やはり一色いろはが俺の許嫁なのはまちがっている。   作:白大河

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第55話 Have a break

 二月に入り、とうとう入試まで残り一ヶ月を切った。

 

 それは同時にこの家庭教師の終わりが近いという事も意味する。

 思えば遠くへきたものだ。

 最初は無理矢理始めさせられたバイトで、何をしたら良いかも分からず、ただ一色の後ろ姿を眺めているだけだったのに、自分で言うのも何だが今では随分家庭教師らしくなった……ように思う。

 

 週一だったバイトは、最後の追い込みという意味もあり週五まで増えて完全にブラック化。

 二時間の約束だった一日の就業時間もその日の進行度によって延長され、それでも足りないと自主的に家で教え方の予習までしてしまう始末。

 これで家庭教師っぽくないと言われたら、逆に何が家庭教師なのか詳しく教えてもらいたいところである。

 

 まぁ、内心『そこまでする必要なくない?』と思う自分もいるのだが、おっさんに啖呵切った手前『やっぱり総武は無理でした』じゃ格好悪すぎるし。

 もし一色が落ちて、葉山へのアシストをするにしても、アレ以降葉山と会ってないから何したらいいかわかんないし?

 一色が普通に合格するのが一番俺への被害が少ないので、当然のリスク管理とも言えよう。

 

 だから俺が頑張っているのは、元の平穏な日常を取り戻すためで、それ以上でもそれ以下でもない。

 誰の目から見ても、あと一ヶ月で終わりというのは朗報……のはずなのに、時がたつに連れ少しだけ終わってしまうことが惜しいと思ってしまうのは何故だろう?

 

 いや、きっとこの感覚は……バイト代が無くなる事へのものだ。

 ここ数ヶ月で一気に仕事量が増えたので、無駄遣いをしなければ、高校生活を送っているうちは安泰なんじゃないかとさえ思うが……毎月バイト代が入る生活になれてしまったからなぁ。

 やはり収入がゼロになるというのは少し侘しい。

 何か俺が出来そうな……働かないで金稼ぐ方法ないんだろうか?

 今度は適度にサボっても良心の傷まない職場希望。

 

* 

 

 そうして今日も俺は一色の家に通い、もはやどちらが受験生なのかわからないほどに入試対策に励んでいる。

 いや、ごめん、さすがにそれは嘘だわ。

 多分、去年の俺なら今の一色と対抗できるぐらいやっていたと思うが。

 一色が勉強してる間の俺、結構暇だし、今の俺が去年以上に勉強してるかと言われれば絶対にない、一色のほうが遥かに頑張っている。

 

 加えて川崎に教わった総復習本のお陰でここ一ヶ月は一色の数学のレベルも安定して伸びてきた。ついでに俺も。

 今の一色の合格率は恐らく七~八割という所だろう。知らんけど。

 

 まあ、正確な合格率はわからないにしても、実際の所一色は随分と成長したように思う。

 少し前まで躓いていた問題を、すんなり解けるようになっていくのを見るのは育成シミュレーションをやっているのに近い感覚があって、ちょっと楽しいまである。

 URA制覇も夢じゃ無さそうだ。うまぴょい! うまぴょい! おっとイカンイカン。それは別の娘の話だったな。

 まあゲームほど分かりやすくパラメーターが見えないし、上がってもくれない。それどころか、過去に正解していた問題を間違える、なんて事もあるので少々ヤキモキさせられる部分もあったが、去年の春頃と比べれば随分レベルアップしたように思う。

 

「おい、そこスペルミスってるぞ」

 

 そんな事を考えているそばから、スペルミスを発見してしまった。 

 ミシシッピにSは四つ、Iも四つ、Pは二つでMississippiだと、どこかの文豪も言っていただろう。

 まあほぼ確実に入試にはでないだろうけど……。

 

「ひゃんっ!?」

 

 だが、俺が注意すると同時に、何故か一色はその椅子を大きく引き、肩をビクリと震わせ、持っていたシャーペンを後方へと投げ飛ばした。

 え? 何? 何事?

 

「センパイ! 急に驚かせないでくださいって何度言ったら分かるんですか!」

「お、おう。悪い」

 

 何故か怒られたので、謝罪がてらクッションの側まで飛んでいったシャーペンを拾い、一色に手渡す。

 なんだろう? 俺のせいみたいに言うのやめてもらっていいですか? なんかそういうデータでもあるんすか?

