TS転移で地球人   作:月日星夜(木端妖精)

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第七十一話 最高のライブ

「はぁ~……」

 

 ふか~い溜め息をついて項垂れるこの少女の名は東山(とうさん)(ともり)

 アイドルを志す元気が取柄の11歳。おっと、前年8月に誕生日を迎えたので12歳だ。

 純真で実直、"大好き"をぎゅうっと凝縮したボディには自信あり。爆発笑顔で大ジャンプ! ……そんな感じの女の子。

 最近セルを見ていると斑模様に目が回ってしまうのがちょっとした悩み。

 

 

 暖かい風が春の訪れを感じさせる4月の初め。

 今日は朝からショッピングに出ていて、現在お昼休憩にカフェテラスでお茶をしているところ……なのだけど。

 

「はぁ~……」

 

 この通り、どんよりとした雲が灯の頭上を覆っている。それもこれも、またまたアイドルへの道を踏み外してしまったからだ。つまりは恒例行事。日常の風景である。

 

「そーんなにおっきな溜め息してると、不幸せになっちゃうよ~」

「そ、そうですよね……気の持ちよう、気の持ちよう……はぁあ~」

 

 ムラサキに言われて、一度は気を取り直してみたものの、がくりと肩を落としてしまう。

 今度の応募は最終選考まで残ったのに、小さな失敗で落ちてしまった。本当に些細なミスだったけれど、甘い審査はしてもらえない。今回は灯よりもよくできていた少女が先に進んでいった。

 それを素直に祝福する心は持っているものの、流石に落ち込まないというのは無理だ。どんより、どよどよ。いつもの笑顔もなりを潜めて、心は雨模様。

 

「……」

 

 隣に座るセルは慰めの言葉一つもかけてくれないし、向かいのムラサキはケーキにフォークを突き刺して一口でやっつけるのに忙しい。

 ズンズン暗い影を背負って頭が下がっていく彼女は、しかしこれでしばらくすると勝手に復活するので、二人ともノータッチな事が多いのだ。引きずらない性格というよりは、引きずろうとしない性格で、心の持ちよう、気の持ちよう一つを合言葉に暗い気持ちを吹き飛ばしてしまう。

 

「お待たせしました。こちらコーヒーとエッグマフィン、マロングラッセのケーキです。ごゆっくり」

「ほいほいっと、あーむ。……もぐ!」

「……」

 

 ウェイトレスが運んできたケーキを即座に口に運んで片付けながら、テーブルに置かれたコーヒーをセルの方へ押し退けるムラサキに、読んでいた本に栞を差して脇に置いたセルは、ぞんざいでありながらも零すことなく移動させられたカップに手を伸ばした。こちらにも文句ひとつつけないのは、一言かければ百の言葉が返ってきて大変騒がしくなるためである。

 

 本日はこの三人でのお出かけだ。

 これまで滅多に外には出なかったセルも、変装という平和的手段によって外出が可能となった。

 もっともセル本人は外出を必要とは思っていなかったのだが、子供二人に引っ張られては動かざるを得なかったのだ。単なる荷物持ちにされているともいう。既にいくつかの紙袋が傍らに並んでいた。

 

「……」

 

 角の上にちょこんとかぶせた野球帽、ショルダーバッグに縦長の袋。どこから見ても野球少年、完璧な変装だ。現に誰も触れない。セルじゃね? と思う人はいても確信に至る人間は0だ。通りすがりのヤムチャはスッ転んでいたが。

 

「落ち込まない落ち込まない。次がんばろ? ね? ほら、クッキーあげるから」

「はいー……」

 

 ほれ、と差し出されたクッキーを口で受け取った灯は、頬にかかる髪を指で退けて耳にかけながら、サクサクと小気味良い音を立ててやっつけた。ああ、おいしい……香ばしくって、バターの残り香がふんわりと幸せを運ぶ。……それはそれとして溜め息は出る。美味しいものを食べても灯の気分は上昇しない。

 今度ばかりは自分でも手ごたえを感じていたので、落選の二文字を突きつけられたこの結果はなかなか辛いのだ。

 

「ほらほら、誰かが言ってたよ。諦めちゃ駄目だよ、その日は絶対くるんだ~ってさ」

 

