「おいアヴドゥル、声を荒らげてどうした。きみらしくも……ッ!?」
モハメド・アヴドゥルは、そのスタンドに似合わず冷静沈着な男である。滅多なことでは声を荒らげもしないし、冷や汗をかくこともない。
そんな彼が、あれ程までに切迫感に溢れた叫びをあげた。只事ではない何かが、台所で起こっているのではないか。彼と付き合いの長いジョセフは、承太郎と花京院に少し歩を早めるように促した。
やや急ぎ足で台所まで赴き、アヴドゥルの声がする方へと行く。そこで彼らが目にしたのは、荒く浅い呼吸を繰り返しながら床に倒れ伏すホリィと、彼女に必死に呼びかけるアヴドゥルの姿であった。
「ホリィ!ホリィッ!?」
「凄い熱です!何らかの病気でしょうか?」
「まさか!ほんの数分前にわしが人数分の茶と菓子を持ってくるよう頼んだ時には、ホリィは元気なわしの娘だった!」
自らも駆け寄り、娘に殆ど叫ぶように声をかける。花京院の言う通り、ホリィの体温は明らかに異常だとすぐに理解できるものであった。
間欠泉のように汗が体中から噴出し、あれよという間に彼女の肌の上で蒸発していく。肌に付着した白い結晶は、ジョセフが体を揺らすのに合わせてぽろぽろと剥がれ落ちる。
尋常でない体温は、ホリィの生気を燃料にして維持されているようであった。事情は何も分からないが、とにかく体を冷やさなければいけない。ジョセフは急ぎ冷凍庫から余っていた保冷剤を掴めるだけ掴み取り、彼女の額や首筋に押し当てていった。
フランドールと咲夜が熱に魘されるホリィを目撃するに至ったのは、ジョセフが冷凍庫を開けた丁度その瞬間であった。何事かと駆け寄って事態を観察する中で、咲夜はすぐにホリィの身の異常事態を視認した。
「ジョセフ・ジョースター。そちらの女性、首元に植物と思われるものが見えるわ」
「なにぃ!……これは、まさかっ!!」
済まんホリィ!一言断ってから、汗で重くなった上半身の服を取り払う。ぐっしょりと汗をかいたホリィの背中から広がっていたものは、一同から言葉を残らず奪い去った。
時が凍ったかのように、誰も小さな挙動一つ取ることができなかった。しかし、開けっ放しにされていた冷凍庫から鳴らされた二度の警告音が数秒の沈黙を打ち破り、漸く幾人かは口を動かすことができるようになった。
「す……スタンドッ!」
「ホリィさんにもスタンドが発現しているっ!」
ホリィの背中を覆い尽くしていたのは、いっそ引きちぎってしまいたいくらいに青々とした植物であった。手を伸ばせば、しかしその手は虚しく植物の茎をすり抜けるのみ。
例えばジョセフのハーミットパープルのように。例えば花京院のハイエロファントグリーンのように。空条 ホリィはスタンド能力を発現していた。
「JOJOとジョースターさんにだけDIOの
だが、これは決して喜ばしいことではない。事実、この場にいる誰もが険しい表情でホリィの背中を苗床としているスタンドを睨んでいる。
「違った!ホリィさんにとっては、スタンドは『害』になるだけだ!」
「おい、どういうことだ」
「す……スタンドとは、本来闘争の本能によって動かすもの。強靱な精神力が無ければ、逆にスタンドに飲まれてしまうのだ」
当人の意思に関係なく現れて、気質穏やかな人間であればそれに付け込み害を与える。まさに卑劣な悪霊と同じではないか。
ある日突然現れた超常の力、対抗し己の武器とするには強く勇猛な精神力が要求される。あんまりな話だとフランドールは憤った。何故真っ当に母親としての役目を果たしていた彼女が、苦しみ喘がなければならないのか。
できるなら自分が生まれ持ってきた能力でスタンドの『目』を潰し、ホリィをこの苦しみから救ってやりたい。ただ、そうした場合スタンドの使用者に当たるホリィ諸共爆散させてしまう可能性が極めて高くなってしまう。スタンドとは言わば異能を持つ精神エネルギーの塊としての自分であり、傷つけられれば使役者も同様のダメージを負うからだ。構えて下手な真似はできない。
「抵抗力が」
愛する娘を苛む辛さを少しでも軽減してやりたい、その一心で保冷剤を当て続けていたジョセフが、ぽつりと呟く。ぽたり、ぽたりと水滴がホリィの腕に落ちていき、それさえも乾き微かな痕跡を残すのみとなる。
