side--相澤消太--
学校生活二日目を締めくくるホームルームが終わる。その人数は今朝より一人少ない二十人になっていた。
空席の青山の席を見る。彼は運も無かったのだろう。このことに絶望して
クラスの雰囲気はどんよりしていた。爆豪は結局雄英に残ることが出来た。除籍を逃れる事が出来たのだ。特に罰則などの処分も無かった。このあたりの基準は、法月にしか分からない。
「じゃあ、お前ら気を付けて帰れよ」
相澤が最後の一言を言って教室から去ろうとしたとき
「待ってください!」
呼び止められた。相澤を呼んだのは八百万だった。
「相澤先生には、説明する義務があると思いますわ。
あの法月将臣という男に関して。いったい彼は何者ですの?」
相澤はため息をついた。正直もっと早く聞かれると思っていた。が、結局聞かれなかったので何も言ってなかった。勝手に調べるだろうと思ってもいたからだ。
確かに彼が、これ以上干渉してこないとは誰にも言えない。法月の危険性は充分に身をもって知っただろうが、彼は説明することに決めた。
相澤は話した。高等尋問官のこと。そのシステムが設立された経緯に、彼の権力。彼に逆らうことは許されない事。
たとえオールマイトだろうと、それは変わらない事。
「でも、あいつは青山を撃ったんすよ……!?」
怒りの声を上げるのは切島鋭児郎。そのコミュニケーション能力は極めて高い。昨日はクラスのテンションを引き上げていた彼も、今は流石に沈んでいる。
明らかな悪行を目にして、それを見逃さなければならない。その現実に1-Aは叩きのめされていた。
「ヒーローになったら、法月とは切っても切れない関係になる。
嫌なら辞めろ。無理に続けろとは俺は言わん」
相澤の言葉に生徒たちは顔を上げる。彼らの顔に出ているのは紛れもない失望。
この世界のどうにも出来ない理不尽に触れて、どう折り合いを付けるのか。それがヒーローになるための前提条件だ。
諦めるのか、受け入れるのか。屈服しつつも別の道を探っていくのか。
……
どうするのか、全ては彼ら次第だ。それを教えることは誰にも出来ない。自分で見つけていくしかないのだから。
相澤はそのまま教室のドアを閉めた。しばらく歩くと後ろから気配が近づいてきて、横に並ぶ。見もせずにそれは「青石ヒカル」だと分かった。
「相澤さん……」
学校内だというのに、腕を絡ませてくっついてくる。何か怖いことが有った時、いつもこうやって相澤に甘えてきてた。顔をぐりぐりと擦り付けてくる。彼女の目尻にうっすらと涙の跡が見えた。
彼女が普段いる雄英高校の地下施設。どれほどの規模かも分からない巨大な建造物だ。
下手すると街一つ分の大きさすらあるのではないかと、相澤は考えている。
その地下施設の正式名称は「アーコロジー・システム」。そこで様々な訓練を彼女は受けた。中には少女の能力に物を言わせた残酷な訓練もあった。
そんな時彼女はいつも、訓練が終わった後に相澤に甘えてきてた。
悪く言えば依存していると言える。
”抹消”という少女を抑え込める個性の持ち主である以上、法月は相澤をうかつに処分できない。相澤が少女を痛めつけないように、法月に反抗できるのも個性のおかげである。
数少ない自分に優しくしてくれる人に、彼女がべったりになるのは必然でもあった。
「凄く……凄く怖かったんだ……。誰かが傷つくのは……怖いよ」
彼女は身に宿す力に反して、あまりにも優しすぎる。他人が傷つくぐらいなら、自分が傷つく事を迷いなく選ぶ。
例外は二人ほどいるが、誰であろうと分り合いたいと、本気で願っている。それが例え
彼女の思いは相澤が出会った時から全く変わっていない。彼女から何回も聞かされた夢。
何処にでも行きたい、何処までも行きたい。
人の為に、誰かの為に。
世界の何処にでも、行きたい。
どんな人とでも、居られるように。
人が広く、生きて行く為に。