 いや、実際声かけたのは俺だから、俺のせいではあるんだろうけどさ。

 そんな驚くような言い方したか?

 この程度のやり取りは、最近では珍しくないと思うんだが……。

 女子本当わからん。

 

 というより、今日はなんかずっと変なんだよな。

 チラチラこっちみて落ち着かないというか、かと思えば何か考え事をしているのかぼーっとしていたりと。とにかく集中力が欠けている感じ。

 また何か心配事でもあるんだろうか?

 

「なんか、今日ソワソワしてない? 具合でも悪い?」

「い、いえ。別になんでもありませんよ?」

 

 俺の問に、一色がそう返してくるものの、その言葉には説得力がなくアチラコチラへと視線を泳がせている。

 腹の調子でも悪いのだろうか?

 それとも、また風邪か?

 

「体調管理はしっかりしとけよ? また熱だして試験当日にダウンとか洒落にならんからな」

「分かってますよ、そんなにプレッシャーかけないで下さい……」

「こっちだって掛けたくて掛けてるんじゃねーよ……」

 

 実際、その辺りは自分で管理してもらうしかないので是非気をつけて頂きたい。

 寝る時まで監視するわけにもいかないからな。

 一応、後でもみじさんにも注意してもらうよう言っておくか……。

 

***

 

「八幡くん、今日は食べていける? それとも持って帰る?」

「あ、今日は頂いていきます」

「良かった。今日はデザートもあるから、一杯食べていってね」

 

 時計の針が十九時を指すと、ノックとともに一色の部屋の扉が開かれる。

 どうやら食事の時間らしい。最早時計をみる必要もないほどに完璧なスケジュール管理。

 バイト生活一年が経ってもここだけは変わらない、完全時間厳守……なのだが実はバイトのシフトが増えた事でこれまでと変わったことがあった。

 一つは、この一色家での食事の事だ。

 

 バイトが週五まで膨れ上がったので、そのまま毎回食べさせてもらう訳にもいかず、食事に関しては申告制に変更された。

 当然、もみじさんに猛反対されたが、あまり一色の家でばかり食事をしていると小町が一人になってしまうからな。

 一応適度に断る事にしている。ここで食べていくのは週にニ、三回程だ。

 まあ、その結果「これ、小町ちゃんと食べて」とおかずを包んでくれたりするので、どっちの方が負担が少なかったのか? と言われると少し疑問は残るのだが、小町に対する罪悪感もあったので甘えさせてもらう事にしている。

 

「それじゃ、いただきます」

「いただきまーす」

「頂きます」

「はい、召し上がれ」

 

 今日はパスタか。

 俺の前には弘法さんと同程度の量のパスタが用意されている。料理名はよくわからんが、美味そうだ。

 これも小さな変化の一つだが、この頃になるともみじさんも俺の食べる量を把握してくれたらしく、昔ほど腹がパンパンになるという事も無くなっていた。

 なんならデザートを食べる余裕すらあるので、正直めちゃくちゃ助かっている。

 もし、バイトに通い始めた頃のまま『お残しはゆるしまへんで』システムだったら、俺はデブの二つ名を掲げることになっていただろう。

 

「どう?」

「あ、美味しいです」

「良かったぁ、おかわりもあるけど……今日はデザートがあるから、少しお腹あけておいてね?」

「? はい。楽しみにしてます」

 

 今日はデザートがあるのか。なんだろう? 

 この間は手作りのシュークリームとか出てきたからな、実の所かなり期待をしてしまう……。

 いや、まあまずは目の前のパスタに集中するとしよう。

 

「八幡君、いろはの勉強の調子はどうだい?」

「どうなんですか? センパイ?」

 

 そうしてパスタを口に含むと、今度は弘法さんと一色が俺にそう問いかけてきた。

 調子と言われてもなぁ……。

 

「さぁ……どうなんでしょうね……?」

「なんですかそれ! ちゃんとやってるじゃないですか」

「いや、まぁそれなりに?」

 

 俺の答えに不満なのか、一色がジト目で俺を睨んで来た。

 やめてもらえません? 怖いし、あと怖い。

 実際、頑張っているとは思うが、合否に関わるようなことを俺の口から言うわけにはいかないのだ、変に期待を持たせるような事もしたくないしな。

 これ以上責任も負いたくないので、基本的には自己責任でお願いしたい。

 