「抵抗力が、ないんじゃあないかと思っておった。DIOの魂からの呪縛にさからえる力が、ないんじゃあないかと思っておった……」
DIOが復活した影響で、ジョースターの一族が次々にスタンドを発現していく。この事実に気がついた時点で、ジョセフはホリィもまたこの流れには逆らえないだろうということに思い至っていた。心優しい彼女ではスタンドを使いこなすのは至難の業だろうから、スタンドが芽吹く前に何としてでもDIOを倒す必要があると分かっていたし、もし万一間に合わなかったとしても数十日の時間的な猶予はある。自分のなすべきことは、事態がどう変容していこうともDIOの無力化である。心にそう決めて、これまでずっとジョセフは世界を舞台として行動してきた。
だが、いざ娘にDIOの呪いが忍び寄ってくると、ジョセフはとても冷静さなんて保ってはいられなかった。片手で額を冷やしながら、もう感覚を脳に伝えることもない義手でホリィの熱い手を握る彼に、在りし日の勇敢なる面影など何処にも見えなかった。そこにいたのは不動産王でも剽軽な老人でもなく、ただ只管に可愛い娘の快復を祈ることしかできない無力な父親であった。
如何にスタンドがあろうとも。如何に人より数段喧嘩慣れしていようとも。……如何に波紋という技術を会得していても、彼とて結局は人の子なのだ。そして同時に、人の親でもある。我が子が目の前で高熱に苦しむのを見て、まだなお感情を内側に隠していられる程強固な神経を持ってはいなかった。
「言え」
嗚呼、何と気丈なことか。肉親の悲劇を目の当たりにしても、承太郎は涙の一筋も流すことがない。そればかりか、この閉塞感に満ちた状況を打開しようと行動を起こしたではないか。
無情なのではない。勿論承太郎とて血の通った一人の人間だ。母親の弱り果てた姿を見て、何も思わないはずがない。
だが、彼は理解している。声の限りを尽くして嘆き悲しもうとも、誰も助けてはくれないということを。そして、それが故に彼は俯かない。まるで立ち止まっている時間が勿体ないとでも言うかのように。
「『対策』を!」
承太郎の熱意が、ジョセフに立ち直る力を与えた。涙を乱雑に拭い、ホリィの容態を平時のものに戻す唯一の方法を口にした。
「……ひとつ。DIOを見つけ出すことだ!DIOを殺してこの呪縛を解くのだ!それしかない!!」
やはりか。ジョースターの一族がスタンド能力に目覚めたのをDIOの影響とするなら、すべきことは影響源を叩く以外にあるまい。承太郎は驚くこともなく、そうする必要があると心に留めた。
「じじい、念写で居場所を探れ」
「わしの念写では、居所までは分からん。やつはいつも闇に潜んでいる。アヴドゥルと共に様々な方法を試したが、どれも失敗に終わっているのだ」
「成程な」
DIOは、随分と深い闇の中に身を隠しているらしい。この祖父が色々やったと言うのだから、それこそ最新鋭の解析技術を試しもしたのだろう。それでも所在を明かさないとは、大したものだ。
「ならおれが、新たな方法を提示してやるッ!」
だが、例え科学技術が見逃しても承太郎は見逃さない。スタンドを繰り出し、DIOの写る写真を丹念に見せる。やがて写真のある一箇所に、スタンドの目が留まった。何かを見つけたような反応を受けて、承太郎は己のスタンドに紙とペンを渡した。
「スケッチさせてみよう。おれのスタンドは、脳の針を正確に抜き弾丸を掴むほど精密な動きと分析をする」
スタンドは果たして、見たものを正確にスケッチしていく。人の何倍ものスピードで、人の何倍も精密にペンを走らせるその姿は、あたかも早送りの映像を見ているかのようであった。
数分で、スケッチは終了した。完成した絵を見たアヴドゥルは、あっ、と驚いた。そこには、自分が良く知っているあの生き物が描かれていたのだ。
「ハエか!」
「それもツェツェバエね。ナイル川流域に生息する、吸血性の蝿よ。更に付け足すなら、脚に縞模様があることからアスワンツェツェバエの可能性が高いってところかしら」
「その通り!これでDIOの居場所は大きく絞れたぞ。エジプト、それもアスワン付近だ!」
何故潜伏地にエジプトを選んでいるのか、そこまではまだ誰も分からないだろう。たまたま行き着いたのか、それとも確たる理由を持って赴いたのか。