もう耳にタコが出来るほど聞いてきた。お調子者で気まぐれな彼女ではあるが、それは気丈に振舞っているに過ぎない。彼女がそうありたいと半ば作り出した仮面だ。
相澤は頭をポンポンと優しく叩いて、腕をほどいた。
一瞬不満げな顔をする彼女だが、すぐに笑顔に戻る。
「今日は相澤さんが当番なんだよね?」
「ああ」
当番というのは、一緒に寝食を共にする少女のお目付けの事だ。彼女の精神状態を安定させるには、一人ぼっちにさせない方がいいらしい。それは十年前の事故を踏まえた上での再発防止策らしい。始まったのはここ最近の話だが。
「昨日はシアンさんだったんだよ」
シアンとは法月の側近の女性だ。あの法月のと言っては失礼かもしれないが、非常に優しい人物である。
青石ヒカルは法月を嫌っていても、シアンには懐いていた。ただしどちらにより懐いているかなど、言うまでもない事だった。
相澤は少なくとも普通程度の察する力はあるので、少女の相澤に対する気持ちには気づいている。だがそれに応えることが相澤には出来ない。
「えへへー相澤さんとお泊りー」
顔をにやにやさせる彼女の顔は、いつもより三割増しほどだらしない。だがいつもより更に作っているような、その表情に相澤は不安を感じた。
彼女がそんな態度をとる時は決まって、大事な話を切り出す時だと決まっている。
相澤は少女を連れて地下への入口へと歩みを進める。暗く日が届かない、地下三千メートルのその場所へ。
少女が口を開く。地下へ地下へと向かうエレベーターのその中で。
「相澤さん、なんでボクが生まれてきたのか……知りたい?」
相澤は少女の顔を覗き込む。少女の瞳が不安で揺れていた。
「相澤さん。ボクが知っている真実を話すね。
もう、時間も無いと思うから……」
少女が相澤の服の裾をギュッと握りしめる。震えと戦いながら少女は言葉を絞り出していく。
「ボクは――」
だが言い出した言葉を少女は飲み込んだ。
「……やっぱり、何でもないや」
「そうか」
相澤は追及しない。彼女は「ごめんね」と呟いたまま黙り込む。
彼はそのまま彼女の傍に居た。それが彼女にとって、一番の救いになっていたことを彼はまだ知らなかった。
…………
………
…
side--緑谷出久--
「緑谷少年、付き合ってほしい」
これは告白ではない。昨日の今日でオールマイトがまた、放課後に緑谷を誘ったのだ。
昨日は共同墓地に誘ったオールマイト。
今度は何処に行くんだろうと緑谷は考える。
オールマイトは切り出した。
「昨日私は君に話したよね。貧困が原因の
「え……はい」
――あら、どんな事だったのかしら?……へぇ。なるほど
緑谷の記憶を勝手に覗く彼の”アズライト”。もちろん姿は緑谷にしか見えない。
オールマイトは真剣な顔つきで言う。
「その現実を見てほしい。いや君は知らなければならない。
彼に緑谷は付いていく。
雄英高校の敷地は広い。全てを把握している人はそう居ないだろう。
校舎を出て見慣れない道を通り約十分。林を抜けたその先、小さめの公園ぐらいの駐車場に出た。そこにはバスが一台だけ止めてある。修学旅行などで使いそうな大型バスだ。
緑谷は誰も周りに居ないな、と思ってきょろきょろしていると
「お待ちしておりました。八木様」
「うわあ!?」
いきなり目の前から声がした。何もない空間からすぅーっと姿が濃くなりながら現れる。緑谷は心臓が止まるかと思った。
一人の女性がそこに居た。とても綺麗な人だった。
「そちらの方は……なるほど。八木様の継承者ですね」
身長は緑谷と同じくらいか。年齢は二十代後半ぐらいに見える。薄い紫色の髪の毛を、サイドに大きい三つ編みにしていた。
だがその恰好がなんとメイド服だ。一体全体、今まで何故気付かなかったのか緑谷には分からない。
「私はシアン。シアン・セレスタイトと申します。
以後お見知りおきを」
優雅に彼女は一礼した。緑谷も慌てて頭を下げる。
「ぼ、僕は」
「ええ、存じております。緑谷出久様。
”ワン・フォー・オール”の継承者ですね」
(様って呼ばれちゃった!)
