やはり一色いろはが俺の許嫁なのはまちがっている。 作:白大河
拙作の半分は皆様の応援で出来ています。
「あら? ちゃんと来たのね。てっきり逃げ出したかと思ったわ」
先日と変わらず机や椅子が無機質に積み上げられているだけの殺風景な部室に入ると、雪ノ下先輩が本を開きながらいきなり嫌味を投げてきた。
私はそんな雪ノ下先輩を一睨みしてから、ドスドスと部室に入り、自分の椅子を用意する。
別に、私だって来たくてきたわけじゃない、この部活に来るのは一応平塚先生からの言いつけであり、まだそれほどよく知らないとはいえ雪ノ下先輩という“先輩”の指示でもあったからだ。
それに何より……。
「暇になっちゃったんですよ……」
そう、センパイが新たにバイトを始めたことで、私自身暇になってしまった。
それが一番の理由。
はぁ、なんでセンパイバイトなんて始めたんだろ。
いくらお爺ちゃんの言いつけだからって、嫌なら断れば良いのに……。
っていうか、私のお願いごとはしょっちゅう断るくせに、こういうときばっかり引き受けるんだもんなぁ。
お爺ちゃんもお爺ちゃんだ、センパイはあくまでも“私の”センパイであって、お爺ちゃんが好き勝手にアレコレして良い相手じゃないはずだ。
仮にどうしても高校生にバイトを頼まなきゃいけない事情があったとしても、孫の私にまず声をかけるべきじゃないの?
全く……これは、一度ちゃんと言っておかないとダメかもしれないなぁ……。
センパイが『おっさんに仕事押し付けられるの嫌だから、許嫁辞めたい』とか言いはじめたら困るもんね。うん。
って、うわ本当に言われたらどうしよう。やっぱキツく言っとこ。
「そう……でもあなた、特別交際している相手がいるわけでもないのでしょう? 元々部活をやる時間ぐらいはあったんじゃないの?」
「全く、雪ノ下先輩は分かっていませんね。お喋りとか、一緒にお出かけとか色々あるじゃないですか……私はそのためにこの学校に来たんですから」
心底不思議そうに首をかしげる雪ノ下先輩に、私は最早「不機嫌です」という気持ちを隠すこともせず返答した。
実際、私がこの総武を志望したのは県内随一の進学校だからという理由でもなければ、校風が自分に合ってるとか、家が近いからとか、制服が可愛いからとか、そんなありきたりな理由でもない。
いや、まあ、制服が可愛いというのは少しプラスポイントではあるけれど……。それ以外の部分は『センパイがこの学校に通っていたから』に他ならないのだ。
仮にもしセンパイが別の学校。──例えば海浜総合に通っていたなら、恐らく私はこんなに苦労してまで総武に入ることはなかっただろう。
何ならソッチのほうが助かったまである。
とはいえ、センパイはあくまで“先輩”だ。一緒の学校に通うコトはできても、一緒の授業を受けることが出来るわけではない。
だからこそ貴重な放課後なので、逆に言えばセンパイのいない放課後には何の価値も見出すことは出来なかった。
「知っている? 高校時代に付き合った男女が結婚まで行く確率は10パーセント未満だそうよ? それが初めての交際なら尚更成就する確率は低いと言われているわ」
そんなことを考えていると、雪ノ下先輩が再び私に毒を投げつけて来た。
もし、センパイとのコトがなければ「流石にマダそこまで考えてるわけじゃないですよ」とでも軽く受け流せただろう。
だが、私とセンパイの関係性を考えるなら、そこは目指すべきゴールでもあり、意識しないわけにはいかない。
だからその時の私は私とセンパイの許嫁という関係そのものを否定されたようで、一瞬頭に血が上るのを感じ、思わず雪ノ下先輩を睨みつけてしまった。
ってダメダメ……。仮にも雪ノ下先輩は先輩だ。落ち着かないといけない。この人は私とセンパイの関係を知らないから、深い意味があるわけじゃない。単なる嫌味だ、受け流せ。
この人は恋愛の素晴らしさを知らない可哀相な人なのだ……。
「……知りませんよ。私には関係のない話です」
「……そう」
湧き出る怒りをグッと堪え、冷静にそう返す私に雪ノ下先輩も一瞬何かを察したのか。
ソレ以上口を開こうとしなかった。
少しだけ気まずい空気が私と雪ノ下先輩の間を流れる。
さて、どうしよう?
