だからといって何かやるってわけでも無いですけど
「ここであってるよな」
スマホを片手に目の前にある扉を眺める。
家からそう遠くない距離にある10階建ての高層マンション、その306号室が俺の目的地。
チャイムを鳴らすとピンポーンと特に珍しくも無い音が鳴ると共に扉の向こうからどたどた騒がしい音が聞こえてくる。防音設備はあまりよろしくないようだ。
「きてくれたか」
扉を開けてくれたのは、先日出会ったベアトリス・ウィスタリアという女性。金髪碧眼の凛々しい顔立ちにはマッチかミスマッチ判断をするのは少々難しい紺色のジャージ姿でのお出迎えだ。そういえば色々な生活用品をぶち込んでた時に前にいた学校のジャージや体操服も一緒にぶち込んでたような気がする。一応洗っているから変な匂いはしないだろうし、サイズもそこまで違わないから別にいいか。
しかし、自分が着ていた服を女性、しかも美女が着ていると思うと変な気分になる。
部屋の中は一人が済むには広すぎる程度で最低限の家具一式やテレビ、冷蔵庫のような電化製品も一通り揃っている。
後でちょろっと調べてみたら月8万円と結構いい部屋だ。
「じゃあ、頼む」
「ええ、分かりました」
これから始まるのは、そう――――。
「最初はひらがなから覚えましょうか」
彼女がこの世界の言葉を覚えるための授業だ。
事の発端はサイクロプスを倒したあの日、杉山は俺にウィスタリアさんにこの世界の言語を教えて欲しいと依頼してきた。勿論タダではなく、報酬は高校生一人には不釣り合いな金額が俺の預金通帳に振り込まれていた。
そして、あの勧誘に対する返事の期限は『彼女が日常会話が可能になるまで』とセットされた。期限といっても、結局は彼女の裁量次第なのであるのかないのかはっきりするようなものじゃない。
彼女の今後を考えれば、
「そうだ。その前にあの杉山という男から色々と書類を貰ったのだが、見て貰っても良いか?」
「いいですよ」
そう言って渡されたのは数枚の書類。小難しく書かれてはいるものの、要約すれば向こう側の世界の情報や状況、その他諸々を提供して欲しい事と、暫くは俺に文字やこちらの常識を習ってこちらの生活に慣れる事と書かれている。
「それで、何と書かれてあった?」
「とりあえずこちらの生活に慣れろと、詳しい話はそれからみたいですね」
「そうか……」
俺は鞄からひらがなドリル(幼児用)を何冊か取り出して机の上に並べる。
「これを書けばいいのか?」
「はい。まずはこれが『あ』で……」
昔、英語を習っていた時の事を思い出す。俺も最初はABCを書くことから始めたっけと少し懐かしい気分になった。
「それで、これが『ん』です」
「成程、これを書けばいいのか」
「まずは線に沿って書いて、慣れたら線無しで書いていけばいいと思います」
「分かった」
ウィスタリアさんは例の道具袋から眼鏡を取り出すと、おもむろにかけた。
「眼鏡かけるんですね」
「この手の書類仕事の時はな。普段は問題ないんだが」
教えていて分かったことだが、彼女は俺が思っていた以上に優秀であった。飲み込みは早く、積極的に学んでいこうという姿勢もあってか学習速度が凄まじい。それに書くのが早く字も綺麗だ。騎士は武官の仕事だけじゃなく文官の仕事もこなせなきゃなれないんだろう。
「何か質問があったら言ってください」
俺はそう言うと次の教材の用意、そして俺の教科書とノートを広げた。
「君も勉強をするのか?」
「気分を悪くしたのならやめますよ」
「いや、構わない。君は勤勉だな」
「勤勉……まあ、テストが近いんで」
しばらくすれば一学期考査がある。それに俺は高校3年生だからその先にある受験も見据えておかなければいけない。
まったく、受験生も楽じゃないぜ。出来る事なら推薦でも貰って試験無しで悠々と進学したいものだ。
――――そしてその勉強会はしばらく続いた。
ちなみにウィスタリアさんはひらがなを3日でマスターして、既に漢字の書き取りと現代文の読み書きに突入している。
俺のテスト勉強もそれなりに捗った。家だと人の目が無いのでついついゲームや漫画の誘惑に敗れがちだが、彼女のマンションにはそんなものは無いし、必死で学んでいる彼女の隣で自分だけ呆けているのも変だと勉強に熱が入る。