――あ、私という存在が居ながら。浮気者。
ずいっと緑谷の横にいきなり出現する”アズライト”。彼女の頬が膨らんでいた。
「彼女は法月直属の部下さ」
「高等尋問官補佐をさせて頂いております」
「後は……アレを言ってもいいかい?」
オールマイトは恐る恐ると言った感じで彼女に聞く。
「ええ、構いません。緑谷様……私は元
「元
緑谷の声が駐車場に響く。どこかで鳥が鳴く声が聞こえた。
「今日はこの子に見せておきたくてね」
「なるほど……確かに後継者なら、見せなければならないでしょう
マスコミには報道されない真実を」
シアンが運転する大型バスは山道を走っていた。
緑谷達三人は余り整備されていないデコボコのアスファルトにゆらゆらと揺さぶられる。
日は既に落ちかけている。バスは対向車の一つもない寂しい道をひたすら走る。
いったいどこに行こうとしているのか。
いったい何をしに行くというのか。緑谷は考えるが分かるはずも無い。
やがて山を抜けた先には、色あせた街並みが広がっていた。そこは北関東のとある街だ。明かりすらもほとんどない。
死んでいるように見えるその街には、一見すると人が居るようには見えない。
街に入る手前辺りでオールマイトが口を開いた。
「
緑谷は頷いた。
「つまりヒーローは大多数が、都市部に集中することになる。
それを避けようとする
その
そういうせめぎ合いがある」
これもまた常識。要は需要と供給の関係だ。個人の意思がどうであれ、全体のシステムとして機能したらそのような形になるのは必然の事だ。
「でもねヒーローは人気商売だ。
ある程度競争率が高かろうが、都市部の方にヒーローは集中する」
その方がマスコミに注目される。
ヒーロー飽和社会は国庫に深刻な影響を与えた。仕方がないとはいえヒーロー達に与える給料は、やがて国債という形に変換され国には大量の借金が溜まっている。
かと言って、むやみやたらに数は減らせない。治安の悪化という形で帰ってくれば税収は減る。
その結果として当然ヒーロー達の給料は削減された。
そこで生き残りを図るヒーロー達は、マスコミを利用する手段に出た。
分かりやすい見た目、キャラクターを演じ出演料を取る。他にはグッズの販売、講演を開くなどする事で生活の糧を得るのだ。
故に都会にヒーロー達が集中する。田舎の方で活動しても
「その結果ヒーローに忘れ去られた、ホットスポットが出現する。
更には十年前の災厄だ。
多くの場所が復興できないまま放置され、各地にゲットー……貧民街が出来たんだ。
そこには社会の様々な、必要とされないものが捨てられていく。
不法投棄なんて当たり前。
もっと深刻なのは、そこに幼い子供が捨てられていくんだ」
バスはやがて街の入り口付近で止まる。
「緑谷少年。今からの私は「オールマイト」じゃない。
「八木俊典」という一人の人間だ。呼ぶときは八木さんと呼んでくれ」
シアンとオールマイトは先にバスを降りていく。緑谷も後に続いた。
外に出た瞬間「うっ」と口を押えた。余りの異臭に鼻がもげそうになる。
夕食をまだ食べない方がいいと言われていたのが分かった。もしも食べていたら、今頃吐しゃ物が彼の足元に広がっていただろう。
この世の汚物を全て集めたような、それほどの悪臭だった。
「これは……」
「緑谷様、これが現実です。これがこの国で起きている真実です」
ありとあらゆるゴミがうず高く積まれている。家電や家具、用途が良く分からない産業用の何か。中には元々ヒーローのコスチュームと推測できるものもある。
積まれているごみの端に動いている存在を見つけた。人だ。ゴミ山の中から物をあさくり、やがて歓喜の声を男が上げた。
食料を見つけたのだ。賞味期限や保管状況など目もくれずに貪っている。
緑谷達はその男の傍を通り過ぎて、街の中へと歩みを進める。歩き続けたら細い路に三人は出た。
明滅を繰り返す心細い街灯が照らし出す。ぬらりと光る液体は紛れもなく血だった。
汚れ切った壁に背中を預けたその男は、狭い裏路地の中で息絶えている。そしてここにも積みあがったゴミ山。カサコソ動いているのはゴキブリか。足元をネズミが徘徊している。
人が死んでいるというのに誰も来ない。だれも興味を持っていない。
「盗みやがった!」
どこかで怒号が響く。少しずつ何人かの足音が近づいてくる。
やがて逃げる幼い少年と、それを追いかける二人組の男が現れた。
「殺せ!」
一人の男が唾を出しながら喚く。もう一人が手元からナイフを取り出して、少年に切りかかろうとして
「しっ……!」
