男がいる百合です。

「私は、あなたのことが好きだったのに.......」

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白濁百合

 彼女は――三人称でなく、正真正銘、私の恋人である彼女は私の頭をしっかりと捕まえて言った。

 

「恋って楽しいものなんだよ。触りたい、話したい、見詰めていたい。――わたしは、それだけで楽しかった。『恋する乙女』なんていうけれどね、違う。《恋》っていうそのものが乙女なんだ」

「《愛》って幸せだ。だって、あなたが隣にいて、あなたの隣にいるんだもの。

 なら、もう望むことはないかっていうと、そうでもない。わたしは若いから、性欲だったりとか、所有欲、独占欲、色々ある。

 ……愛ってずるいよね。幸せそのものだから、当人が幸せならそれは愛だ。わたしが今、あなたの手首を切り取って部屋に飾ろうと、勃起したおちんちんを切り取ってアソコに入れっぱなしにしようと、心臓を抉りとって食べたって、それは《愛》。立派な《愛》だよ。寧ろ、それこそ《愛》だ」

 

 ――ま、死体趣味はないけれどね。

 彼女は心底悔しそうに、そう呟いた。

 

 

 

 

「好きです」

 

 仏頂面でそう言い放った女学生は、一つ下の後輩だった。名前は…何だったか。いや、聞いてないんだった。今まで少なくない数彼女と会話したけれど、必要無かったから聞かなかった。

 けど、まあ。

 彼女になるなら別か。

 

 ――私は、OKするつもりだった。

 彼女の事は嫌いではないし、今まで女性としての魅力を探したことがないと言ってもそれは告白を断る理由にはならない。

 お互いの事は名前すらも知らないけれど……付き合っていく中で知って行けばいい。

 うん、常識的な判断だ。

 

「えっと……まずは名前を聞いてもいいかな」

「あ、教えたことなかったね。

 ――自己紹介しますね。わたしの名前は、愛衣 凪咲(あい なぎさ)です」

 

 愛の衣で《あい》、凪に咲くとかいて《凪咲》。

 本人から漢字も含めて教えて貰った綺麗な名前を自分で呟きながら、私は愛衣凪咲へと手を差し出した。

 

「卯月 藍(うづき あおい)。よろしく。最初はお互いのことあまり知らないだろうし、お試しってことで」

「よろしくお願いします」

 

 そういうことで、私達は出会ってから初めての自己紹介をして、シェイクハンド、お互いに『よろしく』した。

 それがどういうことかといえば……つまり、そういう事だった。

 

 とにかく、今は、目の前でボロボロ泣き出す女のコの方が先決だ。

 

 

 

 愛衣 凪咲と初めて出会ったのは自宅での事だ。

 愛衣 凪咲(以下凪咲とする)は妹の親友でよく家に泊まりに来るのだった。妹も母も『あいちゃん』と呼ぶので名前はよく分からないまま、接していた。

 ゲームを一緒に遊びつつ、ポツポツと会話をした記憶――因みに、ゲームは上手だった――。体育祭でフォークダンスをせがまれて一緒に踊った記憶。

 今思えば結構な仲なのに、名前すら知らなかった。少なくとも、声を掛けられれば共に踊るくらいには印象は明るかったわけで。人間に名前なんてないんだな、と改めて知った出来事が告白だった。

 正直、結構嬉しかった。

 

 ――でも、好きってわけじゃあないんだよなあ。

 

 今まで生きてきて、好きになった人すらもいない私は、当然ながら凪咲が好きじゃない。

 それでも私は凪咲と恋人になった。妹の親友でなく恋人の凪咲なら、知らないことを教えてくれる筈だから。背中を押してくれるはずだから。

 なので、敬語もやめさせた。彼女はもう後輩じゃない。特にくずくったい感じはない。

 恋人らしくデートもする。凪咲は私の腕を組んで歩く。歩きづらい。

 キスだってする。凪咲に強請られ、私は背を屈めて。何も感じない。

 

 彼女の気持ちは深まるばかりで――若干鬱陶しくも感じるが――、見つけたかったものは未だ手に入っていない。

 

 

 

 だからこそ、あのようなことになってしまった――と語ると私が過去を懐かしんでいるようで、それは少し違うので何度か書き直ししてみてもどうも上手くいかない。

 一言で言うなら、鮮明なのだ。

 私の《それ》は記憶と名付けられるほど遠いものではなくて、今でも目を瞑ればその時の光景が、瞼の裏に生々しく焼き付いている。風の感触、肌の温もり、名前を呼ぶ声。実際に質量と熱を持って感じ取ることが出来る。

 だから、思い出す――というよりは追体験するというのが正しい。

 今から話そう――、というよりは舞台を移そう。付き合って半年、夏と秋のちょうど変わり目の時期に。

 

 

 

