やはり一色いろはが俺の許嫁なのはまちがっている。 作:白大河
水古戦場お疲れさまでした。次は土古戦場頑張りましょう。
今回は図書館回・後編です。
「あれ? 比企谷?」
突然声をかけられ、後ろを振り返る俺。
だが、不思議なことにそこに見知った顔はなかった。
え? 何? ホラーなの? 怖い。
どういう事?
改めてキョロキョロと辺りを見回してみても、やはりそこに知っている顔はない。
というか、いるはずがないのだ。
高校受験の時も地元の奴とばったり、なんて事になるのがイヤで、この少し遠くの図書館を利用していたみたいな所があるからな。
受験が終わり、一年が経ったこのタイミングで誰かと鉢合わせなんて逆におかしいまである。
だが、名前を呼ばれたのは事実だ。
もしかしたら単なる聞き間違いで実際は「比企谷」じゃなくて「比企谷菌」とか「ヒキガエル」とかだったのかも知れないが……いや、それどっちも俺の小学生の頃のあだ名じゃん。嫌なこと思い出させるなよ……。
えええ……まじ昔の知り合いだったらどうしよう、他人の空似ってことでやり過ごせないだろうか?
そんな事を考えながら、一応念の為、俺はもう一度周囲を見回してみる事にした。
まず最初に目に入るのは、少し遠くに見えるカウンターに座る司書のおばちゃん……もしかしたら去年ここに通っていた時にも居て、俺の顔を覚えていたりするのかもしれないが、今呼ばれる覚えもないし、そのおばちゃんは俺の方を見ずに淡々と図書館利用者への対応をしている。この人ではないだろう。
なら、本棚に寄りかかって歴史小説を読んでいるおっちゃんか? 険しい顔で本に集中しているようだが……やはり俺の知り合いではない。少なくとも名前を呼ばれるような関係ではないだろう。
俺の後方に立っているロングヘアーのお姉さんは……何故か目があったが、うん、やはり見覚えはないな。
他にも子供連れの主婦とか、大学生っぽいお姉さんの姿も目に入るが、どちらも平塚先生ではない。あの人に子供はいないし、大学生というほど若くもな……ってうおっ、なんか今一瞬背中に悪寒が……。怖っ……やっぱホラーかもしれない。
ま、まぁとにかく知り合いが一人もいない事は改めて確認できた。
やはり、空耳だったのだろうか?
「何? あんた数学教師でも目指してんの?」
だが、俺が再び本に視線を落とすと、後ろに立っていたお姉さんが俺の横までやってきて、積み上げていた本を一冊手に取りながら妙に馴れ馴れしく声をかけてくる。
え? 何なの? カツアゲ? それとも新手の美人局か何か?
悪いが俺はその手の犯罪に対する知識はしっかり蓄えてあるから無駄だぞ? なにせ俺はボッチのプロ。ボッチが掛かりそうな罠は一通り履修済みだ。
でも……この声どこかで聞き覚えがあるんだよな……? この声を聞くとなんかこう……ヒットポイントがごっそり減っていくような……やっぱどこかで会ったことあるのか?
その声をどこで聞いたのか、俺は記憶を辿りながら、恐る恐るもう一度そのお姉さんの顔を見上げてみる。
まず目に入るのはストレートのロングヘアー、目の下には泣きぼくろ、細く綺麗に整えられた眉からは少し強気な印象を感じられる。
うーむ……これにポニーテールという要素を付け加えれば、学校で何度か顔を合せている川何とかさんになるのだが……。
「……そんな見ないでよ……」
俺が不審げにお姉さんの顔を見ていると、お姉さんは恥ずかしそうに手に持っていた本で頭を隠す仕草をしてくる。
頭を……隠す?
「どっか跳ねてる……? さっき妹にシュシュ取られちゃってさ……」
そう言われ、照れくさそうに手で何度も自分の後頭部を撫でるお姉さん……。
後頭部……妹にシュシュを取られた……ああ、なるほど。
つまり、アイデンティティを奪われてはいるがこいつは……。
「川……崎?」
「……なんで疑問形なのさ?」
どうやら、本当に知り合いだったようだ。
*
「ここ結構来んの?」
何故か自然と俺の隣の席に陣取った川崎は、俺が持ってきた本をペラペラとめくりながら興味なさげにそう聞いて来た。
友達なんだろうか?
