やはり一色いろはが俺の許嫁なのはまちがっている。   作:白大河

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第59話 あさきゆめみし

 気がつくと、私は見慣れた中学の教室にいた。

 いつもの学校、いつもの教室。いつも通りの風景。

 昼食を食べた満腹感と、暖かい陽気についウトウトとしてしまいたくなるような、そんな午後の授業中。

 

 ふと視線を窓の方へ向けると、窓際の一番うしろの席に座っているセンパイが気持ちよさそうに船を漕いでいるのが見えた。

 その緩みきった顔を見て、思わず自分の口元も緩むのが分かる。

 同時にパシャリというシャッター音がどこかから聞こえた、きっと誰かがふざけてセンパイの寝顔を撮ったのだろう。

 その気持はとても良くわかる、私もセンパイの隣の席だったら絶対撮っていた。

 でもそんなに堂々と寝てたら……。

 

「こら! 比企谷! 起きなさい!」

「……あ……すみませ……」

 

 ほら、怒られた。

 ドッと笑い声が響く教室の中で、私とセンパイの目が合うと、センパイは気恥ずかしそうに窓の外を見る。ああ、顔が見えなくなっちゃった。残念。

 でも、本当に気持ちの良い陽気だ、私も思わず居眠りをしたくなってしまう。

 

「もう、しっかりしてくださいよセンパイ、恥ずかしいじゃないですか」

 

 私はそのまま席を立ち、センパイの元へと歩み寄った。不思議なことに授業中だった気がした教室からは他の人の気配は完全に消え、残っているのは私とセンパイの二人だけ。もう放課後だろうか?

 だが、特に疑問に思うこともなく、センパイは頬杖を突きながら一言。

 

「別に、お前が恥ずかしがる事ないだろ……」

 

 そんな言葉を投げかけてくる。

 全く、本当に分かってないなぁ、この人は。

 あれ? でも、なんで私とセンパイが同じ教室にいるんだっけ?

 センパイは“先輩”のはずなのに……?

 しかし、ほんの一瞬浮かんだ疑問はぽんっと泡のように消えてしまう。

 まぁいっか……。

 

「とにかくセンパイ、帰りましょ」

「ああ」

 

 そう言うと、次の瞬間にはパッと場面が切り替わり、私はセンパイの自転車の後ろに乗っていた。

 センパイの腰に手を回し、その背中に寄りかかる。

 これもまた、いつもの光景。

 

「しっかり掴まってろよ」

「はーい」

 

 心地よい揺れを感じながら、目を閉じて、センパイの存在を身体中で堪能する。

 私はこの時間が一番好きだ。

 センパイの大きな背中から感じる体温と、Yシャツを洗った洗剤と少しの汗が混じった匂い、そして何より心臓の鼓動を感じられる。

 私の特等席。

 例えどんなにお金を積まれても、ここの権利だけは絶対に誰にも譲るつもりはない。

 

「で、今日はどこか寄ってくの?」

「センパイと一緒ならどこへでも♪」

 

 センパイの問いに、私がそう答えると目の前の背中が一瞬大きく膨らみ、しぼんでいく。

 どうやらまた大きな溜息を吐いたようだ。

 

「……んじゃ、適当にその辺ぶらつくか」

「やった!」

 

 こうして、私達は二人で学校を出て放課後デートへと洒落込む、これもまた、いつもの光景。

 正直場所なんてどこでもいい。いや、より正確に言うならば、一日中こうやってセンパイと二人乗りをするデートだっていいと思う。

 でも、センパイの負担にもなるので、そういう訳にも行かないのが辛いところだ。

 ずっと乗ってて「重い」なんて言われても困るしね……。

 いつか大人になって、センパイが車の免許とか取ったらそういう事も気にせずどこまでも行けるようになるのかな?

 あ、でもそうすると、もうこの二人乗りの感触は味わえなくなっちゃうんだろうか?

 それは困る。

 出来たらセンパイにはバイクに乗ってもらいたい。

 そうすれば、センパイへの負担も減るし一石二鳥なのでは?