そもそもこの部って何をする部なのかイマイチ分かってないんだよね……結局前回も時間までこの部室で雪ノ下先輩と喋ってただけだし……。今日もずっとこのままなかな?
あー……帰りたい……。
『コンコン』
すでに私への興味を失ったように読書に勤しむ雪ノ下先輩を見ながら、さてどうしたものかと部室を見回した瞬間、突如部室の前の扉を叩く音が響いた。
来客? 平塚先生だろうか?
何か言ったほうが良いんだろうか? そう思い、私は再び雪ノ下先輩の方へと視線を動かすと雪ノ下先輩も私の方をちらりと見たあと、涼し気な声で「どうぞ」と扉に向かって一言声をかけた。
「失礼しまーす……」
雪ノ下先輩の言葉を合図に、恐る恐る開いた扉から入ってきたのは妙に腰を低くした少女。
肩まであるピンクがかかった茶髪に、短めのスカート、そして何よりも目を引くのは大きくボタンを開けたその胸元。
もしセンパイがここにいたならビッチとでも表現するだろうその少女は、部室に居るのが私と雪ノ下先輩だけだと確認すると、どこかホッとしたような表情のままいそいそと部室の中程まで入ってきた。
一体誰なのだろう? もしかしてもう一人の部員とか?
あれ? でもこの人確か以前どこかで会ったことが……?
あ!
「えっと……」
「レモネードの人!」
その少女が何事か口を開くのと同時に私の記憶の扉が開き、思わず叫んでしまった。
そんな私を二人が「レモネード?」と訝しげに見つめてくる。
うん、そりゃわからないよね……。
でもそうだ、間違いない。この人、あの時のレモネードの人だ。
去年、私が総武の文化祭に遊びに来た時、全力ダッシュでお米に置いていかれた後、息も絶え絶えになっていた私にレモネードをくれたお姉さん。
うん、あの時と変わらず羨ましいほどに胸が大きいし、人違いということはないだろう。
そっか、当たり前だけど、この学校に通ってるんだよね。
すっかり忘れてた。
「もしかして、去年ウチのクラスでレモネード買ってくれた?」
「あ、いえ。買ったわけじゃないんですけど、校門の所で疲れて休んでたら声をかけてもらって一杯頂いたんです……覚えてませんか? あの時は私まだ中学生だったんですけど」
私がそういって立ち上がると、お姉さんはまるでその胸囲をアピールするかのごとく胸を持ち上げるように腕を組み、う~んと首を捻って「校門……?」と呟きながら天井を睨みはじめる。
あー、忘れられちゃってるかな。
仕方ないか、文化祭にくるお客さんなんて沢山いるもんね……。
だが、そう思って「あ、覚えてないなら別に……」とフォローを入れようとした瞬間。
お姉さんはパンっと口の前で分かりやすく手を叩き、キラキラと目を輝かせた。どうやら思い出してくれたようだ。
「あ! あの時の具合悪そうにしてた子だ?」
「はい! あの時はありがとうございました」
「いえいえこちらこそ。あの後大丈夫だった? っていうかウチ入ったんだ?」
「ええ、お陰さまで」
何故かお互いの手を繋ぎながら、キャイキャイと感動の再会を果たす私達。
まあ、別に具合が悪かったわけではないのだけれど、そういう認識をされているのは仕方がないのでこの際その辺りはスルー。
元々この学校にはセンパイ以外に知り合いのいない状況だったからなんだか凄く嬉しい再会だ。
でもなんで奉仕部に来たんだろう? もしかしたらこの人も平塚先生に言われて無理矢理入部?
