便とも孤独とも思ったことはなかった。

 

 

だけどこうして人里で暮らすようになって、やっぱり自分は''人間''なんだなと思わざるをえなかった。

 

 

 

 

 

殺生丸が去って、ふたつきほど時が流れた。

 

 

 

 

彼を思い出さない日はないが、不思議と淋しい気持ちはなかった。

 

 

 

親兄弟を喪ったときの絶望と比べればなんとあっけないことで、彼との日々はその程度のものであったのかと、薄情な自分をもて余している。

 

 

 

ただ…

 

 

 

不意に視界の端で銀髪がそよ、と揺れるとき、「殺生丸さま!」と叫びそうになることはあった。

 

 

 

「犬夜叉さま~」

 

 

銀髪の主の名をりんは呼んだ。

 

 

 

 

木の上で犬座りをして物思いにふけっていた犬夜叉は、声がした方につい、と視線を投げた。

 

 

 

「犬夜叉さま、もうすぐゆうげを頂きますので、戻って来て下さいね~」

 

 

にこり、と笑ってみせるりんに、犬夜叉は「おう」と小さく返す。

 

 

 

 

殺生丸はもうここへは来ないのだろうか。

 

 

 

楓の家へと踵を返して行くりんの、その幼い背をみながら犬夜叉は考える。

 

 

 

殺生丸はりんを疎ましく思ってここへ残したわけではない。

 

そのことは、あのときの殺生丸の態度を見ればわかる。

 

 

 

だからこそ、もう逢いには来ないということなのだろうか。

 

 

 

 

犬夜叉は木の上からひと飛びし、去りゆくりんの傍らにおり立った。

 

横並びに歩きながら、犬夜叉はぽつりと問うた。

 

 

「逢いたいとは思わねぇのか」

 

 

 

りんはぴたりと足をとめた。

 

傍らの犬夜叉を見上げ、にこ、と笑ってみせる。

 

 

 

「ここで生きろと言われたんです」

 

 

 

親兄弟を喪った過去がある。

 

同じ人間に、疎ましく思われながら生きた過去がある。

 

殺生丸と出逢ったことで人としての道を外れ、文字通り命を懸けて生きたひとときもあった。

 

 

 

「たどり着けたんだと思います…殺生丸さまのおかげで」

 

 

 

そうか、と犬夜叉は思った。

 

 

かごめと自分には、''時代''という大きな隔たりがある。

 

りんと殺生丸にも、''種族''という隔たりがあるのだ。

 

 

 

殺生丸はきっと、その隔たりを越えたりはしない。

 

それは半妖であり弟である自分が一番よくわかっているのではなかったか。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

りんは村の外れまで来ていた。

 

楓に頼まれて薬草を摘んでいるのだ。

 

 

 

 

これも、人としての営み。

 

 

 

 

さぁこのくらいにして帰ろうか、と。

 

 

腰をあげようとした、そのとき。

 

 

 

 

 

 

 

 

ざわ、と。

 

 

 

 

一陣の風が吹いた。

 

 

 

 

りんはせっかく摘んだ薬草が飛ばないようにと駕籠を押さえる。

 

 

 

風がやみ、視線を上げると。

 

 

 

そこには銀色の…。

 

 

 

 

 

殺生丸さま、と。

 

 

 

 

どうして声にならないんだろう。

 

 

あんなに呼びたかった名前が、今、どうして声にならない。

 

 

 

 

 

「不便はないか」

 

 

感情の読めない声が問うた。

 

 

 

りんはひと呼吸。

 

揺れた心を落ち着けてから答えた。

 

 

「はい、何も」

 

 

 

「そうか」

 

 

 

 

 

たった、それだけだった。

 

 

再び一陣の風が吹き、やんだときにはそこに殺生丸の姿はもうなかった。

 

 

 

 

夢かと思った。

 

 

だけど楓の家に帰ると、「殺生丸からだと、小妖怪が置いていきおったよ」と楓から着物を手渡されて。

 

 