「ちょっと。そこの人」

 完全下校時刻を告げるチャイムが鳴り、テスト勉強のために訪れた図書館から吐き出された丁度数秒後である。

 去り際に鋭い視線を突き刺した司書の先生とはまた違った声が、階段を降り始めていた私の肩越しに投げかけられた。

 女性特有の高い声――と、言うとなんだか間違った表現に思えてならないが、とにかく、私の頭はそれを女性の声だと思ったし、振り返ってみるとクラスで見かけた覚えのある女のコが立っている。

 寒がりなのか学校規定のセーラー服をしっかりと着込み、その隙間からはセーター(我が蜂蜜中学校ではぱっと見で分からない場合には認められる)の袖が見え隠れしている。視線を下げると、スカートの下には防寒用のタイツが素肌を守るように覆っていて、なんとなく可愛い(これは事件の《後》に知ったことだが、彼女は本当に寒がりだ)。

 

「何かな……えっと」

「同じクラスの黒柳 夕顔(くろやなぎ ゆうがお)。ちょっと聞きたいことあるんだけど」

 

 クラスで見た――と言っても見かけたのみだ。名前すら知らなかったし、なんなら喋っているところも見た事なかったので『喋れるのか』という驚きがあった。

 黒柳夕顔という女の子はそれくらいクラスで目立たない、要するに地味子ちゃんで、文学少女めいた見てくれも相まって一部(私を含む)からは名前すらも知られていない。

 改めて見ると、肩甲骨あたりまで伸ばした黒髪と赤いメガネに整った顔立ち、目立たない容姿ではないように思えるが(そういえば友人に地味子ちゃんファンを名乗るヤツがいたかもしれない)。

 

 

「僕に? えっと、人違いとかじゃなくて?」

「卯月藍くんでしょ。間違い無ければ、あなたに」

 

 ふむ。やはり、風景の様にただ教室の隅で本を構えるのみだった人物――この場合の黒柳夕顔と言葉を交わすのにはどうにも少しばかりの違和感がある。大変失礼な話だけれども、まあ、仕方ないことだ。

 

「えっと……僕は中谷康太だけど」

「あなたって、1-Bの愛衣凪咲と付き合ってるでしょ?」

「うん」

 

 ちょっとしたお茶目に付き合ってもくれないことを少し悔しく思いつつも、さして秘密にすべきことでもなく。私はアッサリと半年間の謎を暴露した。

 

「やっぱり……。告白したのは凪咲から?」

「うん、そうだよ」

 

 凪咲。

 黒柳夕顔は愛衣凪咲のことを呼び捨てでそう呼んだ。二人はかなりの仲良しさんなのかもしれない。

 もしそうだとすれば、黒柳夕顔には友達がいたということになる。今日だけでクラスの壁の花についてかなりの知識を得てしまった。

 

「ふーん。それで? あなたがOKしたんだ?」

「うん、そうだよ」

 

 ふむ、と隠し持ったスマホを確認。女のコが大好きな『恋バナ』をするには少々時間が押していて、オマケに今日は凪咲が習い事――お琴――に行く日で、そうなると二人で一緒に帰ることになる。恋人・凪咲はそれについて怒るだろう。

 怒られたところで私はなんら問題ないが、目の前の黒柳夕顔は違うだろう。凪咲と仲がいみたいだし、女のコはそういうことに気を使うと思う。

 なので、気を遣って言ってみた。

 

「なあ、それ、明日でいいか? 休み時間とかでさ」

 

 私のその言葉に、黒柳夕顔は

「……」、と黙った。

 黙って、沈黙し、黙考した後、ようやっと静寂を破ってから肯定する。

 即ち、「分かった、明日ね」という具合に。

 

 結局、その日の体験はそこで終わり。私は翌日の学校を億劫に感じながらものろのろ階段を降りて、学校から出、1日が終了している。私はその日の出来事がそれ以外確かなものには思えなくて、覚えていないのだ。

 次、私が身を移す世界は、翌日、四時間目終了後の給食時――。

 

 

 

 

「約束通り、お話しにきました」

 

 四時間目――理科――が終了し、待ちに待った給食の時間が始まる。

 ここ蜂蜜中学では給食の席が自由に選べるのだった。

 配膳するなり立ちあがったクラスの地味子ちゃん、黒柳夕顔は、何を気にすることなく私の席の目の前に自らの机をくっつけた。そのまま『頂きます』、と手を合わせて食べ始めてしまう。勿論私も慌てて手を合わせた。

 

 周囲の目口をものともしない女のコは、『レアな取り合わせ』の片割れである私に言う。

 

「まず、話しておかなきゃダメなことは――アタシと凪咲は友達ってことかな。結構、お泊まりとかすることもあるくらい。だから、心配になってあなたに話しかけたの」

「なるほど、納得だ」

 

 どんな接点があるだろう――なんて男の子の自分には知るよしもない。学校女のコはどこかしらで全員が繋がっていて、1人を敵にすればゴキブリの様に増えていくモノだと思っている。

 

「えーと……告白したのはあなたから?」

「いいや、凪咲から」

「本当に?」

「本当」

「どういう経緯で?」

「妹の友達で。家に遊びに来た時、たまに話す時があって」

「いつの間にか惚れられた?」

「うん」

 

