多重人格の急須 2 ~肉じゃがは時空を越えて~   作:葵むらさき
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17 築山、告白する(終)

 舞子はその眩さに目をほとんど開けていられなかったが、辛うじて睫毛の間から急須が小刻みに振動しながらその白き光を吸い込んでいくさまを見届けた。

 

 

 それは渦を巻いて、見ている自分までが巻き込まれそうなほど激しい勢いで、十秒とかからずすべて飲み込まれてしまったのだ。

 

 

 

 あとには、今までそこにあった光の存在が嘘のように、ごく普通のフローリングの部屋が存在していた。

 

 

 舞子は床にへたりこんだ。

 

 

 急須くんは元通り蓋を閉じていた。

 

 

「ありがとう……急須くん」舞子は大きく息をつき、夢から醒めたばかりのような声で礼を云った。

 

 

「いいえ、とんでもない」急須くんは蓋をぱかぱか上下させ機嫌よく答えた。「お役に立てまして光栄です」

 

 

「でも──陽くんは、どうなっちゃったの?」

 

 

「もちろん、ぼくの一部と化したんですよ」急須くんは、鈴の音のような声でうふふふ、と笑った。「彼には“治癒・恒常性回復”を担当してもらうことにしましょう」

 

 

「治癒?」舞子は目を丸くして思わず正座した。「えっ、陽くん、急須の人格の一人になったの?」

 

 

「だってあなたがそれをお命じになったんですよ」急須くんは楽しげに蓋をぱくぱくさせた。「ぼくの中に取り込むってことはすなわち、ぼくの構成人格の一人として迎えるということになるわけで」

 

 

「分裂して」

 

 

「え」

 

 

「人格パーツに分かれて」

 

 

「もう、ですか」急須くんは小さく呟いた。

 

 

「また用があったら呼ぶから。どうもありがとう」舞子は一刻も早く陽に会いたいのだった。「分裂して」

 

 

「──かしこまりました」急須くんは消え入りそうな声で答え、二秒ほどの間をおいて爆発音と白煙が上がった。

 

 

「うわっ」出てきた人格は不慣れのためバランスを崩して床に座り込んだ。「びっくりした」目をぱちぱちさせる。

 

 

 色白ではあるが、真っ白ではないペールピンクの肌、茶色がかってさらさらした真っ直ぐな髪、髪と同じ色の瞳に健康そうな赤い唇──

 

 

 十歳を少し過ぎたくらいの、少年がそこに存在していた。

 

 

 舞子は思わずその華奢な肩に触れた。

 触れられたのだ。

 

 

「陽、くん──」

 

 

「あ、舞子さん」少年はまぶしそうに何度も瞬きをしながら舞子を見た。「無事だったんだね──よかった」

 

 

「それはこっちのセリフよお」舞子は泣きそうな鼻の痛みを堪えながら精一杯笑った。「よかったあ──消えちゃわなくてよかった」

 

 

「あれ……瀬良さんは?」陽はきょろきょろと辺りを見回した。「江里奈さんのところに、行けたのかな」

 

 

「ううん」舞子は首を振った。「瀬良さんはこの世にとどまってるわ」云った後で、この表現は地縛霊みたいだと気づいた。「江里奈さんのところへは、行ってない」

 

 

「えっ、そうなの?」陽は驚いた。「あ……そうか、ぼくがここにいるってことは、そうなんだね」自分の両手を見下ろす。

 

 

「陽くん」舞子は陽の肩を抱いた。「あたしが、止めたの。消えないで欲しかったから。陽くんに」

 

 

「舞子さん」陽は舞子を見た。「ぼく……存在してて」

 

 

「いいんだよ」舞子は深く頷いた。「存在して、これからいっぱい、役に立ってもらうからね」

 

 

「ほんと? ぼく、役に立てる? 舞子さんの?」陽はくりくりと瞳を輝かせて頬を紅潮させた。

 

 

「うん、うん」舞子も何度も頷く。

 

 

「あっ、おじいさん」出し抜けに陽は舞子の肩越しに見つけた築山を呼んだ。

 

 

 舞子が振り向くと、博士は絵に描いたようなまん丸い形の目をし、口をあんぐりと開け絶句していた。

 

 

「見て」陽はにこにこしながら両腕を広げて体を左右にひねった。「ぼく、魔法使いになったよ」

 

 

「ひな──」博士はそれだけ云い、絶句した。

 

