【完結】ハリー・ポッターは邪悪に嗤う   作:冬月之雪猫

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第二話『みぞの鏡』

 争いのない世界。それは一見すると理想郷(ユートピア)のように思える。

 けれど、争いは人の世の常だ。怒りや憎しみと言った感情も人の心を構成する重要なピースの一つなのだ。人が人である限り、争いは避けられない。それなのに争いが起きないのは感情を操作されている為だ。

 怒りや憎しみを抱いた時点で、その感情は改竄される。穏やかで幸福である事を強制される。

 つまるところ、この世界は《自由なき管理世界(ディストピア)》なのだ。

 だから、この世界を『間違っている』と否定する事は簡単だ。

 

「……だが、それは正しい事なのか?」

 

 例えば、生まれた事自体が罪なのだと言われて、拷問の末に殺された人がいる。

 例えば、暴漢に襲われて屈辱と苦痛を味あわされた上に法律からも死刑を言い渡された女性がいる。

 例えば、そこが麻薬の密輸ルートに適しているからという理由で食い散らかされた村がある。

 例えば、大国同士の代理戦争に使われて焼け野原となった国がある。

 理不尽な目に遭わされた人々にとって、この世界は救いだ。

 何故なら、この世界に理不尽な苦痛は存在しない。如何なる悪意も徹底的に取り除かれている。

 彼らに対して、『この世界は間違っている。君達が傷つけられる世界こそが正常だ』などと言える者が果たしているのだろうか? いるとしたら、その者はもはや人間ではない。人の心を持たない怪物だ。

 

「奈落から這い上がる事が出来た人を再び奈落へ突き落とす。まさに悪魔の所業だ」

 

 半月程、世界を渡り歩いてみた。ニワトコの杖の助けを借りれば、世界中のどこにでも姿現す事が出来た。

 そして、笑顔を浮かべる人々を横目に、土地の記憶を覗かせてもらった。

 地獄とは空想の産物ではない。悪魔とは空想の産物ではない。

 どちらも現実に存在していた。その事を何度も確かめる結果となった。

 

「……怒りや憎しみを抱く自由。それは、彼らの笑顔を奪ってまで求める必要のあるものなのか?」

 

 その問いかけの答えは自分で見つけ出すしかない。

 

 第二話『みぞの鏡』

 

 ある人は世界を残酷なものと言う。

 ある人は世界を優しいものと言う。

 ある人は世界を醜いものと言う。

 ある人は世界を尊いものと言う。

 ある人は世界を地獄と言う。

 ある人は世界を楽園と言う。

 人によって世界の見え方は千差万別だ。

 

 ハリー・ポッターにとって、世界とは地獄だった。

 階段下の物置に閉じ込められて、食事すら満足にもらえない日々。戯れに殴られ、怒鳴りつけられ、常日頃から人格を否定され続けてきた。

 だから、彼は理不尽な苦痛というものをよく知っていた。

 

「僕にはトムがいた。彼の分霊箱の影響を受けて、抗う心を得る事が出来た。そして、母さんが迎えに来てくれた。だから、解放される事が出来た! けど! それは単純に運が良かったからだ!」

 

 トムが居なければ、あるいは耐えられなかったかもしれない。自分の命を断っていたかもしれない。

 母さんが迎えに来なければ、僕はバーノンやダドリー、おばさんの事も殺していたかもしれない。

 それがどんな事を意味しているのか分かっていても尚、そう選択してしまっていた筈だ。

 

「理不尽な苦痛を受け入れる事が出来る人間などいない! この世界は、そんな理不尽を取り除いてくれている! なら、いいじゃないか! わざわざ理不尽な世界に戻す必要なんてない!」

 

 誰も居ない平原で彼は叫んだ。

 結論は既に出ている。それなのに、叫ぶ言葉はどこか言い訳じみている。

 

「そんなに争いたいのかよ!? どこかで誰かが泣いていても、それでも傷つけ合う世界が正しいと思うのかよ!?」

 

 ここにはハリーの他に誰も居ない。

 けれど、彼の瞳にはもう一人の自分が映っていた。

 

「僕は……、僕は……」

 

 取り繕っていたものがボロボロと落ちていく。

 

「……アレはトムだ」

 

 トムの分霊の影響を受けていたからこそ、ハリー・ポッターはヒーローだった。

 自信に満ち溢れ、頂点に上り詰める事を諦めず、目標の為に如何なる努力も惜しまない。

 悪の道とは言え、それはトムがヴォルデモート卿として歩んだ道そのものだ。

 

 どのような状況下でも自分を曲げない類まれな精神力。

 誰もが一目置かずにはいられないカリスマ性。

 如何なる困難にも立ち向かう覚悟。

 

 すべて、トムが持つ資質だ。

 彼の分霊が離れた今、ハリーは本来の彼に戻っている。

 孤独を恐れ、愛に飢えている普通の男の子。

 あるいは、ゆっくりと数ヶ月前までの彼のような人間に成長していく事は出来たかもしれない。

 けれど、今の彼には何一つ備わっていない。

 ルーピンの授業でまね妖怪(ボガート)が化けたハリーの最も恐れるもの。それは本当の自分だった。

 

 ―――― 自分の道は自分で切り拓くものだ。

 

 もう一人の自分が語りかけてくる。

 幻聴だと分かっている。けれど、その声はあまりにも明瞭に響いてくる。

 

 ―――― 家畜のように生きて何の意味がある?