「今日は偶々だ……そっちこそ何してんの?」
「私は京──妹の付き添い、今あっちで絵本の読み聞かせ会やってるから、それが終わるまで待ちぼうけってわけ」
そう言うと、川崎は開いていた本をパタンと閉じ、親指で背後の方を指差した。
その指の先を目で追うと、そこにはガラスで区切られた絵本等が多く置かれているキッズスペースがあり、その中で十数人程の幼児が一人の女性職員の周りに群がっているのが見える。
大人一人に対して、子供が沢山……リンチかな?
まあ正義のヒーローも悪と戦う時は五人がかりだし有効な戦法だと思う。
流石にこの距離からだと一人ひとりの顔までは判別できないが、なるほど、あの中に川崎の妹とやらも混ざっているという事なのだろう。
「妹って……あの時の?」
「あの時……? ってああ、そうそうあの子」
川崎の妹と言われて、まず思い出すのは文化祭での出来事。
そうか、あの子も来ているのか、ちょっと会ってみたいとか言ったら引かれるだろうか?
そもそも向こうが覚えていないという可能性の方が高いが……。
「んで、あんたは何でこんなに数学ばっかやってんの? 好きなの?」
「いや、そういうんじゃないんだけどな……むしろ嫌……」
ソレ以上妹の事に触れられたくないのか、話題を戻した川崎の問いに答えようとした所で、ふと頭の中に一つのアイディアが浮かんだ。
それは、これまでの俺だったら恐らく考えもつかしなかったであろう思いつき。
俺は今、とにかく数学の成績を、理解度を深めなければならない。
なら、使えるものは使うべきじゃないか?
いや、使えるかどうかはまだ分からないし、正直断られる可能性の方が高いが……多少の恥は覚悟の上で、とりあえず聞くぐらいなら大丈夫だろう。多分。
「なぁ、川崎。お前、数学得意?」
「何急に? ……まぁ別に苦手ってほどじゃないけど、得意でもないかな……普通?」
「なら良かった」
俺の問に答えながら、川崎が怪訝そうな表情を浮かべるのを見て、俺は軽く拳を握った。
いや、実際の所、普通なら十分なのだ。
苦手な俺より上でさえあればいい。
だから、俺は自分で読んでいた本を一度畳み、まっすぐに川崎の方へと向き直る。
「川崎、頼みがある」
「な、何さ改まって……」
「俺に数学教えてくれないか?」
「はぁ?」
俺がそう頼むと、川崎がまるでアホの子を見るような目で見ながら、首を傾げてきた。
まぁ……そういう反応にはなるよなぁ。
「いや、だから別に得意じゃないって……」
「俺より出来るならそれでいいんだ、というか他に頼れそうな奴もいなくてな。礼はする。頼む!」
今の俺には沢山の諭吉さんが味方に付いてくれている。
多少の出費なら痛くはない。
「あ、でもそんな高いものとかは……勘弁してもらえると助かる……」
危ない危ない、天井は設定しておかないとな……。何請求されるか分かったもんじゃない。
最悪土下座で勘弁してもらおう。
そうして、礼を値切るシミュレーションをしていると。川崎は数度「うーん……」と唸った後
「……読み聞かせ会が終わるまで……少し見るぐらいだったら……いいけど」
そう承諾してくれた。
「ああ、それでいい。助かる」
俺が川崎に頭を下げると、川崎は視線を外し「仕方ないなぁ」とでも言いたげに顎肘を付く。
俺に姉が出来たら、こんな感じだろうか?
妹の事と言い、結構面倒見いいんだろうな、こいつ。
俺も誰かに面倒見て欲しい。長男だって結構辛いんだからね!
