「ハリー……」
「なんだい?」
「……なんでもない」
穏やかな日差しの下で、わたしはハリーと湖を見つめている。第一の試練で大きく抉られてしまったけれど、ここに棲んでいる生物達はみんなタフで、すっかり元の生活に戻っていた。
ケンタウロス達と話した後、二人で
やるべき事はたくさんある。
だけど、今は……、
「ハーマイオニー。寒くないか?」
答えも聞かないで、ハリーはわたしを抱き締めた。逞しくて、温かい腕に包まれると、安心する。
わたしは愛されている。一方通行じゃない。彼に捧げる以上に、注がれている。
「……あたたかいわ」
「それは良かった」
エメラルドのような緑色の優しい瞳がわたしを見つめている。微笑みかけている。
「あなたは?」
わたしも答えは聞かない。腕を彼の腰に回して、体を近づける。
互いの鼓動が聞こえる程の距離で、わたし達は微笑み合う。
「……もうすぐ、最後の試練が始まる」
ハリーは呟いた。
最後の試練。その言葉に、わたしの体は震えた。
第一の試練でも、第二の試練でも、魔法省はハリーを殺そうとした。最後の試練でも、彼らはハリーを殺す為の罠を張り巡らせているに違いない。
恐ろしい事に、彼らは罪の意識を感じていない。それどころか、自分達こそが正義だと固く信じている。
圧倒的な力を持つハリー。彼に対抗する自分達を勇敢だとも思っている。
だからこそ、どこまでも残酷になれる。どこまでも悪辣になれる。
「終わったら、秘密の部屋でみんなとパーティーを開こうぜ。料理はマーキュリー達に頼めば作ってくれるだろう」
「……気が早いわね。次はどんな罠が仕掛けられているか……。ハリーは怖くないの?」
「もちろんだ。むしろ、楽しみだよ。第一の試練ではシーザーと出会わせてもらったし、第二の試練では新技を試す事が出来た。それにな、ハーマイオニー」
ハリーは悪戯っぽく笑った。
「理由はどうあれ、本気でぶつかってくる奴は嫌いじゃないんだ」
「あなたを殺そうとしているのよ!?」
「ああ、思わず笑っちまうくらいに本気でな」
「……ばか」
時々、不安になる。ハリーは強くなった。魔法使いとしても、人間としても。
だけど、彼は無防備過ぎる。いつか、足をすくわれてしまうのではないかと考えてしまう。
第二の試練が始まる前、彼は試練の内容を教えてもらう事も出来た。ロンから、闇祓いのダリウスが情報を伝えようとしていたのに、ハリーが断ってしまったと聞いた。
理由は分かる。試練の前に内容を識る事はフェアじゃないからだ。だけど、試練そのものが元々フェアではないのだ。ハリーは教えてもらうべきだった。そして、万全の態勢を整えるべきだった。
「とりあえず、マーキュリー達に頼みに行ってくるか」
そう言うと、ハリーは立ち上がった。いつの間にか日が沈み、寮の門限が迫っていた。
「送っていくよ」
「……うん。ありがとう」
第八十四話『最後の試練』
六月二十四日の朝、ハリーは一人で朝食を食べていた。代表選手は免除されているが、この日は学年末の試験だった。
「ハ、ハリー」
朝食を食べ終えると、セドリックが声を掛けてきた。彼はハリーに話しかける時、いつも緊張している。
「ああ、そろそろか」
見れば、フラーやビクトールも動き出していた。
今日の試練は代表選手の家族も見に来る。ちょうど今、大広間の脇の小部屋に来ている筈なのだ。
朝食の後、集合するようにスネイプから通達があった。
「行こうぜ、セドリック」
「あ、ああ」
小部屋にはマクゴナガルとシリウスが居るはずだ。二人はこっそり第一の試練と第二の試練も観戦に来ていたから、劇的な気分にはならないけれど、それでも二人に会えるのは嬉しかった。
ウキウキしながら小部屋に入ると、ハリーは凍りついた。
