やはり一色いろはが俺の許嫁なのはまちがっている。 作:白大河
ポケモン楽しい!!
その日の俺は、少しだけ機嫌が良かった。
『めちゃくちゃ』とか『ものすごく』ではない。本当に『少し』爪の先ほどだ。
理由については、まぁ……自分でも恥ずかしいのだが、放課後三浦に誘われた時の言葉が耳に残っているせいだろう。
『ヒキオはどうする?』
それは常に俺の外側の世界にあった言葉。
あんな言葉が自分に向けられる日が来るなんて思ってもいなかった。
これまでも葉山グループから誘われることは何度かあったが、なんというかとても自然な誘い方で俺も一瞬答えに躊躇ってしまったほどだ。
もしかしたら俺はもう既に葉山グループとして認識されていたりするのだろうか?
もし、あそこで俺が「行く」と答えていたら、一体今頃どうなっていたのだろう?
というか、そもそも……友達……なのか?
「……だったら今からでも行ってくれば?」
そんな話を雑談がてら四人用テーブル席の向かいに座る川崎に語ると、川崎は呆れたように、それでいてどうでもよさそうにジトリと俺に睨みをきかせながらそうゴチる。
その声色が少しだけ拗ねているようにも聞こえたのは、流石に俺の気の所為だろうか。
いかんな、流石に少し浮つきすぎか。
しっかりせねば。
「いや、今更合流ってのもおかしいだろ……こうして予定もあるわけだし……」
「……」
……おかしい。川崎との予定を優先させたという至極まっとうな解答をしたつもりなのに、俺が怒られてるみたいな感じになっているのは何故なのか。
確かに、人生で初めての『勉強会に誘われる』というイベントに少しだけらしくない態度をとったことは認めるが、それはあくまで初めての経験に対する戸惑いのようなもの。
そこまで目くじらを立てられる謂れはないと思うのだが……。
何故か漂う気まずい空気に耐えきれず、俺は注文してあったコーヒーへと手を伸ばし、一口だけ口に含む。
うむ、この店のコーヒーはマスターの拘りの豆を使ったかなり特別なコーヒーらしいが……やっぱマッカンの方が美味い。
マスターには悪いが、やはりコーヒーはマッカンに限るな。
「ま、別にいいけど。とりあえず、これ今週分ね」
そんな事を考えながら俺がチラリと川崎の方へと視線を向けると、川崎はそう言ってA4サイズのクリアファイルをテーブルを滑らせるように投げてきた。
俺はそのクリアファイルが落ちないよう、左手で押さえつけるように止めクリアファイルの端を捲るようにしてその中身を確認する。
あれ? 何か今の格好いいな。
もしここがカウンター席だったら「あちらのお客様からです」とでも言っていたところだ。もう一回やりたい。
そんなアホな事を考えていたせいだろうか?
俺はその時、背後に忍び寄る“ヤツ”の気配に気がつくことができなかった……。
「セーンパイ♪」
突然耳元で囁かれたその声に、俺は思わず肩を揺らす。
あと数秒早かったら、口からコーヒーを吹き出していたところだろう。
そんな事になれば今以上に川崎から白い目を向けられることは避けられない。
俺はそうならなくて良かったと心底ホッとしながらも、恐る恐るそこに居るはずのない人物の声がした方角へと首を動かした。
そう、居るはずがないのだ。
先日“ヤツ”が教室に現れた時とは違い、今日はバイトだと言ってあるし、この店の事は一切話していない。だから、絶対に居るはずはないのだが……。
何故かそこには“一色いろは”が佇んでおり、まるで仮面のような笑顔を貼り付けたまま俺を見下ろしていた。
「な、なんでお前がここに……?」
「わぁ、センパイがいるなんてびっくりぃ! 超偶然ですねぇ、折角だしぃ私もご一緒していいですかぁ?」
一色は俺の問いかけには答えず、まるでお前に拒否権はないぞというようにパンと手を叩くと、そのままズリズリと俺を押しのけるように隣の席へと腰掛けて来る。
その顔はまるで雑誌の表紙でも飾るのかと言うほど清々しい笑顔だが、どう見ても目が笑っていない。シンプルに怖い。というか怖い。あれ? なんか汗止まらないんだけど……? 風邪ひいたかな……?