 もしそういう時期が来たら、ちゃんとおねだりするのを忘れないようにしておこう。

 

 そんな事を考えながら、私はセンパイの自転車に揺られ様々な風景を眺めていく。

 

 子どもの声がする賑やかな公園、人の居ない海岸沿い、線路へと続くゆるやかな坂道、夜景の見える丘、

 場面はどんどんと切り替わり、太陽も昇ったり沈んだりと目まぐるしく動いていく。

 もはや時間の感覚もメチャクチャだ。だけどそれが不思議な事だとは思わなかった。

 だってとても幸せだったから、永遠にこの時が続けばいいと本気で思っていた。

 

 でも、終わりの時は突然やって来た。

 

「前の自転車止まりなさーい」

 

 突如、背後からそんな声がかけられたのだ。

 その言葉を聞いて、センパイがキッとブレーキ音を響かせ自転車を止める。

 慌てて私が振り返ると、パトカーから一人の女性が降りて来るのが見えた。

 でも、何故か降りてきたのはお巡りさん──ではなく総武の制服を来た女性、顔は……よく見えない。

 その女性は長く綺麗な黒髪を揺らしながら、コツコツと靴を鳴らし、私達の方へと近づいてくる。

 

 やがて女性はその歩みを止め、私達の十メートル程前に立ち止まると、今度はセンパイが自転車を降り、その女性の方へと歩み寄っていく。

 

「わわっ! ってセンパイ?」

 

 センパイが降りた事で、自転車はバランスを崩しその場で倒れ込む。

 慌てて自転車から飛び降りた私が声をかけても、センパイは何も言わず、フラフラとその女性に近づいていき、やがて女性の前で立ち止まると、あろうことかその女性の方がセンパイに抱きついたのが見えた。

 その顔をセンパイの胸元に埋め、自分の匂いをつけようとしているようにスリスリと鼻をこすりつけていく。同時に先程まで私が感じていたセンパイの匂いがどんどんと消えて、周囲に妙な匂いが充満していった。

 私はその光景に焦り、声をあげようとするが、何故か声が出ない。

 

「……あなたが好きよ、比企谷くん」

 

 そんな私をあざ笑うかのように、その女の人は突然そんな事を言って、センパイを連れ去ろうとするので、私は慌てて二人の間に割って入った。

 

「ちょっと! あなた何なんですか!」

 

 ようやく絞り出したその言葉とともに、女の人の肩を思い切り掴んで、センパイから引き剥がす。

 だが、女の人は顔を伏せたまま、私の胸ぐらを掴み力強く押してきた。

 決して強い力ではない。

 でも、私は胸の圧迫感で動けなくなってしまった。

 何? この人……怖い……! 一体どこの誰……!?

 私が動けないまま固まっていると、やがてその女がゆっくりと顔を上げてくる。

 その黒くて長い髪に隠れていた女の顔は……

 

「ンナー!」

 

 真っ白い猫の顔をしていた。

 

***

 

 

「ンナー!」

 

 目を開けると、物凄い至近距離で猫が私の事を見下ろしていた。

 「生きてるか?」と問いかけるように、ぽふぽふと私の鼻にその前足の柔らかい肉球を押しあててくる。

 さっきから感じるこの変な匂いは君の肉球の匂いか……。

 う……重い………。ちょっとどいてくれるかな?

 

「いろはさーん? そろそろ起きてくださーい? ご飯の時間ですよー! いーろーはーさーん?」

「ぅん……。お米……?」

 

 猫が私の胸の上に完全に乗っているせいで、下手に体を動かせなかったので、なんとか首だけを曲げたのだが。お米ちゃんの存在に気付いた猫はピョイっと私の体から飛び降り、お米ちゃんの足元へと行くと、その足に自らの体をこすりつけにいった。

 ……私の気遣いを返して欲しい。

 

「お米じゃないです、小町です」

「もーいいじゃんそれは……ってうぇっ、なんか……口の中に毛が……」

 

 ようやく身軽になった体を起こして、何やら口の中に張り付く小さな毛を取り出しながら、なんとか状況を整理する。

 ああ、そうか。私、センパイの家に来て……そのまま寝ちゃったんだ。

 なんて失態。

 

「あー、カー君の毛ですかね、でもばっちくないですよ? カー君きれい好きなので」

「かーくん?」

「ボク、カマクラ! よろしくにゃ!」

「あ……そう………」

 

 そういえば、センパイの家には猫が居たんだっけ。

 名前は聞いてなかったけど、カマクラっていうのか。

 そんなふうに未だボーッとする頭で考えていると、真っ白な猫がお米ちゃんに持ち上げられ、うにょーんとお餅のようにその胴体を伸ばしていた。

 あ、オスだ。

 

「って? あれ? お米? なんでいるの?」

「なんでって……お忘れかもしれないですけど、小町はお兄ちゃんの妹なので、ここは小町の家でもあるんですよ?」

「あ、いや、そりゃそうなんだけど」

 

 さっき、私が来た時にはお米ちゃんは帰ってきていなかったはずだ……。

 ってことは、結構時間経ってる?

