TS転移で地球人   作:月日星夜(木端妖精)

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七十一話のラストにお店に迷惑をかけたことを後悔する一文を入れました。
今話は書いててあんまりにもあれだったのでいくらか描写を削ってダイジェスト風味に。

更新遅すぎてあれなので執筆頑張ります……はやくブウ編に入らないとね!
いつまで番外っぽい話やってんだろうね!



クロの台詞思いつかないから後回しにしたら投稿しちゃってたみたい
そのまま2年も気付かなかったみたい
わーあ


第七十二話 心の雨

 

 ──なあに、どうしたんですか?

 

 いつだったか、常日頃そうしていたようにアイドルを志していた頃の母の話をねだった私は、その腕に抱かれて寄り添いながら、何をしていても中断して語って聞かせてくれる暖かい声に身を委ねていた。

 母が話して教えてくれる世界はきらきらとした輝きに満ちていて、何もかも素敵で、憧れだった。

 その頃のことを話している時の母も嬉しそうで、楽しそうだったから、このお話をしてくれる時が一番好きだった。

 

 ふいにその横顔が陰る。母の変化に気付いて、そうっと、降ってきた声に耳を傾ける。

 

『……正直、ナシコちゃんの輝きには敵わないなって……挫折してしまったのは確かです。生で見て、肌で感じて……「ああ、この人とは生きる世界が違うんだ。スケールが違いすぎるんだ」……って』

 

 そんな時に父と……私の父と出会い、添い遂げて……結果的には、夢を諦めてしまったけれど。

 

『もしかしたら……ううん、きっと、それがなければもう一度奮起して、きっとアイドルになっていた……そんな未来もあったのかも。……なんて!』

 

 いつになく静かに語るものだから、固唾を飲んで聞いていた私は、おどけて笑う母に安心した。

 怖かったのだ。いつもにこにこと笑っている母の、そういった顔を見たのは初めてだったから。

 大好きにあふれているその話題の中に、何かわるいものが混じってしまうんじゃないか、って。

 もちろんそんなことはなくて、だから私は安心して母の腕に抱かれていられた。

 

『あなたと出会う道を選んだことに、後悔はありません。──ありがとう……最後まで聞いてくれて。……嬉しいです』

 

 ……(ともり)

 

 

 声が溶けて消える。

 過去は遠く、本当はもう、声だって朧気で……はっきりとしているはずの母との記憶も薄れてきている。

 いつだって感じていた笑顔の代わりに、今まぶたの裏に焼き付いているのは、私を睨むナシコちゃんの表情(かお)だけだった。

 

 

 

 

 灯の傷心は続く。

 

 憧れの人からの明確な拒絶ともとれる攻撃を受けた彼女は一時期落ち込みはしたものの、それは相手を不快にさせてしまったからという理由からくる気落ちだけだった。

 害されたことをまるで気にしていない。もう少しナシコの虫の居所が悪ければ大怪我を負わされていたかもしれなくても、だ。

 

 憧憬からくる無条件の肯定ではなく、共感からくる容認。

 自分が歌を通してナシコへ気持ちを伝えようとしたように、灯は彼女の歌からその心の一端を感じ取っていた。

 もちろん明確なものではないし、事情を知らないのは変わらないのだから、単なる勝手な憶測でしかない。

 

 それでも灯は、自分が感じた寂しさや嫉妬をそのまま受け取って、だから、アイドルを志す者にとって命に等しい顔を傷つけられても、ナシコを悪く思うことはなかった。

 

 やはり何か、活動休止には彼女ではどうしようもない精神的な問題があったのだろう、そんなナシコちゃんの前で心のままに歌うのは酷い行いだった……けれど。

 そのような事情の何もかもを超えて、明るい気持ちを届けられなかったことを何より悔いる。

 届かなかった。その事実が、そのまま灯がアイドルとしてどれほどの力を持っているか……その資質を物語っているようだった。

 

 人の心を動かす力が歌にはある。

 胸のうちにたちこめる暗雲を吹き飛ばし、光をもたらすのがアイドルだ。

 実際にナシコはかつて両親を亡くし、沈み切っていた灯の気持ちを上向かせてくれた。

 でも灯は、なんらかの理由で落ち込んでいるナシコの気持ちを晴らしてあげられなかった。

 

(……差し出がましいかも、しれませんけど)

 

 ……ナシコには、たくさんの仲間がいる。

 自分なんかよりよほど親身になれる人間がいて、ナシコ自身も決して弱い人間ではないと信じている。

 だから自分がどうにかしたかったと思うのは烏滸がましいし、余計なお世話だろうと思う。

 

 きっと、自分が何もしなくとも、ナシコはそのうちに立ち上がるだろう。

 また元気な姿を見せてくれるだろう。ステージの上で!