シアンが動いていた。男の腹に入れた肘がもろに決まっている。
その後首筋に追撃を加えて、意識を素早く刈り取った。
どさりと倒れる男。シアンはちらりと確認して、もう一人の男を見据える。
「な……なんだ!?お前たちは!?」
男は懐から刃物を取り出した。同時シアンは男に肉薄している。
男の腕をひねり上げると男の体が宙に一回転して、地面に叩きつけられた。
ナイフが地面に落ちてキィンと金属音がした。そして止めの拳。男の意識が落ちて、動かなくなる。
彼女はあっという間に大人二人を無力化した。シアンがメイド服の裾をパッと払う。傷一つなかった。
「彼女の個性は”忍者”。忍者っぽい事は大体何でもできる個性さ」
オールマイトの説明を聞きながら、緑谷は大人から逃げていた幼い少年に目を向ける。
少年が持っているのは、僅かばかりの米が入った袋だ。その子は必死に持っているそれを放そうとはしない。見れば見るほどその少年はやせ細っている。
手も足も棒のような有様で、よくあれだけ走れたものだ。それは生きたいという気力の為しえる業か。
「大丈夫ですよ。危害は加えません。
水と食料を上げましょう。あなたの名は?」
シアンが優しく声を掛ける。少年は必死に目を泳がせている。緑谷たちに目をやり、シアンを見つめ。
どのくらいそうしていただろうか。少年はびくつきながらゆっくり答えた
「……レン」
「そう、いい名前ね。付いていらっしゃい。あなたの新しい家が待っているわ」
優しい声色でシアンが喋りかける。わざわざ大型バスで来た意味が、緑谷はようやくわかった。
身よりもなくこんな場所で暮らす子供たちを引き取るためだったのだ。
「待って!おれには……妹がいるんだ」
「じゃあ一緒に行きましょう。案内してくれる?」
緑谷たちと少年は、少年の妹を迎えた後一旦バスまで戻る。
少年たちは橋の下で暮らしていた。そこの川の水を確保していたらしい。水はすっかり濁り切っていて、緑谷にはとても飲めそうになかった。
他にも寄り添い合う子供たちがいた。彼らは生きるために徒党を組んでいたのだ。
シアンとオールマイトは、子供たちを全員説得した後、バスにまで連れ添い案内した。
バスの荷台を開けてそこから水と携帯食料を与える。子供たちは涙を流しながらそれを食べた。
シアンはその様子を見ながら緑谷に話す。
「これは法月様が私に命令した任務でもあります」
「あの法月が!?」
緑谷は驚愕した。あの青山を撃ったりした非道な男が、人助けの命令をするとは信じられなかった。
「法月様は決して慈善事業で、命令されている訳ではありません。
こんな環境で生き延びた子供達は、必ず
社会に、秩序に害をもたらす存在になる。
だから
それが一番効率的で、最善であると判断しているからです」
オールマイトがバスと子供たちの見守りに残った。シアンと緑谷は再び街に繰り出していく。
ここで保護した子供たちは、法月が設立している孤児院で迎えられるという。だが緑谷たち以外に、子供たちを保護しようとする姿は見当たらない。
「私達の活動は、ヒーロー達から煙たがられています」
「なぜ?」
緑谷の言葉に、彼女はふっと悲しげな笑みを浮かべた。
「
「……ヒーロー……ですかっ……!」
「ええ、正解です。彼らは自らご飯の種を潰そうとはしません」
緑谷の心の奥底に、どうしようもない怒りが沸き起こる。
しばらく緑谷はシアンと街を徘徊する。様々な人達がいた。
個性が有る人ない人。男女に大人に子供に老人。
連れていこうと思ったところで、全員を連れていくのは無理な話だった。その度に緑谷は申し訳ない気持ちで一杯になった。
……。
バスと街を何回か往復しているうちに、気付けばバスは満員になっていた。
そこに保護されているのは全員子供たち。大人たちも助けたいが、手が足りないのだ。
救う人は選別せざるを得なかった。
だから、まだ未来がある子供達を保護しているのだ。
「この子達には戸籍がありません。
両親とも恐らく大多数は
私達の行為は厳密には違法です。
法月様の権力の後ろ盾があるからこそ、このような行動を行えるのです」
シアンがバスの扉を閉める。彼女がハンドルを握りエンジン音が微かに聞こえた。
身寄りのない子供で満員となったバスが走り出す。
緑谷が窓から外を見ると、こちらを見つめている姿があった。それは今回、バスに載せきれなかった子供たちだった。
緑谷は何も出来ない無力な自分を恥じる。それは紛れもなく罪悪感だった。
「ヒーローのコスチュームが幾らするか知っていますか?
