アルバス・ダンブルドアは腹心であるセブルス・スネイプと向かい合っていた。
「……まさか、マクゴナガル先生が辞任した上にポッターの後見人となるとは」
スネイプは彼女の決断に驚いていた。
ミネルバ・マクゴナガルという女性にとって、教師は正に天職だと思っていたからだ。
彼が学生だった頃、彼女は既に変身術の先生だった。
「ミネルバは素晴らしい教師じゃった。彼女を失った事は大いなる損失じゃ。ホグワーツにとっても、今の生徒達にとっても、これからの生徒達にとっても、わしにとっても……」
ダンブルドアにとっても、彼女は特別な存在だった。もちろん、色恋の関係などではなかった。けれど、彼と彼女の間にはただならぬ絆があった。
マクゴナガルがホグワーツの教師になってしばらくが経った頃、彼女が愛したマグルの青年が別の女性と結婚した。その事に心を痛めた彼女を慰める為に、ダンブルドアは自らの過去を彼女に語った。
互いの心の最も深い部分にある傷痕を共有した事で、二人の信頼関係は確固たるものとなった。
「……だが、彼女が決めた事じゃ。それに、彼女が傍に居る限り、ハリーが道を踏み外す事もあるまい」
「だといいですがね、校長。あなたはポッターの事をどうお考えで? ヴォルデモートの討伐だけならば称賛に値するでしょうが、親友であるドラコすら殺めようとした上に、《後輩が虐められたから》という稚拙な理由で大量殺戮を実行しかけた。あの時はマクゴナガル先生の制止すら振り切ってしまったのですよ?」
「強大な力に対して、ハリーの心が未熟である事は確かじゃが、その原因はわしにある。ダーズリー家に預けた事が彼の心の成長を歪めてしまった……」
ダンブルドアは消沈した様子で深く息を吐いた。あまりにも弱々しい姿だった。
「……後悔なさっておられるのですか?」
「そんな事は許されぬ」
その言葉にスネイプは顔を顰めた。今の彼には、普段のオーラがまるで無い。
「校長。あなたは休まれた方がいい」
スネイプは言った。
「ヴォルデモートの本体は消滅し、分霊箱も破壊された。脱獄したブラックも……、正直に言いまして、ポッターには敵いますまい」
闇の帝王が抵抗らしい抵抗すら出来ないまま滅ぼされた光景はスネイプにとって悪夢に近しいものだった。
あれほど世界を混沌に陥れ、彼にとって命よりも大切な存在を殺害し、多くの人々に絶望を与えた魔王の最期としては、あまりにも情けないものだった。
「……ありがとう、セブルス。じゃが、まだ休めぬよ」
ダンブルドアは呟くように言った。
「まだ、終わっておらん……」
第三十四話『発動、パトローナス・チャーム』
「はぁ!? キングス・クロス駅に行く!? なんで!?」
ハリーはわけが分からなかった。
マクゴナガル邸はホグズミード村にある。ホグワーツまで、徒歩でも一時間程度で辿り着く。
それなのに、マクゴナガルはハリーにキングス・クロス駅からホグワーツ特急に乗って学校へ向かうように言った。
「生徒はホグワーツ特急に乗ってホグワーツに向かうのが伝統なのよ。それに、お友達にも早く会いたいでしょ?」
「会いたいって言われても……、ドラコはここにいるしな」
「ほぼ毎日会ってるしな、僕達」
夏休みの間、ハリーはマーキュリーに、ドラコはドビーに付き添い姿現しで互いの家を行ったり来たりしていた。
だから、語り合いたい思い出話などなかった。語るまでもなく、二人はすべてを共有している。
「……ミスタ・ウィーズリーやミス・グレンジャーがいるでしょう! それに、ミス・ナイトハルトも会いたがっている筈よ?」
「そう言えば、ロンは親父さんが『日刊予言者新聞・ガリオンくじグランプリ』を当てたからって、その金でエジプトに行ったらしいな」
「ああ、僕の所にまで手紙が来たよ。制服や杖も新しい物に取り替えてもらったらしいね」
「でも、アイツの思い出話は全部手紙に書いてあったからな。今更聞く事なんて何も無くね?」
「事細やかに書いてあったもんな。情景がありありと浮かんで来たよ」
ハリーとドラコは同じ結論に達した。
「やっぱ、歩いて行こうぜ」
「その方が効率的だよね」
「なりません!!」
マクゴナガルは腰に手を当てながら二人に怒鳴った。
「まったく! ホグワーツ特急に乗れるのは学生の内だけなのよ!? いいから思い出を作ってきなさい!!」
「は、はい、母さん」
「りょ、了解です」