 やばい、どれぐらい寝てたんだろう?

 

「小町としてはなんでいろはさんがお兄ちゃんの部屋で寝てるのかのほうが疑問なんですが……?」

「あ、あははは……そ、そんな事より今何時?」

 

 「ンナー」と嫌そうな声をあげるカマクラくん? ちゃん? を床に降ろしてお米ちゃんがジト目で私を睨んで来るので、慌てて話題を逸らす。

 別にやましいことはしていないんだけどね……。

 とはいえ、アレから三十分ぐらいは寝てしまったのだろうか?

 慌てて立ち上がろうとしたのだが、そこでふとお腹から足元の辺りが温かくなっていることに気がついた。

 改めて視線を落とせば、私の体に毛布がかけられているのが見える。

 あれ? 毛布なんて私使ってたっけ……?

 センパイの枕の誘惑に負けたとはいえ、さすがに布団に潜り込むようなマネはしていないはずなんだけど……。 

 センパイがかけてくれたのだろうか?

 

「もう七時過ぎですよ」

「七時!?」

 

 しかし、毛布の謎を解明するよりも先に衝撃的な事を言われ、私の意識は一瞬でそちらに持っていかれてしまった。

 確か、総武を出たのが四時前だったから……センパイの家に来てすぐ寝ちゃったとして……三時間も寝てたってこと!? 失態もいいところだ。

 なんて勿体無い事を……ああ最悪だ。

 

「とりあえず、おはようございます、ご気分はいかがですか? 何やら楽しそうな夢でも見ていたみたいですけど」

「楽しそう? うーん……全然覚えてないや……。でも最初の方は楽しかった気がする……」

 

 言われて思い出そうとするが、どうにも思い出せない。

 確かに幸せな夢だった気がするんだけど……。

 なんだか怖い夢でもあったような気もする。まぁ……思い出せないなら大した夢でもなかったのだろう。

 

「最初の方は……ねぇ……制服大分よれてますよ?」

「な、なにかした?」

 

 慌てて自分の服を確認すると、セーラー服のネクタイはよれて、胸元が少し開いていた。

 お腹から下は……毛布がかかっているから見えないけど……、きっと皺くちゃになっていることだろう。下なんてスカートだったから下手したら捲れて……。

 

「それを小町に聞きますか? ここ兄の部屋ですよ? 疑うならまず兄じゃないかと」

「う……」

 

 言われて、反省する。

 確かにあまりにも無防備すぎた。

 センパイ……私に何かしただろうか?

 

「小町、一応未成年なんで、あんまり家の中で過激な事されると困ってしまうのですよ」

「私だって未成年だっつーの」

「その割には大分無防備でしたけどね……駄目ですよ? お兄ちゃんとはいえ男子の部屋で寝るなんて危険が危ないです」

 

 危険が危ない?

 むしろセンパイ相手だからこそ安心しすぎたと言うのもあるんだけど……まぁでも一女子としてはちょっと無防備すぎた。そこは反省。

 とはいえ、本当に何もされていなかったらと思うとそれはそれで、なんだか複雑な気持ちだ。

 むしろ、『私何かされました』アピールをしてみるのも手か……?

 

「兄に何かされないよう、ちゃんと小町が見張っておきましたから。あ、今の小町的にポイント高い」

 

 ちっ、余計なことを。

 プラスどころかマイナスまである。

 

「とはいえ、兄にそんな甲斐性ないのも小町がいっちばんよく分かってるんですけどね。いろはさんを起こしに行けって言ったのだって兄ですし」

 

 まぁ、それはそうだろう。

 私としても起きているときの方が嬉しいしね。

 それに何より、センパイがそんな事するとは思えない。

 お見舞いに来てくれたときだって、それ以外だってずっと部屋で二人きりでも変なことしてこなかったもんね。

 そういうところは紳士なんだよなぁ。

 

「……とりあえずご飯なんで、下まで来てもらえますか?」

 

 そんな事を思い出しながら、ぼーっとお米ちゃんの話を聞いていると、突然お米ちゃんがそんな事を言ってきたので、一瞬頭の中をクエスチョンマークが支配した。

 

「あ、え? ご飯って……?」

「食べていきますよね?」

 

 食べていきますよね……という事は……食べていくかどうか、という事だろうか?

 うん?