安くても四、五十万円。高いものとなると数千万円にまでなります。
たった一人のコスチュームで、です。
そのお金で食料を買えれば、どれほどの子供の飢えを満たせるでしょうか」
緑谷の脳裏に浮かぶのは、除籍された青山の姿。
――ヒーローを育てるのにも金が要る。
お前たちが着用しているコスチュームもただでは作れん。
それらは税金から出されているのだ。
お前のおかげで、どこぞの家庭からおかずが一品減ったかもしれんのだ。
無駄な金を使うことは許されん。
あの時の法月の怒りにも似た表情。この現実を踏まえた上で彼の発言を聞けば、印象は変わるかもしれない。
何も現実を知らず、税金から出されたコスチュームで浮かれる。
その陰で、どれほどの子供たちが飢えている事など考えもせず。
きっとその事で青山は、法月の逆鱗に触れたのだ。
「ヒーローは
なぜか?お金にならないからです。
大半のヒーローはギリギリの状態で営業しています。
そこで出費にしかならない慈善行為はしません。
ゲットーで飢えている子供を救っても、彼らには一銭も入らないのです。
あんな環境で育った子供がどんな風になるか分かりますか」
シアンの言葉が胸に痛かった。何も知らずにいた自分が緑谷はただ恥ずかしい。
ヒーローになれば救えるものだと思っていた。悪を倒せるのだとそう信じていた。そんな自分はただ無知なだけなのだと思い知らされたのだ。
「私もあの子たちと同じでした。
気付いたらごみ溜めの中で生きていました。
日の光が差さない路地裏。
野良犬が死体を漁り、ネズミがそこらを跋扈する大都市のスラムです。
そこには人間の悪意が満ちていました。
生きるためには何でもしました。
盗み、奪い、人を殺めた回数は十を超えた頃、数えなくなりました。
そうして気付けば、私は
「どうしてっ!?どうしてこんな事に……」
「仕方がないのです。国にお金が無いのですから。
ヒーローとて同じです。彼らが一番大事なのは金と名声です。
貧困は個人の責任にされます。
生まれた瞬間から、一生遊んで暮らせる程のお金が手に入る人が居れば、
パン一つすら与えられない子供たちが居る。
果たしてそれが平等でしょうか?」
緑谷はバスの外で流れる景色を見る。日はとっくに落ちて夜の九時になっていた。
バスの中の子供たちを見ると、皆疲れ切って寝息を立てていた。その子たちは今日保護されなかったら、どうなっていたのだろうか。
大半は生き残れないだろう。もし生き残ったとして、まともな手段ではない。
彼らには
「ヒーローは
人が
社会は一度
仕事なんて、どこにもありません。
一度
そうして出所した
そうしないと、生きていけなくなってしまうからです」
何のことは無い。そうする事でしか生き残れなかった。
だから彼女は
「なぜ世間は
犯罪者という言葉で事足りるのです。
でも
どうしてでしょうか」
緑谷は考えを巡らすが全然検討も付かなかった。
「分かりません」と言うとシアンは笑みを浮かべた。
その笑みはとても残酷な微笑みで、まるで緑谷を憐れんでいるように見えた。
「差別したいからです」
「さ……べつ」
「人間は見下せる対象が居ると安心する生き物です。
公にどんなに差別的な発言をしても、
実のところ
だからヒーローが
表向きは人道的に捕獲されるように見えます。
ですが違います。現に私は法月様に出会うまで、一度も仕事につけた事も有りません」
シアンはそのまま続けて言う。緑谷は彼女のハンドルを握る手が、震えていることに気付いた。
「人は生きている限り理不尽な目にあい続けます。
それは職場で、学校で、家庭で、友人の間であったりします。
大半の人は理不尽に耐えながらも、犯罪を犯すことはしません。
犯罪を犯す必要性より、裁かれるリスクが大きいからです。