「──で、どこ分かんないの?」
川崎が椅子を少し俺の方へと寄せ、そう聞いてくるので、俺は先程から開いていた本のページを川崎の方へと向けた。
「この辺りとか、お前だったらどうやって教える?」
「んー? ってこんなの高校入試レベルじゃん。年明けのテスト対策とかじゃないの?」
あ、そういえばそんなのもあったな。
まぁ、そっちは諦めよう……。
そんな会話をしていると、どこからか「ごほんっんんっ」という咳払いが聞こえてきた。
図書館全体に聞こえそうなほど、大きな咳だ。
反射的にその咳のした方角へと視線を移すと、カウンターの席でおばちゃんがこちらを睨んでいるのが見える。
どうやら、少し声を出しすぎていたようだ。
おばちゃんに気づいた俺と川崎は揃ってカウンターの方に頭を下げると、お互いの顔を見てどちらともなく一度苦笑いをした。
***
「あんたさぁ……雰囲気で数学やってない?」
「そ、そんな事ないです……よ?」
それから、三十分ほどだろうか?
得意ではないと申告してきた川崎だったが、思っていたよりスパルタ式で厳しかった。
教育ママさんって感じ。
なにかある度に小声で耳元で囁かれるから何かに目覚めてしまいそうまである。
「はぁ……って、そろそろ時間だ。悪いけど」
「あ、ああ」
だが、そうして俺が何かに目覚める前に、川崎はそう言って席を立ってしまった。
どこに行くのかと目だけでその背中を追いかけると、ガラス張りのキッズコーナーで子供たちがザワザワと動き出しているのが視界に入る。どうやら、タイムオーバーのようだ。
……後は一人で頑張るしかないか。
正直、収穫と言えるような収穫はなかったが……礼をする約束はしてしまったんだよな。
一時間もやってないし、マッカン一本位で勘弁してもらえないだろうか?
あ、妹もいるなら二本か、マッカン飲めるかしら?
「ただいま」
「え? お、おう。おかえり?」
そんな事を考えながら、参考書に視線を落としていると、川崎が戻ってきた。あれ? 帰ったんじゃなかったのか?
目線を下げると、そこには川崎……ではなく頭に不釣り合いな大きめのシュシュを無理矢理くくりつけた、ちょんまげヘアーの幼女がじっとこちらを見上げている。
流石にわかる、この子はあれだ、川崎の妹だ。
……だよね?
「おにいちゃんだぁれ?」
「けーちゃん。覚えてない? 前に熊のお洋服貰ったでしょ?」
「くまさん!」
まあ、覚えてなくても無理はないだろう。
遊園地で風船を貰った事は覚えていたとしても、風船をくれた人の事までは覚えていないものだ。よほど人気のマスコットなら話は別だが……残念ながら『はちまん』は千葉が誇るご当地キャラではない。
「ああ、そういやアレどうした?」
「気に入っちゃって困ってるよ、流石にあれ着せて外に出すわけにもいかないから、ゴム入れてちょっとアレンジしてパジャマって事にしてる」
もう捨てたかと思っていたのだが、まさかの答えに俺も驚きを隠せなかった。
そこまでして着てもらえているなら、作った甲斐もあるというものだろう。
しかし、あれをアレンジしたのか。ちょっと見せて貰いたいが、流石にそこまでは要求できないか……。
「おなまえは?」
そうして、もうこの目で見ることはないであろう、熊Tに思いをはせていると、ふいに幼女に手を引かれた。
え? なにこれ可愛い。
持って帰っていいの? 駄目ですね、はい。
イエスロリータ、ノータッチ。
いや、別に俺ロリコンじゃないけど。
「比企谷八幡っていうんだ」
「ひ? まん?」
失敬な、俺は別に太ってはいない。
俺が幼女に名前を告げると、フルネームが少し難しかったのか。
幼女は可愛らしく首をかしげながら、俺を見上げてくる。
「はちまんだ。はーちーまーん」
「はーちゃん!」
「おう、よろしくなけーちゃん」
きちんと伝わったのかは少し疑問が残るが……。
まあ、いいか。
「だから、なんでアンタまでけーちゃんって……」
何故か少しだけ不服そうな川崎がそう呟くと、再びカウンターの方から「コホン」という咳払いが聞こえてきた。
おっと、また図書館だという事を忘れそうになってしまった。自重自重。
「さーちゃん、おなかすいたー」
「じゃあ帰ってオヤツ食べよっか。ごめん比企谷そういう事だから今日は……」
「あ、ああ、なんか悪かったな。礼はいずれ」
「お礼なんて別にいいよ、っていうかコレ」
そう言うと、川崎が一冊の本を俺に渡してくる。
それは、B5サイズの少し厚めの本。図書館シールが貼られているから私物ではなさそうだ。
なんだ? 『中学校の数学をやり直したい君へ』?
