ペットの蛇に自分の知る限りの言葉の中で最も魔法的な雰囲気の漂う《ゴスペル》という名前をつけたハリーはマクゴナガルに連れられて、《オリバンダー杖店》という店にやって来た。狭くて見窄らしく、おまけに不潔そうな店だった。扉には金の文字で《紀元前三八二年創業 高級杖メーカー》と刻まれている。我らがキリストが生まれる前から存在していた事になる。哲学者のアリストテレスが生まれた年だ。ハリーにとって、これほどまでに胡散臭い店を見たのは初めての事だった。
「《詐欺師の店》と書いてありますね」
「おやおや、文字の読み書きから教える必要があるのですか? そんな文句はどこにも書いてありませんよ、ハリー」
マクゴナガルはハリーの背中をせっついた。中に入ると、奥の方で鈴の音が鳴った。室内には小汚い椅子が一つだけ置いてある。
「どうぞ、ミセス」
ハリーは実に紳士的に椅子をマクゴナガルに譲ってみせた。老人に対する若者の優しさを存分に披露した。
そこには僅かな皮肉と、ゴスペルを買ってくれた事に対するささやかな感謝の気持ちが混じり合っていた。
「どうも、ハリー」
マクゴナガルは遠慮なく座る事にした。老人と皮肉られた程度で目くじらを立てる程、彼女は自分を若いとは思っていなかった。
それに、それがハリーの捻くれ過ぎて、逆に素直になってしまった感謝の気持ちである事に気付いていたからだ。
しばらく待っていると、いきなり柔らかい声で「いらっしゃいませ」と言われた。
そこまで意識が散漫になっていた自覚などなかったのに、ハリーは目の前に立っている老人がいつの間に移動してきたのかサッパリ分からなかった。
「おお、そうじゃ。そうじゃとも、そうじゃとも。まもなくお目にかかれると思っておりましたとも、ハリー・ポッターさん」
「どうも、ミスタ」
ハリーは自分の名前を知られている事に疑問を持たなかった。来る事が分かっていたかのような口振りから察するに、マクゴナガルが事前に連絡を入れていたのだろうと考えたのだ。
嘘か真か、紀元前から続く老舗のメーカーなら、予約の必要があっても不思議ではない。
「お母さんと同じ目をしていらっしゃる。あの子がここに来て、最初の杖を買った日がつい昨日の事のようじゃよ。二十六センチの柳の杖じゃった。振りやすく、呪文学には最適でのう」
ハリーは感心した。この店は見た目はともかく、システムはシッカリとしているらしい。これは、過去に販売した商品のデータをキチンと保管しているからこそのセールストークだろう。
ハリーの中で《オリバンダー杖店》に対する胡散臭さが少しだけ薄れた。
「杖には性能差があるのですか?」
試しに聞いてみると、オリバンダーは饒舌に語り始めた。どうやら、杖の性能には大きく分けて二つの要素が関係してくるらしい。使用する木材と芯だ。
「例えば、アカシアの木を杖の木材とした場合は極めて気難しい性格となりますのう。極めて有能な魔法使いでなければ、その真価は決して発揮されません。逆にクリの木を木材とした場合は所有者に染まりやすい性格となります。多面性のある杖とも言えますな。そちらのマクゴナガル先生の杖はモミの木を使用しておる。一つの事に強い集中力を発揮し、断固とした意志を持って挑める魔法使いを選ぶ傾向にあり、変身術に向いております」
最初の数分はハリーも興味を示していたけれど、十分を超えた辺りからウンザリした表情に変わった。マクゴナガルも辟易した様子だ。
「あー……、ミスタ。ありがとうございます。その辺りで結構です。そろそろ、ボクに相応しい杖を選んで頂けますか? 個人的にはアカシアやカエデ辺りがいいのですが」
どちらも選ばれし者の杖であり、特にカエデは持つだけでハイステータスの証となるらしい。ハリーはハイステータスという言葉が気に入った。