 くるくるっと指をふりふり、てきとーに耳に挟んだアイドルの言葉を引用したムラサキは、心なし得意げにタピオカミルクティーをずうっと吸って、ひゅっと喉に入ったタピオカにぐふっとむせた。

 

「ふふっ。私の尊敬する人達も言ってました。"夢を見限るのはいつだって自分だ、進み続ければ必ず手が届く"って」

「ナシコの言葉だな」

「あれ、セルさん、わかるんですか?」

 

 チョコレート三重層がけクレープケーキにフォークを差し込んでいたセルが反応するのに、灯は意外そうに口元に手を当てた。だって、どうにもセルがナシコを嫌っていることなんて、鈍感で天然でエンジェリックな灯にだって察せていた。昔に母親が雑誌のサイン会で頼み込んで書いてもらったという色紙が飾ってある棚を、こう、口角をむぐーっと下げて睨み下ろしていたし、ナシコという名前が出るたびに不機嫌そうに拗ねるのだ。けれど口を開けば好意的な風に褒めたり、持ち上げたりと紳士ぶるので、灯は「やっぱりセルさんって良い人ですね!」と認識を深めている。好き、嫌いは、人には合う合わないがあるので気にしない。

 

「はい。ナシコちゃんの"わたしたちの花道"の一節です! ナシコちゃんの歌にはいつもいつもすっごく元気づけられます! 素敵ですよね……」

 

 うっとり、と頬に手を当てる灯は、はやくも立ち直っているらしい。これもナシコパワーか。好きなものを想えば自然と心は上向くものだ。憧れのアイドルであるナシコの存在が灯の心に力を宿す。いつかきっと、彼女と同じステージに立つのだ!

 

「私、諦めません! 必ずなれるって信じてますから!」

「自分への……信頼ってやつ?」

「はい!」

 

 元気よく頷く灯に、ふうん、と気の無い返事をしつつも、その自信に満ちた感じはなんだか昔のナシコちゃんを思い出すなーと在りし日の少女の姿を思い出すムラサキ。

 彼女が稼働した当初……記録的で、あまり記憶として残っていないのだが、その頃のナシコはとにかく元気が有り余った子供といった感じだった。最近の大人びて甘やかしてくれる、傍にいて安心するナシコも嫌いではないけれど、どちらかというと一緒に遊んでくれそうな昔のナシコの方が好ましいと、ムラサキは感じていた。

 

 もっとも……。

 

「……」

 

 ちら、と横を見る。そこでもくもくとチョコレートケーキを食べているセルが、孫悟空という男を殺してしまったせいでナシコはぐちゃぐちゃになってしまった。

 今の状態ではとても楽しく遊ぶことなんてできないだろう。そんな彼女に代わってセルをやっつけに来たムラサキであるが、どういうわけかこうして一緒にお茶をしている。あらためて認識してみるとあまりよろしくない状況だ。

 

 ……ただ、セルをどうこうしたところでナシコが元気になったりしないのは、ここ数ヶ月の間に理解した。……してしまった、ともいう。そしてもう、ムラサキにはどうしようもない。そもそも自分より優秀な姉妹達や、創造主であるドクターウィローでさえ解決できない問題なんてどうにもできない。悔しいがそれが現実だ。

 

 その穴埋めのように、在りし日のナシコと同じ輝きを持つ灯を応援している。傍にいて、何か彼女の助けとなることで、無力感を誤魔化している。もちろん純粋に灯が好きになっているのもあるが、そちらばかりに構って無意識にナシコを見ないようにしているのは確かだった。

 

 時間が経つにつれてますますナシコの精神はひどくなっていて、手の施しようがない。それこそ、孫悟空が帰ってこない限りは……。

 

(孫悟空、かぁ……)

 

 胸中で名前を呟いたムラサキは、頬杖をついて空を見上げた。くわえたストローがグラスから外れて水滴が飛ぶ。

 データベースとの照合を行えば、かの男の生誕の経緯から現在までの細部がわかる。

 あまり馴染みのない顔だけど、そんな彼をナシコが大層好いているのは知っていた。

 でも、どうしてなのかは知らない。

 

 強いから? トンガリ頭が好みだった? はたまた……なんだろう。恋のことはさっぱりわからない。というより、あの感情は恋なのだろうか。

 

