第三十一話『魔王再臨』
出来損ない。それが彼女の呼び名だった。
ドイツの名立たる純血の名家であるナイトハルト家には息子が一人と娘が二人いた。長男のヴィルヘルムはダームストラング専門学校を首席で卒業し、長女のカルラはボーバトン魔法アカデミーで魔法薬における画期的な論文を発表している才女だった。
当初、当主であるフランツとその妻であるヘルミーネは次女のローゼリンデにも期待を寄せていた。さぞ素晴らしい才能を発揮してくれる事だろうと英才教育を施した。
けれど、結果は散々たるものだった。ローゼリンデの魔法力は致命的な程に乏しかったのだ。
フランツとヘルミーナの失望は大きかった。
ヴィルヘルムがローゼリンデに《ナイトハルト家には相応しくない出来損ないだな》という苛烈な言葉を投げかけた時、二人は窘めるどころかその通りだと彼女を叱りつけた。
いつもイライラしているカルラがストレスの捌け口としてローゼリンデを使っても、咎める者はいなかった。
出来損ない。
落ちこぼれ。
期待外れ。
産まなければ良かった。
面汚し。
そうした言葉を毎日投げかけられ、ローゼリンデは泣き続けた。
同情してくれる者などいなくても、彼女には泣く以外の抵抗の仕方が分からなかった。
泣く度に姉に折檻された。時には髪を引っ張られ、時には踏みつけられ、時には物置に閉じ込められたまま一週間も忘れられた事があった。
徹底的に人格を否定され続け、食事も満足に与えてもらえなかった彼女はやせ細り、常に怯えた表情を浮かべていた。
助けを求めようにも、一族の恥部として扱われた彼女は外部の人間に決して会わせてもらえなかった、
消えてしまいたいと何度も願った。けれど、どうすればいいのか分からなかった。
六歳の頃から、彼女は教育を受けさせてもらえなくなり、他の同世代の子供が簡単に思いつく事さえ閃く事が出来なかった。
そして、自分の誕生日を知らないまま、彼女が十歳になった日、その男が現れた。
第三十一話『魔王再臨』
その日、フランツの前に一匹の屋敷しもべ妖精が現れた。聞けば、新しい主人を探していると言う。
彼は喜んだ。屋敷しもべ妖精を使役する事は一流の証とされているからだ。それなのに、ナイトハルト家には屋敷しもべ妖精がいなかった。それはおかしい事なのだとフランツは常々考えていた為、現れた屋敷しもべ妖精を何も疑う事なく受け入れた。誤りが正されたのだと確信したのだ。
屋敷しもべ妖精はクリーチャーと名乗り、挨拶として見事な細工が施されたロケットを献上した。
フランツは無邪気に喜んだ。クリーチャーの忠誠心を褒め称え、疑う事無くロケットを身に着けた。
クリーチャーが現れてから、ナイトハルト家の生活は以前よりも更に豊かなものになった。
なんと、クリーチャーの以前の主人は偉大なるブラック家だったのだ。けれど、ブラック家の最後の末裔はアズガバンに収監されており、クリーチャーの主人と仰ぐべき存在は居なくなってしまったのだという。
つまり、彼は解雇されたわけではなく、已む無く野良になってしまったという事だ。
そういう事情の彼だからこそ、仕事は一流だった。
彼が清掃した部屋には埃一つ無く、彼の作る料理は天上の美味だった。
家事から解放されたヘルミーナも大いに喜んだ。
満たされた生活は人の心を豊かにするものだ。
けれど、フランツとヘルミーナの心は徐々に荒み始めた。
少しの事で苛々を募らせ、事ある毎に口論となった。
そんなある日の事だ。フランツは怒っていた。何に対して、どうして怒っているのかも分からないまま、怒りの矛先を求めていた。そして、丁度いい捌け口としてローゼリンデに暴力を振るった。それまでカルラが彼女に折檻する事を止める事こそ無かったものの、自ら手を出す事をしてこなかった彼は一方的に相手を嬲る快楽を知った。
まるで、麻薬のように彼は暴力に酔い痴れた。相手が実の娘である事など些細な問題だった。
やがて、彼は暴力の矛先を妻にも向けるようになった。ヘルミーナは夫の凶行に対して必死の抵抗を行ったけれど、抵抗された事に腹を立てたフランツは彼女を拷問にかけた。
妻の悲鳴と苦痛に歪む表情が彼を昂ぶらせた。更に苛烈な拷問にかけ、遂にはヘルミーナの精神を粉々に砕いてしまった。
自分が何者なのかも分からなくなってしまった彼女を前にして、フランツは嘆き悲しんだ。
彼女を壊したのが他ならぬ自分自身である事を、彼は理解していなかった。
「ああ、ヘルミーナ! だれが……、こんな酷い事を……」
フランツは怒りに燃えた。そして、家の中を徘徊すると、娘の部屋にはうわ言を呟き続ける見た事もない女がいた。
それが彼の拷問によって精神を病んでしまった娘のカルラである事にも気づかずに、彼は激情のままカルラに暴力を振るった。
その心地よさに酔い痴れていると、彼は奇妙な事に気がついた。
さっきまで殴っていた女が、見知らぬ男に変わっていた。それは彼の息子のヴィルヘルムだったけれど、やはり彼には分からなかった。