 どうやらまだ寝ぼけているみたいだ、頭が上手く働かない。

 

「えっと……ご両親は帰ってきて……ますか?」

「いえ、うちの両親は基本帰り遅いんで、平日は大体小町とお兄ちゃんの二人だけですから、気使わなくて大丈夫ですよ。というわけで一名様ごあんなーい」

「わわ、ちょっと!」

 

 突然私の手を引いて、ベッドから無理矢理立たせてくるので、私はよろけそうになるのに耐えながら勢いよく立ち上がる。

 ああ、やっぱりスカート皺になっちゃってる。

 

「あー制服、大分皺になっちゃってますね? アイロンかけてきます? なんなら小町の服貸しましょうか?」

「いや流石にそこまでは甘えられないかな」

 

 どうやらお米ちゃんも気付いたようだが、私は軽く断りを入れ、手でパンパンと整える。

 あ、でも髪は大丈夫だろうか? 寝癖ついてたらどうしよう?

 でも、そんな事を考え始めると「そうですか」とお米ちゃんが割とどうでも良さそうな表情で足早に階段へと向かったので、私は慌てて手櫛で髪を撫でながら後に続いて部屋を出た。

 

「おう、一色起きたか」

 

 リビングへと降りていくと、そこにはキッチンに立つセンパイの姿があった。

 腰に手を当て、少し怠そうに菜箸を持つ手が妙に様になってる……カメラに収めておきたい。

 でも、流石にそんな事をお願いするタイミングではないことは自分でも理解していたので自重自重。

 

「センパイ、ごめんなさい。私いつの間にか寝ちゃってたみたいで」

「まぁ、疲れてたんだろ。時間も時間だし、とりあえず夕飯食ってけ」

「いいんですか?」

「いつもは食わしてもらってるしな、腹減ってないなら無理に食わなくてもいいけど」

「結構……すいてます」

 

 正直言うと、もう今にもお腹が悲鳴を上げそうなほどに空腹だった。

 なんだかさっきから良い匂いもしているし……。

 何より、センパイの手料理というものに興味もあって、その魅惑的なお誘いから逃れることが出来そうにない。

 

「それじゃ……あの……お言葉に甘えていただいていきます」

「んじゃ適当に座って待ってろ。もうすぐ出来る。小町ーもういいか?」

「はいはーい」

 

 そう言って私の隣りにいたお米ちゃんが、いそいそとエプロンを付けてキッチンへと入っていく。どうやら共同作業らしい。

 私も手伝おうかな? と少し思ったけど

 流石に慣れないキッチンで三人だと邪魔になりそうだったのでお言葉に甘えて先に座らせてもらうことにした。

 

「じゃじゃーん、今日は小町特製オムライスでーす!」

 

 それから待つこと数分、テーブルの上には三つのオムライスが用意された。

 これが……センパイの……? ん?

 小町特製? 

 

「え……? センパイのじゃないの? だってさっき……」

「お兄ちゃんは小町がいろはさんを起こしに行ってる間、火の番をしてもらっていただけです」

「なーんだ……」

 

 ちょっとガッカリ。初めてのセンパイの手料理だと思ったのに。

 

「今、なんか言いました?」

「何も言ってないよー? ワー、スゴーイ、オイシソーウ。イタダキマース!」

 

 そうして私はジト目で睨んでくるお米を無視して、初めてセンパイのお家で夕食をご馳走になったのだった。

 

*

 

「帰り、駅まで送ってく」

「え?」

 

 夕食を食べ終え、私とお米ちゃんが並んで後片付けをしていると、突然センパイがそんな事をいい出した。

 

「あや、お兄ちゃんが自分から言い出すなんて珍しい」

「いいんですか?」

「まぁ、こんな時間だし、流石に放っておくわけにもいかんだろ、もみじさんも心配してるだろうしな」

「いえ、センパイの家にいるっていってるから、むしろ羨ましがってるかと」

 

 実際さっきから、ママからの通知が凄い事になっている。

 とりあえず「夕食をごちそうになる」とだけ伝えた以降のは全部無視してるけど……。

 

「羨ましがる……? まあ、とにかく送ってくから準備しろ」

「あ、はい! お米ちゃんごめん、あとよろしく!」

 

 そうしてスタスタと一人でリビングを出ようとするセンパイを追いかけるため、私はお米ちゃんに一言告げ、慌ててキッチンを後にすると、コートとカバンを手にして玄関へと向かった。

 

「んじゃちょっと行ってくるから。小町は留守番頼むな」

「はーい、気をつけてね! いろはさんまたです!」

「うん、またね」

 