あぁ、夢じゃなかったんだ、と。

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

月日は流れた。

 

 

 

 

かごめがこちらの世界に戻って来て。

 

ときを同じくして珊瑚が三人目のややを産んだ。

 

そのすぐあと、犬夜叉とかごめが祝言をあげた。

 

 

 

 

 

殺生丸の訪れはいつも気まぐれで、ひとつきあけただけで来ることもあれば、半年経ってもこないこともあった。

 

 

交わす言葉はいつも同じ。

 

 

「不便はないか」

 

「はい、何も」

 

「そうか」

 

 

それだけでよかった。

 

 

 

妖と人間で、それ以上交わす言葉をもっていなかった。

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

りんが齢十三を数えるようになった頃。

 

 

周りのおなご衆もやはり年頃で、どこそこの誰それとどこそこの誰それが恋仲であるとか、そういった類いの話がよくされていた。

 

 

 

 

「''恋''って、どういう気持ちなのか、りんにはまだ分からないんです」

 

 

洗濯をする珊瑚に代わって、珊瑚と弥勒にとっての五人目となるややを背に負ってあやしながらぽつりと呟いた。

 

 

 

「珊瑚さまもかごめさまも、''恋''をされてきたんですよね?弥勒さまと犬夜叉さまに」

 

 

 

「まぁ、そういうことになるかな」

 

 

珊瑚は少し気恥ずかしい気持ちになりながら答えた。

 

 

 

「りんちゃんだって、そろそろするんじゃないかな~」

 

 

そう言うかごめの声には、期待ともとれる何か含みが感じられるような気がした。

 

 

 

 

「どんな気持ちが恋なんでしょうか…」

 

 

呟くように問うりんに、かごめは考え考え言葉を紡いだ。

 

 

「うーんとね。説明するのは難しいんだけど…。その人のことを思ったり、その人を前にしたりすると、胸のあたりがきゅーっとなって」

 

 

かごめは自分の胸のあたりに手をあてて、ぎゅっと握ってみせた。

 

 

「その人に、触れてみたい、と思うの」

 

 

 

 

 

抱きしめたり、

 

 

くちづけたり、

 

 

って、りんちゃんにはまだ早いかな。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

その日、りんは楓の頼みで隣村まで使いに出ていた。

 

 

 

林、というほどでもないが、人気のない場所を歩く。

 

 

 

 

ぽつ、と。

 

 

 

「雨…?」

 

 

 

雨具は持ち合わせていなかった。

 

 

 

さいわいにも用件は既にすみ、帰路だ。

 

駆け足になって進む。

 

 

 

しかしそのうちにも少しずつ雨足が強まってくる。

 

 

 

 

困ったな…と。

 

呼吸が続かず足をとめる。

 

 

 

 

 

 

そのとき。

 

 

ざわ、と。

 

 

 

 

 

 

いやな感覚があった。

 

 

背後に気配。

 

 

 

 

何かはわからない。

 

 

だけど、恐怖。

 

 

 

 

 

りんはひと思いに、ばっと振り向いた。

 

 

 

 

 

その表情は、怯え。

 

 

 

りんの背後に佇んでいた、その気配の主は、りんのその表情を見て思った。

 

 

 

大妖怪の妖気を恐れることなく、あとをついて回っていた幼い子どもは、もういないのだ。

 

 

 

今のりんの、なんと人間らしいことか。

 

 

 

 

 

「殺生丸さま!」

 

 

気配の主がそれと知ると、りんは顔を綻ばせた。

 

 

 

 

殺生丸は何も言葉を返すこともなく、つい、と踵を返す。

 

 

りんは疑うことなくそのあとを追った。

 

 

 

 

 

 

しばし歩いた先に廃屋があった。

 

 

殺生丸に続いてりんも中に入る。

 

 

 

朽ちてはいたが、雨をしのぐくらいは出来そうだった。

 

 

 

殺生丸が腰をおろした、その少し離れてとなりにりんも腰をおろした。

 

 

 

雨足が更に強まる。

 