「それでは、いろいろと試してみましょうか」
アカシアの杖はマクゴナガルの座っていた椅子の足を爆発させた。カエデの杖は窓ガラスを粉砕し、イチイの杖はオリバンダーをハゲにした。
ハリーが気に入った木材の杖は悉くハリーに対してそっぽを向いた。
「ファック! ボクは選ばれし者じゃないってのか!? 蛇と喋れるんだぞ!!」
ハリーは地団駄を踏んだ。そんな彼にオリバンダーは髪を元に戻しながら一本の杖を手渡した。
「ひょっとすると、あるいは……」
歯切れの悪い口調と共に渡された杖を握った瞬間、稲妻が走った。
比喩とか、精神的な意味ではない。文字通り、稲妻が飛び散った。けれど、稲妻は何かを破壊する事もなくハリーの周囲を舞い踊っている。
「いいじゃないか! 気に入った!」
まるで体の一部のように、その杖はハリーによく馴染んだ。
「これをくれ!」
ハリーは財布を取り出しながら言った。ところがオリバンダーはしきりに「不思議じゃ……、なんとも不思議じゃ……」とブツブツ呟いている。
「おい! ボクを無視するんじゃぁない!」
何度呼びかけても応えないオリバンダーにハリーはしびれを切らして怒鳴りつけた。
すると、マクゴナガルが叱責する前にオリバンダーがハリーのおでこを指でなぞった。
「なっ、何をする!」
咄嗟にオリバンダーの手を払い除けたハリー。けれど、オリバンダーは気にする様子もなく指でなぞっていた部分を凝視した。
「ポッターさん。わしは売った杖を全て覚えておるのじゃ。一本残らずすべてを。あなたの杖の芯に使っておるものと同じ不死鳥から提供された尾羽根を使った杖がある。あなたがこの杖を持つ事になるとは、実に数奇じゃ。兄弟羽が……、兄弟杖があなたにその傷を負わせたというのに」
「傷痕だって?」
ハリーはおでこに触れた。たしかに、そこには幼い頃から稲妻の形の傷痕がある。
「あー……っと、この傷は魔法の杖でつけられたものという事ですか?」
「さよう。三十四センチのイチイの木の杖じゃ。《例のあの人》の持つ、杖じゃよ」
「ユノーフー? 妙な名前ですね。それに、なんでユノーフーはボクにこんな傷を?」
「ユノーフーではありませんよ、ハリー。《例のあの人》です。あるいは、《名前を言ってはいけないあの人》とも呼ばれています」
「《例のあの人》? 《名前を言ってはいけないあの人》? 失礼ですが、バカにしているのですか? 今どき、芸人だってもう少しマシな芸名をつけますよ?」
ハリーはマクゴナガルとオリバンダーの正気を本気で疑った。
「ええ、実に馬鹿げた呼び名です。ですが、そう呼ばずにはいられないのです。その者の真なる名は、口にするだけで悍ましい」
青ざめた表情を浮かべるマクゴナガルに、ハリーは点と点がつながっていくのを感じた。
バーノン達がマクゴナガルに対して見せた恐れの表情。あれは魔法の実在を知らなければありえない筈のものだ。それに、両親の財産が魔法界の銀行に預けられていた事、オリバンダーが母親に杖を売った事がある事などを考えると、両親が魔法使いであった事は疑いようがない。その両親はハリーが赤ん坊の頃に死んだ。バーノン達は交通事故だとハリーに説明していたが、彼のおでこの傷痕が魔法使いの杖によってつけられたものなのだと判明した今、彼らの言葉に疑念が過る。
「……ミセス、質問をよろしいですか?」
「ええ……、もちろんです」
ハリーは問いかけた。
「ボクの両親は交通事故ではなく、特定の誰かに殺されたのですか?」
マクゴナガルはわずかに躊躇った後、小さくうなずいた。
「では、その殺人犯とボクに傷をつけた犯人は同一人物だったりしますか?」
「……ええ、その通りです」