 いつだったか孫悟空のことが話題の端にのぼった時に、ナシコはとにかく彼が偉大で、あらゆる存在よりも上という扱いをしていた。

 崇拝とか、そういった類のものにも思える。けれども、やはり彼が生き返って、声をかけたりしたところでナシコが元通りになるとは思えなかった。

 発端は彼の死でも、彼女が落ち込んでいる理由はもうまったく別のものに変わってしまっていて、しかもそれは一つではないのだ。とても複雑で、解きほぐすのが難しいような……。

 

 とにかく、今ムラサキにできることは何もない。セルを倒したって意味ないし、ナシコはいつ癇癪を起こすかわからなくて怖いし、灯は明るくて優しくて、一緒にいて楽しいし、だいたいいつも笑顔だから自然と自分も笑顔になれるし……。

 

「♪」

 

 対面にいる灯はご機嫌にクリームソーダを飲んでいる。ちゅーっとストローに吸い付いて、この上なく幸せそうだ。ふっ、と笑みが浮かんで、微笑ましい気持ちになる。それから、なんとなくセルの方を見れば、片手に本を持つ彼はページに視線を落としながらも、緩く口角が上がっていて、ごく自然に楽しんでいるようだった。

 

「あーあ」

 

 背もたれに体重をかけて椅子の前足を浮かしつつ、頭の後ろで手を組んで空を見上げる。

 

 空はこんなに青いし、灯は能天気だし、セルはにくったらしいし、なんかあれ。

 なんか、いいなあ、って気分になる。

 

「さ、灯も元気になった事だし、ショッピングの続きだぁ!」

「まだ買うのかね」

 

 おーっと一人で盛り上がるムラサキに、呆れたように問いかけるセルだが、本を閉じて準備は万端。言葉とは裏腹にとことん付き合ってくれるヤツなのだ。いつでもどこでもイメージトレーニングでナシコにこてんぱんにされることができるから、待つのが苦ではないのだろう。そろそろレベルの近い孫悟空や孫悟飯を相手にしたらどうなのだろうか。……おそらく勝つまで対戦相手をナシコから変える気はない。こう見えて負けず嫌いなセルであった。

 

 

 

 

 姦しく賑やかな休日を満喫し、翌早朝。

 ジャージ姿の灯とムラサキが連れ立ってジョギングを行っている。

 戦闘力が上がってきてはいるものの、こういった基礎的な体力づくりも肝要だ。

 それに生活リズムも整うし、運動した後のシャワーは気持ちが良い。

 

「んーっ……! はぁー……朝はまだ、空気がきりっとしてますね!」

「そ? 私にはよくわかんないけど、それっていいこと?」

 

 小さな公園で休憩がてら体を解す灯に、小首を傾げつつ長椅子の上に寝っ転がったムラサキは、手をひらひらさせて温度を測った。昨日より1℃低く、しかし人造人間ゆえ暑さ寒さに耐性を持つ(猛暑に参ったウィローが、せめて後継機にはそういった不便を感じないように追加した耐性だ)ムラサキにはよくわからない。

 

「ええ。気持ちもきりっとします!」

「あは、お顔もキリッてしてるよー」

 

 むんっと頑張りポーズをする彼女は、うん、今日も元気いっぱいで溌溂としていて、でも切れ長の瞳で唇を引き結べば、なかなかクールにキマッている。

 あ、ナシコちゃんに似てるな……なんて、こういう時にムラサキは彼女のことを思い出してしまう。あんまりよくないことだ。……どうしてそう感じるのかはわからないが、胸の中に黒くて重いものが宿るのに寝返りを打って、灯から表情を隠した。

 

「どうしました?」

「ううん。寝そべってたら眠くなってきちゃって……このまま寝ちゃいそー……」

「だ、だめですよ、風邪を引いちゃいます。もうひと踏ん張り頑張りましょう!」

 

 姿がみえなくても、あせあせと本気で心配して言ってくれてるのがわかってしまって、くすりと笑みを零す。

 手をついて一気に体を起こし、足を振り回して組んで座る。

 

「そいで、今日の活動のご予定は?」

「えっと、17時から街の方のバーでお仕事の予定なんですけど、休憩時間に歌わせてもらえることになったんです。それまでは練習ですね!」

「うーん、時間まで休んでた方がいいと思うんだけどなー」

「いえ! 気持ちが収まらないんです!」

 

 これまでも何度かそういったお店で歌をうたわせてもらったり、ちょっとしたステージで着ぐるみをきたりとそれっぽい活動をしてきたが、今度のお仕事はレベルが違う。有名な歌手も立つことがあるというそのお店から直接歌ってみないかと持ち掛けられたのだ!