 

 苛烈な言葉だ。

 

「……それは強い人間の言い分だ!」

 

 傷つける側の人間だから、そんな事を言えるのだ。

 傷つけられる一方な人間は、例えそれが家畜のような生き方でも、安寧を求める。

 

「奪われるばかりの人間の気持ちを考えてみろ! 傷つけられるばかりの人間の気持ちを考えてみろ!」

 

 ―――― だから、変わらなくていいのか?

 

 自分自身とは思えないほど、鋭い眼光が問いかけてくる。

 だけど、変わらなくても、この世界では安寧を享受する事が出来る。

 無理に変わろうとする必要なんて欠片もない。

 

 ―――― 変化の無い安寧は停滞と同義だ。それでは死んでいるのと変わらない。

 

 いつかのサラザールの肖像画の言葉が蘇る。

 

『わしは《死》を停滞と定義した。不死とは歩み続ける事なのだ。だが、不死を求める者とは、死を恐れるものでもある。死という大いなる変化を拒む者に、歩み続ける事など出来はしない。《死を制する者》は死を恐れぬ者なのだ。だが、死を恐れぬ者は不死など望まない。為すべき事、生きる理由こそ、魔法使いにとっての寿命なのだ』

 

 変化を求めない。それは歩みを止める事に他ならない。

 

 ―――― 貴様は死者か? それとも、生者か?

 

「僕は……」

 

 ―――― 貴様とオレ様は別人などではない。

 ―――― ヴォルデモート卿の分霊の影響を受けていても、その本質は変わらない。

 ―――― 貴様はオレ様であり、オレ様は貴様だった。

 ―――― 答えは貴様の中にある。

 ―――― その真なる望みを見るがいい。

 

 手の中のニワトコの杖が勝手に動き出した。

 杖が語りかけてくる。

 

『わたくしはトム・リドルを選ばなかった。わたくしはあなたを選んだ。偉大なる王。世界の任せるに足る存在。ハリー・ポッター。あなたは常にあなた自身だったのです』

 

 それはロウェナの声だった。

 ニワトコの杖は彼女が作ったものだ。

 彼女の知恵と知識、そして、ゴドリックの戦闘技術が注ぎ込まれている。

 

「分霊箱だったのか!?」

『その通りだ、ハリー・ポッター』

 

 今度はゴドリックの声だった。

 

『もっとも、魂の断片に過ぎない。意志を持って話す事は非常に難しい。それほどに希薄だ』

 

 サラザールの声だ。

 

「いや、喋ってるじゃないか!?」

『これが最初で最後です。ニワトコの杖に注がれた我らの魂の断片を紡ぎあげる事で仮初の人格を形成しているに過ぎない。この対話が終われば、二度目はありません』

「……なんで、今なんだ?」

『君は運命の分かれ道に立っている。それも、世界の命運をかけた道だ。これ以上に相応しい瞬間などあるまい』

 

 杖が勝手に魔法を使った。姿くらましだ。

 そして、気がつくとホグワーツの一室に姿現ししていた。

 

「ここは……?」

 

 見覚えのない場所だ。埃臭い。それに、目の前にはやたらと大きな物体が布に覆われた状態で鎮座している。

 

『ハリー・ポッター。決断の時だ。世界を存続させるのか、それとも破壊するのか。その為に、君自身を見つめ直すといい』

 

 サラザールの声と共にニワトコの杖が疾風を巻き起こした。

 布が捲れ上がり、その真の姿を現す。

 

「……鏡?」

 

 天井に届く程の巨大な鏡だった。

 奇妙な文章が刻印されている。

 

「なんだ、これ?」

 

"Erised stra ehru oyt ube cafru oyt ”  

"Wohsi” 

 

 その文字の羅列にハリ―は首を傾げた。

 

「ん? これは……」

 

 しかし、少ししてから気がついた。

 

「Wohsi……、これはI showか?」

 

 その刻印は鏡文字になっていた。

 

「鏡だからか? えっと、《私はあなたの顔ではなくあなたの心の欲望を見せる》?」

『みぞの鏡の前に立ちなさい。そこで、あなた自身を見つめ直すのです』

「僕自身を……」

 

 言われるまま、彼は鏡の前に立った。

 自分自身を写す筈の鏡。けれど、その鏡面に広がる光景は彼の想像の遥か上をいっていた。

 それは彼自身の最も深い望み。

 彼自身の物語だ。


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