 

 強い憧れからくる信頼が、灯にそう思わせた。

 けれど……。

 

 ステージの外側。

 暗がりの中に立つナシコの、そこだけ浮かぶように鈍い光を持つ翡翠の瞳の沈んだ輝きを(じか)に見て、あるいはこのまま……終わってしまうのかもしれない、という焦りを感じた。

 

 体の内側を冷たい汗が流れて、止まらない悪寒に胸が震える。

 

 だからその前に。せめて一度だけでも。

 今すぐにでもアイドルになって、一回きりでいい。ナシコ達と同じステージに立ちたい。夢を叶えたい。

 それで何かが変わるかもしれない。ううん、そんな奇跡は起こらないかもしれない。でも。でも……それが。

 

 それが──母の夢でもあったのだから。

 

 

 

 

 重なる焦りと逸る気持ちに突き動かされた灯は、いくつかの応募に希望を託した。

 けれど、こんなぐらついた状態で先へ進める程この世界は甘くない。

 受かれば即戦力を謳う大手プロダクションの正規のオーディションでは食らいつくように最終選考まで残ったものの、落ちてしまったのがその証拠。

 

 ──あなたは、あなたの持つ技術について、胸を張る事ができますか。

 

 自己PRでも、特技でも、歌やダンスの審査でもなく、基本的な作法でも夢への情熱でもなく……ほんの一言投げかけられたその質問に、灯だけが答えられなかった。

 共に最終選考へ進んだ少女達は、信念と誇りを持って力強く答えていた。

 ……灯だってそうだ。誰かに合わせるまでもなく、「はい!」と答えたかった。

 きっとそれさえできれば、アイドル……いや、アイドルの卵になることはできていただろう。

 

 でもできなかった。言えなかった。

 いざ口を開いた段階でフラッシュバックしたのは、ひりつくような頬の痛みと、ナシコの暗い表情。

 

 つい先日にたった一人の人間の心を動かせなかったのに、それでなお自信があると言えるのか……?

 そんな自問が舌を重くした。得体のしれない思念が背に伸し掛かった。

 

 本当に、胸を張って「はい」と答えることができるのか。

 

 あの人が屈託のない笑顔を浮かべられることを知っている、見ていると自然と暖かい気持ちになれる……そんなあの人の心を、ほんの少しも揺らせず、より深い失望と暗い感情を抱かせるだけに終わったくせに。

 

 それを考えてしまうと、とてもではないが返事はできない。

 嘘でも「はい」と答えるべき場面で、灯は口を閉ざしてしまった。

 当然、落選だ。結果は後日郵送という形になると説明されたが、灯以外の少女が別室へと移る中で一人だけ帰宅しろと言われたのは、つまりはそういうことなのだろう。

 

 

 ……ここまでの出来事でも灯を消耗させるには充分だったのだが、問題はこの後だ。

 暗い顔で帰り支度を進める灯に、一人の男が近づいてきた。あと一歩の距離まで詰められて、ようやくその存在に気付く。

 男はまず業界人であることを明かした。灯は、それを疑わなかった。

 

 名刺も渡されたし、何より聞き覚えのある名前。メディアに露出することもある相当に有名な人間だったからだ。

 彼は、『結果は残念だったが灯には光るものを感じる』と落選を確定のものにし、それから……『もしよければ、ほんの少しの手助けをさせてくれないか』と、暗にアイドルとしてプロデュースさせてくれと仄めかしてきた。

 

 数多くの著名なアイドルを輩出した男のお眼鏡にかかったことに、灯の心はぐんと上向いて、嬉しさに包まれた。

 現金、かもしれない。でも失敗続きのところに明確に肯定的な言葉をかけられて、浮かれるなという方が無理があるだろう。

 ドロップアウト寸前の、まだなんの力も持たない少女を下にも置かない扱いをするこの男に、きな臭さを何も感じなかったのは……灯の幼さゆえか。スレたところがないのは彼女の魅力だが、逆を言えば世間知らずである。未だ体験しえないものは想像の埒外。危機回避能力どうこう以前の問題だった。

 

 初めに言ってしまうと、この男には下心しかなかった。

 肩書は本物だ。業績も確かだ。けれど業界に纏わる闇を宿しているのも確かで、灯はそれをまったく感知できなかった。

 清潔感ある頭髪や服装に人当たりの良い笑みは一見真面目な人間だが、目だけは不躾に灯の体を体を見下ろしている。

 数多の少女を食いものにしてきた悪意の視線には、さすがに灯も気付いて──。

 

(アイドルとして相応しいルックスか厳しい判定眼が! むむむ……特徴を生かした服を着こなせていると自分では思っているのですが……!)

