Survivor from NeighborHood 作:くそもやし
まるで、お日さまのような子だった。
「じゃあ、次はあっち!」
家が隣同士だったから、いつも一緒に遊んだ。
幼馴染、というやつだ。
最初の友達だった。
「ついてきて!」
公園で、近所の森で。
泥んこの顔に屈託のない笑顔を浮かべて、あの子は私の手を引っ張った。
でも、私は泣き虫だったから。
親から少しでも離れるのが怖くて。
それなのに、君は私が手を離したらすぐにどこかへ消えてしまいそうで。
だから、いつも私はあの子の手を掴んだまま引き止めたのだ。
「どうしたの?」
「いやだ……こわいよ」
知らない場所は怖いと。
君が一人で行っちゃうのもいやだと、そう駄々を捏ねて。
そんな私に、決まってあの子は不思議そうに、私の頭を母親がそうするように撫でて笑う。
「大丈夫、ぼくが守ってあげる!」
そうして、絶対だからね、と震える声で私は折れる。
そして君は楽しそうに前を歩き始める。
今からどんな事が起こるんだろうとわくわくしながら、でもしっかりと私の手を握って。
それが私たちのいつもの光景だった。
────私は君がいなきゃ、外も出歩けないほど怖がりで。
────だから私は、君がいなくなったあの日から、あんな惨劇があったにも関わらず、この街を出た事がない。
◆
ある日、私とあの子は喧嘩をした。
本当に些細な事だった。
私とあの子が順番で自分の好きな遊びを一緒にする、という私達だけのルールがあった。
その日はあの子の好きな遊びをする番で、あの子はいつもの様に探検ごっこをしに私の手を握って、「今日は川に行こうよ」と言った。
だけど私は川が怖かった。
身体を軋ませ、鋭い痛みを残す水の冷たさ。
せせらぎの音は、当時の私にとっては少しでも足を取られれば、たちまち絡みついて、抗いようのない大きな力でどこかへと連れていかれそうな恐怖感を与えるものでしかなかった。
だから私はルールを破って、絵本が読みたいだの、おままごとがしたいだの、確かそんな事を言ったのだ。
当然彼は不服だっただろうし、私が駄々を捏ねて、小さな言い争いから、喧嘩にまで発展するのは当然の帰結と言えるだろう。
そして私は口にした。
今も私の胸に深々と突き刺さる棘となる言葉を。
「要くんなんて大っ嫌い! もう一緒にいてあげない!」
「────」
その時の彼の顔を、今でも忘れられない。
信じていた相手に後ろから刺されたような。
何を言っているのかわからない、といったような顔をして。
そして数秒して、彼は小さく「そっか」、とだけ言ってから背を向けてとぼとぼと歩き出した。
その様子に私は言いすぎてしまったと思ったものの、幼い私は変な意地を張って、家に帰ってしまったのだ。
彼が帰ってきたら、明日ちゃんと謝ろう、謝って仲直りしよう、と。
そう思って。
それが最後だった。
次の日、おじさんとおばさん──あの子の両親──が家に来た。
あの子のいない私の家に、「息子を迎えに来た」と。
私とあの子はお互いの家に泊まるのも日常茶飯事だったので、おじさんもおばさんも、私の家にいるのだと思ったという。
彼が行った川の橋の下で、彼の靴の片方が見つかった。
警察に捜索願を出して一週間経ってもなおあの子は戻ってこなくて、ああ本当にどこか遠くへ行ってしまったのだと、もう会えないのだと幼心に理解して、私は涙が枯れるまで泣き続けた。
────ごめんなさい、ごめんなさい。
────こんな事なら手を離すんじゃなかった。
────嫌われてもいいから、駄々を捏ね続けていれば良かった。
どれだけ謝っても、その言葉が彼に届く事はない。
どれだけ願っても、もう彼が戻ってくる事はない。
後悔は涙を薪にして際限なく燃えて、いつまでも私の心を炙り続ける。
◆
それからのおじさんとおばさんの姿は、痛々しくて見ていられなかった。
初めは目に見えて憔悴していった。
でもいつからか、二人ともけろりとした様子で笑うようになったのだ。
一目見ただけで分かるような、ぼろぼろの笑顔を貼り付けて。
「大丈夫だよ」「きっとあの子は帰ってくる」「皆に迷惑をかける訳にはいかない」
そう言って、いつもどこか遠い所を見つめる二人に、私はどうしようもなく胸を締め付けられた。
二人とも、手をこまねいてただ奇跡が起こるのを待っていた訳じゃない。