 ……おいおい、尋問官じゃないんだぞ、お前は。

 うんざりしつつも、一問一答と言った感じで《アンケート》に答えていった。本当に友達を心配しているのか、単に好奇心旺盛なだけか、はたまた面白がってか。

 どうにせよ、面倒臭いことになることは間違い無い。

 

「ふーん……まあ、全部凪咲に聞いたことなんだけどね」

「……」

 

 最悪だ。

 彼女――凪咲のことと言うより、この場合交際相手のこと――について質問されるのは私の心に少しばかりの負担を掛ける。

 普通に恥ずかしいと思えるからだ。自慢しているようで自分が嫌にもなる。

 なのに、わざわざ分かっていることを再度聞くか、普通? しかも、結構デリケートな事を。

 ともすれば黒柳夕顔は常識がないのかとすら疑ってしまう。

 

「ううん、これはあなたが嘘をつかないかの確認だけどね。……謙遜もしないのはどうかと思うけど」

「事実だろう。謙遜と嘘は違う。それくらいの区別はつく」

 

 ――と、思っていたら、逆に常識を疑われてしまった。

 非常に腹の立つ相手だ。話していて口の中が苦く乾いてくる。

 まるで自分の弱点を引きずり出されているようで、気に入らない。

 気に入らないし、腹が立つにも関わらず私の中で黒柳夕顔という人物は敵と見なされてはいなかった。それは黒柳夕顔が本当に愛衣凪咲が心配な様子であるのが見て分かる為だ。

 

 表情、ちょっとした言い回し、箸の進め方。何気ないそれらが群れとなって私に彼女が《味方》であると知らせていたのだ。

 この瞬間までは。

 

 

「へぇ?

 でも、やっぱり、って思ったけどね。凪咲が言ってたわ。『あの人はわたしの事が好きじゃないから』ってね」

 

 ――

 

 まず、怒りよりも混乱が勝る。

 この人は何を言っている。何について。いや、そもそも《この人》って誰。

 黒柳夕顔で、私の《彼女》愛衣凪咲について、私達の関係性を指摘している。

 腹が立った。怒りが勝ってきた。

 

 喉が渇く。

 栗のイガが刺さった様な乾き。体の中の水分が全て水飴になったように、乾く。

 体は水分を求めてやまないのに、先程から黒柳夕顔がその視線で私の両眼にしっかりと《杭》を打っていて、指先一つ動かせやしない。

 

 クラス内はしんと静まり返っている。突き刺さる視線を意識せずとも全員が私に注目しているとわかる。

 

 もちろん、この状況を作ったのは他ならぬ私であるので、黒柳夕顔に文句を言うわけにもいかない。この怒りも実は自分に向けたものであると、理解している。

 恐らく周囲のことを何も考えていないだろう少女は私をしっかりと見詰めつつ、責めるように、いや、責めるべく言った。

 

「あなたがあの子のこと好きじゃないのはとっくにバレてる。だって、あの子はずっとあなたを見てるんだもんね。

 でも、なのにあなたはその気持ちに応えない。付き合って半年も経つのに」

 

 黒柳夕顔は悲しそうな顔をした。私がそれに対して何も反応できないでいるのを楽しんで、あるいは哀れんでいるかのように、更に悲しそうに顔を歪める。

 彼女は私の胸ぐらを掴んだ。

 

 

「アタシは最初から分かってた。でも、そういうこともあるかって見ないフリをしてた……。あなたが、いつ凪咲の想いに応えるのか待ってた。

 ――でもいつまで経ってもあんた達は変わらない!凪咲はあんたへの想いを強くする一方だし、あんたは全然凪咲の方を見ない!

 半年よ、半年!あの子はずっとあなたを待ってるのに!」

 

 

 途中から叫ぶように呟く黒柳夕顔は、私を責める立場の癖に、そして実際に責めているのにも関わらず、身を切られるような悲痛の表情だった。

 

 

「……ねぇ、騙してるんでしょ?あなたのことが好きなあの子をさぁ。純粋で可愛いあの子を騙して笑ってるんでしょ?半年間、凪咲を金魚のフンみたいに連れ回して楽しんでたんでしょ?」

 

 怒りが収まらないのはきっと黒柳夕顔ではなく私の方だ。

 口汚く罵られて喜んでいるような豚ではない。

 まるでキリスト教の教える罪が全て私のものであるかのような物言いだ。

 ――私の今までやって来たことに意味なんてない。

 そんな予感めいたものを感じる度、私は怖くなる。怖くなって、逃げ出したくなって、逃げ場は無くて。結局は虚空に悪態をつく、というのがお決まりだった。

 この日も、お決まり通り、お決まりのセリフを虚空に叩きつけた。

 

「僕だって何も無い訳じゃない!好き嫌いを抜きにすれば凪咲とは一番に仲がいいんだよ!凪咲が僕に好きって言った時、僕は少しも嫌に感じない!想いに応えられないだけで、受け止めたいとは思ってる!」

 

 

 