「……ヘルミーナ。……カルラ。……ヴィルヘルム」
意識が朦朧として、記憶が欠落していく。
そして、気づけば目の前に一人の男が立っていた。
奇妙な光によって輪郭がぼやけている。
「……フランツ・ナイトハルト」
男は真紅の瞳をフランツに向けた。それだけで、フランツは身動きが取れなくなった。
まるで、杖も持たない無防備な状態でドラゴンに睨まれているかのようだ。息苦しい程の圧迫感を感じている。
心の中は恐怖によって満たされ、それ以外の感情や思考はすべて抜け落ちてしまった。
逃げる事も、立ち向かう事も出来ない。赤ん坊のように泣き叫ぶ事すら出来ない。
ただの人形のように、ポカンと立ち尽くしている。
「旧き血を継ぐ者よ。どうか、わたしの頼みを聞いてくれまいか?」
その言葉にフランツは飛びついた。まるで、溺れかけている所に岸へ繋がっているロープを見つけたかのように嬉しそうな笑顔を浮かべた。
疑問など抱かなかった。頭の先から足の爪先に至るまで、すべての細胞が目の前の男に屈服していた。
それが最も正しい選択なのだと心から確信していた。
「な、なんなりと!」
男は薄っすらと微笑んだ。
「わたしに君のすべてを捧げてくれるかい?」
男の微笑みには、男とは思えぬ程の沸き立つような色気があった。
まるで、巨匠が作り出した芸術品のような美しさに、眼球を通して、意識そのものを奪われる。釘付けにされ、逸らす事など出来なかった。
息が荒くなる。
「も、もひろんでございます……」
「素晴らしい。ありがとう、フランツ」
フランツは体から何かが抜け落ちていく感覚に襲われた。それはとても大切なもので、かけがえのないものだと分かっていた。
けれど、抵抗する事など出来なかった。
「あへ……、へへ」
愛する妻との記憶が失われていく。
家族との時間が消えていく。
子供時代を奪われていく。
やがて、記憶は空白となり、自分が何者なのかも分からなくなった。
「……やはり、分霊の状態ではここまでか」
男は自らの手足を確認しながら不快そうに呟いた。彼の体はさっきよりも明確になっていたけれど、未だに輪郭がぼやけている。
「分霊箱。やはり、もう少し研究が必要だったな」
男は短く息を吐いた。
「反省しなければいけないな」
男は近くの椅子に腰掛けると、フランツの杖を振った。すると、ヘルミーナが購読していた日刊預言者新聞が彼の下へ飛んできた。
しばらくの間、新聞を読み耽っていると、男は視線を感じた。
フランツの記憶から、その正体を男は看破していた。
「そんな所にいないで、こっちに来るといい」
男が声を掛けると、視線の主はどこかへ逃げて行ってしまった。
「やれやれ」
男は苦笑すると、再び新聞を読み始めた。
そんな事が数度もあり、男は新聞を読み終えると杖を振った。
すると、扉の影から小柄な少女がぷかぷかと浮かびながら彼の下へやって来た。
怖かったのか、声を殺しながら泣いている。
「ああ、すまない。怖がらせるつもりはなかったんだ。君はローゼリンデ・ナイトハルトだね?」
「……ひゃ、ひゃい」
ローゼリンデはすっかり怯え切っていた。
「怯える必要はない」
男は立ち上がると、ローゼリンデの頭を撫でた。
それは彼女にとって初めての体験だった。
「今日で十歳になったんだね」
男の言葉に彼女は首を傾げた。
「今日は君の誕生日なんだよ。君の誕生を祝う日という事さ」
男は彼女を抱き上げた。
「素晴らしい。実に運命的じゃないか、ローゼリンデ」
彼女は困惑した。どうして抱き上げられているのかも、誕生日が何を意味しているのかも、彼女にはサッパリだったのだ。
けれど、抱き上げられる事も、祝われる事も初めての事で、彼女は少しだけ嬉しくなった。
なによりも、男の持つ不思議な魅力が彼女に安心感とぬくもりを与えた。
「わたしと友達にならないか? ローゼリンデ」
◆
それが、彼と彼女の出会いだった。
ナイトハルト家を選んだのは男ではなく、彼の求める条件を満たす家をクリーチャーが選び抜いた。
そこで、本人すら知らない十歳の誕生日に二人が巡り合ったのは全くの偶然だった。
男はこれを天啓だと考えた。
今日で十歳という事は、来年にはホグワーツへ入学する条件が満たされる。
あのハリー・ポッターが在学しているホグワーツへ。
「わたしには肉体が必要だ。それも、若くて健全な肉体が!」
霊体が肉体を得る方法は二つある。
一つは肉体を復元する薬品、あるいは魔法を使う事。
もう一つは生者の肉体を奪う事。
彼が考案した蘇生薬は魂の情報を基に肉体を再構築するものであり、オリジナルならばともかく、分霊では不都合が発生する可能性が高い。
それ故に、彼は二つ目の方法を取る事に決めた。
「ハリー・ポッター。わたしには君が必要だ。君の肉体こそ、わたしの未来なのだ」
ローゼリンデは《ハリー・ポッターに取り入れ》という命令を見事に遂行してみせた。
彼女を通して、彼の事を識る事が出来た。
「……さて、わたしも動くとしよう」