遠月茶寮料理學園 入学式前夜
――シュ、シュ、シュ
一定のリズムで小気味よく金属の擦れる音がする。
――シュ、シュ、シュ
真夜中の山道に響くそれは、木々のさざめきと相まって、まるで森の女神が奏でる美しい
男は"聴き慣れた"その音を意にも介さず歩を進める。やがて目的地であり、音の出処でもある一軒の小さな家の前で止まると、深呼吸をした。
今宵は満月か。
なんともなしに見上げた夜空には満点の星とそれが霞むような煌々と輝く月があった。
これは偶然か必然か。神のみぞ知るというやつだな。
さて、今日はどんな顔を見せてくれるのか。
男、堂島銀は微笑を浮かべ戸に手をかけた。
~ ~ ~ ~ ~
窓から差し込んだ月明かりだけが室内を照らしている。フローリングの床には窓枠を引き伸ばしたような影ができていた。俺はそこにあぐらをかいて指先に神経を集中する。
目の前には、新聞紙に載せられた砥石と和包丁。その隣に水を満たした青いバケツ、布。
バケツに張った水には真ん丸い月が映り込んでいる。
前、後、前、後
手を動かして包丁を研いでいく。
静かな室内に響く金属の擦れる心地よい音が、俺の心を落ち着かせてくれる。時々手を止めては月明かりに刀身をかざして具合を確かめ、また研ぐ。
俺はこの時間がたまらなく好きだ。包丁を研ぐただそれだけがすべてを――過去も未来も――忘れさせてくれる。眼の前の仕事に意識を集中し、心を無にできる。
――――ガチャ
そして俺はこの時間を邪魔されるのがたまらなく嫌いだ。
「やあ少年、元気だったか!」
――意識を現実に引き戻されるから。
「堂島さん、この時間には来ないでほしいと何度も言ってるじゃないですか」
「むむっ、はて、そうだったかな」
はっはっは、と笑う坊主頭の巨漢を俺は睨んでため息をついた。
「それで、今日は何の用で来たんですか」
そう尋ねつつも、俺は重い腰を上げて部屋の奥へ行く。まるで初めから答えがわかっているかのように。
「今日はそれの回収だ」
背中越しに野太い声でいつもどおりの返答がかえってきた。
それを受け俺は目の前にうず高く積み上げられた包丁達が入ってるから結構な重量だ。ダンボールの山から一つを持ち上げて彼のもとへ運ぶ。研いだ包丁達が入っているから結構重い。
「わかってますよ、毎週のことですからね。俺はいつになったら堂島さんが言うことを聞いてくれるのか楽しみですよ」
ずしんと身体に響く重さに不機嫌になりつつ、皮肉げに答える。
「おお、言うようになったな紫島ァ」
「先週も言いましたよ」
がっははは、と堂島さんは笑う。
そんな彼に悪態をつくかのように、俺は運んできたダンボールを乱暴に置いてやった。
思えば、俺と堂島さんがこの寸劇まがいのことをやり始めてからずいぶんと経つ。始まりは俺が遠月茶寮料理學園の専属研師として仕事を請け負った日。それから毎週日曜日、午前0時きっかりにこの人はやってくるのだ。
「それで……」
――だから次にくる言葉も俺は知っている。
「お前、料理人に戻る気はないか」
「……」
もう何度目かわからないその問いかけに俺は心の中で舌打ちする。――またか。
何回同じことを答えさせれば気が済むんだこいつは。
『俺の過去を掘り返して何がしたい!』
俺は喉元まで出かかった言葉をどうにか飲み込む。
なぜこんなことを続けているのか、大半の人そう思うだろう。しかし残念ながら俺もその内の一人だ。第一、部屋の奥に積み上げられているダンボールは全て明日遠月の業者が回収しに来る分だ。この男が取りに来る必要なんてどこにもない。
もしかしたらこの男の道楽に付き合わされているだけなのかもしれない。そう思って感情のままに怒鳴りつけたことも数えきれない。今思えば、それすら奴の思う壺だったのだろう。笑える話だ。
――だめだな。
俺は目を閉じてふっと息を吐き出し、湧き出した感情を抑え込む。
「俺は料理人にはなれません」
目の前の男をきっと見据え言い放つ。
ただ、男はひどく本気の眼をしていた。
ー ー ー ー ー
4月、それは成長の季節。
誰もが今居る場所から抜け出し旅立つ。それは子どもから大人まで変わらない。ここ、遠月茶寮料理學園もその例外ではない。中等部からの進学試験、他の高校からの編入試験を見事突破したツワモノたちが今日、新たな大地へと旅立っていくのだ。
冷えた雪の中から顔を出した新芽をのどかな風がやわらかく撫でる。透き通った青空という名のキャンバスは、旅人達の門出を祝福するかのように桃色の絵の具で塗りつぶされていた。
そんな風景に似つかわしくないものが一つ。
必死の形相でひた走る赤い髪の青年の姿があった。
「やべぇっ、遅刻だっ」
俺の名前は幸平創真、どこにでもいる高校生さ!