 クラス内で見かけていたとは言え、ほぼほぼ初対面の女子に自分の内面を吐露するのはとても勇気のいることだった。オマケにクラス中が耳をすましている。

 

 ほら、今も私の科白に対する反応がヒソヒソと聞こえてくる。それぞれの勝手な意見が耳に届く。恥ずかしい。

 私は耳まで真っ赤にして、しかし親友を守るためならそれくらいはしようと、確固たる意思を込めて黒柳夕顔を見詰めた。

 

「そこに愛はないでしょう。そんなもの、認められない。アタシは認めない」

 

 

 だというのに、一つも怯んだ様子を見せない黒柳夕顔はハッキリした声で冷たく述べた。

 

「半年。その時間はあなたが思う程短くない。私は、あなたにこれ以上期待できない」

 

 

 返す言葉もない。この場に於いて間違っているのは誰の目から――それこそ私の目から見たって明らかで、自身に突き刺さる多くの視線がそれを証明していた。

 いつもは賑やかな給食の時間。訪れた静寂の中心で、「そうか」、と誤魔化すように箸を動かす――。

 

 

 

 

 

 私のクラス、2-Bは全部で40人いる。担任の先生を足して私と黒柳夕顔を除くと、ちょうど39人になる計算だ。

 つまり、私と黒柳夕顔との《話し合い》を傍聴していたのは最低でも合計39人というわけ。教室の外、廊下に人がいたのかどうかは分からない。

 人の口に戸は立てられぬ、とよく言うけれども、39の口ともなればたった一枚ぽっちの戸では気休めにもならないらしい。給食終わりの昼休み、席に突っ伏す私の目の前に仁王立ちする()()――愛衣凪咲がそれを証明していた。

 ちょうど、顔を上げた私の視線の先に凪咲の可愛いヘソがあるような位置関係だ。勿論、実際にはブラウスとキャミソールに守られてヘソは見えない訳だけど。

 

「あー、シャンプー変えた?」

「分かるんだ。少し匂いの薄いやつに――ってそうじゃなくて」

 

 かれこれ五分は続く硬直にいたたまれなくなった私の渾身のボケはなんと思わぬ成果を上げたが、その程度で話題の転換を許す彼女ではなく、凪咲はノリツッコミの容量で『気付いてくれて嬉しいアピール』と軌道修正を同時にこなした。

 そういうところ器用な彼女で、面白いのだ。

 

「今日、なんか重要そうな事あったらしいね」

 

 本当になんでもない会話を済ませるかのように――私にとっては真実そうなのだけれど――軽い口調で凪咲は言う。しかしその眼は私を捕らえている。

 勿論だんまりを決め込むのもありだ。が、それをすると愛しい恋人の機嫌を損ねてしまう。それは私が嫌だ。

 

 というわけで。

「ああ。ここで言うのもあれだから、後で改めて話そうか」

 

 私は自分に言い訳しつつ、その裏で意外と真剣な姿勢だった。

 

 見知らぬ少女にあそこまで言われて何もない私ではないからだ。

 

 少し思うことがあった。それだけである。

 例えば下校中、繋がれた小さな手の感触。

 例えばデート中、必死に抱きついてくる体。

 例えば喧騒の中、不安そうに震えるキス顔。

 例えばベッドの中、心底幸せそうに自分を求める凪咲に。

 罪悪感を抱かなかったわけがない。そういうことだ。

 

 まあ、なんだ。黒柳夕顔に諭された、と言う事。認めるのも恥ずかしいが、無意識に見ないようにしていた感情に気付かされたのだ。申し訳ないというあって当然の気持ちに。

 

「分かった。今日、放課後にわたしの家でいい?」

「ウン」

 

 そういうことで、話し合いの場が決定した。

 私も特に依存ない。

 元々、部活も習い事もやってない。要するに暇人で、凪咲もそうで、それならばといつも思いつきでデートに向かったりする。

 とは言ってもいつも誘うのは凪咲の側で、私は基本動かない。一緒に帰ろうと思えるくらいには凪咲の事は好きだが、デートとなるとどうも面倒なのだ。それは他の友人も同様で、遊びに誘うことは無い。

 要するに、出不精。そういうことだった。

 

 ところで、ここで問題。私は今まで何度『そ』を使った?漢字もカウントするものとする。

 

 

「《ユウ》も。ね?」

 

 硬く冷たい声を響かせると、ゆっくり凪咲はクラスの隅に目をやった。つまりは、黒柳夕顔、《ユウ》の席に。

 案の定、《ユウ》とやらはいつも通りに着席したまま心理学の本を読んでいた(ちなみに、本の内容まで含めて『案の定』である)。

 《ユウ》は一瞬、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をし、その後隠し持った携帯を素早く確認して、なにやら難しい顔を三種類ほど画面に披露した後、携帯を仕舞い込みつつもごもごと口を動かした。

 

「いや……あの、悪いんだけど、今日無理……」

 

 まさか断られるだなんて考えてもいなかっただろう、今度は凪咲が驚き顔をした後、思い出したように何か謎の納得を見せた。

 