 

「ピノキオのラストシーンみたい」舞子は涙ぐみ、ぐすんと洟をすすった。

 

 

 それから舞子は、床に座り込んでいる瀬良に気づいた。

 確かに彼は、この世にとどまっていた。

 地縛霊のように生気を失った目を、虚空に向けて――

 

 

「瀬良さん」呼べども、答えない。

 

 

 さっきは怒りのあまりぶん殴ってしまったのだが、考えてみれば彼にとっては残酷な結末となってしまったのだと舞子は思った。

 

 

 彼の、江里奈に対する態度は確かにハラスメントだっただろう。

 別れるべきだったというのも間違いではないと思う。

 

 

 けれど彼は精一杯、やり方に問題があったとしても精一杯彼女を求め愛していたのだ。

 

 

 江里奈が戻って来たとしたら、彼には江里奈の死という試練は残らなかった、ゆえに彼の態度に何ら変わりはなかっただろう。

 

 

 しかし金輪際戻らないという状況になった今、この時から、彼は間違いなく二度と塞がることのない深い傷を、一生心に持って生きることになるのだ。

 

 

 自業自得とはいえ、それは――残酷で悲壮な仕打ちであることに違いはない。

 

 

 自分には、何が出来るだろうか?

 

 

 舞子はそう考えた。

 

 

 何をしてやれば、助けになるだろうか?

 

 

 大石の白く光る眼鏡が浮かんだ。「料理です」

 

 

 舞子は頷いて、宣告した。「よし、じゃあご飯にしましょう」

 

 

 築山と陽が振り向く。

 

 

「ゴハン?」興奮気味に、新米魔法使いが訊く。「うわあ! ゴハンだ!」

 

 

「陽くん、何が食べたい?」舞子は訊いた。

 

 

「うーん」陽は天井を見上げ、また正面を向いて「ラーメン!」と叫んだ。

 

 

「え」舞子は一瞬表情を凍らせたが、すぐに「そか。オッケー」と答えてにっこりした。「じゃあ、できたら呼ぶから……瀬良さんも」振り向く。

 

 

 瀬良は、のろのろと首を横に向けた。が、視線を合わせることはない。

 

 

「後で、博士と陽くんと、一緒に来てくださいね」舞子はそう云って、もう一度微笑みかけた。「すぐできますから」

 

 

 

          ◇◆◇

 

 

 

 三人分のラーメンができた後舞子は築山と瀬良、そして陽をダイニングに呼んだ。

 

 

「うわあ」入ってくるなり陽は頬を紅潮させ感動した。「いい匂い」

 

 

「匂いがわかるの?」舞子は椅子を引いてやりながら訊いた。

 

 

「正吾さんに教えてもらったよ」陽はにっこりと笑った。「急須の中で」

 

 

「そうなの?」舞子は驚いた。「さっき急須に入ったばっかりなのに」

 

 

「うん」陽はこくりと頷く。白い光であった時と同じ仕草だ。「正吾さんからも、大石さんからも、いろいろ教えてもらった。キホンのこと」

 

 

「へえー」

 

 

「あと木多丘さんにも。砂ダルマで」

 

 

「えっ」

 

 

「ぼく、五つフンサイしたよ」陽は自慢げに手を広げ、目を細めた。

 

 

「ははは」舞子は、声は笑えど笑えなかった。「まあ、召し上がれ」とりあえず、ラーメンをすすめる。

 

 

 陽は築山の見よう見真似で湯気の立つラーメンをそっとすすった。

 

 

「どう? ラーメンの味は」舞子は訊いた。

 

 

「あつい」陽は笑った。「でも……」

 

 

「でも?」

 

 

「“おいしい”!」少年はその言葉を、まるで一文字ずつかみしめて味わうかのように発音した。

 

 

 陽と築山は本当の家族のように和やかに食事をすすめていったが、瀬良は、ほんの一口程度しか口にすることはなかった。

 まるでバッテリーの切れかけたロボットのような緩慢な動きで、彼は箸を置き物も云わずぼんやりとテーブルを見つめていた。

 

 

 

「瀬良さん、大丈夫かなあ」食後、食器を流しに運びながら舞子は優美に問いかけた。「廃人みたいになってるよね」

 

 

「そうね、まあ彼次第としか云えないわ」優美は窓から瀬良の部屋の窓を見上げながら答えた。「研究で忙しくなれば彼の気も少しは紛れるんだろうけど……いつまでも江里奈の面影に追い回されるだけの男なのかも知れないし」