そしてテレビなどで断罪されている
自分はこいつらとは違う、と。
自分たちは善良な市民であると安心し、
そして
同じ人間なのにです。
生まれ持った存在そのものが「悪」と断定されるのです。
だから彼らが上げる悲鳴に耳を傾けるどころか、世間は拍手喝采してヒーローを讃えるのです」
緑谷は今まで信じてきたヒーローの観が、間違っていたと今日初めて思った。
彼が信じていたヒーローの姿は、マスコミによって作り出されたものだったのだ。
「
そうでなければヒーローの前提が崩れ、彼らは食べていけなくなってしまいます。
それ以上に彼らが目をそらし続けているものに、気づいてしまうからです。
心の中の悪を。
誰もが悪を為しうる。誰もが
そんな単純な理屈からも目をそらし、自分たちは悪くない。
悪い奴は、元から悪い奴なんだと思いむのです」
今日見た劣悪な環境で育てば誰だって
選択の自由など与えられないのだから。
「……でも大半の
ただ生きていたいだけなのです。
私は食べるものすら、奪わなければ得られなかった。
――緑谷様。
泥水を啜りながら食べる、盗んだパンの味を知っていますか?
安心して寝られる場所を探し、三日三晩彷徨い続ける恐怖を知っていますか?
気付いたら一人ぼっちで、スラムで生きないといけない寂しさを知っていますか?
私は何も与えられなかった。水も食料も、ほんのわずかな温かみも。
身に宿る個性一つで、私は生きていかなければならなかった。
何も特別なものが欲しかったわけじゃない。
ただ安心して過ごしたい。御飯が食べたい。
普通の生活をしたい。ただそれだけなのに。
私に与えられたのは、ヒーローと名乗る者たちの暴力だけだった」
彼女の声が震えていた。緑谷は一筋の涙が彼女の頬を伝うのが見えた。
シアンが明かした過去に、緑谷には何の言葉も掛けられなかった。
気付いたら緑谷たちは山中を抜けて、とある敷地の前に来ていた。
モルグフ孤児院。法月が権力を行使して建設した日本最大の孤児院だ。
様々な子供たちが拾われここに入れられている。入所している人数はざっと千人を超えていた。
シアンはバスを止めて外に出る。緑谷も後に続いた。オールマイトも降りてくる。
門の前には小柄な黒髪の女性が居た。
「待ってたよ、もう。遅いんじゃないかい?」
「お待たせしました。竜胆様」
髪をツインテールにまとめた彼女の格好はかなり際どい。胸元がばっくりと開いた着物で緑谷は目を慌ててそらした。といっても体形は「青石ヒカル」とどっこいどころか更に幼く見える。
「まぁ良いけどね、準備は出来ているさね。……おやぁ?」
その少女に見える彼女が緑谷を見た。興味深げにその琥珀色の眼で、ジロジロ緑谷を見てくる。
「あんたが緑谷出久かい?」
「は、はい!そうですけど貴方は……」
「あたしは
ふーん……なるほどなるほど。……二つ……いや三つ……。
確かに面白そうな子だね、俊典、あんたが選ぶだけはある」
「私には勿体ないくらい素質がある子です」
「えええ!そんなオー……じゃなかった八木さん大袈裟ですよ」
「いやいや緑谷少年。私は君を高く買っているぞ」
オールマイトの言葉に緑谷は謙遜する。
シアンはバスの中子供達を起こして外に連れ出した。一行は子供たちを施設の敷地内に入れる。子供たちはキョロキョロしながら付いてくる。
やがて学校の校舎くらいの立派な建物の中に入った。
緑谷たちはひとまず待合室で休憩する。竜胆達は子供たちを部屋の方に連れて行った。
それぞれひと部屋に5~6人ほどの大部屋で生活する。ベッドに食事が与えられ、当然教育も受けることが出来る。
今は十時を過ぎた真夜中なので大半の子供が眠っているが……。
「あーシアンおねえちゃんだ!」
「ヤギさんもいるよ!」