「?あ、あ〜。そう言えば今日はゲームの発売日だっけ。妹さんとやるんだ?」

 

 ゲーム程度の話で、学友の提案を蹴るか、普通?有り得ないだろ――。

 この瞬間、私の中で黒柳夕顔改め《ユウ》は非常識の烙印が押される。

 

「うん……」

 

 自分がおかしいことを言っている自覚があるのかどうなのか、果たして《ユウ》は顔を赤らめつつ幸せを零した。

 

「そっかそっか。じゃあ、いつなら空いてる?暫く妹に掛り切りなんでしょ?」

「うん。申し訳ないんだけど……来週の今日くらいでいいかな」

「オッケオッケ、時間は一緒ねー。それまでは三人とも今日の話題は一切しないこと!はい、約束ー」

 

 私の思考する間にも会話は進んでゆく。

 しかし今、私には黒柳夕顔の発言がかなりの衝撃として残っていて、話に参加できるだけの余裕は全く無かった。

 

 正直、今日の昼までは黒柳夕顔のことを尊敬していた。他人のためにここまでできるのかと。大気圧で押し付けられたキャラの殻を誰かの為に破ることが出来る。それを素直に賞賛していた。

 しかし、先ほどのやり取りを見る限りそれは取り下げ、どころか掘り下げた方が良さそうだ。

 ゲームの発売日だから?妹と遊ぶから?

 そんな理由で、《ああ》までして助けようと思った人との約束を放り出すのだろうか?しかも、大切な話をする直前である。

 ――理解できない。頭がおかしい、と言わざるおえないだろう。

 

「藍もそれでいいよね?」

「え? ああ、うん」

 

 唐突に名前を呼ばれ戸惑う私に、凪咲がこっそりと耳打ちする。

 

「実はね、あまり大きい声じゃ言えないけど……。ユウ、シスコンなんだ。超ド級の。妹さんはそれ以上で、なんというか、あまり触れたくないんだ」

 

 ぽしょぽしょ声を聞いて、だろうな、と納得した。いや、それでも黒柳夕顔の行動には説明がつかない気もするけども。

 多分、黒柳夕顔がたとえ超ド級のシスコンでオマケに超ド級の《ゲーコン》だろうと、私は許せないと思う。だって普通じゃないから。

 

 めいっぱいの笑顔の横に構えた手を振り振りつつ『また放課後』と、別れの挨拶をする凪咲を見つつ思った。

 

 ――普通じゃないのは私だろう?

 

 

 

 

 

 次の舞台は翌々日。

 約束通り凪咲の家だ。

 

「どうも」

「いらっしゃい。もうユウも来てるし、さっそく話そうか」

 

 初めての愛衣家だった。感想としては、意外と普通。アーティスティックな靴箱は無いし、玄関にガスコンロが置いてあるわけでもなく。

 極めて普通な玄関。すぐ手が届く位置に何足か靴があり、――恐らく、黒柳夕顔の――ローファーがあり、地味な靴箱があり、傘立てが隅に座っている。

 なんというか、落ち着いた雰囲気の玄関。シンプル・イズ・ベスト。

 

 はやくして、と急かされるまま靴を端に揃えて置き、いざ、と愛衣家へ侵入する。

 途中通ったドアはトイレ、と説明された。

 リビングに入って右手には、ドアを潜って洗面所と風呂場があるらしい。ドアの少し手前、つまり右手側奥には綺麗に掃除されたキッチン。ダイニングキッチン、というやつ。

 リビング奥には大きなテレビが辺を二分する位置に陣取っており、その向かいにはソファ。

 それにしても、リビング、壁をぶち抜いたのかと言うくらい広い。

 

 そんなリビングを無視して、テレビの背後にあった階段を登った先にある凪咲の部屋へと向かった。

 

「彼氏を部屋に入れるって恥ずかしいね」

 

 との感想だ。

 家に入るのはいいのか、と思ったが、それはギリギリ平常心だと。私が彼女を意識していないのが理解出来ているから、らしい。

 

 よく分からんが、複雑そうということだけはわかった。

 

 ――そこまで恥ずかしがるような部屋というわけでもない。

 こちらを睨んできて凪沙に注意される黒柳夕顔の座る黄色いクッションも、ベッドに向かい合う形で設置されたマイメロとクロミのぬいぐるみも、何故か複数ある枕も、正座するか胡座でもかかなければ背が余りそうなローテーブルも、極めて一般的な《女性の部屋》の要素だと思う。もちろん、ローテーブルの上に設置されたピンクのディスプレイ&床置きのデスクトップパソコンもだ。

 ローテーブルの上には小さな鏡と香水の類、それと画材のようなものが綺麗に整頓されて、少し傾斜をつけて置かれたコルクボードの上に、サイズ丁度の下敷きとまだなにも書かれていない画用紙が貼り付けてある。

 

 部屋の中央はそのような雑多な空間で、端に付けてあるベッドと、その隣の化粧台を見ても、――彼女の申告通り、私の記憶通りなら――たった六畳程の部屋にモノの《疎密》を意識させられる。