 

 といっても灯の素晴らしい素質を知っての事ではない。歌ったり踊ったりできてアイドル志望だというから、じゃあ枠あいてるしやらせてあげるよ、と好意で場所を貸してくれただけだ。よく働く真面目な子である、と話を聞いていたからなのだろう。これまでの積み重ねがちょっとしたチャンスを灯にもたらした、という事である。

 

「私の前に、とっても有名な歌手の方が歌うって聞きました。勉強になるといいねってマスターさんが言ってくれたんです。もう、緊張するやら燃えるやらで頭の中がいっぱいで……! 爆発しちゃいそうなんです!」

「そー?」

 

 何やら噛みしめている灯は、いつもと同じ調子に見える。

 その通りだ。いつだって灯はときめいている。全力で青春を駆け抜けるように、常にめいっぱいの力を発揮し続けているのだ。

 そんな灯だから応援したくなるのだろう。夢に向かってひたむきでまっすぐだから、一緒に熱くなれるし、悲しくなれる。

 

(ひょっとして、あいつもそういう風に感じてるのかな)

 

 ジョギングにはついてこなかった家の虫を思い浮かべて、同じように灯に共感したりしてるのかな、とふと考える。

 なんだかありえそうな話だ。だって、あいつ灯のこと好きだもんね。

 じゃなかったら、ずっと家にいたりしないだろうし。

 

 ……さて、セルがまだ家を出て行っていないのは、表向きには完全に"技術"を習得していないから、である。

 最強であるためだけに生まれた人造人間が団らんの温もりを知ることなどないのだ。……そういうことにしておこう。

 

 

 

 

 時間はあっという間に過ぎて、中の都にあるBAR"デスザクライシス"へやってきた灯は、ダンディズム溢れるマスターへ挨拶をするとともに、まずは簡単な仕事の説明を受けて、お店が開くまでの準備や掃除といった作業に従事した。

 それから、開店となって人がやってくるようになると、客対応だ。配膳をしたり注文をとったりは経験があるのでスムーズにいく。値段設定が高めな店のためか、来店する者はみな上品な感じで、見ない顔である灯を暖かく受け入れてくれた。

 

 常に夕焼け色の店内の、少し奥にある一段高いステージには歌手ばかりではなく様々なパフォーマーも立つようで、オープン直後は手品師が芸を披露していた。

 それもまた落ち着いた雰囲気に合っていて、まさに大人のお店(バー)といった(おもむき)

 

 酒に酔って騒ぐでもなく囃し立てるでもなく、ささやかな会話と嗜む程度の飲酒で場を楽しむ人達に、働きながら灯は感心しきりだった。これまで仕事をしてきたお店とはなかなか違っていて、それが不思議だったのだ。

 

(人が変われば空気も変わる……当然ですね!)

 

 カウンターの裏手、厨房の入り口からひょっこり顔を覗かせていた灯は、そうっと頭を引っ込めて丸トレイを胸に抱えて、少々の緊張に震えた。

 支給された従業員用の制服は着こなせているだろうか。ちゃんと、雰囲気に合っているだろうか。強面のマスターは言葉はなくとも頷いて肯定してくれたが、なんだかちょっと場違いな気がする。スカートの端をつまんでひらりと振ってみても、胸の中のじゃみじゃみは消えない。

 

 というより、こういった場所でお仕事をしていると、まだまだ自分が子供だと思わされてしまう。

 12歳、多感な年ごろである。見た目ばかり色々成長しているように見える灯も、これで心は幼いのだ。大人になりたいな、と思ったことは両手の指では数えきれない。憧れであるナシコの大人の姿のような、それから、母のような立派な大人になりたい。そのためには、常に自分の一番を追求し、よりよき人間であらねばならない。

 

「よしっ」

 

 むん、と張り切りポーズ。そのためには、今日歌わせてもらうことばかりにうかれていないで、しっかりと仕事をこなさねば。

 気を引き締めた灯は、狭い厨房内で器用に料理を作り出しているコックから皿を受け取って、背を伸ばしてカウンター内へ出た。

 

 

 

 

 

「……?」

 

 客の入りがピークとなり、料理の注文も多くなって、マスターから厨房の応援を頼まれて寡黙なコックのお手伝いをしていた灯は、ふと聞こえてきた歌に手を止めた。

 もちろん、すぐに手は動かし始めたけれど、この声は、聴き間違えるはずがない……。

 

(か、確認したいっ……!)