「……え?」
そこには予想していなかった人物がいた。
「……ハ、ハリー」
その声に、ハリーは目を大きく見開いた。
「おばさん……」
そこに居たのは、ペチュニアだった。上品な服装だけど、魔法使いの中では浮いている。彼女にとって、我慢のならない事の筈なのに、彼女はそこに居た。
よろよろとハリーは彼女の下へ歩み寄っていく。
「……ひ、久しぶりね」
「は、はい」
心臓が大きく脈打っている。
自分が今、何を感じて、何を思っているのか、さっぱり分からなかった。
「あ、あんまり長い時間は居られないの。バ、バーノンに内緒で来たから……。よ、夜の本番は見られないのだけど……でも、あ、あなたが危険な事にその……挑んでるって聞いて、ひ、一言だけ……一言だけ言いたくて……」
ハリーはペチュニアの言葉を待った。
「……け、怪我をしないようにね」
その言葉にハリーの目から一滴の水滴が零れた。
彼女は心配してくれたのだ。その一言の為だけに、嫌いな魔法使いに囲まれて、嫌いな魔法の世界に来た。
怖いのだろう。青褪めているし、小さく震えてもいる。
「ハ、ハリー……?」
「……おばさん。ありがとう」
ハリーはペチュニアを抱き締めた。
見上げる程大きかった筈のおばさんは、今ではハリーよりも小さかった。細くて、か弱い体にハリーは少し心配になった。
「ちょっと……、細過ぎますよ。あなたはもっと食べた方が良い」
「……そ、そうね。でも、ダドリーがダイエットをしているのよ。だから、付き合ってあげなきゃ……」
「ダドリーが? そうか……、その方がいい。あまり太っていると、将来的に病気になる可能性が高いと聞きますからね」
「そ、そうなのよね。最近は……だから、ちょっと厳しくしてるのよ。それより……、あなたはどう? ちゃんと……、食べてるのかしら?」
ハリーはペチュニアが帰らなければならない時間になるまで彼女と語り合い続けた。
他愛のない話ばかりだけど、それでも時間を忘れそうになった。
「……そろそろ、行かないと」
「そうですか……」
ペチュニアは何度も躊躇うように唇を動かした。そして、言った。
「帰ってくる気は……、無いのよね?」
「……はい」
ペチュニアは寂しそうに俯いた。
「……元気でね、ハリー」
「おばさんも、どうかお元気で。お会い出来て……、とても嬉しかった。オレは……、あなたとあなたの家族の幸福を願っています」
「わたしも願っているわ。あなたが幸福である事を……」
ペチュニアは部屋の隅で待機していたスネイプを見つめた。すると、彼はペチュニアの下にやって来た。
「……もう、いいのかね?」
「ええ、ありがとう」
ハリーはペチュニアとスネイプがどこか気やすそうに接している事に少し驚いた。
「……さようなら、ハリー」
「ええ、さようなら……、おばさん」
ペチュニアが去った後、ハリーはしばらく立ち尽くしていた。
思いがけない再会がハリーの心を揺らしている。
「……ハリー」
「良かったわね……」
そこにシリウスとマクゴナガルが現れた。彼らはハリーとペチュニアの時間を邪魔しないように部屋の外に居たのだ。
それから三人は晩餐会が始まるまで一緒に校内を歩きながら話す事にした。時折、すれ違う生徒はマクゴナガルに挨拶をして、シリウスはホグワーツの隠された道や秘密をハリーに教えた。
途中、シリウスの希望でルーピンの部屋を訪ねる事になった。入ってみると、そこには試験を終えたらしいダフネとニコラスの姿もあった。
「やあ、いらっしゃい」
ルーピンは薬品を持ちながらハリー達を歓迎した。
「なにをしてるんだ?」
ハリーが問い掛けると、ダフネは困ったようにニコラスを見た。
「……ルーピン教授。話しても構いませんか?」