ハリーは息を深く吸い込んだ。腹の底から煮えたぎる憎しみをマクゴナガルにぶつけない為だ。ハリーにとって、マクゴナガルは出会ってきた人々の中で最も尊重したい人物になっていた。
「その人物の本当の名前をお聞きしても?」
「……《ヴォルデモート》。そう、彼は名乗っていました」
「ヴォルデモート。ヴォルデモートですか」
ハリーはその名前を何度も口の中で転がした。
両親を殺した事などはどうでもいい。けれど、ハリーが過ごした屈辱の十年の元凶に対して、ハリーは深い憤りを感じていた。
「その男は今も?」
「いいえ」
復讐相手の居所を知りたいと願うハリーに対して、マクゴナガルは言った。
「ヴォルデモートは、もういません」
「いない? それは、どういう意味ですか?」
「言葉通りですよ、ハリー。あなたの名前が何故特別なのか、そこに答えがあります」
ハリーは首を傾げた。
「あなたが倒したのです。赤ん坊の時に、誰もが恐れる闇の帝王を」
「……はぁ?」
ハリーは耳をほじくった。
「えーっと? なんですって? 倒した? 赤ん坊の時に? ミセス、からかうのはやめて下さい。そんな事、ある筈がないでしょう? まったく、どこまでがホラだったんですか?」
さっきまで抱いていた憎悪と憤怒がかき消えた。実にバカバカしい。わずかにでも信じてしまった事が恥ずかしくなってくる。ハリーはやれやれと肩を竦めた。
ところが、マクゴナガルは「ホラではありません」と言った。まだ、このジョークを続けるらしい。ハリーは不快そうに顔を歪めた。
「ボクは両親の事など毛ほども興味がない! けれど! 両親の死をジョークのネタにされるのは不愉快だ!」
「ジョークではありません!」
「ジョークじゃない? だとしたら、魔法使いは間抜けの集団という事になりますよ? 赤ん坊に倒されたヤツを恐れて名前すら呼べない? 赤ん坊が相手ならスクールに通う前の子供にだって勝てますよ。ヴォルデモートってヤツはどんだけ貧弱なんですかぁ?」
「あなたはヴォルデモートの恐ろしさが分かっていないのです!」
「赤ん坊に倒されるヤツのどこを怖がればいいんですか? そんなヤツを倒したくらいで褒められても全く嬉しくない! むしろ、恥ずかしい! 冗談じゃないぞ、まったく!」
ハリーはオリバンダーにガリオン金貨を押し付けた。
「ほら、金だ! まったく、バカバカしい!」
ハリーは杖をマダム・マルキンの洋装店で買ったばかりの服に備え付けられている杖差し用のホルダーに差し込むと、扉を蹴りで開けて出て行った。
「お、お待ちなさい、ハリー!」
その後を慌てて追いかけるマクゴナガル。その二人の背中を見つめて、オリバンダーはやれやれと息を吐いた。
第二話『ハリーの誓い』
ハリーはダーズリーの家に戻ってきた。蛇を腕に絡ませながら、見るからに不機嫌そうな表情を浮かべて家の中に入ってくるハリーにバーノン達は警戒している。その姿にハリーは少しだけ気を良くした。
彼らは魔法を恐れている。その事に気付いた時、ハリーの表情から憤りは消え失せた。代わりに笑顔が浮上してくる。
「やあ、おじさん。それに、おばさん。ダドリー」
一人一人に視線を送ると、反応は三者三様だった。バーノンは真っ青になり、ペチュニアはダドリーを抱き寄せ、ダドリーは両親の反応に心底困惑している。
「おい、ハリー! その蛇はなんだ?」
「彼かい? ゴスペルって言うんだ。かっこいいだろう?」
ダドリーは普段と違って、まるで同等の立場かのように語りかけてくるハリーに対して不機嫌になった。
「その口の利き方はなんだ! ぶん殴るぞ、ハリー!」
「ほう? このボクを殴るって? いいぜ、やってみろよ! 後悔させてやる!」
それまで隠してきた本性を顕にしたハリーに対して、バーノンとペチュニアはパニックを起こした。