「ははっ、それなりか。もっと頑張らないと駄目だよいろは? あまり八幡君を困らせないようにね。八幡君も、ビシバシやってくれて構わないからね?」

「困らせてなんてないですー! パパは変なこと言わないで! センパイもパパの言うことなんか聞かなくていいですからね?」

 

 いや、まぁ、無闇にシフト増やされて困ったりはしてるんだけどな……。

 でもそれをこの場でいうほど野暮じゃない。

 俺は弘法さんと一瞬だけ視線を交わしすと、弘法さんは何かを察したのか一度だけ穏やかに微笑んでくれた。やだ、イケオジ。なんだかんだでやっぱこの人も一色に似てるんだよなぁ……父親だから当然といえば当然なんだが……鼻とかコピペしたみたいだし。

 そういや女の子は父親に似て、男の子は母親に似るなんて話もあった気がする。

 となると俺は母ちゃん似か? 自分じゃよく分からんな……。

 

「コホン……ところで……その、八幡君。今日は……どうかな?」

 

 そんな事を考えながら、一色と弘法さんを見ていると、唐突に弘法さんが何やら言いづらそうに咳払いをしてから自分の胸の前でフォークを軽く二回ほど上下させた。

 これはあれだ……ギターのお誘いだ。

 

 そう、これもまたバイトが増えたことで起こった変化の一つ。

 俺がバイトのシフトを増やし、残業も増えたことで、これまで帰りが遅くあまり顔を合わせる機会がなかった弘法さんと鉢合わせることも多くなった結果。

 弘法さんが俺にギターを教えてくれるようになっていた。

 まあ細かいことを言えば以前もこういう事はあるにはあったが、ひと月かふた月に一度あるかないかだったのが、今は週に一、ニ度にまで増えている。

 

「パパ? 何度も言ってるけどセンパイは私の家庭教師に来てるのであって、パパと遊びに来てるわけじゃないんだからね?」

「……それはわかっているけれど、八幡君にだって息抜きは必要だろう?」

 

 なんでこう一色家の人間はすぐ『息抜き』をしようとしてくるのか。

 一色の息抜き癖も父親譲りなのかもしれない。

 

「必要ありません! ね? センパイ? ね?」

 

 だが、一色は自分は息抜きをしたがるくせに、弘法さんの息抜きには否定的なようで。

 そう言って俺にウインクを投げてきた。

 実際、家庭教師に来て受験生の横でギターを弾くのはどうなんだとも思うんだが……。

 あれ……ウインク? なんでウインク?

 何かを伝えようとしているのか? 改めて一色の方を見ると、物凄い眼力を感じる。

 ……ははーん、なるほど? 一色の言いたいことは分かった。

 口ではなんだかんだ言っても、パパ大好きな親孝行娘という事なのだろう。

 まあ、俺ももう少し上達したいとは思ってたしな……。

 今日はまだ時間もあるし……。

 

「あー……えと、じゃあ少しお願いしてもいいですか?」

「は? ちょ! センパイ!?」

 

 あれ? 俺なんか間違えた?

 『パパに付き合ってあげてください』

 みたいな合図じゃなかったの?

 何か言いたいことがあるなら口で言いなさい口で。

 ウインクなんてされても、あざと可愛いってことぐらいしか分からないでしょうに。 

 

「ああ、勿論だよ。 じゃあ早く食べて……」

「あなた? デザートがあるって言ったでしょう?」

「あ、ああ。そうだったね」

「八幡君も、ゆっくり食べてね?」

「あ、はい」

 

 もみじさんは笑顔だったが、それが逆に怖かったので、俺は次の一口を飲み込むために三十回噛むことにした。

 ふと視線を上げれば、弘法さんも同じ結論に至ったらしく。ゆっくりと口を動かしている。

 意味があるかどうかは分からないが、きっと胃には優しいことだろう。 

 

「むー……!」

 

 そんな俺と弘法さんを見て、何故か一色は頬を膨らませていたけど……。

 ハムスターかな?

 

*

 

「ごちそうさま」

「ごちそうさまでした」

「はーいそれじゃ今日のデザート……ホットチョコレートよー」

「ホットチョコレート……?」

 

 普段の倍以上咀嚼に時間を掛けながら、漸く夕食を食べ終えると、テーブルに湯気の立つマグカップが運ばれてきた。

 一色、弘法さん、もみじさんそして俺の四人分。

 ホットチョコレートという名前の通り、暖かく中身は茶色いドロドロとした液体で満たされている。マグカップという事は飲み物……なんだろうか?