 

ぴか、と稲光があった。

 

 

 

 

外の遠くを見つめる殺生丸の横顔が、それに照らされた。

 

 

りんは視線だけをそっと動かして、その様を見ていた。

 

 

 

 

見慣れていたはずではなかったか。

 

しかしそれは幼い頃の、ひとときのことか。

 

 

 

 

怖い、とも。

 

美しい、とも。

 

 

違うと思った。

 

 

 

胸のあたりに、風が吹いたような、すーっと何かが通り抜けていく感覚があった。

 

 

 

かごめの言葉を思い出す。

 

 

 

 

''胸のあたりがきゅーっとなって''

 

''その人に、触れてみたい、と思うの''

 

 

 

 

りんは、殺生丸に触れてみたいとは思わなかったが。

 

 

触れたら殺生丸は何と思うか、とは思った。

 

 

 

 

すっと手をのばそうとしたのが先か、それとも。

 

 

「何を考えている」

 

 

殺生丸の、感情の感じられない声が遮ったのが先だったか。

 

 

 

いえ何も、と答えようかと思ったりんだったが。

 

何故か今は、その答えは違うと思った。

 

 

 

「かごめさまが言っていたんです。恋とは、胸のあたりがきゅーっとなって、その人に触れてみたいと思うことだと」

 

 

 

殺生丸は何も言わない。

 

身じぎろぎひとつ、瞬きひとつさえないように見えた。

 

 

 

りんは重ねて言う。

 

「…そう、考えていました」

 

 

 

かごめが言った言葉について考えていたのか。

 

それとも、触れてみたいと考えていたのか。

 

 

どちらともとれる言い方をした。

 

 

 

 

殺生丸は、すっと目を閉じた。

 

 

「顔を腫らし、口をきくことも出来なかったおまえのことを………何百年というときを生きる私は文字通り昨日のことのように思っている」

 

 

閉じた目をぱっと開いて、殺生丸はその視線をりんに寄越した。

 

 

 

 

「その同じ口が、今はもう''恋''などとぬかすか」

 

 

 

 

人と妖では、ときの流れが違いすぎる。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

かごめが犬夜叉とのややを産んだ。

 

 

銀髪犬耳の男の子だった。

 

 

 

血だけで考えれば、もうほとんど人の子なのに。

 

 

 

 

大妖怪の血はそれほどまでに強いのか。

 

 

 

 

 

 

それからしばらくして、殺生丸の訪れがあった。

 

 

 

廃屋での一件は、誰にも話していない。

 

話すようなこともなかったのだが。

 

 

 

あのあとも、殺生丸の淡々とした態度は変わらない。

 

 

 

「不便はないか」

 

「はい、何も」

 

「そうか」

 

 

と。

 

 

いつものやりとりで、それで終わるはずだったが。

 

 

 

りんは、言わなければならないと思った。

 

 

殺生丸が飛び立ってしまう前に、素早く口を開いた。

 

 

 

「犬夜叉さまとかごめさまのところにややが産まれたんです。殺生丸さまの甥っ子ですよ」

 

 

 

ふん、と。

 

殺生丸が鼻を鳴らしたような気もしたが、次の瞬間には地を蹴っていて。

 

 

 

 

りんは、あ、と思った。

 

 

 

 

ふわ、と殺生丸の銀髪が揺れる。

 

行ってしまう。

 

 

 

 

いつものことなのに。

 

いつもと違う気持ちになった。

 

 

 

 

 

「また来て下さいね!」

 

 

 

 

何故、そんなことを言ってしまったのかわからない。

 

 

殺生丸が行ってしまうと思ったら、胸のあたりが…。

 

 

 

きゅーっと、なった?