 

 けれど忙しいこの時間、厨房とカウンターとを繋ぐ小窓からさっと皿を通すだけで運びまではしなくなっていた。ウェイターが運ぶより早いけれど、サービスとしては少し低めのこの方式のせいで表に出る機会がない。

 かざり目になってあっちにこっちに大忙し。やきもきした気持ちを抱えているとミスをしてしまいそうになる。下げられた食器を洗いながら、静かな声に耳を傾けてみたりしていると、そのうちにコックに肩を叩かれた。

 何か粗相をしてしまっただろうか。どきっとする胸を押さえた灯は、休憩時間がやってきたことを告げられて、もうそんなに時間が経ったのかと目を瞬かせた。

 

 それはつまり、歌をうたう時がきた、ということだ。

 とにもかくにも裏手に引っ込み、ステージ衣装へ着替える。

 その間も動悸は激しく、一刻も早く店内へ出て確かめたかった。

 

 逸る気持ちでボタンを閉じ、ロッカーを閉めて表へ出る。

 優しい灯りの降り注ぐ中、灯は──。

 

「っ!」

 

 ああ、灯は。

 伝説と、出会った。

 

 

 

 

「Au soleil, sous la pluie──」

 

 

 聞いた事のない歌詞を静かな歌声に乗せてステージに立つ一人の女性。

 三つの照明の差し込む中に世界を創り出し、満員の客の視線を集めるその人は、灯が憧れてやまないときのひと。

 でも、歌手だって聞いていたのに。活動を休止していると聞き及んでいたのに。

 偶然に会えるなんて! 今日この場所で、この時間に!

 

 渦巻く想いが旋律に溶けて、胸元に押し当てて組んだ両手に熱がこもる。

 目を閉じて耳を傾ければ、頭の中はその声でいっぱいになって、歌の意味がわからずとも情緒豊かになる。

 

「Il y a tout ce que vous voulez……」

 

 最後の一小節が終わると、ぴたりと音がやんで、それきり。

 拍手の音もなく、息をする音もなく、からからと回るファンの音だけが降ってきていた。

 

「……なに?」

 

 ぽつり、と呟く声が近くにあって、はっとして目を開いた灯は、自分がステージの傍に駆け寄っていた事を思い出した。

 それは、歌っているのは誰なのかを確かめるため、心音に急かされるようにして裏から出てきたから、こんなに近くに立ってしまっていたというだけだったけれど……。

 声をかけられたことに舞い上がる心地で顔をあげた灯は、翡翠色に見下されて、固まった。

 

(え…………え?)

 

 落ち着いた色合いのドレスを身に纏った、長髪の女性。

 それは紛れもなくトップアイドルのナシコであるはずなのに、灯には、それが誰なのかわからなかった。

 見下ろす形であるためか、顔にかかった影が、昏い瞳が、イメージとまったく違っていて……大人っぽいとか、クールだとか、そんなのではなくて。

 

 視線を逸らせないまま見つめ合う。

 それは永遠に続くと思われたものの、早々にまぶたを下ろして灯との関りを断ち切ったナシコは、カツリとヒールを鳴らして段から降りると、少しの風を伴って去って行った。

 

「あのっ!」

 

 そうしようとしたところで、灯が呼び止める。

 裏手にも入らずにそのままの姿で店を出ようとしていたナシコは、足を止めて振り返った。

 自分の声が届いたことに驚くよりはやく、なぜ呼び止めてしまったのだろうと自分で自分の行いに困惑した灯は、でも、何か言わなくちゃという焦燥感に導かれるまま、ナシコの目を見た。

 

 やはり、淀んでいる。

 常ならば宝石のように輝く瞳は濁りきっていて、でも、灯には明確にそれがわからなかった。

 ただ、目を見ていると、胸が痛くなった。

 どうしてかはわからない。でもどうしても、そのままナシコが去って行くのを許容できなかった。

 

「……なに?」

 