実家は定食屋で「ゆきひら」ってんだ! 俺とオヤジの二人でやってたんだぜ!
ひょんなことからこの遠月學園に通う事になっちまったんだが――、
(…って俺は誰に説明してんだ!?)
それどころじゃねえ。
手には今日行われる遠月学園高等部入学式の案内と愛用の包丁ケース。
先程から走りっぱなしで、額には大粒の汗がにじみ出ている。
「オヤジがいないのすっかり忘れてたわ、てっきり起こしてくれるもんだと」
――思い出されるのは今朝の記憶。
『…んぁ。…ふぁあ、朝か』
目が覚めて一階の店の厨房に降りてみると、いつもなら朝食を作っているはずのオヤジの姿がない。
『…あれ?どっかでかけてんのかな、まあいっか』
今日は自分で朝飯作るか。
そう思って厨房に立とうとしてカウンターの一枚の紙切れが目に入った。
(なんだこれ……入学案内?あぁ、オヤジが言ってた料理学校の)
そろそろ入学の準備とか色々しなきゃなぁ。いつだっけコレ。
『…………って今日じゃん!?』
――――――
――――
――
思い出して思わず苦笑いする。
「ええと、ここを右、いや左に曲がるんだっけか?」
会場の案内図が描かれた紙切れを片手で掴みながら、頭を捻る。
すでに開会式まであと10分と迫っていた。
「初日から遅刻とかマジありえねぇって、ってか編入生は挨拶もあるのかよ!」
挨拶…あいさつ、ねぇ。……何、喋ればいいんだ?
まあでも俺の目標はオヤジを超えることだからなあ。この学校でてっぺんぐらい取っとかないと話にならねぇだろ!
案内書の文に目を走らせながら、頭の中で台本を作っていた。その時、
――――ドン
「ぐぇっ」「うお、わりぃ!」
鈍い痛みが身体を襲い、衝撃で思わず倒れ込む。どうやら曲がり角の先から来ていた人とぶつかってしまったようだ。
「いやぁー、わりぃわりぃ。ちょっとよそ見してたわ。怪我ないか」
痛みに顔を歪ませながら目を開くと、そこには一人の青年の姿が写った。青年は頭に手を当て、眉間にシワを寄せている。
「…あぁ、大丈夫だ。俺も前をよくみてなかったし」
「ほんとわりぃな」
手を差し伸べて互いに立ち上がる。背は俺と同じくらいだろうか。薄紫色の乱雑に切られた髪。中肉中背。幼さの残る顔立ちをしている。遠月の制服を着ていることからここの生徒なのだろう。
新入生かな。真新しいその制服を見てそう思った。
「それよりあれ、開いてるぞ」
青年が指さした方向を見やると、俺が持ってきた包丁ケースが転がっていた。留め具が外れて蓋が空いてしまっている。
「あぁ! あっぶねえ。俺の包丁が」
中身が飛び出してなかったのは奇跡的だろう。入っていた三本の包丁はしっかりとケース内に収まっていた。
「いい包丁だな、よく手入れされている」
「お、そうか? サンキューな」
へへへ。
俺はカバンを締め、照れくさくなって鼻をこすった。
「それで、なんでそんなに急いでたんだ?」
校内を全力で駆ける人など珍しいのだろう。青年が問いかけてくる。
「あっ、そうだった忘れてた。入学式に出るんだったわ」
急いで時計を確認する。残り時間はあと6分、思わず冷や汗が流れる。
「入学式? 会場ならあっちだぜ」
首をかしげて、青年は創真曲がってきた方向と逆を指さして答えた。
「マジか! すまねぇ、ありがとな!」
俺は急いでケースを拾い上げる。今から走ってはたして間に合うのだろうか。そんな言葉が脳裏にちらついたが努めて無視する。
(やるだけやってみるしかねえ!)
創真は走り出した。
『でも、あいつは入学式でなくてよかったのか?』
そんな疑問を抱きながら。
はじめまして、あっぷるです。
ここまで読んでくださった皆さんありがとうございます!
今の所は原作準拠で進めていく予定です。変わり次第報告します。
料理、研師に関する知識はないので想像上で書いてます。ご了承ください。