「あっ、ピンクのおにーさん! こんにちは!」
「やぁ、こんにちは」
ぶんぶんと手を振る男の子に、ハンスは笑顔で日傘を持つ手を振り返した。勢いあまって傘を取り落としそうになって、「おっと」と慌てて持ち手を手繰りよせる。「おにーさんうっかりー」などと笑う男の子に、「うっかりじゃなくてお茶目なのさ!」なんて答えていた。
白塗りされた壁が目に眩しい建物だった。二階立ての横に長い民家のようで、両開きの大きな扉の上に孤児院の看板が下げられている。
ハンスは男の子と目線を合わせるようにしゃがみこんで、首を傾げる。
「ウェンディは今居るかな?」
「いるよー。おにーさん、ウェンディにごよーじ?」
「うん、ご用事。この街のことで、少しお話を聞きたくてね。案内、頼めるかい」
「まかせて!」
男の子はえっへんとばかりに胸を張り、ハンスの前を先導して駆けていく。ハンスもその後を追って、建物の中に入った。玄関マットに靴の底を押しつけ、パチンと指を鳴らすと、畳んだ日傘があっという間にトランクへと変わる。
内装は孤児院の割にはしっかりしていた。床には所々足跡がついていたり、壁にはラクガキの跡もあるが、それは新しかったり掃除をされる途中だったりする。蜘蛛の巣が張ったり、床が軋んだりはしていない。さすがピーターのアジトを兼ねているだけはあった。
「ウェンディー! おきゃくさんつれてきたー!」
ノックも早々に男の子がガチャリ、扉を開けた。
一見してみれば、何ら変哲もない一室だ。ちょっとした絨毯が敷かれた床に、壁にはポスターだったり子どものお絵描きだったりが貼られている。ただ、その隅にはカーテンで仕切りの作られた空間があって、そこだけがある意味異質に見えた。カーテンの隙間からはベッドの足が覗いている。
さて、彼が探していたウェンディは机に向かって、裁縫をしている最中だった。扉を開けた男の子と、その後ろで帽子を脱いで会釈するハンスを目にすると「あら」と声を上げる。
「本当にキレイなピンク色……あなたよね、ゴロツキに襲われていた子を助けてくれたの」
「はは、話が早くて助かるよ」
孤児院のアレコレを手伝っているだけあって、子どもたちの噂は当然、彼女の耳にも入っていたらしい。どうぞと促されるまま、ハンスはウェンディの対面に腰掛けた。
案内をしていた男の子が「じゃあボク、あそんでくるー!」とトテトテ走っていく音。ウェンディは開けっ放しの扉から身をのりだして、「ちゃんと閉めないとダメでしょー!」と外に叫んでおいてから、パタリ閉め直し戻ってきた。
「ごめんなさいね、騒がしくて。あの子、何か粗相はやらなかったかしら?」
「とっても元気に案内してくれたとも。子どもってのは元気でナンボだからね……気にしないで」
差し出された紅茶のティーカップを「どうも」と受け取りながら、ハンスは答える。容器から角砂糖を三個ワンセットで入れて、混ぜて味を確かめ、さらに追加でぼとぼと入れていく。ウェンディは子どもたちにやるようにデコピンして窘めたくなるのを、必死に堪えているようだった。
「……ミルクも必要かしら?」
「そうだね、もらえるととっても嬉しいな! ふふ」
ウェンディの胸中など露知らず、にこにことハンスは笑うと「さて」と切り出した。
「ボクが来たのは、ピーターのことで気になることがあったからなんだけど……ちなみにキミ、今は話をしていて大丈夫かな?」
ハンスの視線が部屋の隅に向けられていることに、ウェンディはすぐに気が付いたらしい。「大丈夫よ」と頷いた。
「あの子もご飯を食べてぐっすり寝ているところだから……それで、ピーターのことよね? 実はピーター、最近孤児院に帰ってきていなくて。詳しいことは私も知らないの」
「心当たりはあるかい? 見たところ、ティンカーベルも傍に居ないようでね」
「ああ、あなたは知らないのね、少し前にあった事件のこと」
「事件? 子どもの連れ去り未遂事件じゃなくって?」