 カツリ。

 完全にこちらに体を向けた彼女に、灯は何を言うべきか迷いながらも、いくつか深呼吸をした。

 本当なら自分なんかが話かけられる相手ではないのだ。

 会話の機会など、それこそ灯の夢が叶うその瞬間以外にこないと思っていた。

 それが突然にやってきたのだから、どうすればいいかと焦るのは普通のことだろう。

 

「あの……」

 

 ようやく心が決まった。

 投げかける言葉は、一つしかなかった。

 

「このあと、私が歌うんです。よければ……」

 

 聴いていってくださいませんか。

 

 たったそれだけの言葉をいうのに、多大な精神力を要した。

 全力で走ったあとみたいに心臓が鼓動して、喉の奥に塊がつまったような息苦しさがあって。

 

 小首を傾げたナシコは、「なぜ私がそんなことをしなければならないの?」と問い返してきているようだった。

 

「ええ、喜んで」

 

 実際には、微かな微笑みとともに肯定的な言葉が返ってきた。

 

「あ、ありがとうございます!」

 

 それだけで気持ちが上向いた灯は、大きく頭を下げて礼を言うと、急いでステージの上へ移動した。

 脇に退けられていたスタンドマイクを自分の前にたて、十分な緊張を持った体を自然体に直す。

 照明が降る中で、店内を見渡せば、ナシコと会話を交わしていた少女に興味があるのだろう、誰もが灯を見つめていた。

 お願いを聞いてくれたナシコは、席が空いていないためか、ステージ脇の壁に寄り添うように立って灯を見ていた。

 

(……!)

 

 シン、と静まり返る店内に、耳の奥がキーンと痛む。

 いつになく強張る体を無理矢理に解して、冷たいスタンドマイクの棒部分を握って、そこではたと気づいた。

 伴奏がない。

 

 そういえば、先程ナシコが歌っていた時もそうだった。

 ピアノを弾く人間がいる訳でもなければ、曲が流れている訳でもなく、ナシコがそらで歌っていたのみ。

 だというのに、まったく気が付かなかった。

 

 何度か歌う機会がある時は、伴奏があって、有名な曲ばかりを歌っていたから、今回もそういった感じになると思っていた。

 ……ううん、違う。

 そうじゃない。伴奏がつかないのは、予め聞いていた。曲も、自分で用意して持って来ていた。

 一番最近のフラワープティングの歌だ。活動を休止する前の、最後の……。

 

 歌手が誰かを確認するために急いで出てきたから、置いてきてしまっていた。

 でも今回は、それでよかった。

 歌う歌は、それではなくなったから。

 

(ナシコちゃん……)

 

 傍に立つ、近くて遠い、憧れの人。

 運命ともいうべきこの出会いに、本来ならむせび泣いて喜んでいるだろうに、灯は気落ちするような感覚に包まれていた。

 重くて、苦しくて、悲しい。

 それらは全部、ナシコを通して持った感情だ。

 

 なんだかよくわからない。

 わからないけど、でも。

 

(聞いてほしい……)

 

 すっと息を吸い込む。

 一度息を止めて、前を見て、緩やかに吐き出していく。

 その中で、声を出す。

 

「こんにちは。東山灯です」

 

 自己紹介など、本来は必要ない。

 店内の賑やかしに務めるのが灯の役目であるし、それ以前に、プロでもない灯にはそういった活躍は期待されていない。

 

「私は、アイドルを目指しています。アイドルになるのが夢です」

 

 突然に自らの夢を語る灯から、誰も視線を逸らさなかった。

 優しい観衆だ。この素人の少女のパフォーマンスを、しっかりと見てくれるらしい。

 

 ステージ脇で僅かに身動ぎをしたナシコのことを横目で見た灯は、もう一度深呼吸をして、前へと向き直った。

 

 ナシコの事情を、灯は知らない。

 直感的に受け取ったナシコの異常も、正しく認識できていない。

 だけどアイドルが好きで、歌が好きで、踊るのが好きで、ナシコが大好きだから。

 

 だから歌を聞いてほしかった。

 

「本日はこの場を借りて、歌をうたわせて頂くことになりました」

 

(この歌を……)

 

 それは全てのアイドルと、アイドルを志すものへ向けた応援歌。

 なぜその選曲なのか。それはやはり、はっきりと灯にはわからないけれど、どうしても……ナシコにこそ聞いてほしかったのだ。

 

「──聞いてください!」

 

("アイドル"の歌を……!)