「それでぇ、こちらはぁ、どちら様ですかぁ?」
気がつけば二人掛けソファの壁際へと追いやられる俺。
おかしい、余裕で二人座れるはずなのに三人位座っているのではないかと思うほど俺のスペースが狭い。
しかし、一色はそんな俺のことなどお構いなしにそんな問いを投げつけて来る。
あれ? なんでコイツ川崎の事知らないんだ?
確か文化祭で顔合わせていたようないなかったような……?
「どちら様って……覚えてないのかよ」
「へ? 覚えてない?」
左半身に一色の体温を感じながら俺がそういうと、一色はそれまでの仮面のような笑顔から一転キョトンと可愛らしく首を傾げる。
どうやら本当に覚えていないらしい。
ああ、そういえば文化祭ではほぼ入れ違いになっていたんだったか。
「ほら去年の夏、スーパーで例のガムが盗品じゃないって証明してくれた店員がいただろ? あれが川崎だ」
「……え、あ!? 思い出しました! 文化祭でセンパイに“愛してる”って言われてた人!!」
俺の言葉に一色は分かりやすくポンと手をうつと、そんなどうでもいい情報を思い出し、プンスコと頬を膨らませた。
寧ろなんでそんな余計な事を覚えているのか、本人も忘れていた黒歴史を掘り返すんじゃありません。
まあ、とりあえず川崎のことも覚えていたようで良かった。
一応は恩人だからな、もし本気で忘れられてたら場の修復不可能だったぞマジで。
「そのことは忘れていいから……ほら、ちゃんとお礼言いなさい?」
「……まぁ、そうですね。えっと。その節は助けて頂いてありがとうございました」
まるで妹の世話をする兄のように俺がそう促すと、一色は背筋を但しペコリと頭を下げ礼を述べる。
約一年越しの礼だ。
もしかしたら千葉には助けてもらったら一年経たないとお礼を言えない呪いとかかかってるのかもしれない。いや、まぁ別に俺の方はいいんだけどさ……。
川崎が変に突っかかったりしないといいけど。
「別にアンタの為にやったわけじゃないし、ってか本当にあの時の子? なんか随分キャラ変わってない?」
「へ? そうですか? 特に変わったつもりはないんですけど……」
そんな俺の心配をよそに、川崎は分かりやすいツンデレのような返しをしながら一色の顔を覗き込んだ。
川崎からするとあの時の凹んでいる一色の姿しか印象に残っていなかったのだろう。
あまり気にしていなかったが、言われてみると確かに去年に比べると可愛げが出てきたというか、少しバカっぽくなっているようにも思う。
こういうのも一種の高校デビューというのだろうか?
