勇気、波紋。頭に浮かんでくるそんな言葉達に、首を傾げても関連性は浮かんでこない。
フランドールの脳内に巣食う、誰のかも分からない記憶の断片。燃え盛る炎、向かい合う男、全て彼女のものではない。彼女は、何も知らない。
思い出す度に、頭の奥がちりちりと痛む。復元を待つ再誕の卵は、未だ孵化を見ない。
全て思い出せたら、この混沌めいた不快感を散らせそうな気がして。蓋しそれは先のことで。
奇妙な冒険は、まだ続く。
*
《おおおおおおおおおおぉぉぉぉぉッ!?》
風を切り裂き飛翔する、犬。まるで獲物を見つけて加速する鷹のように、一直線に翔ぶ、犬。どうも信じ難い光景だ、世の中に犬種の多しと雖も、未だかつて犬が生身で空を飛んだことはない。
《今おれ、流れ星みてーになってんのかな……》
スタープラチナによる投擲が、イギーにひとときの高速飛翔を体験させる。風を受けて漂うのとは比較にもならない、頬がぺったりと潰される感覚に湧き上がるのは怒りか嘔吐きか。人間だろうが犬だろうが、許容限界を置き去りにする速度を生身で受ければ気は遠くなるし吐き気も催す。生物としての常識に苦しめられながら、彼の脳裏にぼんやりと走馬灯が浮かぶ。
あぁ、向こうに残してきた仲間達は元気にしているだろうか。かつてイギーが君臨していた野良犬グループの幹部勢は、彼にとって特に思い入れの深い面々だ。対外的にも、そして味方にも冷酷な面ばかり見せてきたけれど、それでも仲間を思いやる気持ちまで捨て去ってはいなかったと自負している。
何と言うか、彼らといるとボスとしての重圧が和らぐようだった。右腕としていつも助けてくれたヨハン、狂気撒血の斬り込み隊長ジョニー、お調子者だが仲間思いの熱血漢クレイ、そして唯一惚れた腫れたを意識させられたシモナ。皆本当に良い仲間だった。
《……ん?》
──拝啓、かつての仲間達へ。ボスは今、日本とかいう東洋の
《あッ……ぶねぇーな!?》
通じるはずのない願いに縋りながらも、やはりイギーは何処か現実的であった。自らもザ・フールを出して防御の姿勢を取り、衝突ダメージを最小限に抑える構えだ。敵も戯けではなく、水を周囲に展開して同じく防御態勢を固めている。両者ともに堅実な選択肢を取った時点で、進展が至って簡潔なものとなるのは必定であった。
《こいつがさっきから襲ってくる奴か。あのクソ東洋人諸共髪を毟ってやりてーぜ》
イギーも襲撃者も、ほぼ痛み無し分けで次の展開へと進む。接敵した以上、互いに無視するわけにはいかず、自ずと次なる一手を打つ。
「さっきので承太郎を見失ったか……ならば犬から仕留めるのみ!」
《来やがるなッ!》
迷いの無い、機敏な判断だ。経験上肌で分かる、この男は慣れている。多人数を相手にする殺し合いに、そして殺しそのものに。単純に能力の秀でた輩よりも、自らに迷わないという要素は厄介極まりないのだ。
《確かに速い、しかもスタンドが水と砂だ。相性ははっきり言って最悪だろーよ》
こうした相手を制する手段はたった1つ。即ち、より早く迷いなき判断を下すしかない。ほんの須臾の逡巡が隙を生み、それはすぐさま致命的なバッド・フィードバックとして津波の如く襲い来る。血と肉脂で体を洗う世界に身を置いていれば、誰に習うでもなく知る一種の真理だ。
《だが甘めェー! おまえそんだけ耳が良いんならよ》
スタンドに追われる少女を助けるため、咄嗟に吠えた。その後で深く深く後悔したのは事実だ。しかし、冷静さと機転を失ってはいなかった。一気に不利になった状況を覆す策を、イギーは忘れていかなかった。
ぱぁん。乾いた破裂音が莫大なる砂の海を揺らす。リード・バレットは瞬きするより早く虚空に消えていき、音だけが鼓膜を縦横無尽に駆け巡り波紋を創る。
「なッ、なにィーッ!」
《この距離で爆音聞いたら、シャレになんねーよなァ!》
イギーの効き
長所も過ぎれば弱点となる。こんな当たり前のことを、言われなければ気がつけない者の何と多いことか。イギー自身、その身に刻まれた苦々しい記憶が荒っぽく教えてくれた立場にいる。