 お米ちゃんとは声だけで別れを済ませ、そのままセンパイのあとに続き、センパイの家を出る。

 うう……寒い。それに暗い。

 センパイの家の近くではあるけれど、慣れてない道なので少し怖さも感じる。

 だが、センパイはそんな私の心境など知るはずもなく、自転車を押しながらスタスタと前を歩き始めた。どうやら今回も乗せてくれる気はないようだ、残念。

 

「あ、あの」

「ん?」

「さっきは本当すみませんでした」

「さっき?」

 

 私が慌ててセンパイの隣へと並び、そう謝罪すると、センパイは眉間に皺を寄せ「何が?」と軽く首を捻る。

 どうやら、全部はっきり言わないと伝わらないらしい、うう、改めてとなると恥ずかしいなぁ……。

 

「ほら、センパイのベッドで……」

 

 私は察しの悪いセンパイの為に、仕方なく再度自分の醜態を口にする。

 センパイの部屋を見たいと言いながら。即寝落ちしてしまうなんて、本当ありえない事をしてしまった。我ながら大失態だ。

 穴があったら入りたい。というか、時間を戻して欲しい。

 あー……本当だったらもっと二人きりで色々お話出来たのに……。

 今考えるだけでも悔やまれる。

 でも……本当に気持ちよかった。

 あんなに綺麗に落ちたのなんて何年ぶりだろうと思うぐらい、ストンと落ちた気がする。

 出来ることならまた……って駄目駄目! 何考えてるの!

 

「ああ、別に気にすんな、まぁ疲れてたんだろ、帰ったらちゃんと休んどけよ。どうせもう結果出るまでやることもないだろうしな」

「まぁ、今日はもう寝られる気がしないですけど……はい」

 

 さして気にしていないという風にそう言ってまたスタスタとあるき出すセンパイを横目に、そんな事を考える。

 いや、冗談抜きで寝すぎてしまったから今夜ちゃんと眠れるかは少し不安なところだ。

 またニキビとか出来ても嫌だし、ちゃんと生活習慣直さないとね。

 

「それで……あの、今日って何してたんですか?」

 

 そんな事を頭の片隅で考えながら、私は未だセンパイに聞けていなかったことを質問してみることにした。

 

「今日って?」

「ほら、センパイ私が試験終わるの待っててくれたじゃないですか? 色々あったとか言ってましたけど」

 

 そう、それは今朝センパイが迎えに来てくれた後のこと。

 校門の前で一日中待ってたわけじゃないと言っていたけれど、結局何をしていたのか気になったままだったのだ。

 別に嘘でも「待ってた」って言ってくれば良かったと思うんですけどね?

 

「ああ……あれか……タダの雑用」

 

 だが、センパイの心底嫌そうな顔から出てきたのはそんな言葉だった。

 

「雑用?」

「そ、お前を試験に送り届けた後、例のお巡りさんに怒られてな。そんでその後『入試当日に学校の前で警察に叱られるとは何事だ!』って事で更に怒られて雑用やらされたんだよ」

 

 まさか、あの後そんな事になっていたなんて……。

 っていうか、お巡りさんに怒られたって事はそれも全部私のせいだよね?

 

「す、すみません、私のせいで」

「まぁ、朝飯食ってなかったんで一回帰って午後からにして貰ったから、そのままサボっても良かったんだけどな。……お前の事もあったし一応……」

「私の……?」

 

 突然センパイがチラリと私に視線を送ってくるが、一体ソレがどういう意味か分からず、思わず自分で自分を指差してしまう。

 

「いや、その……ちゃんと試験受けられたのかちょっと気になってたから、一応様子見も兼ねて……って……いや、すまん改めて言うとキモイな……忘れてくれ」

 

 そう言うと、センパイは今度は視線を逸らし、スタスタと歩く速度を上げていく。

 へ? つまりそれって……待ってないとかいいながら結局……私のため?

 

「ちょっ、ちょっと待って下さいよ! センパイ!」

 

 逃げるようにして前を歩くセンパイを追いかけようと、私も速度を上げるがようやく横に並べたと思った瞬間センパイは更に速度を上げた。

 照れ隠しのつもりなんだろうけど、これでは駅まで追いかけっこになってしまう。

 ああ、もう面倒くさい……!