「ちょ、ちょっとなんですか二人して……! そんなに見ないでくださいよ……」
そう思い、俺も川崎に倣って一色の顔を凝視していると、タイミングよくカランカランと店の扉が開く音が聞こえ、川崎と俺の視線が不意に入り口の方へと向く。
すると、そこにはまた見知った女子二人が立っていた。
「や、やっはろー」
「どうも」
由比ヶ浜と雪ノ下である。
一色が呼んだのか? いや、それにしては早すぎるか。
恐らく元々三人でどこかへ向かおうとしていた途中で俺を見かけて入ってきたといったところだろうか? と当たりをつけ、俺は頭を抱える。
俺の新たなベストプレイスが台無しになる予感がしたのだ。
「いらっしゃい」
そんな俺の心の内など知る由もなく、嬉しそうに由比ヶ浜達に対応したのは、この店のマスターだった。
身長は百八十を軽く超える長身で顎に蓄えられた髭と、長い髪を後ろで纏めたポニーテールがトレードマークのナイスガイである。
「沙希ちゃん達のお友達かな?」
そのマスターが、そう言ってチラリと川崎の方へと視線を送ると、川崎が「いえ、こっちの」と俺の方へと視線を向け立ち上がると、自分の席に置いてあったエプロンを拾い上げ、その場で着用しはじめた。
どうやら、本来の仕事へと戻るらしい。
まあ、どのみち今日はこれ以上の打ち合わせは無理か……。
「そっか、じゃあ相席の方が良いかな?」
そんな事を考えていると自分の席を空けた川崎の意図を組んでか、マスターが由比ヶ浜達にそう問いかけた。
勿論相席である必要性など全くもって皆無なのだが、既に一色が好き勝手に動いているという手前、由比ヶ浜と雪ノ下はどうしたらよいのかと俺の方へと視線を向けて来る……いや、俺に助けを求められても困るんだけどな……。
「こちらへどうぞ」
そんな二人の迷いを察したのか、マスターはやがてニコリと笑うとそのまま由比ヶ浜たちを俺のいる席の方へと案内してきた。
もともと、俺と川崎が座っていたのは四人がけ用のテーブルだ。
向かいに座っていた川崎が居なくなったことで、丁度四人が座れるスペースが確保されている。
「んじゃ、あたしは仕事戻るから。後はごゆっくり」
「え? あ、ああ」
いつの間にかエプロンを着用し終えた川崎は最後にそういうとマスターとすれ違わないよう遠回りでカウンターへと戻っていく。
この店のウェイトレスであるはずの川崎はどうやら、自分で由比ヶ浜達の接客をする気はないらしい。
まあ、マスターもマスターでなんだか上機嫌だし、自分で対応したがっているようにも見えるのでその行動はある意味では正しいのだろう。
そうこうしているうちに、由比ヶ浜達が俺の前へとやってきて、そのままマスターに促されるまま俺の前の席──先程川崎が座っていた席──へと腰掛けていく。
俺の隣に一色、正面に由比ヶ浜、その隣が雪ノ下だ。
俺の反対の隣はパーテーションの壁なのでもはや俺がこの場から逃げることはかなわない。
くそ、広いテーブルを使いたいからと四人席を利用させてもらっていたのが仇になったか……!
「こちらメニューになります」
マスターはそんな俺の後悔を知ってか知らずかニヤニヤと楽しそうに俺にだけ見えるようにサムズアップを決めたかと思うと、そのままテーブルにメニューを広げ始めた。
何かナイスなアシストでも決めているつもりなのかもしれないが、何一つ俺のためになっていない現状に早く気がついて欲しい。
「えっと、じゃあ私はコーヒーを……」
「私パンケーキ! 看板に書いてあったヤツ。あと……」
そんなマスターの狙い通りなのかなんなのか、女性陣はやがてメニューに群がり好き勝手に注文をし始めた。
流石にここまで来て何も注文しないのは失礼だと考えたのだろう。
一色も慌ててメニュー表を凝視し、時折『今日、お財布にいくら入ってたっけ?』と考えるかのように視線を天に向ける。
一応言っておくが、奢らないからな? ちゃんと自分で払えよ?