 

 ……鋭敏な感覚は向けられた視線を正確に捉えはしたものの、舐め回すように体を見られている事を審美眼にかけられていると認識してしまっていた。いやらしい視線とは露とも思っていない。

 それだから男はいけると判断したのだろう。無遠慮に灯の肩に手をかけて、場所を変えることを提案した。

 

「はい!」

 

 一も二も無く承諾した灯は、男の案内のまま車へ乗り込んで、どこかへ向かう最中は多少の緊張を持ちながら、業界人にしかわからない話を振ってくれる男に尊敬の眼差しと、多大な期待を送っていた。

 どん底からすくい上げられて、灯は舞い上がっていた。

 だから、いざホテルに連れ込まれるまで、なんら疑問を抱くことはなかった。

 というよりも、怪しいと思えそうな要素の全てを肯定的な思考に変えてしまっていた。

 

 ベッドルームに通されて、面接をしようかと持ち掛けられて、(ここで?)と疑問に思いながらも承諾して……身体的なことや、あまりにも不躾なプライベートのことに踏み込んでくる口振りに、ようやくこれは駄目なやつだと気が付いた。

 

 身を固くして警戒心を露わにし始めた灯に、善人の仮面を脱いだ男は、二つの選択肢を示した。

 恭順の意があるならば、最初に言った通りアイドルとして手引きしよう。才能があると思ったのは確かだし、即戦力なのも本当だ。優遇するし、いくらでも望みを聞こう。アイドル界の頂点にも立たせてあげようか。

 

 だが拒むのなら、夢を諦めてもらうほかない。二度とこの業界に立ち入れるとは思わないことだ。

 

 

 男の言葉は嘘や脅しではない。本当に、否といえばアイドルにはなれなくなるのだろうというのが灯にもわかった。

 ……万一なれたとしても、車の中で嬉々として語ってしまったナシコとの共演は叶わないだろう。

 それは、いやだった。

 でも、当然だけど、このぶきみな人に、体を預けるのもいやだった。

 

 追い詰めるように言葉をかけられて、信頼できるような人間に裏切られたショックに頭の中が真っ白になった灯は……。

 顔を上げて、男を見上げて。

 ふるふると、首を振った。

 

 その拒絶に男はさらなる豹変を遂げて迫ってきた。

 ならば諦めてもらおう。二度と夢を抱けなくなるように。

 その才能を潰す事に究極の快感を覚えるのだ、と男は言った。

 

 腕を掴まれて、肌が粟立つような多大な嫌悪感に思わず"返し"てしまった灯は、しりもちをつく男から逃れるために窓を破って逃げ出した。

 無我夢中だった。夜の冷たい空気が体を包む。4階からの投身に男が焦った声で何かを叫ぶ。

 零れ落ちていくガラス片の後を追うように落下する灯は、けれど、怪我一つなく羽毛のように地面に下り立つと、地面を蹴って走り出した。

 

 走って、走って、走って。

 走って、走って…………。

 

 

 

 

 

 

「はあっ、はあっ、んくっ……はっ、」

 

 やがて息が切れて速度が落ちると、もはや足は鉛のように重くなり、歩くのさえ億劫になってしまった。

 小さな体は、無意識に帰路を走っていたのか見覚えのある道路の端にいた。

 

 息を整えている間に少しずつ現状を認識していく。

 男の言葉。自分の行動。その結果、閉ざされていく未来に、目の前も真っ暗になるような錯覚を抱いた。 

 

 ショックだった。

 煌びやかな世界に潜む悪意に直に触れてしまったことが。

 

 あんなに悪いことがこの世に存在するなんて想像したこともなかったのだ。

 灯はいつだって暖かい人達に囲まれて生きてきたから。

 

 時々ポカをして叱られることはあったし、仕事をしていていやな客と出遭う事もあったし、同性の人間に陰口を囁かれてるのを聞いた事もあった。

 

 でも、こういうのは。

 こういう、まだまだずっと遠くにあるんだと朧げに感じていたものが、こんな風に顔を出すだなんて。

 よりにもよって、大好きなアイドルの世界で……なんて。

 

 自分がこれまで重ねてきた想いも、憧れも、何もかもを汚された気分だった。

 

(……)

 

 重い足取りの先にぽつりと黒い影が落ちる。

 見上げれば、空には暗雲がたちこめて、ぽつぽつと雨が降り始めていた。

 あっという間に本降りになって、衣装が濡れていく。

 頬に落ちた雨粒がつうっと顎までを伝って零れ落ちた。

 

「……っ!」

 

 ぐ、と唇を噛む。

 俯いて、息を吸って、震えた息を吐き出す。

 いけない。笑顔でいないと。

 

 だって笑顔じゃないと、

 なににも顔向けできない。

 大好きなアイドルにも、お母さんにも……自分にも。

 