 反対側の壁に埋め込まれた本棚には一昔前の流行りのケータイ小説が大量に詰められており、後はハリー・ポッターシリーズやら漫画やら。とにかく、図書館の棚一つ分程の本棚が空きスペースなどない程に埋められていた。

 

 本棚、が、気になった。本棚を見ればその人の人となりがわかるとは真っ赤な嘘だと私は常々思っていたが、彼女の所持する本達を見る限りでは、考えを丸々反転させなければならない。

 なんとはなしに眺めてみた本棚だが、とてもとても。私は驚いたのだった。

 

 彼女の肩の高さから考えて、一番気に入っているだろう本から順にタイトルを見ていくと……。

 ――『届け続ける想い』、『殺したいほど愛してる』、『優しい誘拐犯』、『彼は私の首を絞めた』、『さらば幸せを祈ります』、『常に泣いている』、『政略結婚』……。

 ――

 

 

 私は咄嗟に本棚から目を逸らした。他にも幾つか気になる単語や、黒と赤あるいはショッキングピンクに寄ったフォント文字を見た気がするが、敢えて無視した。普通じゃない。

 

 どこに座ろうか、と部屋を少し見回しただけでかなり精神的に疲れてしまった。本棚を眺めるだけでこんなにストレスが溜まるのは初めての経験である。

 

「ベッドに座って……。わたし、化粧台から椅子持ってくる」

 

 私が部屋を捜索している間、一階で『ジュース入れてきた』凪咲が気付いたら背後へと潜んでいた。

 ローテーブルにジュースを置いた凪咲は、数歩かけて化粧台から小さな丸椅子を取り、良質な毛の長い絨毯に置いて座る。言われるがまま私もベッドへ座った。

 ここで一つ注意して欲しいことは。私は彼女――凪咲が好きになれない、大切に思えないだけで特段性欲が薄いという訳でも、女の子に興味が無い訳でもない、ということだ。普通に緊張している。そう、普通。

 

 まあ、それはともかく、だ。

 黒柳夕顔は絨毯に置かれたクッションに。私はベッドの上に。凪咲は丸椅子の上に。

 

 それぞれ座った。つまるところそれは、喧嘩の始まりだった。

 

 

 

 

 

「正直に言って、さ」

 

 凪咲は頬をぴくぴくと痙攣させながらイラついた口調を見せつけた。

 

「邪魔なんだよね。わたし達の問題にベタベタ触らないでよ、気持ち悪い」

 

 最初の方に行われた理性的な事実確認など影も形もないただの罵倒だった。淡々とした話し合いが数呼吸ほど行われた後からずっと、つまりは約五分の間、ずっとそんな状態が続いている。凪咲は怒りっぽい性格なので、半ば予想されていたことである。まあ、黒柳夕顔に対しては私も言いたい事があったので止めはしないことで代わりとしていた。

 

「心配なだけよ。別に二人の関係に踏み込むつもりは無い。ただ……そう、裁判員みたいな立場で少しだけ口を出したいって言うだけ」

 

 黒柳夕顔はあくまで冷静に、落ち着いて呼吸しながら受け答える。先程からずっとだ。結構辛抱強い方だと思う。

 その態度が火に油を注ぐ結果にならなければ完璧だったろう。

 凪咲はまさに燃え盛る炎だった。あの給食時のちょっとした衝突に居合わせなかったことが――学年が違うので当たり前だが――、彼女の心にかなりの傷を作ったのだろう。

 

 

「そ、れ、が!迷惑って言ってるの!気持ちは分からないでもないけど、わたし達はお互い全部理解した上で納得してるの!」

 

 気持ちは分からないでもないけど――。

 ということは、やはり凪咲も私のことを良くは思っていなかったのだ。少しだけ悲しい気持ちになる。

 

「どうしろっての……。じゃあ私はどうしろっての!!」

 

 ついに、と言うべきか、やっと、と言うべきかは分からない。

 ともかく、今になって黒柳夕顔は爆発した。先程まで目尻一つ動かなかった仏頂面に涙が溢れ出す。あっという間に顔がぐしゃぐしゃと汚れたかと思えば、俯いて両手で顔を覆ってしまう。

 

「……藍はどうなの?」

「へ?」

 

 突如、話を振られた。

 私からは特に言うことは無いし、女のコの間に入る気はないので黙っていたのだが。

 いや。

 他人事じゃあないぞ、と釘を刺されたのか。

 

「どう思ってるの」

「…………」

 