「何これ?」
「私が去年入試の追い込みで使ってたやつ。問題が沢山書いてある……って言うより文章ベースで中学でやった事が分かりやすく書いてあるから、寝る前に読むだけでも公式のおさらいとか出来てオススメ。テスト対策じゃなくて、高校入試レベルの復習がしたいなら結構役に立つ……と思う」
俺がその本をペラペラと捲っていると、俺の耳元で川崎がそう説明してくれた。
ちょっといい匂いが……じゃない!
確かに、これは今まで読んでいたどのタイプとも違う。中学の三年間の授業をダイジェスト化したような内容でありながら、忘れていそうなポイント、つまづきやすいポイント等を分かりやすく解説している文字ベースの本だった。一言でいうなら『文系のための数学本』という感じだろうか?
これなら何かの合間に読むだけでも復習になりそうだ。
「マジか、助かる」
「ま、あんたの役に立つかはわかんないけど。使えそうなら借りていけば」
「そうさせてもらうわ。サンキュ」
「ん、それじゃ。私達先帰るから」
川崎に礼を言うと、川崎はけーちゃんの手を取り「行くよ、けーちゃん」と小さく呟いて、背を向け去って行く。
「はーちゃんバイバーイ」
「バイバイ」
バイバイと手を振ってくれるけーちゃんを目で追っていると、またカウンターのおばちゃんがこちらを睨んでいるのが見えた……。どうやら俺もそろそろ退散したほうが良さそうだな。とりあえず、この本だけ借りていくとするか……。
***
**
*
そうして川崎との特別授業を終えた俺に、再び一色家へ出勤する日々が戻ってきた。
正直もうずっとリモート授業でも良いんじゃないかと思っていたが、やはり世の中そう甘くはないらしい。残念。
「八幡くん、いらっしゃーい! もう、全然会いに来てくれないから寂しかったわ」
「す、すんません」
一色家の玄関が開いたと同時に、もみじさんに物凄い力で右腕を絡め取られ、部屋の中へと引きずり込まれる。
あまりの勢いに反射的に謝ってしまった程だ。
というか、俺はもみじさんに会いにきてるのか?
キャバクラか何かだろうか?
アレ? 俺来る所間違えた? それともこの年末年始でそういうお店に変わったの?
大人のこういうお店ってボッタクりのイメージあるんだよなぁ……。
怖い、毟り取られちゃう。
「ちょっとママ! センパイ困ってるでしょ! ささ、センパイ早く私の部屋行きましょ?」
俺が戸惑っていると、今度は左半分を一色に掴まれた。
え? 何これ?
大岡裁き? お奉行様!
左右から引っ張っても母親という証明にはなりません!
やめてください! お奉行様!
「ええー、いいじゃない。今年初めてなんだから。あ、そうそうお給料も渡さないといけないんだったわ、ちょっと待っててね」
「それはご飯の後でもいいでしょ! もうあんまり時間もないから! ね? センパイ?」
「お、おう。そうだな」
どうやら、大岡裁きは回避されたようだ。
先に手を離してくれたもみじさんが俺の本当の母親なのかもしれない。
ごめん、母ちゃん俺アンタの息子じゃなかったみたいだ。
ってそれだと小町と血がつながってないって事になっちゃうんじゃない?
それは色々な意味で困る。やっぱり母ちゃんは母ちゃんのままでお願いします。
まあ正直言うとバイト代が気になってはいたので、もみじさん側に行きたい気持ちもあったのだが、これ以上時間を取られるのも面倒くさそうだったので、俺はバイト代は後に回し、一色の言葉に従って一色の部屋へと向かった。
「あ、ちょっと! 八幡くーん!」
という、もみじさんの叫びを残して。
*
「えっと……お久しぶりです」
「お、おう」
パタンと部屋の扉を閉じ、一色がスルスルと俺の腕から離れると、途端に部屋の中に妙な空気が漂い始めた。
いつものクッションに座って良さそうな雰囲気でもなく、ただ呆然と立ち尽くす俺。
一色も椅子に座らず、部屋の中央に立ち尽くし、俺に背を向けている。
え? 何これ……?