「何かオススメとかってありますか?」
そう問いかけたのは由比ヶ浜だ。
メニュー表をペラペラと捲りながら、マスターにそう尋ねると、一色も雪ノ下も同時にメニューから顔を上げマスターの顔を見上げる。
すると、マスターは何が嬉しいのか待ってましたと言わんばかりにニヤリと口角を上げた。
そして少しだけ腰をかがめると、メニュー表へと視線を落とし、メニューの下の方へと手を添え、自信有りげに一つのメニューを勧めていく。
「うちのオススメは特製パンケーキと……キューピッドだね」
「キューピッド?」
その聞き慣れない──少なくとも喫茶店のメニューとしては聞き馴染みのない──名前に女性陣の好機の視線がマスターに集まっていくと、マスターは満足そうに一度コクリと頷いてから説明を続けた。
「そう、恋に悩む若者がコレを飲むとあら不思議。忽ち恋のキューピッドがやってきて、その恋を成就させてくれる。そんな素敵なドリンクなんだよ」
嘘である。
キューピッドというのは分かりやすく言うとカルピスのコーラ割りだ。一応店に出すものなので、実際は他にも何か入れてはいるらしいが、この店の完全オリジナルというわけではなく。
マスター曰く昔は関西方面の喫茶店にはよく置かれていたドリンクらしいのだが、時代とともに徐々に取り扱う店も減り、完全に無くなってしまうのは哀しいので自分で店を持った暁にはと若い子に勧めているという話を、ココに来た初日に聞かされた。
つまり、恋愛成就の効能なんてものはないし。完全にマスターの趣味である。
「私、それで!」
「わ、私も!」
だが、マスターの狙い通り“恋愛成就”という言葉に踊らされる女子が目の前に二人いた。由比ヶ浜と一色だ。
二人が勢いよく手を上げてキューピッドを注文したのを見るとマスターは「はい、キューピッドをお二つですね」とニコニコ顔で手元の紙に注文を書き入れていく。
完全に鴨認定されているな。まあ、俺が飲むんじゃないからいいけど……。
「何?」
「いや、どんな反応するのかと思ってな……」
そんな俺の様子を訝しんできたのは雪ノ下だ。
まあ、雪ノ下はそういうの興味なさそうだもんなと思いつつも、俺も初めてここに来た時飲まされたなんて言えるわけもなく、俺は冷め始めたコーヒーを一口啜ることで、その場を濁した。
キューピッドはなぁ……正直マズイとはいわないまでも美味いともいえない非常に反応に困る味わいだったことを覚えている。
まあ、好みが分かれる味というのだろうか。少なくとも俺は二度目以降頼んでないし、川崎が飲んでいるところも見たことがない。
だからこそ注文が入ったのが余程嬉しいのだろう、マスターはスキップ気味でカウンターへと戻っていき、その場に俺たち四人が取り残された。
当たり前といえば当たり前の話なのだが……。
改めて、この四人で集められているという状況に一瞬俺の頭が軽くパニックを引き起こした。
えっと、なにこれ?
俺どうしたらいいの?
「それで? その川なんとかさんと何してたんですか? 私今日はバイトだって聞いてたんですけど?」
まるで裁判にでもかけられている心境で、俺が視線を彷徨わせていると、やがて一色がそう口火を切った。
同時に、他の二人もウンウンと頷き、由比ヶ浜は俺を詰問するように身を乗り出してくる。
何故そんなことが気になるのか疑問でしかないのだが……、まあ別に隠すようなことでもないしいいか。
「バイトだよ……一応な……」
「バイト? 川崎さんはともかく、あなたにバイト代が入りそうにはとても見えないのだけれど?」
「だよね、サキサキはちゃんとバイトしてるみたいだし……?」
そう言いながら、雪ノ下達はタイミングよく注文されたコーヒーとキューピッドを運んで来る川崎へと視線を移し俺を責め立てる。
一方、川崎は完全に仕事モードのようで丁寧にそれぞれの前にドリンクを並べていくと「ごゆっくり」と一言言うだけで去ってしまった。
どうやら、俺を助けようという気はないらしい。
この薄情者め。
「あ! もしかして、新商品の味見役とか?」
「そういうんじゃねぇよ、まあ、確かにバイト代は入らないんだが……」
「バイト代が入らない?」
雪ノ下が首を傾げるのを横目に、一色と由比ヶ浜はそう言いながら運ばれてきたキューピッドにストローを差し込みその中身を吸い上げていく。
「わぁっ、ナニコレ美味しい!」
「うぇぇ……」
次の瞬間、両極端な感想が両サイドから聞こえてきた。
どうやら、由比ヶ浜の口にはあったらしいが、一色の口には合わなかったようだ。
口元を手で押さえ、嫌そうにキューピッドを見つめている。