二人揃って、あまりにも素っ頓狂な声を上げるものだから、ハリーとダドリーは思わず互いを見つめ合ってしまった。
「パ、パパ? ママ?」
バーノンは髪を掻き毟り、ペチュニアはざめざめと泣き始めた。
「お、おい! パパとママに何をしたんだ!?」
「いや、待て! 何もしてない! マジで何もしてないぞ!」
あまりの事に唖然となる二人。夫妻が落ち着くまで、二人は呆然と立ち尽くした。
しばらくして、ようやくペチュニアが泣き止んだ。というよりも涙が枯れたようだ。
鼻をすすりながら、ハリーを睨みつけている。
その姿を見て、ハリーはすっかり白けてしまった。それまで不倶戴天の敵だと思っていたバーノンとペチュニアが実にくだらない存在に見えた。怒りや憎しみを抱く事さえ無駄に感じた。
「おい、ペチュニア」
仮面を被るのもバカバカしくなり、ハリーは慇懃な態度でペチュニアの名前を呼び捨てにした。
「ママを呼び捨てにするなよ!!」
ダドリーが怒りに燃えると、ペチュニアは慌ててダドリーを抱きしめた。
そして、ハリーに怯えきった表情を向けた。
「な、なに?」
「二階の空き部屋があるだろう? あそこをボクの部屋にする。文句はないよなぁ?」
「……え、ええ、構わないわ」
「グッド」
ハリーはリビングを出ると、階段下の物置の扉を開いた。使い慣れた毛布と、ほんの少しの財産であるガラクタを拾い上げ、二階に上がる。空き部屋にはダドリーのおもちゃが散乱していたけれど、ハリーは適当に部屋の隅に蹴り飛ばして空間を広げた。
それから静かにフローリシュ・アンド・ブロッツ書店で買い求めた教科書や《ホグワーツの歴史》、それにマクゴナガルの推薦図書を読み耽り始めた。
「ほう? 入学後に未成年の魔法使いが学校外で魔法を使う事は禁じられているのか」
ホグワーツの歴史には魔法界の法律なども記載されていた。大広間の天井にかけられた古代の魔法、ホグワーツの創設者達、ホグワーツで起きた数知れない事件。
恐ろしく分厚い本だったけれど、ハリーには幸いにも時間が有り余っていた。
それから8月が終わるまで、ハリーとダーズリー一家の間には冷戦状態が続いた。
そして、ハリーの部屋は様々な魔法の実験によって一月前とは様変わりしていた。入学後には出来なくなる事を可能な限りやっておいた。その為に、一度は遠くのロンドンまで行き、ダイアゴン横丁で書籍や悪戯グッズの追加購入なども行った。
今や、ダドリーが急襲を仕掛けてきても、床に敷いた絨毯を踏んだ瞬間に一階まで沈んでいってしまうようになっていた。窓に石を投げようとすれば、おでこに向かって跳ね返ってくるようになっていた。
そして、9月を迎えた。ハリーは特に言葉を残す事もなくダーズリーの家を出た。
もはや、彼らに対して復讐心など抱いていなかった。その感情を向けるべき相手は他にいる。
「ヴォルデモート」
ハリーはマクゴナガルの推薦図書を読む事で、ようやくヴォルデモートという存在が実在した悪人である事を確信した。
そして、彼に纏わる情報をまとめた本から、彼のシンパだった者達が闇の中に潜み、帝王の復活を待ち望んでいる事を知った。
滅びて十年が経過した今でも尚、その名前は恐れられ続けている。
ならば、その認識を塗り替えてやろう。
ハリーは誓った。歴史上のどんな偉人にも、どんな犯罪者にも、誰にも負けない男になる。
―――― ヴォルデモートの名前が霞んで消える程の男になる!!
ハリーはマクゴナガルに教わった通りにキングス・クロス駅に向かい、9番線と10番線の間の柱をトランク片手に突き進んだ。
『いくぞ、ゴスペル! ボクは魔法界のNo.1になる!』
『その意気だぜ、相棒! 相棒ならなれるさ!』
意気揚々と、ハリーは真紅のホグワーツ特急に乗り込んだ。