 

 

 

 

殺生丸に、その言葉が届いたかはわからない。

 

 

そこにはもう、青空しかなかった。

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

三日後のことだ。

 

 

 

ちょうど桜も見頃で、夜桜で花見をしようということになっていた。

 

 

 

日が傾いてきた頃に、りんも楓の家を出た。

 

 

 

 

ざわ、と。

 

いつもの風。

 

 

 

 

「え……殺生丸さま?」

 

 

まったくの不意打ちに、りんは戸惑った。

 

 

 

 

殺生丸が、三日という短い間にまた来るなど、初めてのことだった。

 

 

何か、あったのだろうか。

 

 

 

 

殺生丸は、じっとりんを見つめている。

 

 

 

 

「あの……何か?その……早いなって。前に来て下さったの、まだ三日前で」

 

 

動揺した気持ちが落ち着かないままで、りんはたどたどしく言葉を紡いだ。

 

 

 

 

殺生丸は、すい、と視線を反らした。

 

 

「この前の別れ際、おまえがいつもと違う様子に見えた」

 

 

 

 

気にしてくれたのか、と。

 

りんは驚きを隠せなかった。

 

 

 

 

「ごめんなさい、りんがあんなこと言ったから。何も変わりはないですよ」

 

 

 

「そうか」

 

 

 

殺生丸が踵を返そうとする。

 

 

 

 

「でも!」

 

 

りんは行かせまいとして素早く言葉を繋いだ。

 

 

 

 

今夜は、夜桜を見るのだ。

 

言ってみるだけなら、許されるのではないか。

 

 

 

 

「今からみんなで、かごめさまや犬夜叉さま、珊瑚さまに弥勒さま、七宝ちゃんも、みんなで花見をするんです。殺生丸さまの甥っ子も来ますよ」

 

 

 

殺生丸は足をとめてはくれたが、何も言葉はない。

 

 

 

「今夜だけ、特別というわけにはいきませんか。犬夜叉さまのややが産まれた、お祝いの気持ちで」

 

 

 

「やつに子が産まれようが興味はないがな」

 

 

殺生丸は冷たく返したが、その身はりんの方を振り向いていた。

 

 

 

 

 

「ありがとうございます」

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

りんが殺生丸を連れてきたのを見て、そこにいた一同は驚愕の気持ちで固まってしまった。

 

 

 

「犬夜叉さまのややを見に来て下さったんですよ」

 

 

無邪気に言うりんに、んなわけねーだろ、と返したのは殺生丸でなく犬夜叉で。

 

 

 

 

「こらっ、おすわり!」

 

慌てて口走るかごめ。

 

 

 

ぎゃふん、と犬夜叉が地にめりこむ。

 

 

 

 

 

それを契機に場がなごんだ。

 

 

 

 

 

 

 

日が落ちて、月光に桜の花びらが舞う。

 

 

 

一同が飲み食いするなか、少し離れた場所で殺生丸は佇んでいた。

 

 

その傍らに、りんはいない。

 

 

 

「りんねーちゃーん」

 

「あーそーぼー」

 

と。

 

珊瑚と弥勒のところの子らに呼ばれて、すっかり子守りの人だ。

 

 

 

 

「ごめんね、りん。せっかく殺生丸が来てくれてるのに」

 

 

謝る珊瑚だったが、りんの方はあっけらかんとしていた。

 

 

「いいんです。そういうこと、殺生丸さまは望んでいないから」

 

 

 

 

ぴったり寄り添うことだけが大事ではないと思った。

 

この場に彼がいるだけで充分なのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもたちが眠たがりだす頃、そろそろお開きにしようか、ということになった。

 

 

後片づけをりんと楓が引き受け、それぞれ子どもを抱いて帰路につく。

 

 

 

後片づけが終わり、気をきかせた楓が先にひとり帰ると、りんと殺生丸はふたりきりになった。

 

 

 

 

「楽しかったです、とても。ありがとうございました」

 

 

そう言うりんの顔を、殺生丸はじっと見ていた。

 

 

 

すぐに飛び立つかと思っていたのに、そうしない殺生丸の顔を、りんもじっと見る。

 

 

 

 

 

 

 

沈黙。

 

 

 

 

 

 

先に口を開いたのは、りん。

 

 

「何を考えているんですか」

 

 

 

 

 