でもそうだったらちょっと嬉しいかも。
あの時のお礼もちゃんと言えてなかったしね。
「……一体何の話をしているのかしら……?」
だが、そうして二人で燥いでいると、横槍を入れてくる人物が居た。
当然、雪ノ下先輩だ。
雪ノ下先輩はコメカミに指を当て、呆れたような表情でコチラを見つめながら態とらしく大きなため息を吐く。
「一応、今は部活動中だから、思い出話なら後にしてくれる?」
「いいじゃないですか少しぐらい、どうせやることなかったんですし」
当然、私としてはそれぐらいの事で怒られるのは納得がいかない。
そもそも部活動中と言われても今までだって何もしてこなかったではないか。
「思い出話をするにしても彼女が奉仕部に来た理由を聞いた後でも良いでしょう、と言っているのよ。そんな事もわからないの?」
「う……」
そう言われて、私は思わず言葉をつまらせた。
何故このお姉さんがここに来たのか? 実際、それは私も考えていたことだ。
部員なのかな? とも思ったが、今の雪の下先輩の反応を見るにそういった感じでもない、そういえば平塚先生も付いてきていない。
向こうからこちらにやってきたのだから、何かしら用事があって来たと考えるのが自然だ。
ならまずアチラの話を聞くのが筋だろう。
そもそも、お姉さんが何かしら言い掛けていたのを遮ったのは私。
つまり、悪いのは私。
「すみませんでした……」
「ま、まぁまぁ……私も悪かったし、本当に久しぶりだったから」
「あまりこの子を甘やかさないでくれるかしら……」
庇ってくれるレモネードさんに対し、まるで保護者のような言い方の雪ノ下先輩だったが、今回は私が悪いので仕方ない。
私はとりあえず名誉挽回の意味も込めて、積みあげられていた椅子を一つ持ち上げてレモネードさんの横へと置くと、レモネードさんは「あ、ありがとう」と一言添えてから、その椅子に腰掛ける。
私はそんなレモネードさんの様子を確認してから、少し離れた自分の席へと座り直した。
「……もしかして二人って姉妹?」
「違うわ……」
「違います!」
そうして、レモネードさんを頂点として二等辺三角形のような形に座った瞬間、問いかけてきたレモネードさんの言葉を否定するのはほぼ同時だった。
いやもう本当、雪ノ下先輩がお姉ちゃんとか嫌すぎる。
絶対家でもネチネチ言ってくるタイプだし、心の休まる暇がなくなりそう……。
「私の妹がこんなに出来が悪いわけがないわ……」
「ソレどういう意味ですか!? こっちだってこんなお姉ちゃん嫌ですよ!」
しかし、そう考えているのは私だけじゃなかったらしく、雪ノ下先輩がとても失礼な事を言ってヤレヤレと首を振る。
雪ノ下先輩が私のお姉ちゃんだなんて、こちらこそ願い下げだ。
だが、そんな私と雪ノ下先輩を見て、一人クスクスと笑う人物がいた。
「なんか、楽しそうな部活だね」
「楽しそうに見えますか?」
「うん、何ていうの? 女三人集まれば楽しい! みたいな?」
「『三人寄れば姦しい』と言いたいのかしら……?」
女三人集まれば楽しい……?
一体何を言っているのだろうと首を捻っていると、間髪入れずに雪ノ下先輩がツッコミを入れる。
姦しいって、そんな楽しいとかポジティブな意味じゃなかった気がするけど……。
「そうそれ! かしこまり! みたいな!」
どうやら合っていたらしい。何かかしこまられてしまった。らぁらちゃんなのかもしれない。
センパイ好きだよねプリキュア……あれ? あれはプリパラだったっけ。
だが、雪ノ下先輩はもうコレ以上は突っ込まない事にしたのか、完全にスルーを決め込んだようで、相変わらず頭の痛そうな顔をしたまま次の話題へと移ろうとしていた。
「それで、あなたは二年の由比ヶ浜結衣さんよね?」
「あ、あたしのこと知ってるんだ?」
由比ヶ浜先輩か。
二年ということはセンパイや雪ノ下先輩と同じ学年だ。ここで一年なのは私だけ。
なんだか凄い場違い感が出てきたなぁと思っていると、由比ヶ浜先輩が一瞬私の方をチラリとみてきたので、お互い自己紹介を済ませる。
でも、今のやり取りを見ている限り雪ノ下先輩と由比ヶ浜先輩は元々友達っていうわけでもなさそうなのに、名前を知っているのはなんで?
もしかして、雪ノ下先輩、全校生徒の名前を覚えていたりするのだろうか?