 

 

「これで、よかったのかな」舞子も瀬良の部屋の窓を見上げた。「片方だけ約束通りにして、もう片方は守らなくて」

 

 

「どっちにしても間違ってたのよ」優美は答えた。「だってあたし達の当初の目的は、タイムワープそのものを阻止するってことだったんだからね」

 

 

「あ」舞子は肩をすくめた。「そか」

 

 

「むしろこれから大変なのは舞子、あんた自身なんだから」優美は主人を指差した。「瀬良の心配なんてしてられないわよ」何故か嬉しそうにウインクする。

 

 

「ああ……」舞子の脳裏に、タイムパラドックスだの不整合だの修正だのと云っていた優美の言葉が蘇った。

 

 

 それに、もしかするとあのグレート・スピリッツの追求の手が伸びてきたりする可能性も、あるのかも知れない。

 

 

 この次に何が自分の身に降りかかってくるのか、まるで見当もつきはしない舞子だった。

 しかし恐らく何が来ようとも、魔法を駆使するしか自分には手立てがないのだろうということだけは判明していた。

 

 

 

「さてと」食器をすべて洗い終えてタオルで手を拭きつつ振り向いた舞子は、ぎくりと硬直した。

 

 

 冷蔵庫の隣で、木多丘が三角座りをしまるで瀬良のように床の上をぼんやりと見つめていたのだ。

 

 

「な、何よびっくりした」舞子はタオルを持った手で胸を押えた。「なんでそんなとこに座ってんの? ひろみちゃん」

 

 

「俺も」木多丘はぽつりと呟いた。「ラーメン食いてえ」

 

 

「──」舞子はしばらく黙っていたが、大きくため息をついた。「片付け終わる前に云ってよね、もう」そして彼女はヤカンを取り上げた。

 

 

 

          ◇◆◇

 

 

 

「博士、それじゃあ」舞子は笑みを浮かべて最後のあいさつをした。

 

 

 最初に築山と出会った、研究所の庭だ。

 ケージに捕えられていたイノシシは、木多丘によって山奥に放たれた後だった。

 

 

 瀬良は姿を見せていない。

 

 

「うん」築山は頷いて足元を見下ろし、それからまた舞子を見て云った。「すまない、大石くんと話をさせてもらえないだろうか」

 

 

「大石くんと? あ、はい」舞子はすぐに急須を持ち上げ、二回お辞儀をした。「大石くん出てきて」

 

 

 爆発音と白煙が上がる。

 

 

「大石くん」築山博士は出現した白衣の魔法使いの名を呼んだ。「君に、礼を云わせて欲しい――ありがとう」

 

 

「――」大石は二秒ほど博士を見つめたが、すい、と視線を横に逸らした。「何に対しての謝辞ですか」

 

 

「あの日」博士は俯き回想した。「君がタイムワープ研究に協力してくれると云った日、台所で君がわしに『云いたいことがあるのなら遠慮なく云え』と云ってくれた時、わしは本当は、反重力を発生させてくれと云いたかったのではなかった」

 

 

「――」大石は築山に視線を戻したが、今度は反対側に逸らして二秒ほど何事か考察した。「では、何を云いたかったのですか」

 

 

「君がしてくれたことだ」博士は震える声で云い、顔を上げて分析担当を見た。「陽を、人間にしてくれと――魔法で有機生物にしてくれと、頼みたかったんだ」

 

 

「ああ」大石の代わりに舞子がぽんと手を打った。「なるほど!」

 

 

 大石はちらりと舞子を横目で睨み、それから博士に視線を戻した。「それは、偶然の結果ですね」

 

 

「ああ、偶然だな」博士は頷いた。「だが君は、それを成し遂げてくれた――わしの、何よりの望みを叶えてくれた」もう一度見上げる博士の瞳は涙で潤み、そこに映る光を揺らめかせていた。彼は大石に握手を求めた。「ありがとう。大石くん」

 

 

 

 しゅッ。

 ぼん。

 

 

 

「どういたしまして、当たり前のことをしただけですよ」正吾が柔らかな声で微笑みながら博士の手を両手で包み込んだ。

 

 

「なぜ君が出てくる」博士は目を剥いて動揺した。「わしは大石くんに」

 

 

「ああ、彼こういうの苦手なんですよ」舞子が解説した。「感動とかロマンとかの話になると、いっつも逃げるんです」

 