 

「な! ちょっとママ! なんで私より先に!」

 

 すると突然一色がダンッと立ち上がり、俺の頭越しに言い合いを始め下唇を噛んでいた。

 何? 何事?

 

「え? もしかしてまだ渡してないの? でもそんなのいろはちゃんが悪いんでしょ? ママに八つ当たりしないでくださーい」

「……っ!」

 

 また親子喧嘩なの? 何が原因かよくわからんが、怒りの沸点低すぎない? 反抗期? それとも受験のストレスだろうか?

 あと一ヶ月だからもうちょっとだけ我慢しなさい?

 でも正直な所、最近はこの手の光景にもすっかり慣れた。

 こういう時は我関せずで、怒りが収まるのを待つのが正解だ。

 

 とりあえず、二人の事は放って置いて、目の前のこれをどう処理するのか考えよう……ホットチョコレート……初めて見る形式のチョコレートだが……このまま口を付けていいのだろうか?

 チーズフォンデュ的な奴か? これに何かつけて食べる系?

 今テーブルにあるものと言えば、夕食のおかずの残り、サラダスティックぐらいなんだが……チョコと合うのかしら?

 

「あら、八幡くんは飲むの初めて?」

 

 俺がサラダスティックとカップを交互に見ていると、もみじさんがサラダスティックを片付けながらそう問いかけてきた。

 どうやら間抜けは見つからなかったようだな。

 あっぶね、手伸ばさなくてよかった……。もしサラダスティックをチョコレートに浸していたら一生笑いものにされていたかもしれない。セーフ。

 

「さすがにウチじゃこんな洒落た物は出てこないので……」

 

 小町や母ちゃんがこんな洒落たものを出してくる状況というのが、そもそも想像できない。

 あの二人がすでにこの飲み物を飲んだことがあるとしても、俺の居ない所での話だろう。少なくとも俺は飲んだことがない。

 というか……『飲むの初めて』って事は飲み物であってるんだよね?

 『チョコレートは飲み物』っていうデブ用語じゃないんだよね?

 うん、弘法さんも何事もなくマグカップを傾けている。

 よし、とりあえず一口頂くとしよう……。

 

「うわっ、めっちゃチョコ……」

「え? もしかしてセンパイってチョコレート苦手だったりします?」

 

 俺が思わず率直な感想を呟いてしまうと、ようやく落ち着いた一色がゆっくりと座りながらそんな事を聞いてきた。

 あれ? 俺そんなチョコ苦手なキャラで売ってたっけ?

 

「んにゃ、むしろ好きだぞ、元々甘党だしな」

 

 そういいながら、二口目を啜る。

 予想外のチョコ感に驚いただけで、別に嫌いではない。

 っていうかこれもうホットチョコレートっていうよりチョコじゃん。むしろチョコ。

 

「そうですよね。……良かった」

「ん? 何が良かった?」

「いえ、こっちの話です」

 

 なんだか良く分からないが……もしかして?

 いや、やめよう。変な想像をするのは。

 自分に都合の良い妄想なんてろくな事にはならないからな。

 

 何やら物言いたげな瞳で俺見てくる一色を横目に俺は残りのホットチョコレートを啜った。

 

*

 

 それから、ホットチョコレートを飲み干した俺は弘法さんの部屋にお邪魔して、ギターの手ほどきを受けた。時間にして一時間ほどだろうか?

 その間、恨めしそうにドアの隙間からこちらを見る一色の気配を感じたが、気の所為だと割り切ることにした。

 今日のバイトはきちんとこなしたし、あとは今日の復習をしておくようにと言い聞かせてある。暇なら勉強してるはずだし、俺の出番はもうないはず。

 このまま帰宅しても問題ないだろう。

 

「えっと……すみません、今日はそろそろ帰ります」

 

 だから俺は、ある程度切りが良い所で、一度だけスマホを見る仕草をしてから席を立った。

 時計の確認という意味もあるが、こうしておけば何か言われても「家から呼び出しがあった」と言い訳が出来るからな。

 

「ああ、もうこんな時間か……残念だな、もう少し教えたいことがあったんだけど……」

「すみません、小町も待ってますんで。また今度お願いします」

「ああ、じゃあまた今度」

 

 時刻はまもなく二十一時。

 狙い通り弘法さんの追求を躱し、俺は弘法さんから借りた練習用のギターを元の場所に戻して、そそくさと足元に置いておいた荷物をまとめると、弘法さんが少しだけ悲しそうな顔で片腕を上げた。

 なんか、申し訳なくなるな……友達いないのかしら?