全力で、できる限りの事をしていた。
警察に捜索願を出すのは勿論、あの子の顔写真を載せた張り紙やビラを配って、必死で自分たちの子供を探していた。
でも現実は非情だ。
いつだって不幸の下り坂がすっぱり途切れることなんてない。
おじさんとおばさんがどれだけ手を尽くしても、警察の捜査以上の手がかりが見つかる事はなかった。
まるで突然この世界から消えてしまったかの様に、彼はあの川で完全に姿を消したのだ。
──毎晩毎晩、隣の家から聞こえてくる女性の啜り泣く声に、私はベッドの中で涙を堪えて蹲るしかできなかった。
◆
ある日、空が裂けた。
虫のような、獣のような、機械のような怪物が街になだれ込み、三門は瞬く間に地獄と化した。
日曜日の午前。
眠っている人の方が多いだろう時間に現れた『それら』は、朝日に微睡む私たちをいとも容易く蹂躙した。
──早くから家族で買い物に出かけていた私は、どこからか聞こえる阿鼻叫喚を耳の隅で捉えながら、私たちの家の方角から昇る黒煙を見た。
背筋がすぅ、と急激に冷えていく感覚。
おじさん、おばさん。
走り出した。
気づいたら身体が動いていた。親の制止を振り切って一心不乱に足を回す。
あまりにも愚かな行動だ。──わかっている。でも、足は止まらなかった。
『嘘だ』 『現実 ?』
『本当に』『まさか』 『夢かも』『夢だよ』『こ んなの』 『 おじさん』『おばさ ん』
『いやだ『要く『やめて『待って』
『出かけてるかも』『誘っておけば『遅』 『誰か』
浮かんで、浮かんで、埋もれては浮かんでくるおぞましい予感。それを振り切る為に息も絶え絶えになりながら走る。
家が近づいてくる。
もう怪物達は通り過ぎたのか気配は無い。
なのになぜか収まらない胃を押し上げるような悪寒に喉が震える。
そんなの、分かりきってる事だろうに──そんな心の声に蓋をする。
見慣れた景色、歩き慣れた住宅街。
変わったことといえば、家は崩れ、悲鳴が響き、そこかしこから煙が上っている事だろうか。
そして見た。
まるで紙細工のようにぺしゃんこに崩れた家。
折り重なり、積み上げられた瓦礫の隙間から覗く血まみれの腕を。
私は半ば絶叫しながら駆け寄った。
瓦礫の山が崩れないように、上の方から瓦礫を退かして、なんとか腕を引っ張り出す。
一目見て、手遅れだと解った。
大怪我なんて、精々骨折程度しか見たことの無い私でも判る程の致命傷。
今すぐ治療を始めれば助かるだろう。
でもこの状況で私に何が出来る?
女性だろうと、意識の無い大人を、たかだか子供の腕力で運べる物じゃない。
だからって、何もしないまま見ていられる訳が無い。
落ちていた割れたガラスで上着を裂いて、おばさんの傷を縛る。
出血は止まらなかった。赤く、紅く滲んでいく上着。
背負うというより、引き摺るような形でおばさんを運ぶ。
──大丈夫、大丈夫だよ、おばさん。きっと助かる。私がすぐ病院まで連れて行ってあげるからね。
意識の無い彼女に必死に語りかける。彼女の美しい黒髪が肩に流れ、そこから血が滴っていた。
──ぁ
絞り出すような声だった。
──おばさん!
振り向くと、彼女は焦点の合わない瞳で私を見ていた。
頭から流れた血が左眼のまぶたに溜まって固まり、赤黒くなっている。左眼はもう見えていないだろう。
そして彼女は言った。
かなめなの、と。
ひゅっ、と息を呑んだ。
彼女は続ける。
もう焦点の合わない瞳で。
──ごめんね、ごめんね……お母さん、一緒にいてあげられなくて
違うよ。
なんでおばさんが謝るの?
私が悪いのに。
私がわがままじゃなければ、怖がりじゃなければ、要君に酷いことを言わなければ、あなた達が悲しい思いをせずに済んだのに。
──遥ちゃんね、ずっと……あなたのこと謝ってたわ。酷いこと言っちゃった、って
なんで、なんで私なんかが出てくるの? おばさん、もっと言いたいことあるでしょ?
毎日毎晩泣くくらい悲しんでたのに、なんで今私の事なの。
──ね……お願い、許してあげましょう?
やめてよ。
──あんなに仲良しだったんだもの、きっとすぐ仲直りできるわ
私のせいなんだよ。
──あなたも、あの子にいい所見せたかっただけなのよね
だから何よ。
許してくれる訳が無い。
許す理由が無い。
震える私をよそに、「ごぽっ」と、急におばさんが激しく血を吐いた。
──おばさん!