さっきまでの歓迎ムードはどこへ言ったのだろうか?
もしかして……怒って……いらっしゃる?
でもなんで?
俺なんかしたっけか?
「……体、もう大丈夫なんですか?」
「あ、ああ、少なくともお前に
もしかして、俺がインフルエンザに掛かったことを責められているのだろうか?
いや、まぁ確かにこの大事な時期に一色に感染したら大変だとは思うが、医者のお墨付きも貰ってるしもう大丈夫だと思うんだが……。
「別にそんな事は心配してないんですけど……」
一色が俺の懸念を一蹴すると、ゆっくりと動き出し、椅子へと腰掛けた。
俺も座るならこのタイミングしかないだろう。
そう思い、カバンを下ろしながら、一歩前へと進み腰を落とす。
うん、今年も変わらずこのクッションは座り心地がいいな。なんなら愛着も湧いてちょっと欲しくなってきたまである。
しかし、そこから再び訪れる静寂。
クッションに気を取られたせいで会話のタイミングを完全に逃してしまった。
気まずい。
このまま座っていて良いのだろうか?
それとも何か言った方がいいか?
だが何を言う?
困った俺が視線を泳がせ、ふと目に入ったのは壁にかけられたカレンダー。
それが去年の物と変わっている事に気がついたのだ。
去年は犬や猫が描かれているものだったと思うが。
今年はどうやらフェレットがモチーフのものらしく、一月と書かれたそのカレンダーの上半分には門松を背景にしたあざとく首をかしげたフェレットが写っていた。
「ああ、カレンダー変えたんだな」
「え? ええ、新年ですからね、いつもパパがお土産で貰ってくる奴なんです、可愛くないですか?」
「ああ、そうだな」
確かに可愛い。
というか動物は良いよな本当。変なシガラミとかないし誰かに飼ってもらえれば黙っていても飯がでてくる。
なんなら俺も飼って欲しい。
そんな事を考えながら、数十秒ほどカレンダーを眺めていると、いつの間にか一色が俺の方を見ていることに気がついた。
……そういえば、あの時もこうやってカレンダーを見てたんだよな、そうしたら後ろから一色が……駄目だ思い出すな!!
「と、とりあえず、授業始めるか!」
「そ、そうですね! あ、そうだ! 実はセンパイに相談したい事があったんですよ!」
「おう。何でも聞いてくれ!」
いかんいかん、あっちにしてみればアレはちょっとした気の迷いだったはずだ。
変に意識して一人で勝手に気まずくなる必要はない。
俺はただの家庭教師。
いつものように授業をこなして金を貰うだけ。
あと二ヶ月もすれば、こいつとの関係も終わり。
考えるな、考えるな……。
仕事に集中しろ。比企谷八幡!
「そ、そうだ、数学のレベルアップに良さそうな物借りてきたぞ」
「レベルアップ? なんですか?」
カレンダーから気を逸らすため、俺はカバンから一冊の本を取り出した。
それは、先週川なんとかさんに教えてもらった、数学の本。
一応あの後俺自身も一通り読んでみたが、確かにオススメできる内容だと確認もしている。
なんなら普通に一冊買っても良いと思える内容だった。
出来る事なら、俺が受験の時に教えてもらいたかったほどだ。
「数学の復習に良いらしい。俺もちょっと見てみたが、結構分かりやすくて良かったぞ」
「らしい……?」
だが、俺がそう言って本を渡すと、一色は何故か一度俺をジト目で睨んでから、ペラペラと本を捲っていく。なんだろう、何かおかしな事を言っただろうか?
「……確かに、読みやすそうですね……」
「だろ? 量もそんな多くないし、ざっと通しで確認するにはちょうどいいと思ってな」
「これ、貸してくれるんですか?」
「まぁ、又貸しはあんまよくないんだけどな、返却期限の再来週まではここ置いとくから好きに使ってくれ、寝る前とかに軽く読む程度でもいいらしいぞ」
「……らしいらしいって、一体誰に聞いたんです?」
ニッコリという擬音を貼り付けたような笑顔のまま、一色が俺に問いかけてくる。
いや、怖い。
何? なんなの?