それは、あの廃屋で、殺生丸がりんに投げかけた言葉と同じだった。

 

 

 

月の光りが、さっとりんを照らす。

 

 

 

 

 

 

ずっと、見てきたつもりだったが。

 

 

幼かったりんは、もうそこにはいない。

 

 

 

 

 

人間の子どもたちと戯れるりんの姿に、殺生丸はりんが人の世に染まったことを知った。

 

 

 

妖のそばを望んだりんは、もういないのか。

 

 

 

 

 

 

 

ふわ、と。

 

 

 

それは一瞬のことだった。

 

 

 

 

殺生丸の手がりんの腕をつかみ、引く。

 

 

もう一方の手が、りんの背を引き寄せる。

 

 

 

 

 

りんは殺生丸の顔を窺おうとしたが、すぐそこにあるはずの彼の顔は、彼のその銀髪がとばりとなって見ることができない。

 

 

 

 

耳のすぐ近くで、殺生丸の声がした。

 

 

「また来る」

 

 

と。

 

 

 

 

 

それは今まで、決して聞くことのなかった言葉。

 

 

 

 

 

 

ぱちん、と。

 

何かがはぜた気がした。

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

春が終わり、夏も過ぎた。

 

 

 

花見のあの夜以降、殺生丸の訪れはない。

 

 

 

 

 

あの夜の別れ際のことを、りんは思い出す。

 

 

 

 

何を考えているのかと問うたりんを、殺生丸は抱きよせた。

 

 

 

触れてみたい、と考えていたのだろうか。

 

 

 

 

''恋''だと思うのはうぬぼれだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「よう、りん」

 

 

ぼんやりしていたりんを、引き戻す声。

 

 

 

「犬夜叉さま…」

 

 

 

「今夜のこと覚えてるだろう?十五夜、みんなで月見をしようって」

 

 

犬夜叉の言葉にりんはうなずく。

 

 

「逢いたいと思わねぇのか」

 

 

 

あぁ。

 

いつかも同じように問われたな、とりんは思い返す。

 

 

あのときはなんと返したのだったか。

 

 

もう忘れてしまったな、と。

 

 

 

 

「かごめが言ってた。きっと逢いたいだろうって。おまえも…」

 

 

あいつも、と、犬夜叉は最後のひとことを心で言った。

 

 

 

「手を貸してやってもいいぜ」

 

 

鉄砕牙の柄に、犬夜叉は手を添えた。

 

 

 

 

 

 

共鳴するのだろうか。

 

居場所がわかるとでも…?

 

 

 

 

 

 

 

「逢いたい、かな」

 

 

 

だってあのとき、また来る、と言ったでしょう。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

月見の席に殺生丸がやってきたが、前回のように驚愕する者はもうなかった。

 

 

 

一同から離れた場所に腰をおろした彼のその傍らには、少しの距離をおいて腰をおろすりんの姿があった。

 

 

 

 

月を眺め、酒が入った一同の喧騒を眺め、無邪気に走り回る子らを眺め。

 

 

 

ふたりに会話はなかったが、互いに別に必要とも思っていなかった。

 

 

 

 

 

 

子らが眠いとぐずりだし。

 

 

月見がお開きとなって。

 

 

 

 

あの夜と同じ流れで。

 

 

 

 

 

また、ふたりになった。

 

 

 

 

 

あのときのことを、聞いてもいいだろうか。

 

 

 

 

銀髪が揺れるその背に、りんは言葉を投げかけた。

 

 

「花見の夜のこと」

 

 

 

とくん、と。

 

 

あの夜、殺生丸に触れられた腕、背。

 

脈うった気がした。

 

 

 

「何を考えているのかって聞いたら、殺生丸さまはりんを抱きよせてくれました」

 

 

 

殺生丸は、何も言わない。

 

銀髪が、そよ、と風に揺れている。

 

 

 

「そういうことですか?」

 

 

 

 

''その人に、触れてみたい、と思うの''

 

 

いつかのかごめの言葉がこだまする。

 