 

 目を閉じて、意識を切り替える。

 ただ歌うことにのみ集中して、すっと歌いだす。

 

 あらん限りの心を込めて、最大級の大好きを詰めて。

 熱を孕む吐息が力強く声に宿り、流れる汗が夢の結晶となってきらめく。

 

 さあ、()ぼう!

 

 

 

 

 

 屋根が取り払われれば強い光が差し込んで、大きな太陽が顔を出す。

 夕焼け色が塗り替えられて、青空が遠くまで広がって、背の高い建物がいくつもあって。

 長い長い道路の中央をゆく灯の一歩一歩がリズムを刻んで、弾む吐息にのせた歌が左右で見守る客たちに届けられていく。

 

 朗らかで元気よく。

 暖かくて爽快に。

 

「~!」

 

 輝く笑顔をそのままに、どこまでも届く声が人々を動かしていく。

 四拍子の柏手。灯に重ねるように口ずさみ。体を揺らして溶け合っていく。

 老若男女の歌声が、それが、偶像。それがアイドルそのもの。

 

 合間合間に顔の横で手を叩く。

 腰の後ろで手を組んだ人々が揺れ動く中で、前へ、前へ、前へ。

 

(聞こえるよ……みんなの声。大好きって声が。もっと聞きたいな……聞かせて!)

 

 胸に溢れる嬉しいきもち。

 誰かの声がするりと入ってきて、熱に変わっていく。

 人の心に流れる音楽が、今、この歌一つに繋がっている。

 

(女の子なら誰もが持つ力を、輝きを求める心を、やさしく包んで受け入れてくれる場所があるの!)

 

 呼びかけるように両頬に広げた手を当てて、前傾姿勢でぐるりと見渡す。

 その動作を繰り返しながら歌い続ける。自然と動く体がみんなの鼓動と重なっていく。

 

(努力と汗が宝石に変わる、笑顔になれる、──私達の、夢。知ってほしい。触れてほしい。あなたの方から)

 

 高く広げた両手を下ろし、膝を叩いてまた空へ。

 いっぱいに広がる気持ちをみんなに伝えられるように、うんとうんと腕を伸ばす。

 

(──そうしたらきっと、もっともっと面白くなるから!!)

 

 陽光に照らし出されたステージで、私達の今をうたう。

 それが、それが……ああ。

 

(いいきもち……)

 

 

 ゆっくりと持ち上げた指が空を差して、閉じていた目を開けば、大好きの気持ちで膨らんだ風船の群れが飛んでいく。

 その行方を眺めた灯は、それから、陽射しの中ではにかんだ。

 

 

 

 

 店内では、誰も灯を見ていなかった。誰も歌を聞いていないようにみえた。

 でもそれは、不快感や嫌悪からくる無視ではない。

 むしろ逆だ。灯の歌声を自然の一部として、なんら日常と変わりなく談笑し、食事ができているのだ。

 

 そして、食事の合間や会話の隙間になんの気なしに灯の方を見て、そのパフォーマンスに賛辞を贈る。

 一曲を歌い終えた後には、まばらな拍手もあった。

 熱烈な視線を送る少女もいた。

 

 その音で、ようやく高い所へのぼっていた精神が戻ってきた灯は慌てて一礼すると、ステージの傍のナシコへと体を向けた。照明の外の、影の中に佇む彼女へ笑いかける。

 

「どうでし──」

 

 浮かんだ喜色と感想を求める言葉は、チュン、と頬を掠めた光線に止められた。

 焦げた臭いが鼻をつく。焼き切られた数本の髪がはらりと落ちた。

 

「……」

 

 人差し指をこちらへ向けて、明らかに不機嫌であるのを表情で示していた彼女は、切り捨てるように腕を戻すと、踵を返して店内から出て行ってしまった。

 

「……ぁ」

 

 頬に触れる。

 火傷したような鈍い痛みにびくっと手が跳ねて、それでようやく灯は彼女の機嫌を損ねてしまったのだと理解した。

 

 