 無理矢理に笑みを作って、重くなる髪を握り締めて、自分に言い聞かせる。

 

 今日は……今日も、ほんのちょっと失敗してしまった。

 選考には落ちてしまったし、業界人の不興を買うような行いをしてしまった。

 あちこちに繋がりがあるらしい彼に手を回されてしまえば、本当にもう、アイドルになるのは無理だろう。

 

「……だいじょうぶ」

 

 でも、大丈夫。

 きっと大丈夫。

 

 くよくよなんかしていられない。

 前を向いて、明るい心で頑張れば、いつか必ず夢を掴める。そう信じてる。

 

──夢を叶える方法は一つじゃない。

 

 大好きを伝える方法は一つじゃない。

 胸に溢れる素敵な気持ちを伝えるには、正規のアイドルになることだけが手段じゃない。

 

 プロにならなくたって、職業にしなくったって、自分でアイドルを名乗って活動することはできる。

 アマチュアとして、ネットや内外で活動すれば、きっと多くの人に笑顔を、大好きを届けられる。広げていける。

 

 思い切り胸を叩く。

 こんなに明るくしようとしているのに、鼓舞するたびにきゅうっと心臓が縮まって痛む。

 深く深く冷たいナイフで刺しこまれるみたいに、決定的な喪失感が感情を奪おうとする。

 

「ふっ、くっ……!」

 

 他のやり方で頑張ることだってできるし、だから、気の持ちよう、心の持ちよう……だから。

 だから……。

 

「やめて……!」

 

 髪を握り締めたまま頭を抱える。

 強く頭を押さえ込んで、ぎゅうぎゅうと押し込んで、やめて、と吐息する。

 強い雨音に周囲の音が遮られて、芯まで冷えていく体が勝手に震えてしまう。

 

──あの人の好きにさせれば、アイドルになれていたかもしれない、だなんて。

 

 考えるのはやめて。惑わせるのはやめて。

 来た道を戻ろうとしてしまう自分のいやしさが、心の弱さが信じられないくらいに……強く、湧き上がっていて……。

 

 それはそうまでしてでも夢を叶えたいという願いの表れなのだけど、形成され切っていない灯の心では受け止めきれない。よこしまなものとしか思えなくて、そんな自分を嫌いになってしまいそうで、だって!

 

 夢を叶えられない私に意味なんてないのに!

 

 いつだって笑っていないといけないのに。

 けっして、負けちゃいけないのに。

 

「──────!」

 

 空を仰いで、降り注ぐ雨に打たれる。

 口の中に入りこむ雨粒が苦い。零れ落ちる熱い雫が目を痛くして、頭の中を真っ白に染め上げた。

 

 

 

 

 

 

「ただいま戻りました!」

 

 

 努めて明るく帰宅した灯は、廊下の奥に吸い込まれていく声に、笑顔を維持しながら首を傾げた。 

 家の中は静かだった。いつもなら賑やかに出迎えてくれる女の子がいるはずなのに、今日に限って出かけているらしい。

 

「誰もいないんでしょうか……」

 

 服の端を絞りつつ独り言ちる。だとしたら、一人になるのは久しぶりだ。

 なんだかいつもの我が家がずっと広く感じられる気がした。

 

 ああ、皺になっちゃうな。せっかく素敵な衣装なのに。

 俯きがちになる顔に、はっと気づいて顔をあげる。それから、泣きそうになるのを押さえ込んで笑みを浮かべた。

 東山灯はくじけない。こんなところで止まってられない。

 だから……心はいつも晴れ空で、力いっぱい、ひたむきに……。

 

「っ、く、ぅ……」

 

 背中が震える。靴を脱いで廊下に上がれば、ぽたぽたと水滴が落ちた。

 

 

 

 

 

「……あれ?」

 

 脱衣所にて一応の身繕いを終えた灯は、リビングに顔を出して本当に誰もいないのかを確かめようとして、テーブルにムラサキの姿を認めた。

 

「いたんですね……ただいま、です」

 

 髪を拭いていたタオルを下ろして挨拶をすれば、カップを傾けていた彼女がうっすらと流し目を送ってくる。

 気だるげで温かみが無く、冷たい印象を受ける眼差し。

 ……正確には彼女はムラサキではない。彼女の分身の術で生み出された分身体だ。

 

「お待ちしておりました。紅茶を用意しておりますので、それで体を温めるといいでしょう」

「あ、ありがとうございます!」

 

 対面の椅子を示されて反射的に頭を下げた灯は、さっそく椅子に座ってカップを両手で支えた。

 湯気が揺れる紅茶はとても熱そうだ。カップ越しにそれを感じて、息を吹きかけて少し冷ますことにする。

 それから視線を上げれば、ムラサキの分身体はテーブルに視線を下ろして黙り込んでいた。

 