 

 

 

 

つい、と。

 

殺生丸が振り向いた。

 

 

 

視線が交わった。

 

 

 

「りんも同じように思います」

 

 

 

 

とくん、と。

 

 

また、脈うつ。

 

 

 

 

 

 

殺生丸はなおも何も言わなかったが…。

 

 

 

 

 

す、と伸ばされた手はりんの頬に添えられて。

 

 

もう一方の手はりんの頭を引き寄せる。

 

 

 

 

 

 

それは、そっと触れあうだけの口づけだった。

 

 

 

 

 

 

視線は交わったままだった。

 

 

すぐそこに殺生丸の瞳が見える。

 

 

 

 

 

これが口づけをする者の目だろうか。

 

 

感情を汲みとることの困難な、どこか冷ややかな目。

 

 

 

 

 

 

 

 

やっぱり妖怪なんだ、と。

 

 

そんな今更なことを思った。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「かごめさまが言っていたこと、今はわかる気がします」

 

 

ぽつり、と。

 

誰かに聞いてほしくて。

 

でも、言ってはいけないことのような気もして。

 

 

 

曖昧な言葉になってしまった。

 

 

 

 

 

「そっか」

 

 

隣でともに薬草を摘んでいたかごめは、手をとめてりんの表情をうかがい見た。

 

 

あまり嬉しそうじゃないわね、と心の中だけで呟く。

 

 

 

 

「楓さまが言っていました」

 

 

りんは手元に視線を落とす。

 

 

「殺生丸さまは、りんに''どちらでも選べるように''との思いがあるのではないかと」

 

 

 

 

 

「それは私も聞いたわ」

 

 

かごめは頷き、さらに言葉をつなげる。

 

 

「私たちの旅が終わったとき、りんちゃんはまだ幼かった。どちらがいいのか、誰にも…殺生丸にもわからなかったのよ」

 

 

 

ひと呼吸、おく。

 

りんはじっと手元を見つめたまま、口を開こうとしないでいる。

 

 

 

「決められないと思ったんじゃないのかな。だから、''どちらでも選べるように''、人の暮らしの中にりんちゃんを置いたんじゃないかって楓ばぁちゃんは言ってたわね」

 

 

 

 

人間として人里で生きるか。

 

それとも妖たる殺生丸の傍で生きるか。

 

 

 

 

「殺生丸に何か言われたの?」

 

 

かごめの問いに、りんは小さく頭をふった。

 

 

「そうじゃないんです」

 

 

 

 

 

 

ここでずっと生きていくものと思っていた。

 

 

殺生丸は時折様子を窺いに来てくれはするけれど、彼の傍らで生きる、ということは思いもしなかったのだ。

 

 

 

 

だけど今は考える。

 

 

 

 

 

''恋''の行方は、どこに行きつくのか?

 

 

 

 

 

「選ばなくてはならないときが、来るのかなって。殺生丸さまがりんに答えを求めるときが来るのかなって、思うんです」

 

 

 

 

 

殺生丸とともに生きたいと願えば、人としての暮らしは捨てなければならないのだろうか。

 

 

自分は人間だ、と主張すれば、殺生丸とともには生きられないのだろうか。

 

 

 

 

 

どちらも大切な居場所なのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

りんの姿は畑にあった。

 

 

 

''老体に畑仕事はつらくなってきた''とぼやく楓から、少しずつ引き継いでいるのだ。

 

 

 

楓は今夜は隣村で寄合があり、その支度のために今はここにはいない。

 

 

 

りんはひとり、作物を収穫していた。

 

 

 

 

 

ざわ、と。

 

 

いつもの風。

 

 

 

 

珍しいな、とりんは思った。

 

 

殺生丸が訪れるのはいつも村のはずれや村の外で、こんな人目の多い場に来るのはこれが初めてかもしれなかった。

 

 

 

 

「それが人の営みか」

 

 

 

殺生丸の目はりんの傍らにある駕籠を射ていた。

 

 