案外ありそう……。
一瞬、私の中で好奇心が目を覚ましそうになる。
だけど、また話の腰を折ると怒られそうだから、とりあえずここは黙っておこう。
「今日はどういった要件で?」
「あ、えっと、平塚先生に聞いたんだけど、ここって生徒のお願いを叶えてくれるんだよね?」
そうして、ようやく雪ノ下先輩が訪問目的を訪ねると、由比ヶ浜先輩がおずおずとそんなことを聞いてきた。
お願いを叶える?
そんなランプの魔人みたいな部だったっけ?
確か昨日聞いた時は……。
「少し違うわね、あくまで奉仕部は手助けをするだけ。飢えた人に魚を与えるのではなく、魚の取り方を教えて自立を促すの。願いが叶うかどうかはあなたの努力次第よ」
そう、何かお手伝いをする部みたいな感じだった。
もし『お願いを叶えてくれる部』なのであれば、私のほうが依頼したいぐらいだ。
でも、もしかしたら思っていた部と違うと分かったら帰っちゃうかな?
そう思ったのだが、由比ヶ浜先輩は雪ノ下先輩の言葉に納得したのかしていないのか、一瞬ポカンとした顔をのぞかせた後、やがて覚悟を決めたように一度口を結ぶと「あ、あのね! 私……!」と声を荒げた。
「クッキーをね……あげたい人がいるの」
絞り出すような声で徐々に小さくなる声色でようやくそう呟く由比ヶ浜先輩と、さきほどのお願いという言葉が上手くつながらず、私と雪ノ下先輩は思わず「クッキー?」と首をかしげる。
「えっと……その、絶対内緒にして欲しいんだけど……」
そんな私達を、由比ヶ浜先輩は不安げにチラチラと交互に見てくる。
どうやらあまり大っぴらにはしたくない話のようだ。
そして同時に、私はこの奉仕部の活動が徐々にだけど分かってきた気がした。
恐らくこの部は生徒のお悩み相談という側面を持っているのだろう。
だから奉仕部。
「大丈夫、守秘義務は守るわ」
「わ、私も守ります!」
そんな相談される側の口が軽くては、もう一度相談しようとは思えない。
だから、秘密は絶対だ。
私は咄嗟にそう判断し、雪ノ下先輩に続き約束する。 すると由比ヶ浜先輩は私達の言葉を信じて良いのか少しだけ迷った後。「あのね……実は……」とポツポツと事情を説明してくれた。
「去年ね……その……うちのサブレ──あ、サブレは家で飼ってるミニチュアダックスなんだけど。その子の命の恩人っていうか、凄くお世話になった人がいて……でも、色々タイミング悪くてちゃんとお礼を言えてないんだ。あ、でも、別に一年何もしなかったわけじゃないんだよ? 本当タイミング悪くて、それで、なんかちょっと気まずくて、喋りづらくてどうしようかと思ってたんだけど……今年、その人と同じクラスになって……」
『お世話になった人』『お礼を言いたい』『一年』
なんだかその言葉に若干の引っかかりを覚えつつも。
自分が何に引っかかっているのか分からず、私はただ由比ヶ浜先輩の言葉を聞いていく。
「……それでね、まあこの際だし。出来たらやっぱりちゃんとお礼したいなぁって思ってて……」
「それで、クッキーを?」
やがて、由比ヶ浜先輩の終わったのか終わっていないのか良く分からない、しどろもどろな説明を遮り、雪ノ下先輩がそう言うと、由比ヶ浜先輩はコクコクと素早く首を縦に振った。
「うん、えっと……出来たら手作りのクッキーとかどうかなって思ったんだけど、私作り方とか知らないし、あ、でもやっぱいきなり手作りとか重い……かな?」
「そんなコトありません! 絶対贈るべきです! 雪ノ下先輩! 手伝ってあげましょうよ! それが奉仕部の仕事なんですよね?」
未だに、自分の中で何が引っかかっているのか分からず、少しだけモヤモヤした感情があったのだが、『犬』や『命の恩人』、『同じクラス』という、私とは関わりのなさそうな単語も多かったので、きっと何かの気の所為だろうと思ったし、何より由比ヶ浜先輩の不安そうな声を聞いて私は思わず立ち上がり叫んでしまった。
だって、私にはこれが何の相談なのか分かってしまったから。