 

「ふふふ」正吾は両手で包み込んだ博士のしわがれた手をそっと撫でた。「あなたのお役に立てて、本当に嬉しいよ。マイ・ディア」

 

 

「大石くんに」博士は正吾に向かって熱心に伝言を頼んだ。「どうか大石くんに、くれぐれもよろしく伝えてくれたまえ。彼には感謝してもしきれない。一生、忘れないと。大石くんに」

 

 

「――」正吾は微笑んだまま絶句した。「――わかりました。伝えます」やがて小声で承諾し、白煙を残して彼は消えた。

 

 

「競争社会」舞子は声なきままそっと呟いた。

 

 

「ごめんなさい博士」今度は優美が出てきた。「一生忘れないと云ってもらえるのは嬉しいんだけれど、やはり陽も含めてあたしたち魔法使いの存在は、あなたの記憶倉庫から消去させていただくわ――物理学とは何の関連もないものだからね」

 

 

「陽の、記憶も」博士は恐る恐る訊ねた。「消えるのか」

 

 

「魔法使いになった時点から後のものはね。あの子は反物質としてエネルギーを放出した後消えた、という形で、あなたの脳には記憶が残るわ」

 

 

「――ああ」博士はゆっくりと数度頷き、了解した。「そのほうが、純粋に学問に集中できていい」

 

 

「もしもご希望なら」優美はウインクした。「陽を作り出しちゃった時点からこっちの記憶をすべて消すこともできるわよ」

 

 

「──」博士はしばらく考えたが「いや、それはしないでおいてくれ」と断った。「わしは、陽を得たからこそ今日まで生きてこられた──残り少ない余生は、陽の思い出を心の支えにして生きたい」いく粒かの涙が、皺の奥の瞳からこぼれる。

 

 

「博士……」舞子は胸に痛みを覚えた。

 

 

「それにたとえ記憶を消されても、またいつかタイムワープの理論は生まれるだろうし──そうしたら陽のことも、思い出してしまうような気がするんだ」

 

 

「ああ」舞子は、前に大石から受けた説明を思い出した。「あなたほど大脳を駆使する人なら、あり得るかも」それは大石の受け売りだが、舞子は盗用して微笑んだ。

 

 

 ふふふ、と築山博士は笑い、舞子の肩を優しく叩いた。「世界的物理学者である男を殴った一介の高校生を、決して忘れないよ」

 

 

「だ、だって」舞子はもぐもぐと唇をすぼめた。「あれは――」

 

 

「勿論悪かったのは瀬良だ。そして私も深く反省している」

 

 

「そですか」舞子は少しほっとした。

 

 

「そのお詫びという訳でもないが――君が大学の物理学科で素粒子論を学び大学院で博士課程を修了した暁には、私の研究所に来たまえ。雇ってあげる」

 

 

「──」

 

 

「あらよかったじゃない就職先が決まって」優美は舞子の腕を叩いて云ったのち「まあ、今の保証も博士の記憶からは消えるけどね」腰に手を当てて空を仰ぎ、アッハッハッハ、と魔女の笑いを高らかに放った。

 

 

「ははは」舞子は声は笑えど笑えなかった。

 

 

「じゃ、後はこの子に任せるわ」優美は指をパチンと鳴らした。

 

 

 

 しゅッ。

 ぼん。

 

 

 

「木多丘さんが、これで練習しろって」陽が、手に白くて四角いものを持って出てきた。

 

 

「練習?」舞子が訊くと同時に陽がそれを一振りすると、それは白い大きなエプロンになった。

 

 

「これで空を飛ぶのが、魔法使いのキホンだって」陽は手で示した。「さあ、どうぞお乗りください、舞子さま」

 

 

「キホン?」舞子は疑問に思わないでもなかったが、魔法使いのやることにあまり口出ししないでおこうと思った。

 

 

 そしてエプロンに一歩乗りかけたが、もう一度振り向き築山を見た。

 

 

 築山は赤い目を何度も瞬きさせている。

 

 

「博士、あの」舞子は云った。「あたしなんかがこんなこと云うの、すごく生意気なんですけど、どうか物理学――素粒子の研究、どんどん続けていってください、それでまたもしタイムワープを思いついて実行しちゃったら、その時は」にっこりと笑う。「またあたしたちが、止めに来ます。今度は、陽くんもいっしょに」