りんは駕籠の中から、まさに今収穫したばかりの作物を取り出してみせた。

 

 

 

「ここでは、食物は盗るものじゃないんです。育てるものなんです」

 

 

 

殺生丸は何も返してこない。

 

りんはさらに続ける。

 

 

 

「殺生丸さまは、りんに言いました。''自分の食いぶちは自分で盗ってこい''と。そして楓さまはりんにこう言うんです。''自分の食いぶちは自分で育てることだ''と」

 

 

 

 

そよ、と風が吹いた。

 

 

殺生丸の銀髪がさわ、と揺れる。

 

 

 

 

「おまえは人間だ」

 

 

 

 

告げる殺生丸の声は、いつものように感情が乏しい。

 

 

 

 

責められて、いるのだろうか。

 

 

 

 

なんと返せばいい。

 

 

やっぱり大妖怪は、人間とは生きられない?

 

 

 

 

しばしの思案の末、りんは意を決して口を開いた。

 

 

 

 

「はい」

 

 

 

 

 

そよ、と。

 

ふたりの間に風が吹く。

 

 

 

 

 

沈黙。

 

 

 

 

 

破ったのは、殺生丸でもりんでもなく。

 

 

 

 

「おや、殺生丸じゃないか」

 

 

嗄れた声の主は楓。

 

 

「いいところに来てくれた。今から隣村まで寄合に行かなければならない。明日の昼までは帰れない故、今宵はりんを犬夜叉とかごめのところへ泊まらせようと思っていたが…」

 

 

 

楓は怖じることなく大妖怪たる殺生丸をきっ、と見据えた。

 

 

 

「おまえが今宵うちに泊まってくれると言うのなら、それがりんも一番心強かろう」

 

 

 

なぁ、と。

 

 

同意を求められたりんは、急な展開に動揺してしまい、さっと俯く。

 

 

 

 

 

 

 

 

頷いたように見えただろうか。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

りんはゆうげの支度をしていた。

 

 

 

楓がいるときであっても最近はりんが作ることの方が多いくらいで、それは手慣れたものだった。

 

 

 

 

りんは殺生丸の分も出そうかと思ったが。

 

 

 

「人間のたべものは口に合いませんよね」

 

 

 

 

 

''人間のたべものは口に合わん''

 

 

幼い頃に聞いた、殺生丸の言葉が脳裏に甦る。

 

 

 

 

 

あのときの言葉をそのままに殺生丸に向かって投げたが、別に嫌味で言ったわけではなかった。

 

 

要らないものを出しても仕方がないので、確認のために問うただけのこと。

 

 

 

 

しかし殺生丸から返ってきたのは意外な答えで。

 

 

 

「口にできないわけではない」

 

 

 

食べる、ということなのだろうか。

 

 

りんは慌ててふたり分の支度をした。

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

食事の間、やはりふたりに会話はなかった。

 

 

 

 

片づけも終わり。

 

 

りんは殺生丸が腰をおろしている、その少し斜め後方に腰をおろした。

 

 

 

「どうでしたか、りんが作ったゆうげは」

 

 

 

良い答えが返ってくるとは思っていなかったが、何か会話が欲しくて声をかけた。

 

 

 

「食べれぬことはなかった」

 

 

 

やはり愛想のない答えだ。

 

でも、らしいな、とりんは笑みをこぼした。

 

 

 

「この上ない誉めことばですね」

 

 

 

 

 

 

月明かりが射し込んでいる。

 

 

灯りが要らないくらいかもしれない。

 

 

 

 

だけど消すことは躊躇われた。

 

 

 

 

 

 

聞きたいことを、聞いてもいいだろうか。

 

 

今しかない気がするのだ。

 

 

 

 

 

「殺生丸さまは、''どちらでも選べるように''との考えでりんをここへ置いたのですか?」

 

 

 

りんは殺生丸の横顔をじっと見ていたが、その表情からは何も読み取ることができなかった。

 

 

答えもないので、りんはさらに続ける。

 

 

 