 呆然とする灯は、やがてオーナーにナシコが二度とこの店を訪れないだろうことと、咎めるでもなくただ落ち込む姿の彼にかける言葉が見つけられず、促されるまま帰路についた。きっと、ちゃんとした大人なら、オーナーへ適切な言葉を投げかけられただろう。あるいは、とりなすことだってできたかもしれない。でも、灯にはできなかった。

 

 なんだか、心が上の空だ。

 

「え、ナシコちゃんに会ったの!?」

「え、ええ……はい」

 

 

 帰宅してすぐ、暗い顔をしているところをムラサキに捕まえられた灯は、整理のつかないまま今日会ったことを話した。

 彼女のために歌をうたったこと。そうしたら、睨まれてしまったこと。

 

「怒らせてしまいました……はぁ」

 

 お店にも迷惑をかけてしまいましたし……。

 項垂れる灯の頬に走る傷は無言で寄ってきたセルがさっと手を当ててあっという間に治してくれたけれど──そして無言のままソファに腰を下ろして足を組み、天井の角を見上げて興味なしアピールを始めた──ずきずきとした感覚は消えない。

 

「ほえー……そ、それは、あの、あれだね?」

 

 まさか灯とナシコが鉢合わせてしまうだなんて思っておらず、ナシコの現状を知られてしまったことに動揺を隠せないムラサキは、下手な誤魔化しで乗り切ろうとした。

 幸い傷心の灯にはそれでよかったようだ。ムラサキはほっと胸を撫で下ろして、灯を慰めにかかった。

 なんたって家族が迷惑をかけたようなものだ。外でも癇癪を起こすとは思っていなかっただけに、その対象が灯であったことに申し訳ないやらほっとするやらで(せわ)しない。もし見知らぬ誰かを殺めてしまったらと思うとぞっとする。無事な灯で本当に良かった。

 

「しょうがない、今日は私が腕によりをかけてご馳走作っちゃうよ!」

 

 手早く姉妹達に(ナシコちゃんから目を離さないで!)と危険信号を放ったムラサキは、それを表に出さず腕まくりをしながら台所へ向かった。

 ところで、ふっと横へ現れたセルに襟首を掴まれて放り捨てられた。

 

「いった! なにすんだこいつー!」

「お前の料理は料理とは言わん。この私が手本を見せてやろう」

「なんだとー!」

 

 むきーっと腕を振るい、歯を剥いて怒る素振りを見せるムラサキだが、その実、セルが灯を元気づけてあげるのに理由を欲しているらしいことを察して、乗ってあげる事にした。 

 

 そうして二人がかりで灯をショックから立ち直らせてあげようとするのだが、憎々しげに歪んだナシコの顔を、灯は一生忘れないだろう。少なくとも三日ほどは現実感に溢れる夢に見そうだった。

 

 

 

 

 そうしてさらに三日ほどすれば灯はまた立ち直って、夢へ向かって邁進し始める。

 心の隅にはいつもあの日のナシコの顔が浮かんでしまうようになったけれど……それさえ燃料に変えて。

 

 だって、笑顔にできなかった。

 歌や踊りが彼女にもたらしたのは怒りと悲しみだけだった。

 それが悔しい。そして、とても悲しい。

 

 よりいっそう、決意が固まった。

 アイドルになって、すべての人に大好きを届ける。

 みんなを笑顔にしたい。涙を晴らしたい。

 その中には、伝説と謳われている、トップアイドルであるナシコも入るのだ。

 彼女さえ……ううん、彼女だからこそ……取り戻してあげたい。

 あんな表情は似合わないって、心から感じたから。

 

(必ず……!)

 

 レッスンルームで汗を流しながら、一面鏡張りの壁に映る自分を見据えた灯は、床に強く靴を擦らせながら拳を握り締めた。




・歌唱演出
アイドル特有のアレ
固有結界。領域展開。

・聞いてる人も踊っちゃう歌
たぶん「陽の降る街で会いましょう!」とかそんな感じのタイトル

・デスビーム
出が早く殺傷力の高い気功波

・タピオカミルクティー
もちもちまるっとしたあのタピオカはタピオカっていう名前の魚の卵なんだよ。知ってた?

・Les Champs-Élysées(Daniele Vidal)-1971-
ナシコの歌っていたうた
DBワールドは多言語っぽいけど宇宙規模で同じ言語が使われてたりもするし
現実におけるいくつかの言葉がこの世界でどういう扱いになるのかいまいちわからない……

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