 凪咲は黒柳夕顔に呆れながら、黒柳夕顔は泣きながら縋るような目で、それぞれに私を見ている。

 私は考えた。

 どう返答するのが正解か――。

 凪咲の様子を見た限りだと、黒柳夕顔を責めた方が良さそうだ。

 しかし、黒柳夕顔の顔には『これ以上責めないで』と書いてある。地味子の癖になかなか度胸があると思っていたが、思い違いだっただろうか。

 できるだけ冷静に黒柳夕顔を見詰めてみれば、黒柳夕顔もまた、こちらを見返す。

 凪咲よりも整っている顔立ち。仔犬のような、潤んだ瞳が語っている。『助けて』と。

 無理だ、と心の内に答えた。今回の場合、私自身の発言権は薄いし、黒柳夕顔は不利。凪咲の決定にほぼ左右されることだろう。

 黒柳夕顔は相変わらず私を見詰める。先程から部屋の時間は止まっている。実際には三人の人間が絶えず呼吸しているにも関わらず、空気自体が止まっているように思えた。

 

 私は知っている。こんな時、凪咲は何も考えられなくなる。

 意識まで白く染め上げられた停滞の中で、ただただ活動を停止させる。永遠にそうするだろう。

 

 私は結論を出した。

 

「いや……友達を心配するのは普通だと思う。確かに、お互い言い過ぎたけどもう終わったことだし、そもそも、僕が悪いことだ」

「そんな話をしてるんじゃないの!」

 

 ピシャリと雷を落とされる。どういう事だ?

 話し合いを始めてから既に数十分が経過しているにも関わらず凪咲の言いたいことがいまいち分からない。

 

「わたしが怒ってるのは!わたしと!藍の!問題を!なんで私抜きで話してるのかってこと!」

 

 ――なるほど、合点が言った。それは確かにおかしいかもしれない。私と凪咲の付き合い方が気に入らない黒柳夕顔と、私だけが話すのは確かにおかしい。

 しかし、だからといって凪咲が先程から誘導するように話し合い自体を一旦無しにして、というのはダメだ。

 

「……それは分かったけど。でも、話し合うったって、それについてはもうどうしようもない気がするけど」

「気持ちが追いついてないの。少なくとも《ユウ》はね。だからそれを整理するため、話し合ってんでしょ?分かってないの、藍だけだよ」

 

 ……。

 私はようやく、この話し合いの《意味》というのを理解した。

 正確に言おう。

 私たちの交わす会話に実効的な意味なんて無くて、ただ感情を整理しているだけなのだと、私はようやく理解できた。

 ――誤解しないで欲しいが、この時点で何も状況を知らなかった程に私はバカではなかった。後から気づいたことではあるが、結局このやり取りにこそ意味はなく、私達は同じことを納得したり説明したりいていたわけである。

 

「だとしても、僕からは何も言えないよ。僕は君が好きじゃないし、それを申し訳ないと思ってる。だから怒られるのは当然だ。他には特に言うことはないよ」

 

 申し訳なさと、怒りと喜びがぐちゃぐちゃで吐き気を催す程ではあるけれど、そこから話すべきではない成分を取り除いて、上手く形容するとそうなる。

 

「……話になんない」

 

 が、私の意見は数に入らないようで、謝意を表した凪咲には鼻で笑われてしまう。

 ……仕方ない、のだろうか。結局のところ、私が抱いているのは罪悪感とちょっぴりのイライラで、そこに《愛》の文字は無い。恋人どうしそれが《共感して貰えない》程度の話では済まないことくらいは知っている。

 

「……。

 ――《ユウ》さ、何でそんなにわたしたちの事情に口を突っ込んでくるの?理由を教えて?」

「分かんない」

「分かんないってことは無いでしょ?」

 

 本格的にグズり始めた《ユウ》を宥めるように凪咲が語り始める。

 

「このままだと、私一人悪者みたいじゃん、ねぇ?」

「違う!」

 

 少しだけ強い口調で黒柳夕顔は否定した。

 

「私が可哀想って思ってくれたの?」

「違う!!」

 

 先程より幾分大きな声が響いた。もちろん、黒柳夕顔の声。

 顔を上げた黒柳夕顔は、案の定、涙でぐしゃぐしゃだった。『涙は女の武器』とはよく言ったもので、思わず後ずさりしてしまいそうになる。

 涙に濡れてはいたが気持ちを全て洗い流していた訳では無いらしく、何かを噛み締めるような、決意を固めたような顔をしていた。

 

「アタシ、凪咲の事が可哀想だなんて思ったことない……。いつも楽しそうにしてたの分かってるから。少なくとも、アタシの前では。だから、アタシの中の凪咲は可哀想なんかじゃない」

 

 既に過呼吸気味の黒柳夕顔は深く深呼吸した後、ポツポツと、涙と一緒に言葉を零していく。頭はしっかりと回っているらしい。

 しかし、彼女は本当に凪咲の恋人なのだろうか。普通に考えて、《ただの》友達にしては行動力と抱く感情がおかしすぎる。友人から少し怒られた程度で泣き出すような女が、話したこともないクラスメイトに高圧的に話しかけるほどの勇気を、普通の友人から貰えるだろうか。

 

 私が思うに、私はこの黒柳夕顔から凪咲を奪ってしまった構図なのではないか?かなり普通じゃない考えだが、しかし彼女らは実際普通じゃない。何を考えているのかよくわからない。充分に有り得る。

 

「じゃあなんで藍にあんなこと言ったの?いつもの気まぐれ?