《ちくしょう、思ってた以上に足が痛むな。やっぱり犬が銃なんて撃つもんじゃねーぜ。だが》
「く、くそッ! 何も聞こえんだとッ!?」
《ビンゴォ! えげつねー聴力が仇になったな地獄耳野郎ッ》
至近距離での、
ここまで聴覚に頼るということは、目が不自由な可能性がある。もしこの予想が当たっているなら、耳さえ潰してしまえば戦況はあっという間にこちらのものだ。懸念事項は拳銃の音で本当に耳の機能を妨げられるのか、そして敵の目が如何程に不自由であるかの2点に絞られていた。
結果として、発砲音は敵の刀を折るに充分であったし、鉄さえ斬る刀の代償は相応に払っていた。完全に賭けだった、歯車が1つ狂えばイギーは砂上の熱く冷たい骸として転がっていたかも知れないのだ。自身の歯車調節技術を、今だけは手放しに褒めてやりたい気分だった。
《さーて、奴がまたスタンドで周囲をカバーし出す前に仕留めっか》
「──オラァッ!」
「ゲフッ……!」
《ハァ────────ッ!?》
ザ・フールは高い変幻自在性と引き換えにするように、攻撃力を大幅に諦めたスタンドだ。多分、人間が本気で拳を振るった方がまだしもダメージは与えられるだろう。だから決定打を食らわせる時、彼は自らの体を相手に踊らせてきた。翻弄し疲弊させるスタンドと攻め込む本体、分業が肝要であると痛い程に学んできた。
だが、承太郎が学びの成果を発揮する晴れ舞台を粉々に破壊してしまった。例えるなら、そうだ、海で苦労して鮪を釣り、さぁ捌いて食べようと思ったら寿司がデリバリーされてきたようなものだ。絶対に許せない、マハトマ・ガンジーでも憎しみの鉄拳で顔面を陥没させること請け合いである。
《おいクソデカブツ!! おまえ、おまえ何してッ》
「イギーを投げる、ってのは我ながら良案だったぜ。お陰で隙を作れた」
《喉元噛みちぎってやろーかてめーッ!》
図らずも漁夫の利を取られた形となった。到底許せる行為ではなく、睨みも露わに刺々しい視線を承太郎にぶつける。遠慮も何も無い裂帛の視線に、だが勇気の血統を継ぐ男は怯みもしない。
「あん? イギーてめぇ、何睨んでやがる」
《誰でも睨むわド阿呆が! おれの手柄返せや極小ヘニャチン野郎!》
「怒ってるってことか。悪かった、いきなり投げたのは謝るぜ。とは言っても、人間の言葉なんて分かんねーか」
それもサボテンで頭を打って死んでほしいレベルの案件だが、だがもっと、更に重要なことがある。そこだけでも回避できていたら、彼がここまで烈火の如く怒りをばら撒くことはなかっただろうに、承太郎は半分以上見えていた地雷を勢い良く踏み抜いてしまったのだ。
殴り飛ばされた男は、口から血が流れ出ている。あの一撃で内臓が激しく損傷したらしい。小刻みに震え、意識があるかも怪しい状態だ。
決着をつけたのがイギーか承太郎か、終盤だけを目撃した第三者がジャッジするなら、前者の手が上がる可能性は低い。さんざ場を引っ掻き回しておいてそれは無いだろう。許される限り理不尽を嘆き続けたかった。
視界の端で、微かに動くものがあった。怒りは万丈でも注意力は散漫になっていない、すぐさま倒れ伏す男に向き直る。咳き込み血を吐き出しながら、しかし未だ正確に操られる液体の矛先は、彼を追い詰める1人と1匹のいずれでもない。
男の操作に躊躇いは感じない。まるでそれが元より用意されていた最後の手段であるかの如く、濁った液体は惑いなく
《ちょ……ちょ、待て待て!》
もう使わないで良いと思っていたザ・フールを、急遽再招集する。まともに受け止めればイギーの方がやられかねないので、水の側面を足で蹴って軌道を男から逸らす。砂を穿ち消えたスタンドは、数秒経っても現れなかった。
「な、何故止める……犬」
《いきなり目の前の奴が自殺始めたらそりゃ止めるだろーが! ここにはノータリンのパッパラパーしかいないのかよ!?》
別に聖人でなくたって、余計な血が撒き散らされるのは気が滅入る。それが例え襲ってきた刺客のものでも、見ないで済むなら見ないでいたい。食卓が血塗れで食欲の湧く人間はほぼいないはずだが、全く同じことである。