 

 

「うん」陽も、はちきれんばかりににっこりと笑った。「きっとまた来るよ、おじいさん」

 

 

「――」博士の鼻がみるみる赤くなってゆき、とうとう彼は子供のように表情をゆがめて嗚咽しはじめた。

 

 

 陽はぴょんと築山のうなじに飛びつき、二人はかたく抱擁を交わした。

 

 

「うん」鼻をすすりながら博士は何度もうなずいた。「待っているよ。陽」

 

 

「お体、大切に」舞子は最後に、製薬会社のCMのような言葉を投げかけた。

 

 

 エプロンが浮き上がる。

 

 

「おじいさん、さようなら」陽が下を覗き込み、手を振って大きく叫ぶ。

 

 

 エプロンは音もなく屋根の高さにまで上がった。

 

 

「瀬良さん」陽はまた叫んだ。「連れて行けなくてごめんね、瀬良さん」大きく手を振る。「さよなら」

 

 

 舞子が見ると、二階の瀬良の部屋の窓の向こうに、暗かったが瀬良の姿が確かに見えていた。

 舞子の殴った鼻に絆創膏が貼ってある。

 彼は何も云わず、ただじっと陽を見ていた。

 

 

「さよなら。ありがとう。さよなら」陽はひときわ大きく叫んだ。

 

 

 舞子は彼の瞳に、現実の――この次元の光が揺らめくのを見た。

 それは少年の頬から顎に、するりと落ちて行った。

 

 

 博士の研究所はすぐに小さく、見えなくなり、山林もどんどん遠ざかっていった。

 

 

 

          ◇◆◇

 

 

 

 窓から自室へ飛び込んだのは夜も更けてからだった。

 

 

 クローンと入れ替わり、舞子は何事もなかったかのように自宅でのんびりと入浴したのち台所に入って冷たい麦茶を飲んだ。

 

 

 何事もなかったかのようなのは、自宅の方も同じだ。

 

 

 父親はソファに座って小難しそうな経済ニュースに見入っている。

 母親はテレビの音だけ聞きながらテーブル上に書類を広げ電卓を叩いたり何か書き込んだりしている。

 

 

「舞子あんた、まだ夜冷えるから寒くないようにしときなさいよ」母親が書き物をしながら舞子に声をかける。器用だ。

 

 

「んー」舞子はグラスを軽く水洗いしてグラス立てに引っ掛けながら、いつもの篭った返事をする。

 

 

「寒かったらあれ、お父さんが買ってくれたやつ着てね」母親はそう云うと、リビングを出ようとしていた舞子に顔を向け、にやっと笑った。

 

 

「え」舞子はぎくりとしながらも「ああ、うん」と適当に合わせ、さっさと自室に上がった。

 

 

 一瞬、父親が自分の方に振り向こうとしたのではないかと思われる仕草が見てとれたのだが、父親とまっすぐに視線を合わせることを、自動的に避けていた。

 

 

 部屋に戻り、改めて見回す。

 

 

 ベッドの端に、何か畳まれた衣類――起毛性の――が置かれてある。

 

 

 舞子はそれを手に取って広げてみた。

 動物の耳と尻尾がついた、フード付きポンチョだ。

 

 

「はは、これかあ」舞子は思わず笑った。「可愛いじゃん。猫?」

 表に返してみると、そのフードの顔には布製の牙がついている。

 

 

 イノシシだった。

 

 

「――」舞子はしばらく無言でそれを見ていた。

 

 

 

 しゅッ。

 ぼん。

 

 

 

 爆発音がして急須からしもべが飛び出てきた。

 煙が晴れてみると、大石だ。

 

 

 舞子はてっきり、自分の父親に対する態度またはポンチョがイノシシである点について、何がしかのコメント――どちらかというと否定的な――が降ってくるものと思っていたが、解析担当は少しの間イノシシポンチョを黙って見つめた後、ふっと視線をそらした。

 

 

 まだ、疲労が残っているのかも知れない。

 舞子はそう思い、今日は穏やかに話そうと心に決めた。

 

 

「今回の仕事は、苦労しました」大石は舞子に横顔を向け、窓の方を見ながら云った。

 

 

「本当ねえ」舞子は大きく頷いてしもべをねぎらった。「大石くん計算してばっかだったもんねえ、熱まで出して。お疲れ様」

 

 