「……」

「……」

 

 沈黙が痛い。

 分身、という割には紫髪ではなく黒髪で、長髪ではなく短髪で、和装ではなく洋装……というかメイド服だ。

 顔も声もそっくりな彼女を灯はすっかりムラサキの分身であると信じ切っているが、実態はこうだ。

 分身の術、と唱えると共に姉妹に支援要請を送るムラサキ。仕事が怠いか暇な子がちゃちゃっとムラサキの格好に着替えて瞬間移動してくる……という単純なもの。

 しかし時折現れるクロやミドリにはご用心。遊んでいると説教されること請け合いだ。

 

 今回の要請にクロが答え、ここにいるのは、ひとえに主人の友人が迷惑をかけた相手であるからだ。

 いずこかへ出かけているムラサキの代わりに灯を出迎えることになった。

 

「……?」

 

 クロが視線を向ければ、カップに口をつけてちびちび飲んでいた灯は、少しカップを下ろして微笑んでみせた。

 そのどこにも不自然さはない。けれどクロは、この家に入る前の彼女が何度も深呼吸を繰り返して感情を宥めていたのをセンサーで感知していた。

 なのに今はにこにこしている灯が、いやに胸の内側を掻く。 

 

 しかしクロにはかける言葉がなかった。……身内の不始末ではあるが、クロから何か言うようなものでもないためだ。謝るならば、それこそムラサキが適任だろう。ならせめて慰めの言葉でもかけてやりたかったが、灯のことを何も知らないクロでは無理だった。……元々口がうまい方でもない。

 

 だったらそれ以外のことを。

 自分にできる範囲で彼女の助けになればいい。

 

「お茶請けをご用意いたします」

 

 そういう訳で、件の姉妹機が戻るまではこの少女の世話を焼くことに決めたクロは、雑なムラサキの代理を務めつつ席を立った。

 

 

 

 

「くそっ、私の誘いを蹴るとは……!」

 

 雨足が強まる夜の道を一台の高級車がいく。

 運転手は灯に手を出そうとした男だ。

 自らの誘いを断った愚かな女に苛立たし気に身を揺すりながらアクセルを踏み込み、時折助手席に包まるスーツの上着を見る。

 

 それは事故現場に残されていた灯の私物……身分証や様々なものが入った鞄だった。

 4階から飛び下りた少女を慌てて追った男は、想像していた悲惨な光景の代わりに誰もいないその場所を見て、安堵すると共に、"あの方法"で生き延びた彼女が自分の悪行を広めやしないかと戦々恐々する羽目になった。

 

 それを阻止するため、部屋に残されていた鞄から身元を割った男は、彼女自身が『一人で暮らしていた』と語っていたのを思い出し、東山家に向かった。

 

 だがそうして車を走らせていると、他にも感情が浮かんでくる。

 ひとえに、口惜しさだ。

 

 自分の欲を優先して金の卵を壊してしまったことに腹が立つ。

 あれは絶対に大成した。何せ初めから"ウィング"が使えるのだ。でなければ投身しておいて姿を消せるはずがない。

 そうまで情熱的に志していて、権力に靡かない。良い女だ……だからこそ捻じ伏せたかった。その才能を摘み取ってみたかったし、あるいは育て上げてみたかった。

 

 こうなってしまってはどちらも叶わぬ夢だ。今男がやるべきことは、灯の家に向かい口封じを行うこと。

 それは殺すとか始末するとかそういった意味ではなく、脅すか妥協点を見出すかして馬鹿な真似を起こさせないようにするということだ。

 

 トントンとハンドルを指で叩きつつひたすらに車を走らせる。

 そのさなか──。

 

 不意に、ライトが照らす雨粒の向こうに人影を見つけた。

 

「うわあっ!?」

 

 反射的にブレーキを踏み込めば、強烈なGが体にかかり前のめりになる。

 やや蛇行した車はまっすぐ影へ向かい、そして──轟音と共に止まった。

 

「お、お、う!」

 

 膨らんだエアバックに歪められた顔からなんとか持ち直した男は、フロントガラスの前に未だ立っている者があるのに気づいた。

 文句を言おうと身を起こして──なぜ相手が無事なのかという疑問が頭を埋め尽くす。

 暗闇に紛れ、真っ黒な人影がいくら長身であろうと80キロオーバーで走っていた車とぶつかって五体満足でいられるはずがない。

 

 闇夜に目が慣れてくると、うっすらと見えるその姿にどことなく既視感を覚える。

 あれはたしか、事務所で配られたアイドル手製のパンフレットに記載されていた怪物……。

 

「ぐっ!?」

 

 ガラスを突き破った腕に胸倉を掴まれて引き摺り出される。

 息の詰まる苦しさと異常事態にパニックになりかけたところに、鋭く声が差し込まれる。

 

「君にすこぅしばかり尋ねたいことがあるのだがね」

「な、ななな、なん……!?」

 

 なんだこいつは!