正直、目的地が目と鼻の先にあるのにわざわざ遠回りをするのはバカバカしいと思ったけれど、二人はやれやれと肩を竦めながら出発の準備を始めた。
「ドビー。父上と母上に伝言を頼めるかい?」
「もちろんでございます! ドラコお坊ちゃま!」
ドビーはドラコに命令されると飛び上がるほど喜んだ。
その姿にマーキュリーもそわそわし始める。
ウォッチャーやクィリウスが来る事もあるけれど、マーキュリーは夏休みの間、結局一度もホグワーツに帰らなかった。
ダンブルドアに許可は取っているらしい。
「マーキュリー。同僚に怒られたりしないのか?」
「ええ、ちっとも! ただ、少し羨ましがられておりますね」
「羨ましいのか……? まあ、ボクは助かるけど」
「恐悦至極でございます」
瞳を潤ませて感動するマーキュリーにハリーはやれやれと肩を竦めた。
◆
ハリーとドラコの仕度はあっという間に終わった。二人共宿題はとっくに片付けてあったし、学用品も揃えてトランクに詰めてあり、他の用意もマーキュリーとドビーがそれぞれ完璧に準備してくれていたからだ。
三人と二匹がキングス・クロス駅に姿現しをするとちょっとした騒ぎになった。
マクゴナガルがホグワーツを辞任して、ハリーの後見人になった事は既に知れ渡っていたからだ。
彼女を慕っている生徒やOBが集まって来た。彼らの中にはハリーを睨む者も大勢いたけれど、彼は気にしなかった。
キングス・クロス駅に行けば、こうなる事は分かっていたからだ。ドラコもやれやれと彼に付き添っている。
ただ一人、マクゴナガルだけが分かっていなかった。彼女は純粋にハリーに思い出を作って欲しかったのだ。
マクゴナガルは慌ててハリーを睨んでいる者を叱責しようとしたけれど、ハリーは首を横に振った。
今、自分を睨んでいる者達は、それだけマクゴナガルを慕っていた者達なのだと理解していたからだ。
腹が立たないわけではなかったけれど、どこか嬉しくもあった。だから、余計な事を言うなと合図を送ったのだ。
「さて、どこか空いてるかな?」
早めに来たつもりだったけれど、既にコンパートメントは埋まりかけていた。それでも、なんとかホーム側に窓があるコンパートメントを独占する事に成功した。
窓を開くと、ドラコの両親がいた。
「父上! 母上!」
「おお、ドラコ! まったく、仕方のない子だ! どうせ合流するのだから、一旦は帰ってきなさい!」
どうやら、ドラコがマクゴナガル邸から直接キングス・クロス駅に来たのが気に入らなかったらしい。
「そうです! 折角御馳走を作っていたのよ? お弁当にしたから二人で食べなさいね」
そう言うと、ナルシッサは弁当箱をドラコとハリーにそれぞれ渡した。
すると、マクゴナガルも人の波をかき分けてやって来た。
「母さん!」
ハリーが笑顔を浮かべると、マクゴナガルは苦笑した。
妙な緊張感を漂わせながら、彼女はルシウスやナルシッサと二言三言囁きあった。
「……教えるべきでしょう」
ルシウスがハリーを見ながら言った。
「なんの事?」
ハリーが問いかけると、マクゴナガルは迷いの表情を浮かべた。
すると汽車の警笛が鳴った。
そろそろ、出発の時間らしい。
「……ハリー!」
マクゴナガルは慌てたように語った。
シリウス・ブラックという男がアズカバンを脱獄した事。その男がヴォルデモートの腹心であった事。彼がハリーを狙っている可能性がある事。
それらを聞いて、ハリーは心底どうでも良さそうに「ふーん」と呟いた。
「真剣にお聞きなさい!」
「聞いてるよ、母さん。でも、挑んでくるなら返り討ちにするだけさ」
「……ハリー」
マクゴナガルは不安そうに表情を歪めた。
それがハリーには不満だった。
「心配なんて要らないさ! ボクは誰にも負けない! だから、安心してくれ」
「……ハリー。シリウスは……」
マクゴナガルが何かを言いかけた時、ホグワーツ特急が動き始めた。
「大丈夫だ、母さん! 行ってきます!」
「あっ……」
ハリーとドラコは三人の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
「……まったく、母さんも心配性だな」
「良い事じゃないか」
◆
ハリーとドラコはマーキュリーとドビーに給仕してもらいながら優雅に汽車の旅を楽しんでいた。
「あら、ハリーにドラコじゃない!」
前にロンから貰ったチェスで遊んでいると、ハーマイオニーが顔を出した。
「ハーマイオニー! 今年は負けないぞ!」
「ふふん! 今回も泣かせてあげるわ!」