『贈るのはやめましょう』なんてとてもじゃないが言えなかったし、言いたくなかったのだ。
「まあ、そうなるわね」
「手作りのクッキー、凄く素敵だと思います!」
クッキー作りなら私の得意分野。
思わず自分の口角が上がるのが分かる。
なんだ、これが奉仕部の仕事ならむしろ私向きかもしれない、というか雪ノ下先輩よりよっぽど適任な気がする。
それに、もしかしたらこの依頼を成功させれば、雪ノ下先輩や平塚先輩に私のほうが正しかったと証明出来るかもしれない。
そう思って、私の鼻息はどんどんと荒くなっていった。
「でも、先に確認しておきたいんですけど、その相手って男子ですよね? つまり由比ヶ浜先輩の好きな人ってことでいいですか?」
「ち! ちが! 別にまだそこまで考えてるわけじゃないっていうか……その……まずはお友達からっていうか……」
私の問に、由比ヶ浜先輩は慌てて両手を前に出してブンブンと交差させる。
そう、結局のところこれは『恋のお悩み相談』なのだ。
それが分かったからこそ、私は由比ヶ浜先輩を助けてあげたいとも思ってしまった。
あの日のレモネードのお返しも出来てなかったしね。
「へぇ。『まだ』で『まず』なんですね」
「あれ!? もしかして今の引っ掛け問題!?」
「ソレを言うなら誘導尋問でしょう……誘導尋問にすらなっていなかったけれど……」
驚く由比ヶ浜先輩を見て笑う私。
そんな私達を見ながら雪ノ下先輩が今日何度目かのため息を吐きながら、呆れたようにそう呟く。
でも、最初の時のように重苦しい空気はここにはない。
「……はぁ……まあ良いわ、一色さんも乗り気のようだし、そういうコトならとりあえず家庭科室に行きましょうか」
「はーい!」
「よ、よろしくお願いします!」
すっと立ち上がる雪ノ下先輩に続き、私達は揃って部室を出る。
どうやら、今日の部活は楽しくなりそうだ。
*
「それじゃあ、始めましょうか」
家庭科室に着くと、皆でエプロンを付けクッキー作りの準備が始まった。
正直なことを言うと、プレゼント用のクッキーぐらいなら今どきネットを見れば簡単なレシピも幾らでも出てくるし、動画でも見れるので何を教わる必要があるのだろうとも思わなくもなかったのだが、
慣れた手付きで準備をしている私達に対し、由比ヶ浜先輩はエプロンをつけることすら慣れていない様子で、後ろの紐すら結べずだらし無く首から引っ掛けていたので、なんとなく今日は大変なことになるかもしれないなという予感がしていた。
結構気合をいれて教えてあげないと駄目かも。
でも、逆に考えるとここは力の振るいどころだ。
由比ヶ浜先輩には文化祭の時の恩返しにもなるし、雪ノ下先輩には私の実力を見せつけるチャンスでもある。
そして上手く行けばこの部活から開放されるかも。
「それで? 由比ヶ浜さんはクッキーを作った経験はあるのかしら?」
「……全く、ないです」
「雪ノ下先輩! 私、私クッキー得意です! 作れます! 任せて下さい!」
「あなたが得意でも意味がないのよ。今回は由比ヶ浜さんのクッキー作りが主目的だから、一色さんはとりあえず見ていてくれる?」
しかし、雪ノ下先輩はそんな私のやる気を容赦なく削ぎ落として来た。
「えー……」と不満を見せつけても全く取り合ってくれる気配がない。
恐らくだけど、雪ノ下先輩は何をするにしてもまだ私のことを信用していないのだろう。
クッキー作りは本当に自信あるんだけどなぁ……。
「さっきも言ったでしょう? 私達がするのはあくまで手助け、あなたが作ってしまっては何の意味もないのよ。とりあえず一度ゆっくり説明しながら作るから見ていてくれる?」
「わかりました……」
確かに、今回はあくまでクッキーの作り方を教えて欲しいという依頼だ。
私がクッキーを作って「はいどうぞ」という訳にはいかない。
そう思い直し、私は渋々引き下がった。
まあ、センパイが食べてくれるわけじゃないし……別にいいですけど。
私の出番もちゃんと残しといてくださいよ?