 とりあえず、良心が痛む前にこのまま部屋を出てしまおう。

 

「それじゃ、ありがとうざいました……って一色?」

「あ、センパイ終わりました?」

 

 だが、そうして部屋を出ると、扉の横の壁に背中を預けた一色が待ちぼうけを食っていた。

 何してんのこんな寒い所で?

 

「何してんの? なんかまた分からない所でもあった?」

「いえ、そういうんじゃないんですけど……」

 

 俺が声をかけると、一色はトンッと背中で壁を蹴るように、壁から離れ、何やらモジモジと俺を見上げて来る。

 な、何?

 

「え、えっと……俺そろそろ帰るけど……?」

「あら、八幡君もう帰っちゃうの? 私も渡すものがあるんだったわ、ちょっと待っててね」

「あ、はい」

 

 どうしたらいいか分からず、とりあえず帰宅を告げたのだが、俺のその言葉に反応したのは廊下の先にいたもみじさんだった。

 渡すもの? なんだろう? 何か忘れ物でもしただろうか?

 図書館から借りた本はもうないし、カバンはココにある。

 はて?

 考えても、特に思い当たる節がない。

 仕方がないので、そのままもみじさんが消えたリビングの入り口付近を見て待とうと思っていたのだが。唐突に一色が俺の裾をキュッと摘まんだ。

 

「えっと……センパイ……あの……ちょっと、こっち来てもらっていいですか?」

「ん?」

 

 突然一色に引っ張られ、抵抗虚しく引っ張られる俺。

 いや、別に抵抗はしてないけど……。

 

 そうして引っ張られること数メートル、弘法さんの部屋の前から玄関前まで移動すると、一色がするりと裾から手を離した。

 一体なんなんだろうか?

 何か言いたいことがあるなら早めに言って欲しい。

 しかし、相変わらず一色は黙ったまま顔を伏せている。

 何この時間?

 よくわからないが、玄関に連れてこられたって事はこのまま帰れっていう事なのだろうか?

 いや、帰るけどさ。

 

「えっと……一色さん?」

「すぅー……」

 

 痺れを切らした俺が声をかけると同時に、一色がすぅっと一度大きく息を吸い込む。

 え? このタイミングで破壊光線?

 

「あの……これ!」

 

 俺が思わず防御の姿勢で身構えると一色は俺の目の前に紙袋をぶら下げてきた。

 とりあえず、破壊光線ではなかったようだ。

 危ない危ない。

 

「何? 貰っていいの?」

「……バレンタインのチョコレートです」

「お、おう。おう?」

 

 ばれんたいんのちょこ?

 何だっけそれ? 

 なんて間抜けを演じるつもりはない。

 当然今日がバレンタインという事は知っていたし、なんならさっき「もしかして」と脳裏をよぎったりもした。

 それに何より、今朝、小町と母ちゃんからもチョコ貰ったからな。

 真っ赤なパッケージの板チョコと黒い稲妻。

 因みに、どっちがどっちだったかとかは聞いてはいけない。

 こういった物は値段ではないのだ。

 

 だから、今はとにかく平常心でこんなの何てことないですよ的な感覚で受け取らなければならない。

 これは、あれだ。

 義理チョコというやつだろう。

 変に意識して『こいつ俺の事好きなんじゃね?』等という勘違いをして醜態を晒せば後日学校中に広まる事になる。

 ましてや一色は総武を受けるのだ、来年の俺の人権に関わる重要な局面。

 絶対に顔に出してはいけないバレンタイン24時のはじまりだ。

 平常心、平常心。

 

「ほ、本当はもっとちゃんとしたの用意したかったんですけど、今年は時間無くて、買いに行くのも忘れちゃってて……それで、あの今年はとりあえずっていうか、あ、でも誤解しないでくださいよ? とりあえずだけど、とりあえずでもなくて、仕方がなかったっていうか……」

 

 だが、そうして心を落ち着かせようとする俺とは逆に、一色の方が早口で言い訳めいたことを並べ立ててくる。

 あれ? なんだこれ?