「それよりも前にあった事件よ。……この街に恐ろしい怪物が現れたの」
「! それって」
きらり、とモノクルのレンズが光る。恐ろしい怪物といえば、それは間違いなくヴィランのことだろう。
早くも舞い込んできた情報に、思わず軽く身を乗り出してしまったのを押し留めて、手元に出来上がったすさまじく甘いミルクティーを口に運ぶ。砂糖の甘さが長く尾を引く。
「どうにか怪物自体は退治出来たのだけれど……フック船長やロストボーイズの何人かは怪我をして、ティンカーベルも力の使い過ぎてまだ寝ているくらいなの」
(そうか、この世界には人魚姫の二人は居ないから――)
ウェンディの言葉を聞きながら、ハンスは一人思考を巡らせる。
そう、今回ハンスが訪れているのは『ピーター・パンの物語世界』だった。本来、『ピーター・パンの物語世界』は『人魚姫の物語世界』と重なって存在しているのがメインの解釈――基本的な成り立ちなのだが。
(偶にこういう、イレギュラーな世界も存在しちゃうんだよね。だからこそ、ボクたちにこういう仕事が回ってくるんだけど)
「随分な大事件だったんだね?」なんて返しながら、「それじゃあ、あそこで寝ているのは」と再び視線を部屋の隅に向けた。彼は考え事をしながらも、子どもが怪我をして寝ているという事実に、どうにも落ち着かない物を感じていたのである。
「あの子は騒ぎに乗じて悪さをしようとした悪党に撃たれてしまったのよ。肩を撃ち抜かれただけだから、命に別状はないのだけれど。ほら、ピーターって、あれで結構責任感が強いから」
「帰ってこないのはその所為じゃないか、って?」
辛勝を割り切ることは、なかなか大人びた行為だ。身近な人間に被害が及んでいるともなれば尚更。
ウェンディが頷く姿に、ハンスは納得しながら紅茶を一口。甘い上澄みを吸った後の紅茶は、もはや砂糖味の紅茶と表現すべき代物だった。
強く視線。ハンスが顔を上げると、ウェンディの緑の瞳と見事にかち合った。
「あなたはピーターと事件を追っているのよね? それなら、ピーターが無茶をしないように見張っておいてくれないかしら」
「伝えてくれ、じゃない辺り、キミはピーターの扱いに慣れているようだね?」
「ピーターだけじゃなくって、この孤児院の子どもたちなら一通りね」
ソーサーにカップが置かれる、カチャリという音。桃色をした睫毛が、にっこりと笑みを描いた。
「そういうことなら任せてよ! ボクも子どもは大好きだからね、きっと力になれると思うんだ」
軽く胸を張って、得意げなハンスにウェンディは一言。
「……逆に心配になってきたわ」
「どうしてだい!?」
ハンスを見るウェンディの瞳は、どう見繕っても『手のかかる子ども』を見る時のそれだったのだった。
*
「『癒しのメロディをどうぞ♪』」
呪文の詠唱と共に、太腿に空いた風穴が塞がっていく。穴に魔力が満ち満ちて、ページがそこを覆って、最後には傷があった痕跡は衣装についた青いインクだけになった。マグスは足をふりふりとして動作を確認すると、「感謝するよ」と指先までピンっと空に伸ばす礼をした。
今、マグスの目の前には空中をふよふよとしている人魚が居た。ヒレの周りには水飛沫のようなものが見えるが、それを込みでも宙に浮いている。なんとも不思議な光景だが、図書館の中ではまったくの日常だった。
緑の髪をゆらゆら揺らして、シレネッタは人懐っこく笑う。
「気にしないで、怪我した人を癒すのは私の役目だもの! でも……そんな傷、何処で作ってきたの? 修練場なんかで負った傷は、戻ってくれば全部治るはずでしょ?」
「ふふっ、それはナイショにしておこう。だってほら、そっちの方が道化師らしい!」
抑揚高く言い切って、カラカラと馬鹿笑いするマグスに、シレネッタは何とも言えない顔をしていた。心配ではあるが、口論をしてまで聞き出したい訳でもない。