 ぬっと眼前に現れた青白い顔に目を剥く。

 いや、見覚えがある。こ、こいつは……!?

 

「本当に東山灯を頂点に立たせる気があったのかな?」

「な、なん、なにを……!?」

 

 足をばたつかせながら逃れようともがく男は、どうやらこの怪物があの少女の事を言っているのだと理解して、なおさら混乱した。

 なぜこいつがあの少女を気にかけるのか……あの女、こんな奴と知り合いだったのか!

 

「本当に灯を?」

 

 ギ、と衣服がきしむ。

 恐怖心に駆られた男は、幾度も頷きながら答えた。

 

「む、むちゃを言うな! な、ナシコやウィローが現役張ってる間はとてもじゃないが不可能だ!」

「では、嘘を言ったのだな?」

 

 はっとする。今のは失言だった。

 自分のできる範囲で伸し上げる考えがあったのは本当なのだ。それさえ伝えられれば!

 

「う、うそじゃ……」

 

 ドス、と針が貫く。

 胸に突き立つ尾を顔を震わせながら見下ろした男は、ギュッ、と体の中に響いた異音を最後に意識を失った。

 

 

 

「…………」

 

 握りしめた衣服に気を走らせて燃やしたセルは、泰然とした面持ちで顔をあげると、車に向き合い、手を伸ばした。窓などないも同然に助手席から鞄を取り上げると、振り返って夜空を見上げる。

 微かな明かりを放つ街路灯に、小柄な影が腰かけていた。

 

「……」

「……」

 

 凄惨なる殺人現場の上、足をぶらつかせながら表情無くセルを見下ろすムラサキを、セルもまた見上げていた。

 

「これはこれは……困ったな、"騒ぎ"を起こしてしまった……報告されてしまうか」

 

 おどけるように肩を竦めたセルの言葉は、ムラサキの元々の目的を示していた。

 セルや灯と仲良く過ごしているムラサキだが、本来は監視のためにいる。

 ナシコが約束させた『騒ぎを起こさない』こと……悪事を働いたならたちまちナシコへ教えて、消滅させてしまう。

 

 アメジストの輝きが闇の中に浮かんでいる。

 それはしばらくの間セルを注視していたが、ふいに他所へと逸れると、何度か瞬いた。

 

「ふーん? ざあざあ降りの雨でさ、なんも聞こえないよ。それより早く帰って灯を慰めてあげようよ!」

「……フ」

 

 どうやらこの場限りは彼女はセルを見逃すつもりらしい。

 殺したのが悪人であったからか……その裁量や基準はセルにはわからない。

 ただ、かなり灯に懐いている様子のムラサキもあの男が許せなかったのだろうことくらいはわかった。

 

「それにしても驚きだよね」

 

 雨の降る道を大小二つが並んで歩く。

 頭の後ろで手を組むムラサキが、体表面に気の薄膜を張って雨粒を弾きながら呟く。

 

「たった一人の女の子にここまで入れ込んじゃうなんてさ……どういう心境?」

「……」

 

 むっつりと口を閉じるセルは、その質問に答えない。

 その沈黙が答えのようなものだった。

 

「……非常にフユカイだ」

 

 それがわかってしまったから、諦めて口を開いた。

 心底不愉快である。なんら変哲の無い人間に気を許してしまうのは、甚だ不本意である。

 だが、己ではどうしようもない心の変容というものがあるのだ。

 

 ……追い詰められていた様子の灯が気になって、後をつけてまで見守ってしまった。

 その結果として傷つけられた灯に、信じがたい怒気が湧き上がってきたのだ。

 どこからか浮かんでくる怒りが理解できなかった。なぜ自分は、こんなにもあの男を許しがたく思うのか……。

 

 そんな究明に意味などない。怒りを晴らす事だけを考えればいい。

 そうしてセルは男を殺害した。……怒りは晴れない。

 未だ深く傷ついているだろう灯が元に戻るまでは、胸の内のもやもやは消えないだろう。

 

 まあ、それもこれも全ては技術の習熟のためだ。

 卓越した秘術を持つ灯は必要不可欠。彼女に折れられては困る。

 そういった理由付けをして満足したセルは、さっそく慰撫するために東山家へ急いだ。

 

 

 しかし灯は、勝手に、しかもものの半日で立ち直り、ネット上でアイドルになるための準備を進めていた。

 クロが身辺の世話をしていたのが効いたのだろうが、理由はそれだけではないだろう。

 元気そうな彼女に安心するムラサキだったが、セルはまったく納得しなかった。

 