「ええ、もちろん。マクゴナガル先生とシリウスは元々知っている事ですから」
何の話だろう。ハリーはマクゴナガルとシリウスを見た。すると、二人は何かを察したような表情を浮かべた。
「まさか、リーマス!」
「ダリアの水薬はあなたにも効果が!?」
血相を変える二人にハリーは目を丸くした。
「なんだ? ルーピン教授は呪いでも受けていたのか?」
「ううん。違うのよ、ハリー。先生は……」
「人狼だ」
ダフネが言い淀むと、ニコラスが言った。
「……は?」
ハリーはポカンとした表情を浮かべてルーピンを見た。
彼は気まずそうにしている。
「ハァ!? 人狼!?」
ハリーは思わず叫び声を上げた。
人狼と言えば、かなり危険な魔法生物だ。一番厄介な点は、一度変身すると凶暴化して、自分自身を抑えきれなくなる事である。
「おいおい、人狼が教師をやってたのか!?」
「ハリー! ルーピンはいい奴なんだ! 人狼だから何だと言うんだ!」
「いや、そういう問題じゃないだろ! 人格とか関係ないぞ、この場合!」
ハリーは言った。
「おいおい、オレが言うのもなんだけど、ダンブルドアは正気なのか!? ハグリッドにケルベロスを持ち込ませたり、人狼を教師にしたり……」
「同感だな……。わたしが言うのもなんだが、もう少し人事を考えるべきだ……」
ニコラスも顔を引き攣らせている。
「何という事を言うんだ! ハグリッドもルーピンも良い奴なんだぞ!」
「だから、人格の問題じゃねーって言ってんだろ!! 変身したら自制が利かなくなる上に、万が一にも生徒が噛まれたら生徒もヤバイが、ルーピンもヤバイんだぞ!!」
「ああ、間違いなく殺処分にされる。それに、噛まれた生徒も辛い人生を歩む事になる。教師は駄目だろ……」
「ふ、二人共、その辺で! たしかに、色々問題はあったけど、それも解決するんだから!」
ダフネは言った。
「解決? そう言えば、その薬品は……いや、ダリアの水薬とは少し違うな」
「ええ、人狼は単純な呪いじゃないから、ダリアの水薬だと解呪出来ないのよ。肉体そのものが変性してしまっているからね。だから、ずっと研究していたのよ。スネイプ先生にも相談されていたし」
「スネイプだと!?」
シリウスはスネイプの名前に目を見開いた。
「え、ええ、そうです。スネイプ先生、ダリアの水薬なら人狼を人に戻せるのではないかって……。それで、三人で研究を始めたの」
「セブルスはずっと僕の為に脱狼薬を毎月調合してくれていたんだよ」
ルーピンは嬉しそうに言った。
「ア、アイツが……?」
「憎まれ口を多少は叩いていたが、彼は真剣に取り組んでいた。脱狼薬も些細なミスで猛毒に変化する調合の困難な魔法薬だ。君がどう思っているかは知らないが、スネイプ教授はルーピン教授の為に万全を尽くしている。そして、彼に万全を尽くすという事は生徒の安全の為に万全を尽くしているという事だ。副校長として、苦手な事にも取り組んでいる。彼は教師として誠実に働いているのだ。それは分かってあげるべきだと思う」
「……アイツが」
シリウスは複雑そうな表情を浮かべた。彼がスネイプの事を嫌っている事をハリーは知っていた。学生時代の因縁があるらしい。
「この新しい魔法薬はマダム・ポンフリーにも知識を借りています。解呪と同時に肉体を人狼のモノから人のモノへ戻すんです。だけど……、その為にかなりの激痛が伴います」
「構わないよ。この忌まわしい呪いから解放されるなら、どんな苦痛だって受け入れられる」
ルーピンは大切そうに魔法薬を掲げた。
「名前は何と言うんだい?」
「ルピナスの水薬です。ダリアの水薬にちなんで、花の名前にしてみました。ちなみに、ルピナスは
「ルピナスか……」