勉強よりも苦労したのは買い物だ。生きていく上で食事は欠かせないものになるし、最低限のものが揃ってあるにしろ消耗品は今後も買っていかなければいけない。初めて彼女をスーパーに連れてきたときはパックに詰められた肉や魚、そしてパックに詰められている卵に驚いて「近くに牧場でもあるのか!?」と言っていたし、他にも品数の多さに目を回していた。通貨や会話を覚えるまでは俺が付いて居る時にまとめ買いしているが、彼女の学習能力なら近いうちに一人でもこなせるようになるだろう。
「すまないな、今回も買い物を手伝って貰って」
「別にこれくらいいいですよ」
二人の両手には食品や雑貨で満杯になった買い物袋が提げられている。肉類のような重いものが入ったのは彼女が持っているが、それでも結構重い。そして俺以上に重い買い物袋を提げて平然としている彼女はやはり鍛えられ方が違う。最近、ちょっと筋トレしようかなと真面目に思うようになった。
「それにしても、ウィスタリアさんって結構家庭的なんですね」
「……それはどういう意味だ?」
「いやぁ、てっきり高貴な家柄で、家事は家政婦にでも任せてたのかと思ってたんですけど。家事も買い物もテキパキとこなしてたんで」
「実家ではともかく騎士団員は基本的に宿舎で共同生活だ。当番制で掃除やら料理やらやっていればこれくらいは自然と出来るようになる」
いかにも心外だと言わんばかりの表情でこちらを睨むウィスタリアさん。というか高貴な家柄っていう点は否定しないのか、別に深く突っ込むような事でもないので触れる必要はないのだが。
しかし、こうして男女が二人仲良く歩いているとまるで――――。
「まるで姉弟のようだな」
なるへそ、どうやらウィスタリアさんにとって俺は弟認識らしい。家に軽々しく上げるのも男として認識されていなかったからだと思うと流石に凹む。
「弟か。そういえば私には兄はいても弟はいなかったな……」
「何人兄弟何ですか? うちは上に姉が一人いますけど」
そういえば姉さんはちゃんと一人暮らしやれてるだろうか。元はと言えば俺が原因だし、たまには差し入れの一つでも持って行ってあげようか。
「上に兄が二人に下に妹が一人、妹はもう嫁に行ってしまったが……はぁ」
「ため息なんてついてどうしたんですか?」
「いや、その……この年になってまだ……いや、なんでもない!」
話は打ち切られたが、彼女が何を言いかけたのかは何となく分かった。
とりあえず向こうの世界の結婚適齢期はこちらよりも早期らしい。
そんな買い物帰りの何気ない雑談、それは唐突に終わりを告げた。
「――――えっ?」
終わりを告げたのはこちらにもよく聴こえる程の驚愕の声。あの日から一年ぶりに聞く幼馴染の声であった。
「シズ、お前何でここに……」
俺の声が聞こえていないのか、呆然と立ち尽くすシズ。紺色ジーンズの短パンに水色のパーカーと化粧も少しして気合入れてめかし込んでいるのが分かる。
一瞬何に驚いているのかと疑問に思ったが、その疑問は隣を見るだけで解消された。
そういえばシズにはウィスタリアさんの事を伝えてない。
つまり彼女は大きな誤解をしてしまっている。
「シズ、これは誤解……」
「お……お幸せにッ!」
そう言って彼女は回れ右して走り去ってしまった。
これはマズい、さっさと誤解を解かないと後々面倒な事になりそうだ。
「……これを持っていてくれ」
「は? ……うおっ!?」
ウィスタリアさんから二つの買い物袋を渡されて総重量が倍以上になってしまった。
「あの娘を連れ戻すからそれまで待っていてくれ」
「ちょ! ウィスタリアさんが動いたら色々逆効果な気が……」
言い終わる前に彼女はとんでもないスピードで疾走する。数秒後には先に走り出したシズに追いついて、とうとう並走し始めた。
「ぎゃああああああああ! 何か追ってきた!?」
「待て! 彼の話を聞いてやってくれ!」
「何語喋ってんのよ! スワヒリ語!?」
一応皆真剣な筈なのに、一昔前のコントみたいに見えてしまうのは俺だけだろうか。
(もう何なのよぉおおお! 久しぶりにちょっと気合入れてコーイチに会いに来たらいつの間にか金髪デカメロンとキャッキャウフフしてるし。その金髪デカメロンは変な言葉発しながら物凄いスピードで追いかけてくるし。もう訳わかんない!)