由比ヶ浜はそんな一色を不思議そうに見た後「ゆきのんも一口飲んで見る? 美味しいよ?」と雪ノ下にキューピッドを勧めるが、雪ノ下は目の前の一色の様子をちらりと確認したあと「私はいいわ……」と由比ヶ浜の申し出を拒絶し、絶対に飲まないという意思表示なのかコーヒーカップを傾け、その口元を隠した。
「じゃあ……やっぱりバイトじゃないんじゃないですか」
「だから……その……バイトの一貫ではあるんだよ……」
一色の顔が不服そうなのは果たして俺の解答が気に食わなかったからか、それともキューピッドが口に合わなかったからなのか。
ぶすっとした表情で俺を見つめてくる一色に、俺がそう返すと突然、俺の目の前にあったコーヒーがスススっと動き始めた。
何事かとテーブルへ視線を落とすと、俺のコーヒーが徐々に一色の方へと移動している。
「どういうこと?」
バレないとでも思っているのか、雪ノ下の質問中もゆっくりと俺から遠ざかっていく俺のコーヒー。
しかし、何がしたいのかイマイチよくわからなかった俺は一色の事は放っておいて雪ノ下の質問に答えようと、視線を上げる。
「まあ、話すと長くなるんだけどな……」
そして、無意識に目の前のコーヒーに手を伸ばそうとすると、そこには熱いコーヒーカップではなく冷たいグラスの感触があった。
どうやら、一色のやつキューピッドが口に合わなかったからと、俺のコーヒーと自分のキューピッドを入れ替えていたらしい。
アハ体験だ。
ふと視線を横に向ければ一色が俺のコーヒーに砂糖とミルクを追加し、まるで自分が注文したコーヒーであるかのように飲んでいる。つまり、自分はコーヒーを飲むから、俺にはこっちを飲めということか……。
今からでも回収は可能だが……はぁ……どうせコイツのことだ、何言ったって聞かないのだろう……。
まあ、別に飲めないわけじゃないしな……。家でも作れそうだしワザワザ注文しようとまでは思わないだけで……。
そう考えた俺は諦めて目の前に有るキューピッドへと手を伸ばし、再び考える。
さてバイトのこと……どこからどう説明したものか……。
そこで、俺は気がついた。
ストローの先が僅かに濡れているのだ。
あれ? これってもしかして間接キ──。
***
**
*
「あのさ……ちょっと……話あるんだけどいいかな?」
始業式のあの日、川崎にそう言われた俺は完全にカツアゲを覚悟していた。
川崎がそれを知っていたかどうかは分からないが、給料がでたばかりと言うのもあり、俺の財布はパンパンだ。狙うには十分の価値があっただろう。
とはいえ、俺としても大人しく渡してやるような義理はない。
平塚先生の助け舟もあり、その場は始業式が始まるということで川崎から逃げ、式が終わった後は一目散に帰路につこうと、イツでもダッシュが出来る状態で帰りのホームルームを迎えていたのだが……。
「比企谷、ちょっと」
ホームルームの終わりと同時に、平塚先生からそんな声をかけられてしまった。
「な、なんすか? 俺今日急いでるんですけど……」
こちらはこちらで逃げ出したかったが、流石に目の前で呼び止められてしまっては逃げようがない。
一体、今度は何用かと俺はビクビクしながら鞄を肩に担ぎ教卓で待つ平塚先生の方へと近づいていく。
「まあ、そう邪険にするな。君とはなんだかんだ長い付き合いになりそうだと思ってな」
平塚先生はそういうと、それまでの楽しそうな表情から一変、真剣な眼差しで俺の目を見てきた。
今更では有るが、平塚先生は性格はアレだが世間的には美人と言われる類の人間だ。
こうして至近距離で真っ直ぐに見つめられると流石に少し照れてしまうな……。
かといって、目をそらしたら負けな気もするので逸らすつもりはない。
「去年、君が事故にあったと聞いた時は最悪のことだって考えてたんだぞ? 見舞いに行ったときもまるで死んだ魚のような目をしてたからな。君が入学式に出られなかった事でどれほど落胆していたのか私は知っているつもりだ」
そうして、俺が平塚先生の視線に耐えていると、やがて平塚先生はそんな訳のわからないことを言い始めた。
確かに俺自身まさか初日に事故って学校に行けなくなるとは思ってなかったので多少落ち込んだのは事実だが、目が死んでるのは元々で別に事故のせいではない。
「そんな君が無事こうして進級できたことが私は嬉しいのだよ。その目も幾らかマシになっているようだしな」
とはいえ、そんな事を知る由もない平塚先生はそう言うとまるで慈母のように微笑みながら、俺の頭にぽんと手をおいた。
まるで小さな子供を褒めるみたいなその態度に若干戸惑いながらも、そういえば、ちょっと前におっさんにも似たような事を言われたな……と思考を飛ばす。俺の目、そんなに変わったんだろうか?