「ほら、文化祭の時も会っただろ……お前を助けてくれたバイトの姉ちゃん。図書館行ったら偶然会ってな」
「へぇー……人が受験で忙しい中、センパイは図書館で女の子と遊んでいたと……」
「いや、遊んでたって訳じゃ……」
とはいえ、家庭教師のレベルアップのために勉強しにいった。なんて恥ずかしくて言えるわけもなく。どう言ったら良いものか……。
「問答無用です! 罰としてシフト増やしてもらいます!」
「いや、おかしいだろ、もう俺週四で来てるんだけど?」
「週四なら週五でも大して変わらなくないですか? なんなら週七でもいいんですよ?」
「休みなしとかどんなブラックバイトだよ……」
訴えたら勝てるんじゃないの?
くそっ、こんな事ならもっと法律の勉強をしておけばよかった。
高校の選択授業に労働基準法があったら絶対選択しているというのに……。
むしろ日本にブラック企業が多いのってそういう教育が行われてないからじゃないの?
もういっそ義務教育化してほしいまである。
「それに雇用主の意向とかもあるだろ……」
「お爺ちゃんの事なら心配いりませんよ? 元々毎日来てもらっても良いって言ってましたし。ほら火、水、金、土ってなんか半端じゃないですか? もうこの際木曜もバイトいれちゃいましょうよ! 男の人ってそういうの好きじゃないですか? 『目指せコンプリート!』みたいなの」
「一色さん? バイトってそんなコレクション感覚で増やすものじゃないのよ?」
出勤日数コンプリートとか考えたくもない。
社畜根性たくましすぎだろ。
「えー、でも木曜の放課後とか暇じゃないですかー?」
「いや、知らないけど。暇なら勉強しとけよ……」
「? センパイの事ですよ? センパイ部活とか予定入ってないですよね?」
俺の話かよ……。
お前が知らないだけで俺にだって予定ぐらい……予定……予定……。
「いや、まぁ入ってないけどさ……」
あれ? 俺ってもしかして暇人なの?
「それに、年末年始、センパイ結構休んだじゃないですか? やっぱりその分の補填って必要だと思うんですよ」
確かにインフルで大分長いこと休む羽目にはなってしまったので、その件については俺が悪いと思わなくもないんだが……。
先に倒れたのはアナタなんですよ? 覚えてます?
そもそも最初週一だったじゃん? 半年ぐらいずっと週一で良かったじゃん?
なんでここ数ヶ月でこんなシフト増えてるの?
おっさんの条件だっていうから、一日追加は承諾したけど。
その後増えすぎじゃない?
最初は体育祭の後に呼び出し食らって、済し崩し的に増えた金曜日でしょ?
「センパイの作ったテストで良い点取ったんだからお願い一つ聞いて下さい!」って言われて増えた火曜日。
そして今回の罰で増えた木曜日……。俺は前世でどれほどの罪を犯したというんだろう?
「もう……入試までそんなに時間ありませんし……。駄目……ですか?」
そうして、前世の罪を数えていると、先程までの強気から一変、突然しおらしくなった一色が上目遣いで俺を見上げて来た。
あざとい……。
これはどうみてもポーズだ。ここで流されてはいけない。
流されない男、それが八幡である。
だが……俺としても一色の総武高行きの後押しをしてしまったという負い目もあった。
一色の言う通り部活も入ってないし、それに……もうすぐこのバイト生活ともオサラバだ……。俺としてもやれる事はやっておきたい。
そう思えば、今更バイトのシフトが一日増えた所でそれほど目くじらを立てるような事でもない気がした。こいつが言い出したら聞かない奴だっていうのも分かってきたしな。
「分かったよ……但しコレ以上は増やさないからな」
「え!? 本当ですか! やった!」
「まぁ、あと二ヶ月ちょっとだしな……」
何がそんなに嬉しいのか、椅子から立ち上がり、目をキラキラと輝かせて喜ぶ一色を横目に、俺は俺自身の前世の罪について考えていた。
もしかしたら、本当に俺は前世で大罪を犯しているのかもしれない。
ああ、そういえば、俺の前世を知っているらしい人間が一人いたな……。
今度例の中二病患者に会ったらをジックリ問い詰める事にしよう。
先週と今週休むかもって言ったけど
両方間に合わせたから誰か褒めて欲しい。
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いつでもどこでも何度でもお待ちしてます!