 

「いいから、一旦落ち着け」

「す、すみません……でも、その……本当に誤解しないでくださいね?」

「分かったから落ち着け」

 

 誤解をするな、というのはよく分かった。

 誤解なんてしない、するわけがない。

 なのに何故か一色の方がしどろもどろになっている。

 だから、俺は今度こそ何の気負いもなくその紙袋を受け取れた。

 紙袋の中には小さな四角い箱が一つ。大した重さも無い。

 なるほど、たしかに義理だ。

 

「まあ、あれだ、サンキュ」

「本当はママより先に渡すつもりだったんですけど……」

 

 そう言われて、ああ、あれはもみじさんからのバレンタインチョコだったのかと気がついた。

 

「ああ、そうか、あれもバレンタインだからなのか」

「え? 気づいてなかったんですか?」

「いや、気づいてないというか……あんなの飲むのも見るのも初めてだったからなぁ」

 

 バレンタインという言葉はなんとなく連想していたのだが。

 そうか、あれはもみじさんからのチョコという事だったのか。

 初めて見る得体のしれない飲み物に完全に意識を持っていかれていたせいか、そこまで思考が追いついていなかった。

 デザートとして全員に用意されていたから、個人的に貰ったという印象が薄かったというのもあるかもしれない。

 例えバレンタインの日の給食にチョコレートが出たからって、チョコレート貰ったって燥いだりはしないだろう? そんな感覚。

 今思うとちょっと失礼だったかもしれない。改めて礼をいわないと……こういうのは順番じゃないしな。

 

「じゃあ実質私が一ば……」

「まぁ今日最初にチョコくれた小町なんてもっと分からなかったけどな、普通に菓子くれただけだと思ったし……」

「……あんのお米ぇ……」

 

 何となく思ったことを口にしたら、何故か小町にヘイトが向いてしまった。

 一体何故?

 小町ちゃんは超優良タンクなの? かばう持ちなの?

 あんま危険なジョブにはついてほしくないんだけどなぁ……。

 出来ればヒーラー辺りにジョブチェンしてくれないかしら?

 あ、でもPvPだと真っ先に狙われるじゃん。どうしろってんだ。

 

「じゃあ、そろそろ良いかしら?」

「マ、ママ!? いつからいたの?」

 

 そうして良く分からない会話を繰り広げていると、突然横からもみじさんが割り込んできた。

 いや、本当びびった、思わずビクってしちゃった。

 心臓に悪いから本当やめて欲しい。

 

「さっきから居たわよ? はい八幡くん、コレはお婆ちゃんから。小町ちゃんと一緒に食べてねって」

「あ、ど、ども、ありがとうございます。ホットチョコレートもありがとうございました。おいしかったです」

 

 そう言うと、もみじさんは一色がくれたものよりは一回りほど大きな紙袋を渡してくる。

 楓さんから、ということはこれもチョコレートなんだろうか?

 小町と一緒にということなら、沢山入っているいわゆるお徳用チョコとかかもしれない。

 

「なんでママはいつもそうなの? もっとタイミングとか考えてよ!」

「仕方ないじゃない、あのまま八幡君が帰っちゃってたら渡せないでしょう? それに『バレンタインのチョコレート渡すのなんて簡単だ』って言ってたのいろはちゃんじゃない、てっきりポンって渡すものなのかと……」

「ちょ! ママ!」

 

 俺がその紙袋の中身を覗いていると、目の前でまた親子喧嘩が始まってしまった。

 えっと……これはどうしたらいいんだ……?

 帰って良いのか? まあちょうど玄関先だしな、避難するには帰るのが一番か。

 

「えっと……じゃあありがとうございました、今日はこれで失礼します。……一色また明日な」

「あ、はいまた明日……」

「それじゃあね、八幡君、気をつけて」

 

 軽く頭を下げてから、ぱぱっと靴を履き、さっと玄関を抜け一色家を後にする。

 ふぅ……ミッションコンプリート。さて、帰るか。

 閉じられた玄関の扉の奥から

 

「ママの馬鹿ー!!」

 

 という声が聞こえたが、聞かなかったことにしておこう。

 ご近所迷惑だから、ほどほどにな。

 

*

 

 今年のバレンタインは大収穫だ。

 小町、母ちゃん、もみじさん、一色、楓さん。今年はチョコを五個も貰ってしまった。俺史上最高記録まである。

 帰ったら小町に自慢してやろう。

 紙袋にチョコを入れて帰るなんて、男の子の憧れですらあるからな。

 ま、全部義理だけど……。

 

 俺は帰宅後の小町のリアクションを想像しながら、揺れる電車の中で一人紙袋の中身を物色する。

 渡された紙袋の一つは『小町と一緒に』という事もあってか、少し大きめの箱の形をした何か。そして一色がくれたもう一つは、淡いオレンジ色のハートが配われた包装紙にくるまれた小さな手のひら大の箱が一つ。

 

 一色の方は紙袋に入れる必要も無さそうなほどに小さい。

 一体何が入っているのだろう?