「違う……。アタシは!アタシは、悔しかった……!凪咲の事を何とも思ってないようなヤツに、アタシの凪咲を取られて!こんな、こんな……何も考えてないようなヤツに!我慢の限界だったから……言った」

 

 何も言えなかった。

 黒柳夕顔の絞り出すような科白は、私と凪咲の口を強い力で閉じ、心の動きまでもを停止させた。

 

 

 

 数秒の空白。

 

 漸く冷静になってくる。

 すると疑問があぶくのように湧いてくる。

 女が、女を好きなのか。異常な友愛か。あるいは、黒柳夕顔は頭がおかしいか。

 

 レズビアンだ。異常な友愛だろうが、狂人だろうがレズビアンなことに変わりはない。黒柳夕顔はレズビアンだ。

 

 私はだんだん怖くなってきた。私は今、レズビアンと同じ部屋にいる。レズビアンのレズ空気を吸っている。

 耐えきれなくなって、

「ちょっとトイレ」

 と、部屋を出た。一階に降り、本当にトイレへと入る。

 

 二階からの物音は全くと言っていいほど聞こえなかった。建てつけがいいからか、それとも、なにか、二階では沈黙が続いているからか。

 時々、亀のようなペースで声が聞こえなくもなかったので、恐らくは後者か。

 

 ――トイレから戻ると部屋の中は既に打ち解けた雰囲気で、私が口出しできるような空気ではなかったことだけを覚えている。

 気まずさの中、ゆっくりとベッドに座った。

 

「電話でなよ」

 

 何分硬直が続いたか、突然に凪咲が声を上げる。白魚のような指先が揺れる視界の中でぐらつき、より細長くなってゆく。《それ》は黒柳夕顔のズボンを指している。お洒落したのか腰からロングスカートを降ろした凪咲とは違って、何の変哲もないジーパン。ポケット部分の膨らみが僅かに震えていた。

 黒柳夕顔はずっと掛かってきた電話を無視していたのだ。

 

「早く出て」

 

 ふるふると首を振る黒柳夕顔に向けて凪咲は更に言う。その声は硬く冷たい。そりゃあ、ずっと隣にいた親友が実は同性愛者で、しかも自分が好きだと分かればそうもなる。

 ホモはまだ男同士でネタにされるし、そこまで差別意識はないけれど、やっぱりレズになると気持ち悪い。

 

「……分かった」

 

 凪咲の睨みが効いたのか、やがて黒柳夕顔は電話に出た。電話の相手は誰か知らないが、やけに高く甘えた声を出す。

 女というのは電話になると声が高くなるが、それとは少し違った声。

 しかし、黒柳夕顔が好きなのは凪咲だから、彼氏というのも考えにくく……。

 

 凪咲は納得したようにふんと鼻息を鳴らす。次いで、ドヤ顔を披露したかと思えばスグに落ち込んだ顔を覗かせる。

 

「愛しの妹。私よりもね」

「君は家族じゃあないし、なれないだろう?」

 

 心底悔しそうに言うので、思わず皮肉で返した。レズビアンに尻を追われて嬉しいのか?

 

「女の子には色々とあるのよ」

 

 と、言われてしまえばこちらが返せるようなことは何もなくなってしまう。

 もしかすると、愛されたい、のだろうか。それは私のせいかもしれない。もしそうだとすれば、私から言えることは何も無いわけだが。

 しかし、ひょっとしたら、彼女は浮気をしているという可能性すらある。考えようによればひょっとしなくても浮気だ。なんせこんな彼氏だ。だとすれば、私はどうすれば良いのだろうか。

 常識、普通で言えば私は怒るべきか。いや、しかしと私の良心が引き止める。私が彼女を愛していない、という事実が後ろ髪を捕まえて離さない。沈黙は金だ。

 

 ……怖くないのだろうか?

 

「何だかんだ言って結局妹なんだから、恋愛に向いてないんだよ、ユウは」

 

 一階の玄関からは相変わらず媚びた声が響いてくる。その内容はといえば、帰る時間だとか、ゲームの攻略法だとかといったもの。

 さすが超ド級シスコンといったところか。

 その声が自分の両親と重なって、思わず怒鳴りつけたくなってしまう。

 仲がいい誰かの親は子供をおいてけぼりにしてしまった。

 私は凪咲を無視していて、凪咲は黒柳夕顔を置いて違う所に行った。

 それぞれが勝手な理由で誰かを蔑ろにしたのだ。

 気分が悪い。

 そしてこれは今気づいた事だが、私は黒柳夕顔が嫌いだ。

 

「好きなのか?」

「全然?私が好きなのは藍だけだよ」

 

 媚びた女の声がする。

 ぽすん、と肩に衝撃。実際の質量を考えれば、ぼてっ、と肩に頭が乗る。

 電話は未だ終わらない。

 恋人に金を強請られているような、そんな声が響いてくる。

 永遠の愛を薬指で保証するような、粘着質な音が耳元で囁かれる。

 

 私は凪咲が嫌いになり、

 

 逃げ出したくなった。



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