「ジョセフは……おれの考えまで読み取るかも知れん……このンドゥール、DIO様に不利になることを、話すわけには」
《んなもんキョーミねーんだわおれッ! 死ぬなら俺の見てねーとこで死んでくれや、寝覚め悪いどころじゃなくなるぜ》
イギーの教義からして、目の前で生き物に死なれるのは到底許容し難い。だって、まさに死ぬ瞬間を目の当たりにすれば、暫くは脳裏にこびりついて忘れられなくなってしまう。ふとした時に思い出すのは、シモナの綺麗な笑顔だけで充分だ。
だから自殺を止めた。助けたつもりは無い。照れ隠しでも謙虚さの発揮でもなく、彼は装飾できない程に利己を重視してンドゥールが自ら命を絶つのを妨げた。
「イギー……おまえ」
《何だよ、何か文句あっか。おれにはおれのやり方ってもんがある、ケチつけるんならタマ噛み切るぜ!》
「意外だぜ、骨のある野郎だったとはな」
《……んん?》
何もしなければ、敵は勝手に自滅していた。意外な形とはいえ、難敵を危険無く葬ることができる千載一遇の大チャンスを、言ってみればイギーはふいにした。承太郎は詰ってくるかも知れない、分かってはいたがそんなものは己の精神の前に無力。彼は自身の気が向くままに行動し、何者にも縛られず生きていくだけだ。ちっぽけな国の少年が怒りを顕わにしたところで、だから何だと言うのか。
さぁ怒ってこい、おれの怒りはそんなものじゃあない程に積もり積もっているぞ。準備を万端に整えて迎えた言葉は、想定していたいずれの罵倒も含んでいなかった。『バカ』『阿呆』『クソ犬』は確実に入ってくると読んでいたのだが、当てが外れた。
「おい。てめーをあと2、3発殴ってでも仲間のことを吐かせようと思ってたが、気が変わった。てめーのスタンドについてだけ教えな、それで勘弁してやるぜ」
「なに、を」
「てめーからは読み取らん。じじいにはおれから言っといてやる……」
「おれを、生かす気か。正気を失いでもしたか、承太郎!」
「おれはまともなつもりだ。……なに、おめーの見上げた愚直さと、イギーの意外な男気に免じるってやつだぜ」
何言ってるんだこいつ。足で体を掻きながら、退屈そうに2人を眺める。何を言い出すかと思えば、所謂センチメンタルというやつだ。人間はやれ心を動かされたと言って敵に情けをかける。イギーからすればちゃんちゃら可笑しくて仕方がない、敵に情けをかける馬鹿があるか。彼も相対した同種を見逃したことはあるが、それは向かい合ったのが敵ではないからだ。
1度敵と見定めた相手を、人間はどうして情に絆されて甘く扱うのか。文化、人情なんて言葉で誤魔化したって丸分かりだ、人間は甘っちょろくない。甘っちょろく
「変わった男だ」
「言われたかねーな」
「……承太郎。おまえはDIO様の敵、つまりおれの敵だ。それは何処まで行っても同じよ」
冷めた様子のイギーを他所に、承太郎とンドゥールの視線がぶつかる。火花を散らすような熱さは無く、しかし体を滾らせる不思議な熱を帯びた視線が、2人の男を突き動かす。
「だが、あくまで個人としておまえを評するならば、低いものではそぐわない」
「……」
「『ゲブ神』。おれのスタンドの名だ。タロットに詳しいやつ……アウドゥル辺りか、聞いてみれば見えてくるものもあろう」
この瞬間、男達は互いを認め合った。敗者は勝者に報酬を与え、勝者はそれを謹んで受け取った。どちらかにならなければ決して理解できない、言語と非言語による賞賛の交換。『人間性』に惚れ合ってこそ成立する特異なコミュニケーションは、だからこそ彼らにのみ許された特権のようなものなのだろう。
「これは敬意だ。空条 承太郎という人間への、おれが向けられる最大限の敬意だ」
「そうかい」
もしンドゥールがDIOより早くジョースターの一行と出会っていたら、もしかすれば仲間に加わっていたかも知れない。奇妙なシンパシーを感じずにはいられない。あまりに愚直で、一本柱の通った男であった。
地に伏すンドゥールに背を向けて歩き出す。向こうからジョセフ達が駆け寄ってきている。話を通すのは骨が折れようが、男の約束は反故にできない。帽子を深く被り直して、6人の到着を待った。