 まあ、一色がくれた方は小町関係ないし開けてみるか。

 実際、何が入っているのかは気になっていたしな。

 あ、でも義理とは言え家族以外の同年代の女子から貰ったのはこれが初めてでは?

 やば、なんか口角が上がってしまう。

 うっかりするとにやけてしまいそうだ。

 

 俺は逸る気持ちを押さえきれずに、紙袋の中で出来るだけ周りに迷惑にならないよう、そのラッピングをゆっくりと剥がしていった。

 音を立てないよう、破かないよう、できるだけ丁寧に。

 

 すると、中から出てきたのは市販のどこにでも売っている、赤いパッケージのチョコレート菓子。

 受験シーズンになると『きっと勝つ』という願掛けも兼ねたパッケージに変更されるアレだ。

 いや、これ送られるのは俺じゃなくて一色の方なんじゃないの?

 まあ好きだからいいけど……。

 

 剥がした包装紙を手早く紙袋にしまうと、俺はその赤い箱を手にとって眺めてみる。

 うん、どこからどう見てもコンビニに売っているアレだ。

 値段的には小町や母ちゃんとも変わらない感じ。

 義理チョコというのは基本的にどれも同じような物なのかも知れないな。もはや勘違いのしようもないほどに義理。まさに義理チョコの中の義理チョコ。

 べ、別にがっかりなんかしてないんだからね!

 そう、がっかりなんてしていない、何度も言うが義理でも、俺にとっては家族以外の女子からもらった初めてのチョコレートだ。ありがたく頂くとしよう。それに、これならホワイトデーも安くて済みそうだしな。

 そうして俺はふと、そのパッケージを裏返す。

 その瞬間、それが目に入った。

 

 他のチョコレートにはあまり見られないのだが、このチョコレートの特徴の一つとしてパッケージの一部に、メッセージを記入できる白いスペースが設けられている。

 受験シーズンという事もあって、家族からの合格祈願だったり。

 友人からの応援メッセージだったりがサンプルで書かれているのを見たことがあったが。

 俺はそれを利用したことなんてないし、利用している奴も見たことがなかったので完全に無駄なスペースだと思っていた。

 だが……今日初めて、そのスペースが有効利用されているパッケージに出会った。

 出会ってしまった。

 

 そこには、一色特有の丸く可愛らしい文字で、空いているスペースにハートをあしらいながら、メッセージが書かれていたのだ。

 

『絶対合格するから、待っててくださいね♪ あなたの“いいなずけ”より』

 

 俺は思わずチョコを持っていない方の手で口元を覆う。手首に掛けていた紙袋が咄嗟に隣の人当たってしまったがそんな事気にもしていられない。

 そうしないと、口元が緩むのを我慢できそうになかったからだ。

 一瞬隣にいるおっちゃんが怪訝そうに俺を見たのが分かったが、大丈夫。

 バレてない……はず。

 でもどうしよう、口元がニヤけるのを止められない。

 くそっ、こんなの社交辞令だと分かっているはずなのに。

 誤解するなと言われていただろう、自重しろ俺!

 

 しかし、いくら頭でそう考えても、表情筋は思うように動いてはくれず、徐々に増える周囲の視線から逃れるために、俺は顔を少しだけ上に向ける。

 にやけるな!にやけるな!

 駄目だ……。これじゃ不審者だ……。ワンチャン通報されるまである。

 一度降りて気持ちを落ち着かせる時間が必要かもしれない。

 全く、あいつはなんて物を渡してくるんだ、こんなの……

 

「あざとすぎんだろ……」

 

 マジどうしよ……、家につくまでに顔戻るかしら……。




というわけでバレンタイン回でしたー。
お約束という事で。

例によってあれやこれやは活動報告に。

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