「楓さまも、かごめさまも、そう思っているようでした。殺生丸さまがりんをここに置いたのも、時折様子を窺いに来てくれるのも、そういう意図があるのではないかと」

 

 

 

 

「おまえもそう思うのか」

 

 

 

不意に返ってきた声に、やはり温もりはない。

 

りんがたじろいでいる間に、殺生丸は次の言葉を紡ぐ。

 

 

 

 

「そのような意図などない。人間であるおまえは人間として生きるべき。あるのはその思いだけだ、おまえが望んだとしても、私はおまえを妖の世へ連れていくつもりはない」

 

 

 

 

「じゃあ、どうして…」

 

 

逢いに来てくれるの、と。

 

言葉が続かなかった。

 

 

 

 

''人間として生きるべき''

 

''妖の世へ連れていくつもりはない''

 

 

 

それはつまり、ともに生きるという選択肢は始めからなかったということ?

 

 

 

 

 

殺生丸は、つい、とりんに視線を向けた。

 

 

射るような、冷たい目だ。

 

 

 

「おまえが人の世で生きるか妖の世で生きるか、そんなことは些末なことだ。私にとっての大事は、ただひとつ…」

 

 

 

殺生丸の手がりんの腕に触れる。

 

 

 

「おまえをもう死なせないことだ。おまえが寿命を全うする、それだけが私の大事なのだ」

 

 

 

 

とくん、と。

 

殺生丸に触れられている部分が脈うつ。

 

 

 

 

 

「捨ておけば良かったか。その方がおまえは幸せに生きられたか」

 

 

 

 

「そんなこと…!」

 

りんは強く頭をふった。

 

 

 

「私はおまえに何も選ばせるつもりなどない。今この関係がずっと続くことになんの不便もない。だが…」

 

 

 

殺生丸は、俯いてしまったりんを見つめる。

 

 

人間の、娘を。

 

 

 

「人間はそうは思わないということか。犬夜叉と巫女のように、法師と退治屋のように」

 

 

 

 

めおと、という形が必要なのか。

 

 

 

 

りんは答えなかった。

 

すぐに答えられることとは思えなかった。

 

 

 

 

 

その間にも、殺生丸は続ける。

 

 

「おまえが私と生きることを望むのなら、私はもう、ここへ''来る''ことはやめよう」

 

 

 

はっ、と。

 

りんはおもてを上げた。

 

 

殺生丸と視線が交わる。

 

 

 

どくん、と胸が苦しくなる。

 

 

 

 

別れを告げられているのだろうか。

 

 

ならばこれ以上は聞きたくない。

 

 

 

 

涙が、こぼれそうになったが。

 

それより早く、殺生丸が言葉を継いだ。

 

 

 

「この老巫女の家の続きに、おまえの家を建てろ。これからは私はそこへ''帰る''ことにする」

 

 

 

 

ぽろ、と涙がこぼれた。

 

 

 

 

「犬夜叉も法師も、くだらん妖怪退治とやらで留守がちなのだろう。ならば私もそうであっても問題ないな?」

 

 

 

 

「はい、何も…」

 

 

 

 

大妖怪が、歩を、人間に寄せてくれた。

 

 

これ以上、何を望むことがあるのだろう。

 

 

 

 

 

 

「何故泣く」

 

 

 

殺生丸のその問いに、りんは、あぁ、と思った。

 

 

 

 

妖と人間だから。

 

その隔たりを埋めるためには言葉が必要なんだ。

 

 

 

 

 

「人間は、嬉しいときにも泣くんですよ」

 

 

 

 

殺生丸は、ふん、と鼻を鳴らした。

 

 

「やはり人間のことはよくわからぬ」

 

 

 

しかしその声音は、どこか面白がっている風でもあって。

 

 

 

 

身を寄せたのは、殺生丸の方が先だったか、それともりんの方が先だったか。

 

 

 

 

 

重ねあわせた唇を、殺生丸はそっと舐めた。

 

 

 

 

 

 

 

嬉しいときにも流すという、涙の味がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








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