 

「そういう事する人には……こうです!」

 

 私は今度こそと駆け足でセンパイに並ぶと、その左腕に思いっきり抱きついた。

 巻き付いた、と言ってもいい。

 お互いコート越しだが、接触している部分からセンパイの温もりが伝わってくる。

 

「ちょ、危ないだろ! こっちは自転車あるんだぞ!」

「知りませーん、これはセンパイへの罰です」

 

 突然のことに驚いたセンパイが押していた自転車を大きく揺らし、なんとか転ばないように踏ん張って、そんな文句を言って来る。

 だけど、これは罰なのでそんな言葉では私は離れない。

 ふふーんと、軽く鼻を鳴らしセンパイを見上げると、センパイは少しだけ頬を赤らめて、私から顔をそらした。

 

「罰って……なんの罰にもなってないんだよなぁ……むしろちょっと気持ち良……いや、なんでもない」

「まぁ、いいじゃないですか何でも、罰じゃなかったら今朝のお礼ってことで」

「罰でも礼でも、女の子が気軽にこういう事するんじゃありません……勘違いしちゃったらどうすんの……」

 

 最後の方は聞こえるか聞こえないかという声でそう悪態をつくセンパイに、私も小声で小さく「……勘違いじゃないんだけどなぁ」と呟き、その二の腕に自らの頬を寄せる。

 はぁ……温かい……。

 

「なにか言った?」

「別にー、何も言ってませーん」

「……あっそ……」

 

 やがて諦めたように、センパイが私の歩幅に合せてゆっくりと歩き始めたので、私もそれに合わせ足を動かす。

 人通りの少ない道を二人で歩いていく。もう二人の間に会話はない。

 でも、不思議とそこに気まずさはなかった。

 

*

 

 それから、私達はしばらく無言で駅までの暗い夜道を歩いた。

 暦上は春だが、まだまだ寒い二月の夜。

 道中で、寒そうに自動販売機で買った温かい缶コーヒーで暖を取りながら早足で帰路につくサラリーマンとすれ違ったが、センパイとくっついて歩いているせいか、私はそれほど寒さを感じなかった。

 

 しかし、そんな幸せな時間も終りを迎えようとしている。

 目の前に、駅の大きな明かりが見えてきたのだ。

 ああ、もうこの時間が終わってしまう。そう思うと途端に胸の中に寂しさが込み上げてきた。

 

「ついたぞ……」

 

 朝、センパイと合流した時と同じ場所で、センパイがその歩みを止める。どうやら、ココまでのようだ。

 

「そうですねー、ついちゃいましたね……」

「……んじゃ、離れてくれる?」

 

 って、なんでそんな嫌そうな言い方なんですか……。

 そんなに嫌なら本当に罰ってことにして延長してやろうかと思ったけど、でもこの寒空の下でセンパイに風邪引かせるわけにもいかないし。はぁ……仕方がない。

 私は観念してセンパイから離れることにした。

 絡めていた腕が離れると、途端に私達の間に冷たい空気が流れ、寒さが体を襲ってくる。

 

「えっと……それじゃ、気をつけて帰れよ」

「はい、今日はありがとうございました」

「まぁ、あれだ、前も言ったけど合否だけ分かったら連絡くれ、一応気になるんでな」

「もちろんです、必ず合格報告します!」

 

 淡々と別れを済ませようとするセンパイに、私はむんっと握りこぶしを作ってアピールする。

 ああ、なんだか今更になってまた不安になってきた。

 合格……出来るだろうか?

 してますように。

 

「んじゃ」

 

 そんな私の不安など気付かず、センパイは最後にそう言うと、一瞬の迷いもなく自転車の向きを変え、背中を私に向けた。

 そのまま出発こそしなかったものの、センパイは一度私を振り返りシュタッと手を上げてくる。

 全く、もう少し別れを惜しんでくれても良いじゃないですかぁ……。

 だが、それを口に出す事は出来ず、私も仕方なく右手を小さく振った。

 

「それじゃ、センパイ。また、です」

 

 私はその背中に最後にポツリと声をかけ、ゆっくりとホームへと歩くと、出発を待つ電車に乗り込み、家に帰る。

 家に着いた私は、テンションの上がったママの質問攻めを受け流しながらお風呂に入ると、やがて眠気が襲ってきたので、そのままベッドに入った。

 今日はもう眠れないかと思っていたけれど、案外ぐっすり眠れそうだ。

 ドタバタの朝寝坊から始まった長かった試験当日がようやく終りを迎えた。




というわけで試験当日いろは視点後編でした。

ここまでの話が前話で終わる予定だったのでまた一話伸びました。これでもちょっとカット気味。くっ……。

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