小さく痙攣し始め、綺麗な桜色だった唇から血の気が引いていく。
私がどれだけ縋りついても、どんどん心臓の鼓動が弱くなっていく。
ただ残り火、強い思いだけに身体が辛うじて反応しているような、そんな現象だった。
──お願い、要……一度だけで、いいの
地面に寝かせた彼女は、震えながら、私に手を伸ばした。
どれだけ話しかけても、私は私だと言っても、もう聞こえていなかった。
細い指が頬に触れる。
撫でられた肌に、血の赤が線を引いた。
──ただいまって言って
おばさんが、暗い瞳で燃える空を仰いで、大きく息を吐いた。
一瞬前まで頬を撫でていた手が、力なく落ちる。
もう、動く事は無かった。
◆
「おーい、先輩」
「ん…………」
肩を揺する手と、聞こえてくる声に私は目を覚ました。
身体を起こすと、デスクに広がった書類がはらりと空に踊る。
「あぁ……寝ちゃってたんだ」
「珍しいっすね、綾辻先輩の居眠り」
「ふぁ……私だって居眠りくらいするよ」
欠伸を一つ。
横を見ると、子犬のように人懐っこい笑顔が魅力的な後輩の佐鳥くんがいる。いつの間にか寝ていた私を起こしてくれたようだった。
「代わりに書類書いといてあげようかと思ったんですけど、先輩もう書き終わってるみたいなんで起こしちゃいました!」
「あ、本当? ふふ、ありがとう」
仕事を終えて気が緩んだみたいだ。
「お安いご用ですよ!」なんて屈託なく笑う彼が羨ましい。
いつからだろう、彼みたいに心から笑えなくなったのは。
「あ、もうこんな時間。暗くなる前にそろそろ帰ろうかな」
「お疲れ様でっす!」
「お先失礼します、じゃあまたね」
まだ残る眠気とあくびをかみ殺しながら作戦室を後にする。
今日も花を供えにいこう。
◆
冬の冷気が肌を刺す。
吐き出した白い息が夕暮れのオレンジに溶けた。
途中、花屋で買った金盞花の花束を抱えて、私は帰路を外れてある場所へ足を運んだ。
(暗くなる前で良かったな)
公園に入ると、しんとした静謐が私を出迎えた。
厳かな雰囲気は、この場所だけ周囲から切り取られたかのような印象を与える。
道にそって進むと、ずらりとならんだ慰霊碑と、その前に供えられた花束が現れた。
もう何度も訪れた場所だ。
花の置き場所も勿論覚えている。
そうして一つの慰霊碑が見えた所で、私は足を止めた。
(あ……)
先客がいたのだ。
男の人が屈んで、慰霊碑を撫でていた。
誰かに会いにきたのだろう。
撫でている場所に刻まれた名前は、背に隠れて見えなかった。
黒のマフラーを巻いた彼は、後ろの私に気づいていたようで、直ぐに立ち上がった。
「また来る」
最後に一言告げて、彼は私の方へ振り向いた。
「待たせた」
「い、いえ」
同年代か少し上くらいだろうか。
私を見下ろす顔は幼さを残しつつも精悍で、しかし無機質で鋭い瞳に私はたじろぐ。
「お前も家族を?」
私の持つ花束を見て、彼は尋ねた。
「いえ……家族は生きています」
くしゃりと、力のこもった手がラッピングに皺を作った。
「でも、同じくらい大切な人達でした」
私は今、普通の顔ができているだろうか。
声が震えそうだった。
もう泣かないと決めたはず。
足に力を入れて、精一杯彼を見つめ返した。
「そうか……失礼な事を聞いた。ごめん」
「あ、いえ」
私の言葉に、彼は少し目を伏せて謝罪した。
突然の事に言葉を詰まらせる私をよそに、彼は用は終わったとばかりに私の横を通り過ぎる。
「……」
不思議な印象の人だった。
研ぎ澄まされた刀を思わせる冷たい眼光が、未だに脳裏に張り付いている。
ボーダーにいると色んな人に出会う。
いつも命を懸けて戦う彼らの事だから、
でも、恐らく彼はもっとずっと────
まさか。
半ば無理やり思考を打ち切って、慰霊碑に金盞花を供える。
暗く、静かに冷たい輝きを放つ慰霊碑は、さっきの彼の瞳を思わせた。
「……久しぶり。おばさん、おじさん」
二人に話しかけながら、私はさっきの彼を思い出していた。
あの頃の夢を見たからだろうか、あの子の黒髪と彼の黒髪が重なる。
黒いマフラーと瞳が印象的だった彼。
────あの子が生きていたら、あれくらいの身長だったのだろうか、なんて。
そんな意味の無い事を考えて、私はまだあの子の事を引きずっている自分に辟易する。
「会いたいなあ…………」
どれだけ後悔しても、私の言葉はもう届かない。
どれだけ願っても、もう彼らは戻ってこない。
────キミがいなくなってから、私はこの街から出たことがない。