「それでは、始めるわね」
そうして、雪ノ下先輩指導のもとクッキー教室が開催される。
私が見る限り、雪ノ下先輩が作るのは本当に基本的なクッキー作りだ。
丁寧に作り方を説明する雪ノ下先輩を由比ヶ浜先輩がふんふんと鼻息を鳴らしながら聞きいっている。
時折、私の方をチラチラ見てくるのは、恐らく気を使ってしまう性分なのだろう。
私のことはいいから、ちゃんと雪ノ下先輩の手元を見て欲しい。
「そういえば一色さんは……」
しかし、どうにも気が散るのか、由比ヶ浜先輩は合間合間で私に声をかけてくる。
仕方がないので私も雪ノ下先輩の方をちらりと一度確認してから、気を使わなくて良いですよ。という意味合いも込めてその軽口に応じた。
「『一色さん』なんて、かしこまらなくていいですよ? 私後輩ですし」
「じゃあ……一色ちゃん?」
鼻に小麦粉を付け、両手をテーブルに付きながら由比ヶ浜先輩がそう聞いてくるので、私は少しだけ考えるふりをしてから答える。
「いろはでいいですよ。結衣先輩」
「そっか、じゃあいろはちゃん!」
「なんですか? 結衣先輩?」
「いろはちゃん♪」
「結衣先輩♪」
「ほら、バカなことやってないで、次はこれを掻き混ぜて」
そんな特に意味のないやり取りをしながら、二人で笑い合っていると雪ノ下先輩に怒られてしまった。
当然だ、結衣先輩に頼まれてクッキー作りを教えている最中なのにその当人が遊んでいれば怒りたくもなるだろう。
まあ、私もちょっと楽しくなっちゃってたんだけど……。こういうのは雪ノ下先輩相手だと出来ないしね。
「一色さんはオーブンを温めておいてくれる?」
「はーい」
そうして、手持ち無沙汰になっている私を見かねたのか、雪ノ下先輩がようやく仕事を振ってくれたので、私は軽く返事をして準備へと向かう。
もっと色々出来るんだけどなぁ……近くにいると邪魔をすると思われたのだろうか?
なんだか授業中に燥いで怒られた友人同士みたいだ。
「っていうか、『雪ノ下先輩』っていうのもちょっと長いですよね? 雪乃先輩って呼んでもいいですか?」
そうしてオーブンの準備をしながら、私はもののついでにと雪ノ下先輩にそう提案してみた。
実際『雪ノ下先輩』というのは少し長く呼びづらかったし、かといって二人きりの時にそんな話をする空気にもならなかったので、本当にこれはもののついでだ。
断られても仕方ないし、正直それほど重要なことでもない。
「……好きにしなさい」
しかし、また怒られるかな? とも思った私の予想とは裏腹に、雪ノ下先輩は心底どうでも良いとでも言いたげにそう言うと、コチラを一瞥もせず、慣れた手付きで次の工程へと移っていく。結衣先輩の指導をしながらとは思えないスピードだ。
クッキー作りなら私の独壇場だと思ってたんだけど、雪ノ下先輩もお菓子作りが趣味だったりするのかな?
完成したら聞いてみよう。
「やった、あ、雪乃先輩も私のこと“いろは”って呼んでくれていいですよ?」
「考えておくわ“一色さん”」
「む……」
強情だ、こういうトコロはセンパイに似ているかもしれない。
だからだろうか? なんだか妙にこの空間の居心地が良いと思ってしまった。
おかしい、ちょっと前まで部活を辞める方法を考えていたのに……。
さっきの結衣先輩の言葉じゃないけれど、案外私にお姉ちゃんとかがいたらこんな感じなのかもしれない。
そういえば、私家族以外の人とこうやって皆でお菓子作りをするのとか初めてかも。
なんだかんだ、私友達少ないしなぁ……。
そんな事を考えながら、私は雪乃先輩と結衣先輩がクッキーを作るのを眺めていた。
このクッキー作りに関わったことを、後で後悔することになるとも知らずに……。
予定調和回なので一話完結にしたかったのですが
前後編に分かれてしまいました。
原作をなぞる形の前後編でスローペース……、でもここを超えたら色々変化が出てくるはずなのでもう少々お待ちいただければ幸いです……。
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