このマグス・クラウンという人のことを、シレネッタはよく知らないでいた。いや、そもそも知っている人は居るのだろうか。そんな訳で今回の治療も、『顔見知りが困っていたから助けた』くらいの物だったのであった。
これを機に、少しだけこの人に近付いてみようか。この時シレネッタの心にもたげたのは、そんな好奇心だった。
「ねぇ、マグスさん。あなたって、音楽を作ったりはする?」
「……ああ、作曲ならよくやるよ。趣味と言っても過言じゃあない」
返答に、一拍間があった。
シレネッタの好奇心は、生憎とマグスにとっては迷惑もいいところだった。今回の事件を追う限り、ナイトメアとの再戦は必ず起こり得る。それに対する対抗策を見つけないことには、うかうかハンスを調査に出せない。一人笛を吹きながら、あれこれ策を巡らせたいところだったのだ。
そんな事など微塵も知らないシレネッタは、「やっぱり? 私も曲を作るの好きなんだ!」とパァと顔を輝かせる。
「元々ある曲を歌うのもいいけれど、自分で新しく作るのは、まったく違う楽しさがあるんだよね。マグスさんは、最近どんな曲を作ったの? 私、聴いてみたいな!」
マグスは少し悩んで、ここは一つ強硬手段に出ることにした。
「おやおや良いのかい、人魚姫のシレネッタ? ボクの音を聞きたいなんて言っちゃって」
口角を吊り上げて、目元を妖しく笑わせる。ピエロの表情、誰かを嘲る時に張り付ける仮面。
そのまま前屈気味に、陰った顔を下から覗かせるようにすれば、あっという間に不審人物の出来上がりだ。
「ボクの物語は『ハーメルンの笛吹き男』――聞いてしまったら最後、好き勝手に操られてしまうかもしれないよ?」
あまり図書館で騒ぎを起こしたくないが、何、演技だったといえば大体のことはどうにかなる。彼には仲の良いキャストという者が居なかったが、だからこそ気楽だった。誰も彼もが『隣人』だからこそ全てを、『嗚呼、あの人はよく分からないから、そういうことをすることもあるさ』で済ませてもらえる自信があったのだ。
シレネッタは目をパチクリとさせた後、ぽんっと手を叩いた。
「『フォーミィチアソング』のコアの近くで聴けば、多分大丈夫!」
「……いやいや、そういう問題じゃあないだろう? そこは」
これはダメなタイプの相手だ、演技が良くも悪くも通じないタイプだ、と。諦め半分にため息を吐いた、その時。
マグスの脳裏に、音が弾けるような感覚があった。一般的に言えば、
「そうか! 閃いたぞ!」
「? 新しい曲でも出来たの?」
「これはまた違う閃きさ。シレネッタ、キミの『フォーミィチアソング』のコアだけれど――」
*
船から降りたハンスは、日傘と共に道を行く。視線除けの日傘のお陰か――気休め程度に他人からの注目を反らす魔法が掛けられている――あれ以来、どうにかナイトメア・キッドには遭遇しないで済んでいる。港の照りつく陽射しも遮ることが出来て一石二鳥だったが、黒いスーツが黒い傘をさしている姿は、パッと見酷く怪しげだ。
それが今、突然「やぁ、
「その様子だと、治療はもう済んだのかな」
遠くから聞こえてきた声に、ハンスは穏やかに微笑み頷いた。
「こっちも大丈夫だよ、うん。アイアン・フックとは会えなかったが、代わりにスミーに話をつけてきた。いやぁ、ウェンディの方から回って正解だったよ。彼女が一筆、紹介状を書いてくれたんだ」
革靴の底が地面を叩く。足音を隠さず、歩みは迷わず、目的地へと一直線へ向かっていく。
「ああ、これで準備は万端だ。それじゃあ、行こう」
日傘をぽいっと宙に投げた。一転二転、くるくると回る内に傘の輪郭は溶けて、最後にはトランクにすり替わった。宙を浮くそれに、ステップを踏んで飛び乗る。翔けさせる。海風に吹き上げられそうになるシルクハットを、慌てて抑えた。
「ナイトメアの思惑も、ゴロツキたちの思惑も、ここで一旦引っ掻き回して、こっちのペースに乗ってもらうとしよう。ボクたちは『そういうの』得意だからね!」
悪戯っぽく笑う声が、ウミネコの鳴き声に紛れていく。