どうやら起きてきた子供がいるらしい。待合室にドドドと勢いよく入ってきて、シアンと八木をとり囲む。
ぞろぞろと後から後から後から湧いてくる。緑谷たちはいつの間にかわらわらときた子供たちに囲まていた。
「ねーねーあなただれー?」
「ぼ、僕は緑谷出久……」
「へーいずくさんっていうの」
子供達から色々な言葉をあびる。そこに暗い影はない。明るく笑顔に溢れていた。
この子供たちは、殆どすべて捨てられた子供たちだという。もしこの施設が無かったら今頃どうなっていたのだろうか。
オールマイトが緑谷の傍に来て口を開いた。
「緑谷少年、世界には暴力でしか解決できないことがある。悲しいことにね。
でもね。飢えている子に暴力を振るっても、お腹が満たされることは永遠にない。
世界には、暴力では絶対に解決できないことも有るんだ。
私が
笑顔をいくら浮かべても、その子に降りかかる理不尽が無くなる訳じゃない。
そんな簡単な事にすら、私は気付かなかった。
もっと早く……」
オールマイトの手が優しく子供たちの頭を撫でる。子供の一人が言った。
「お兄ちゃんしってる?ヤギさんはね、すっごいすっごい、誰よりもすごい人なんだよ!
オールマイトなんてめじゃないくらい!わたしを助けてくれたもん!」
そこに居たのは緑谷の知る英雄の姿では無かった。皆から慕われる「八木俊典」という一人の人間。
「わぁーたかーい!」
「ぼ、ぼくも!ヤギさんぼくも!」
「はいはい、順番にね……ほら!」
「たかーい!」
「シアンさんー個性見せてよー」
「いいですよ」
「うわ!きえた!」
「どこどこ?」
「ここです」
「すごーい!」
「忍者ですから」
シアンは生きていくために
そして同様に”平和の象徴”の彼は、青の少女を助けることが出来なかった。彼は権力に屈した。
緑谷は正直失望していた面が無いとは言えない。法月が青山を撃った時にも何も言わなかった。それを情けない姿だと思ったのは無理もない。
だが今のオールマイトとシアンは、緑谷が知っているどんなヒーローより輝いて見えた。
そこに居たのは救った子供たちに慕われる「八木俊典」というヒーローだった。
緑谷たちは孤児院を出る。子供たちがずっと手を振っていた様子が緑谷は忘れられない。
そのまま乗ってきたバスに乗る。子供たちが居ないバスは行く時よりも随分と広く感じた。
バスを運転していたシアンが口を開く。
「私はヒーローになりたいと夢を持ったことも有りました。
ですが一度
思えばあのスラムで、生きていかなくてはならなくなったあの時。
私がヒーローになる道は閉ざされていたんです」
とても寂しそうなその顔に緑谷は何か言おうとして、だが言葉にならなかった。
彼女は優しく微笑んで「でも」と続ける。
「でも後悔は有りません。
例えヒーローになれなくても、こうやって子供達を助けてあげられる。
誰かのために生きることが出来る。
それはとても素敵な事なんじゃないかって。今はそう思うのです」
月明かりに照らされる彼女の顔はとても綺麗だった。
彼女は
(僕は何も知らなかっただけなのかもしれない……)
――なら、知りたいことは何かしら
緑谷の前に出現するアズライト。緑谷は自分の無知を恥じで願った。もっといろいろな事を知りたいと思う。
そのためには……。
――知りたいことは何でも教えて上げる。ねぇあなたは何を知りたいの?
緑谷はその日初めて、アズライトの力を使った。緑谷に更に宿った個性”電脳感覚”を使用して、電脳上のデータを集めていく。
少しでも多くの事を知れるように。知らなかったじゃ済まないように。多くの事を知りたいと願う。
緑谷の意識が電脳上に埋没していく。
彼の眼が「青」に染まっていた。
夜空の星がまるで降り注いでくるように満天に輝いていた。