二人共、実に楽しそうだとドラコは思った。
「それで、どうしたんだ? 僕達を探していたのかい?」
ハーマイオニーが顔を出した理由をドラコが尋ねた。
「ペットが逃げちゃったのよ」
「ペット?」
「うん。猫を飼ったのよ。頭がいい子なんだけど、自由気ままなの」
「なるほど、脱走されたわけか」
「よっぽど怖かったんだろうな。飼い主が」
「失礼ね! クルックシャンクスはわたしを怖がったりしないわよ!」
当然のようにハリーの隣に座るハーマイオニー。ハリーもそれが自然な事のように気にしなかった。
ドラコはなんだか居心地が悪くなった。
「僕、ちょっと散歩に行ってくるよ」
そう言って廊下に出ようとした時だった。開いた扉の隙間から何かが飛び込んできた。
「クルックシャンクス!」
どうやら、それがハーマイオニーのペットらしい。
まるで壁に激突してしまったかのようなブサイクな猫だった。
「クルックシャンクス、どうしたの?」
クルックシャンクスはハーマイオニーの膝の上に乗ると、毛を逆立てた。
その直後だった。
室内の気温が急激に下がったのだ。
「な、なんだ!?」
ドラコは扉から飛び退いた。
「どうした?」
ハリーが問いかけると、汽車が急に停止した。
「キャァッ!」
「ハーマイオニー!」
前のめりに倒れそうになったハーマイオニーをハリーは咄嗟に支えた。
「あ、ありがとう」
「別に……。それより、一体……」
まだ、ホグズミード村には到着していない。それなのに、ホグワーツ特急が緊急停止するなど初めての事だった。
そして、今度は一斉に灯りが消えてしまった。
暗闇の中、少しでも情報を得ようとドラコは窓に駆け寄った。
「何かが入ってくる……?」
ドラコは窓から外を見ながら呟いた。
すると、ガラッという音と共に扉が開いた。
「ご、ごめんね。何がどうなってるのか分かる? アイタッ! ご、ごめん」
「その声、ネビル?」
ハーマイオニーは暗闇の中、声の主を推理した。
「え? あっ、ハーマイオニー?」
「おい、誰だ?」
「そ、そ、その声はハリー!?」
ネビルは素っ頓狂な声を上げると床に倒れ込んだ。
「どうしたんだ!?」
ドラコは《ルーモス》を唱えた。すると、ネビルは目を回していた。
「……こいつか」
ハリーはやれやれと肩を竦めた。
「とりあえず、椅子に寝かせてあげましょう」
「仕方ないな」
ハーマイオニーは浮遊呪文でネビルを持ち上げると、器用に椅子に寝かせた。
すると、また扉が開かれた。
「灯りが見えたんだけど、誰かいるの?」
「ジニーか?」
「ハリー!?」
入ってきたのはロンの妹のジニーだった。
「おいおい、これ以上は定員オーバーだぞ」
ドラコが愚痴ると、ジニーは悲鳴をあげた。
「お、おい、別に怒ったわけじゃ……」
ジニーの悲鳴の理由を誤解したドラコが弁解しようとした時だった。
ドラコの杖の光に照らされた扉に細長い手が添えられていた。
慌ててジニーを引き寄せ、ドラコは光を扉の方向に集中させた。
そこに居たのは、マントを着た、天井まで届きそうな程の大きな黒い影だった。
顔はすっぽりと頭巾に覆われている為に分からない。顕となっている手は灰白色に冷たく輝き、穢らわしい瘡蓋に覆われている。
「ディ、
吸魂鬼は長く息を吸い込むように、別の何かを吸い込み始めた。
怖気と共に全身を冷気が襲う。
「あっ……が、これ、は……、やめ……、あっ……ぁぁ」
最初、ドラコはそれが誰の声なのか分からなかった。
「ハリー!?」
気づいたのはハーマイオニーだった。彼女は自分を支えていた手から力が失われていく事に気づいた。
「ハリー! しっかりして、ハリー!!」
「ハーマイオニー!! 逃げろ!! 吸魂鬼が……、まさか!? やめろ、貴様!!」
ドラコは武装解除の呪文を唱えた。咄嗟に思いついた攻撃方法がそれだったのだ。
けれど、吸魂鬼には効かなかった。まるで、霧を攻撃したかのようだ。
「なっ!?」
そして、吸魂鬼はゆっくりとその醜い顔を顕にした。
「ふざけるなよ、貴様!!」
ドラコはむちゃくちゃに魔法を唱えた。
「逃げろ!! 逃げるんだ!! クソッ!! こっちを向け!!」
ドラコが必死に叫ぶ。けれど、吸魂鬼は意に介さなかった。
そして――――、
「違うわ、ドラコ。こいつらにはこうするのよ」
ハーマイオニーは怒りに燃えた眼差しをディメンターに向けた。
「エクスペクト・パトローナム!!」
その瞬間、暗闇が白一色に染まった。