シズは必死に走っているが、ウィスタリアさんを振り切れない。別にシズが遅いわけではない、寧ろ50m走で8秒を切る程度には速い。ウィスタリアさんの身体能力が異常なだけだ。
というかあいつは振り切ろうと全力で走るあまり前を見ていない。
「おい、前を見ろ!!」
「え、前――――ギャビン!?」
「……言わんこっちゃない」
大声で叫んだが遅かった。
シズは前が見えてなかったせいで電柱に激突。
そしてその反動でフラフラと目を回しながら後退して、そのままひっくり返ってしまった。
「お、重いぃ」
この買い物袋、全部合わせたら10㎏以上はあるんじゃないだろうか。そんな袋4つを持ちながらえっちらほっちらと速足で歩き出す。
俺が到着する頃には、シズはウィスタリアさんに介抱されていた。
「シズは、大丈夫ですか!?」
「ああ、軽く診たが鼻は折れてないようだ。気を失っているだけだろう。頭を打ってるかもしれないから安静にした方が良さそうだが」
心底ほっとした。こんなくだらない理由で大けがして夏の最後の大会に支障が出たりしたらお互いにやりきれない。
「大切な女性なのか?」
「え?」
ウィスタリアさんの言葉に驚いて振り向いた。
「どうして、そう思ったんですか?」
「君が必死だったからだ」
微笑みながら、それでも真剣な表情での問いかけ。その表情はずるいと思う、だって誤魔化そうという気が無くなってしまうからだ。
「シズとは、子どもの頃からの付き合いです。昔は人見知りが激しくていつも俺の後ろに隠れてて」
まるで妹が出来な気分だった。
「でも、大きくなっていくにつれてシズがどんどん遠くなるような気がして」
中学に入ってソフトボール部で頭角を現してからシズは変わった。前よりも明るくなったし、部員からも好かれたし、信頼されるようにもなった。
「気が付いたらシズはもう守られる存在じゃないんだなって」
真面目な事くらいしか取り柄のない俺は、そんな彼女を羨ましいとさえ思うようになった。
自分から距離を取らなかったのはただの自尊心。あの頃、彼女を守っていた自分を忘れたくないだけだった。
久遠寺さんを好きになったのはその頃だ。彼女は周囲の在り方に囚われず、どこまでも自由に見えた。彼女の容姿も相まってそして好きになった。
「だから、ずっと好きだったって言われてビックリして、それにその時は色々あった事も重なって、結局疎遠になって」
「そうか……」
「正直、シズは大切な存在だって胸張って言えます。昔は色々あったとしても、それは変わりません」
一年前は酷い事を言ってしまった。いい機会だ、メールでも謝ったけど改めて面と向かって謝ろう。
「好きなのか?」
「もう好きな人がいるからシズの事を好きだというのは好きの安売りみたいであんまり……」
「君は、誠実というか真面目というか。それとも頑固というべきか?」
「仕方ないでしょう。そっちはどうか知らないけど、こっちは基本一夫一妻制なんです」
二人とも大好きだーで済めば楽だが現実はそんなにあっさり行くほど楽じゃない。
あの娘が好きだ~この娘も好きだ~が許されるのはハーレム系主人公だけ。俺はそんな懐の深い人間じゃないし、甲斐性も無い。
「そうか、君は答えを出すのが恐いんだな」
そう言われてしまうと言い返せない。
改めて思いなおしてみるとシズに対してめっちゃ残酷な事してる気がするし、『そういう性分だ』ってのはあくまで自分の都合だし。
俺って自分で思っているより自己中だった。
「コーイチ」
「は、はいッ!」
彼女に名前を呼ばれたのは初めてかもしれない。
「あの日言った言葉をもう一度言おう。君は何がしたい?」
「俺がしたい事……」
「別に難しく考える必要はない。ただ自分がしたい事を考えてみるだけでもいい」
俺がしたい事。
次のテストでいい点を取りたい。美味いものをたらふく食べたい。第一志望の大学に受かりたい。色々迷惑をかけた両親に報いたい。ソシャゲのイベントで上位を獲りたい。そろそろスマホを機種変したい。
いや違う。今俺が本当にしたい事は――――。
「久遠寺さんに想いを伝えたい」
気を失っている筈のシズが身動ぎしたような気がするが、見なかったことにした。
「受け入れられても、拒絶されてもいいから。彼女に好きだと伝えたい」
どんな形でもいい。この想いに決着をつけたい。それだけはあの日からずっと後悔していた。もっと彼女に早く話しかけいれば、もっと早く想いを伝えていれば、こんな宙ぶらりんな気持ちにはならなかった。
「その上で、シズの気持ちにもちゃんと向き合いたい。自己満足かもしれないけど、俺はそうしたい」
気を失っている筈のシズの頬が紅潮しているような気がするが、見なかったことにした。
「いい顔をしているな。今まで見た中で一番いい顔だ。決意に満ちた男の顔だ」
俺を見つめるウィスタリアさんの眼差しは陽光のように優しかった。