 諦めているのがわかったからだ。

 別の手段への逃避だったからだ。

 そのような軟弱な行いを許せるはずもない。

 

 だから──呼び出した。

 

 

 

 

「なんでしょう……セルさん、急に公園へ来い、なんて」

 

 留守をムラサキに任せた灯は、柄物の傘を差して外へ出た。

 昨晩から続く雨に気温は低下し、少し厚着をしないと肌寒い。

 吐く息は白く、まではいかなかったが、瑞々しい肌も張り詰めるような寒さであった。

 

 むせかえりそうな雨の臭いと、立ち込める霧が陽の光を遮って薄暗い。

 肌に張り付く衣服の感覚に、さしもの灯も笑顔が引っ込んでいた。

 

 続けている仕事から戻った灯は、ムラサキ伝手にセルからの呼び出しを受けた。

 場所は、いつもランニング途中の休憩に使っている公園だ。

 そこまでの道のりは大して長くないけれど、なぜそこなのか……家では駄目だったのかがわからず、しきりに首を傾げながら向かった。

 

「……」

 

 人の気配のない公園の中央……大きなアスレチック遊具の傍に、セルはいた。

 腕を組み、まっすぐ前を向いて静かに立っている。

 当然傘も差しておらず、強い雨が体を打っていた。

 

「セルさん、どうしたんですか!?」

 

 まさか雨濡れになっているとは思ってなかった灯は慌てて彼に駆け寄った。

 自分の傘に入れてあげようと、そうして近づいて──光の線が走り抜ける。

 耳元を通った紫色の光線が傘を破壊して、支えを失った上部が地面に転がった。

 

「え……?」

 

 降り注ぐ雨にたちまち灯も濡れそぼっていく。

 そんなことよりも、今のは……攻撃、された?

 思いがけないセルの行動に、そう感じるより先にフラッシュバックする。

 

 セルが今している、指を差し向ける姿は、ちょうど同じようにナシコがしていた動作だ。

 今この瞬間も、ナシコがそうした時も、その時には何も感じなかった。

 

 だけど時間が経つと、たとえば自室のベッドで横になっている時や湯船に浸かっている時なんかに得体のしれない感情に襲われて、胸がいっぱいになった。

 それが今思い起こした感情だ。

 

「ナシコと同じステージに立つのが夢ではなかったのか」

 

 泣き顔になる灯を見下ろしたセルは、前置きもなくそう言った。

 なぜここに呼ばれたのかを理解した灯は、でも、答えられなかった。

 困惑ばかりが勝って、何を言えばいいのかわからなかったのだ。

 

「お前はそれでいいのか?」

 

 重ねてセルが問いかける。

 目を合わせた灯は、いつになく冷たい眼差しに息を呑んだ。

 セルのそんな目つきを見たのは初めてだし、向けられるなんて想像した事も無かった。

 

 ……違う。彼が自分達人間とは違う怪物である事は正しく理解していた。

 初めて会った時と同じように、いつ殺されたっておかしくないと知っていた。

 でも……仲良くなって……悪い人じゃないと思ってて……ムラサキちゃんとも仲良しで……なのに。

 

「失望したぞ。どんなことがあろうと折れる事はないと思っていたのだがね……これでも尊敬していたのだよ、お前のアイドルにかける情熱とやらを」

 

 淡々と告げるその言葉に凍り付く。

 体の芯が冷える。言葉通りの失望を叩きつけられて、灯の胸に湧き上がったのは激情だった。

 

「そんなこと言ったって!!」

 

 自分でも思いがけない程の大声に自分でびくついた灯は、両手で口を覆って肩を震わせた。

 

「……」

 

 灯が怒鳴る姿をセルが見たのはこれが初めてだ。しかも、声を出している最中に無理矢理に気持ちを押し込めて、それ以上の言葉を出さない。

 とはいえ、それでセルが驚く訳でも、怯む訳でもない。

 期待を裏切ってしまったという後悔しか浮かんでいない彼女になおさら怒りや不満が募る。

 

「障害が増えたからなんだというのだ。その程度で諦めるほど安っぽい夢だったのか」

 

 激励か、発破か。

 不満か、失望か。

 

 俯く灯にセルがかける言葉は、どれも今の彼女をさらに追い詰めるだけでしかない。

 追い込んで、追い込んで、それでも折れるはずがないと思っているのだろうか。

 ……折れて欲しくないと思っているのかもしれない。セルが見込んだ少女であるのだから、強くあってもらわねば困るのだ。

 

 失敗が続いたからなんだというのだ。ナシコに睨まれたからなんだというのだ。

 夢を叶えるのが難しくなったからなんだというのだ。辛いから、なんだというのだ!