だが、今はそんな瑣末事について考える必要のある時ではない。どのような目的を掲げて行動していようとも、DIOを倒しさえすれば万事が解決する。悪しき野望は未然に阻止することができるし、ホリィの命だって助けられる。
「じじい、目的地は絞れたぜ。それで、いつ出発するんだ」
「勿論、すぐにだ」
ジョセフの顔には、今や活力が戻りつつあった。娘の体を冷やしながら、強い口調で即時の出発を宣言する。
「花京院、そしてフランドールちゃん。突然こんなことになって済まない。わしと承太郎、そしてアヴドゥルは速やかにエジプトへと向かう」
タクシーを手配するから、悪いがそれで帰ってくれんか。アヴドゥルにタクシー会社と連絡を取るよう伝え、自身はホリィを抱き上げて寝室へ運ぶ。皆がその後に続く中で、彼の提案に否と声を上げる者がいた。
「いえ。ジョースターさん、私も同行しましょう」
花京院は、いると分かっている悪の前を素通りできない質だ。彼自身がDIOに恨みを抱いているわけではないが、怒りなら体が打ち震える程に煮え滾っている。何の罪もない女性に無理矢理スタンドを押し付け苦しめる男には、必ずや何らかの制裁を加えてやらねばなるまい。
自分のスタンドは、随所で役に立てるはずだ。承太郎のよりは非力であるが、一方で射程範囲や頭脳戦においては一日の長がある。チームに不足している要素を補うことがメンバーの勤めであるとすれば、自分こそチームの一角を成すに相応しいと自信を持って言える。
「咲夜」
「妹様の意のままに」
「流石、貴女は話が分かるわ」
そして、彼女もまた強き意志を備えた戦士であった。敷かれた布団に横たえられたホリィに響かないよう抑えた声で、しかしはっきりとフランドールはジョセフに己の意思を伝えた。
「ジョースター、私も行くわ!」
「なっ……いや、それは」
「何よ。私と咲夜じゃ力不足だとでも?」
「いや、そんなことはない。しかしだな、花京院はともかくとして、きみはまだ年端もいかない女の子じゃあないか。幾ら強力なスタンドを持っているとはいえ、とても危険な旅路に連れていくわけには」
「私、貴方より年上よ」
「……なに?」
赤いスカートに可愛らしく彩られる、十になるかどうかという外見に騙されるべからず。この少女が経てきた年月は、十年や二十年という
力とは腕力のみに非ず、知った魔法や練り上げた技術などの全てを引っ括めた『総合力』である。フランドールは、自身の保有する力に大きな信頼を寄せていた。それこそ、度々登場するDIOという名前に一切怖じない程に。
一方、フランドールの後ろに控える咲夜は心中やや穏やかでなかった。元々花京院の蛮行を止めるために来日したのであって、長旅をする予定など組んでいなかった。無論主君の妹君が望むならば最大限にその願いを叶える所存ではあるが、それにしたって可能な限りフランドールに関する情報は秘匿しておきたい。
旅の中で彼女の特異性が幾つか露見してしまうことについては、咲夜も仕方ないことだと妥協できる。例えば生身で空を飛んだり、突進してくる車を真正面から蹴り返したりしたとしても、それはもう妹様は特殊な人間なのですと押し切るつもりでいた。納得しない者がいれば、納得させれば良いだけの話である。
だが、フランドールが吸血鬼であるという最後の一点だけは彼女自身よろしく白日の元に晒すわけにはいかない。遠い昔の御伽噺に出てくる存在だと思われている吸血鬼が、まさか実在して元気に人間と旅をしていたなんて知られたら、
基本的に、向こうではこちらの世界の住人の大半が人外について存在を否定しているというのを前提条件にしている。この前提を崩せば、下手をすれば厳しいお叱りが飛ばされかねない。その時に矢面に立たされることになるのは、立場上我らが主を置いて他にはいない。
「信じるかどうかはこの際貴方に任せるわ。でも、このフランドール・スカーレットの名に誓って言いましょう。
── 私は、そして咲夜は相っ当に強いわよ?」
妹様、咲夜はそれだけは何に代えても防ぐつもりです。故にどうか、御自身が人外の存在であると露呈してしまう発言は御自重下さいませ。それと、ここではどうかザ・ワールドと。そんな咲夜の願いは、諸共星に届く前に爆散して大気圏の塵と化した。