「最後の件については思いのほか時間がかかってしまったこと、お詫び致します」大石は横顔を向けたまま独り言のように云った。「申し訳ありません」

 

 

「え?」舞子は、大石の眼鏡のつるの向こう側に見える彼の睫毛を見返しながら訊いた。「最後の件って?」

 

 

「ご命令いただいておりました件です」大石はまだ横を向いたままだ。「陽さんを助ける方法を、お教えするという」

 

 

「――あ」舞子は、大石の睫毛を見たまま数秒ぽかんとしたのち、自ら下した命令の内容を鮮烈に思いだした。

 

 

 

「陽くんを助ける方法をあたしに教えて。これが命令よ」

 

 

 

 陽が反物質で、消滅させられる恐れがあることを知った時、あの山奥の研究所のゲストルームで確かに大石にそう命じたのだ。

 

 

「ああ、そうか! あー、はいはい」やっと符合した話に合点がいき何度も頷く。「あー、あの時の。急須くんの中に陽を入れるって教えてくれたやつが。あー」

 

 

 大石は横を向いたまま、睫毛を伏せ目を閉じた。

 

 

「ははは、そうよね、あたしそういう命令、してたんだよね。ははは」

 

 

「お忘れだったわけですね」大石は久しぶりに舞子の方を見た。いつもの、完全に上から目線の見方だ。「ご自分でお下しになった、ご命令を」

 

 

「うんごめん忘れてた」舞子は後頭部を掻きながら、ごまかし笑いで謝った。「そかそか」

 

 

「そかそかじゃありませんよ」大石は目を細めて苛立たしそうに言った。「無責任にもほどがある」

 

 

「だからごめんって」舞子も口を尖らせた。「ていうか、普通謝る時にはちゃんと正面向いて心を込めて謝るものよ。なによ横向きのままで、失礼よ」

 

 

「ああそうですか、それでは正面向いて陳謝いたしましょう」大石はくいっと顎を上げ下目遣いになった。「申し訳ありませんでした」

 

 

「喧嘩よね」舞子は逆に顎を引き、呪いの上目遣いで大石を睨みつけた。「絶対喧嘩売ってるのよね、それ」

 

 

「千二百四十六人」大石はだし抜けに云い、顔を正面に戻した。

 

 

「ん?」舞子も顔を正面に戻して訊き返した。

 

 

「この時空間において、我々がこれまでお仕えして来たご主人様たちの総数です」

 

 

「えっ」舞子は目を丸くした。「せんにひゃく?」

 

 

「四十六人――あなたを入れてね」

 

 

「ほえー……一体何時代?」舞子には、初代の“ご主人”がどんないでたちをしていたものか想像すらつきかねた。

 

 

「そして――二十五人」大石は舞子の感嘆を受け流して続けた。

 

 

「何が?」

 

 

「我々が、お仕えできて幸せであると本心から思えるご主人様の数です」

 

 

「えっそんだけ?」舞子は再び目を丸くした。

 

 

「そうです――あなたを入れてね」

 

 

「――」舞子は胸に熱いものを感じ、言葉を失った。

 

 

 大石はいつものごとく、無表情に舞子を見ている。

 

 

「大石くん、あたし」舞子はもじもじしながら告げた。「いっつもあなたに喧嘩腰でばっかもの云ってるけど、ほんとはね、あたし大石くんのこと」

 

 

 

 しゅッ。

 ぼん。

 

 

 

「やっぱし?」舞子は苛立たしげに眉根を寄せた。

 

 

「それ以上は云わなくても分ってるさ」正吾が声帯の摩擦を半分方減らした発声法で囁いた。

 

 

「あ、ねえ腕大丈夫?」舞子は、彼女を抱き寄せようとして伸びてきた正吾の腕をつかんで思い出したように訊ねた。

 

 

「もう、すっかり平気さ」正吾はしかし傷ついた様子もなく、微笑んでいる。「君のそんな思いやりにぼくのハートは自爆寸前だよ」

 

 

「得意技、エロドラマ」木多丘の解説が突如蘇り、舞子はぶッと吹き出した。

 

 

「あははははは」止め処もなく爆笑が涌き出でた。

「うふふ」正吾も、ご主人である舞子の感情に相伴し笑いを洩らした。

 

 

「あははははは」

「うふふふふふ」

 

 

 二人は相当長い間、笑い続けた。

 

 

 

 急須は今も、舞子の忠実なしもべとしてここに存在しているのだ。

 

 

 







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