 

「お前のいう"夢"とやらは、まさしく夢であるというわけか」

 

 そこまで言われて、ようやく灯はふるふると微かに頭を振って否定した。

 けれど正しく言葉が届いているかは別だ。

 さっきからずっと、灯の閉じた視界の中にはナシコの姿しか浮かんでいない。

 自分を憎く思っているのだろうその眼差しに怯えて、怯んで、震えて……。

 

「……ナシコちゃんは、私が生まれる前からずっと前を走り続けているアイドルで、私のあこがれで……いつも笑顔をくれて……私も、そ、そうなりたい、っ、って、」

 

『──くよくよなんかしていられません! 前進あるのみ! です!』

 

「でも、もう、どうすればいいのかわからないんです!

 笑いたくても、笑えないんです!

 誰にも届けられないんです!」

 

『──もっとみんなの声を聞かせて!』

 

 座り込んで、顔を押さえて、すすり泣く声の中に零す言葉が、彼女の本音だった。

 気丈に振る舞っていても子供で、ずっと一人で頑張ってきて……一人じゃどうしようもない壁に立ち塞がられて、蹲っている。

 

 セルが溜め息を吐いても、灯は立ち上がらない。顔を上げすらしない。

 どうやらセルの言葉が虚勢を張っていた彼女にトドメを刺してしまったようだ。

 こうなってしまえば、もはや自力で立ち直るのは不可能だろう。

 

「叶えたい夢があるのではないのか?」

 

 ……。

 

「果たすべき誓いがあるのではないのか?」

 

 ……。

 灯は、反応しない。

 自分の中に反響する悲しみと挫折に震えているだけだ。

 

「こんなところで蹲っていてなんになる。──その手で掴め。君がやるしかないのだから」

 

 ……。

 灯は……。

 

 ……?

 

「……ぁ」

 

 顔を上げた灯は、目の前に差し伸べられた手に、ぼうっとした視線を送った。

 それから、目の前に片膝をつくセルを見つけて、はっきりとしてくる意識に息をする。

 

 簡単な話だ。自分で立ち上がれなくなったのならば傍にいる者に手を伸ばせばいい。

 また夢に向かおうという気持ちがあるなら、差し伸べられた手を取ればいい。

 

 セルに表情はない。ただ手を差し伸べているだけで、灯がどうしようと表情は変わらないように思えた。

 だから灯は、その手を取ることができた。

 たちまちに引き上げられて立ち上がる。ぐっしょりと濡れた服も、全然重く感じられなかった。

 

「……不思議、です……なんでだろう……。セルさんの手を握ってると……」

 

 あれほど悲しかったのに、怖いと思う気持ちがあったのに……。

 不安がとけてなくなって……頑張ろう、って気持ちになれる……。

 

 大きな手を両手で包んだ灯は、胸に広がる熱に押されるまま、そんなことを言った。

 

「では灯よ、この状態から私を投げられるかね?」

「えっ、な、なんですかそれ……」

 

 暖かい気持ちに包まれている最中に唐突に変な事を言われて面食らった灯は、思わず笑ってしまった。

 やっぱりこの人って変わらない。ずっと自分には技術しか求めてこない。

 それなら、応えられる。とってもわかりやすくて、とっても単純で、だから……。

 

「ふっ」

 

 吐息と共に腕を振り、身を捻り、要望通りセルを一回転させた灯は、彼が地面にたたきつけられる直前にウィングを用いてぴたりと止まるのを見た。

 体勢を整えて着地すれば、大きな足が泥をはねる。

 

「すっかり元通りのようだな。技のキレが違う」

「そうでしょうか……いえ、そうなんですね。……ご迷惑を」

 

 手を開閉させて言うセルに謝ろうとした灯は、顔を覆うように広げられた手に止められた。

 謝罪はいらない。礼は鍛錬でいい……とか、そういうことなのだろう。

 くすりと笑みを零した灯は、それから、いつの間にかやんでいた雨に空を見上げた。

 

 雲が晴れようとしている。

 まだ遠くの方は黒く分厚い雲に覆われて雨が降っているようだったけれど、ここら一帯は晴れ空になるだろう。

 

「セルさん」

 

 手首を回して調子を整えていたセルは、自分に背を向ける灯の頭頂部を見下ろした。

 こうしてみるとやはり彼女はとても小柄で、まったくなんの力も持っていないように見える。

 けれど。

 

「……私、頑張りますから!」

 

 振り返って笑う灯の晴れやかな笑顔には、とてつもない力が秘められていることを、セルだけが知っていた。




TIPS
・プロデューサー
夢を育む職業であるこの立場でアイドルに手を出すのはこのうえない罪である

・奮起
エタニティガッツ
東山灯は、不屈である
その手の温もりを失わない限り

・セル
矮小な人間に興味などないという顔をしているが
大好きである

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