ルーピンは躊躇う事なく魔法薬を飲み干した。すると、途端に倒れ込んだ。
「リ、リーマス!?」
シリウスは慌てた。
「大丈夫だ。それより、まずはベッドに運ぼう。準備はしてある」
ルーピンの部屋にはベッドが用意されていた。そこに寝かせられると、ルーピンはうめき声をあげながらベッドの上で転がり回った。
「これから丸一日この状態が続く。ダフネ、大丈夫かい?」
「はい! わたしの作った薬ですから、最後まで責任を持ちます!」
ダフネの言葉に満足すると、ニコラスは部屋に魔法を掛けた。
「……ダフネ。君は本当に凄いな」
ハリーは敬服した表情でダフネを見つめた。
「ハリーには敵わないわよ」
「馬鹿を言うな。それはオレのセリフだ。君には敵わない」
人狼の解呪。それは血の呪いの解呪に並ぶ程の偉業だ。
彼女は人を救い続けている。壊すばかりの自分とは比較にならない。
「ハリー。最後の試練、わたしは見れないけど、あなたなら絶対に勝つと確信しているわ! がんばってね!」
「ああ、ありがとう。試練の後はパーティーだ。参加してくれるよな?」
「喜んで!」
ハリーとダフネは固く握手を交わした。そんな二人を大人達はじっと見つめていた。
世界を変革する二人。彼らは未来を背負っている。
「さて、勝ってくるか」
ハリーは右手と左手にそれぞれ杖を構えた。片方はアズカバンで囚人から奪い取った杖だ。
「如何なる殺意も、如何なる策略も、如何なる悪意も、真正面から叩き潰す!」
「その意気だよ、ハリー!」
「行ってくるぜ、ダフネ!」
「いってらっしゃい、ハリー!」
◆
ハリーは大広間で行われた晩餐会でたらふく食事を腹に詰め込んだ。
そして、いよいよ始まる。
最後の試練はヒッポグリフレースの為の競技場で行われる。そこには巨大な生け垣で作られた大迷宮が築かれていた。
『これより、最後の試練が始まります!』
バグマンが拡声呪文で叫ぶ。
現在の得点は、トップがクラム、二番手がセドリック、三番手がフラー、そして、ハリーは最下位だ。
けれど、この試練で勝てば逆転する事が出来る。
次々に迷宮へ入っていく選手達。そして、ハリーの番が回って来た。
「約束だからな。遊ばずに一瞬で決めるぜ」
―――― ああ、一瞬だ。
ハリーは大迷宮の入り口で二本の杖を同時に構えた。
観客席ではハーマイオニーが必死に彼の無事を祈っている。彼女以外の全員はハリー以外の無事を祈っている。
もはや、どんな悪意も彼を殺す事は出来ない。そう、ハーマイオニー以外の誰もが確信していた。
そして、ハリーは呪文を唱えた。
「エクスペクト・フィエンド!!!」
―――― エクスペクト・フィエンド!!!
二つの杖から二匹の龍が飛び出してくる。龍の纏う蒼き炎は一瞬にして大迷宮を焼き尽くした。
ただの競技場に戻り、走っている途中だったセドリック、ビクトール、フラーは凍りついている。障害となる筈だったケルベロス、スフィンクス、ボガートなどの魔法生物もキョトンとしている。
不意打ちでハリーを殺そうとしていたらしい怪しげな人々も動けなくなっていた。
彼らの頭上で、二匹の蒼龍は天に昇っていく。そして、雲海を泳ぎ、ゆっくりと首を競技場の頭上に伸ばす。
「さて、行くか」
ハリーは堂々と歩き始めた。他の誰も動かない。動こうとする度、天の龍が睨みつけてくるのだ。
遂に優勝杯に辿り着いたハリー。あまりの光景に誰もがポカンとしている。ハーマイオニーも心配していたのがバカバカしくなった。
「優勝は貰ったぞ! オレの完全勝利だ!」
ハリーは優勝杯を手に入れた。
「え?」
そして、彼は見知らぬ地に飛ばされた。
「……待っていました、ハリー・ポッター様」
そこには何故か、ローゼリンデ・ナイトハルトの姿があった。