鏡は毎日見ているつもりだが、自分では全くその違いがわからないんだが……。
「確かにスタートは少し遅れたかもしれないが高校生活はまだ長い。何か困ったことがあったらイツでも言いなさい」
それでも、平塚先生は言うべきことは全て言ったと言わんばかりに、いつもの表情へと戻ると、ふっと笑いながらその手を下ろし、最後に「おっと、時間を取らせたな。それじゃ、寄り道せずまっすぐ帰れよ?」と言って、スタスタと先に教室を出ていってしまった。
結局何だったのかはよくわからないが、まあ、うん。悪い先生ではないんだろう……。
今年はなんとなく、これまでと違う一年が始まる気がする。
そんな予感とともに、俺も平塚先生の後を追うように教室を出た。
「終わった?」
すると、教室を出てすぐのところで、壁に背中を預けた姿勢のまま川崎にそんな声を掛けられる。
そうだ、俺はコイツから逃げるために急いでいたんだった。
その事を思い出し、俺は仕方なく川崎の方へと近づいていく。
「な、なんかようでしょうか?」
「なんかって……話があるっていったじゃん」
「あ、ああ……そうだったな……」
「とりあえず外出ようか」
俺の問いかけに、川崎はそう言うとスタスタと先を歩き始めた。
徐々にその背中が小さくなっていくので、このまま付いていかなければ俺のことなど忘れてくれるのではないか? という一縷の望みを込め、少しだけその場にとどまっていると、やがて川崎は「何してんの?」と俺の方へと振り返り足を止める。
やはり、もう俺に拒否権はないらしい。
俺は仕方なく川崎の従順な奴隷のようにその背中を追い無言で歩き始めた。
無言で廊下を抜け、階段を降り、昇降口までやってくると川崎が一度ちらりと俺の顔を見た。
一体、どこまで行くつもりなのだろうか?
やはりカツアゲの定番といえば体育館裏か?
それとも、川原にでも連れて行かれるのだろうか?
いざという時のためにスマホのGPS機能とかオンにしたほうが良いかしら?
「あの、さ……」
そんな事を考えながら靴を履き替えていると、川崎がとうとう口を開いた。
「バイト……紹介してくんない?」
「は?」
その言葉に、俺は思わず首を傾げる。
だって、そうだろう?
何故俺がこいつにバイトを紹介しないといけないのか、というより、そもそも俺は誰かにバイトを紹介したことなんて一度もない。
何故俺に頼るのか?
もし本気でバイトを探しているのであれば、完全に頼る人間を間違えている。
いや、もしかしてバイトというのはカツアゲの隠語なのだろうか?
「あんた、結構時給良いとこで働いてるんでしょ? カテキョだっけ?」
しかし、そうして疑問符を浮かべる俺に川崎は遠慮がちに近づいてくると、続けて俺の耳元でそんな言葉を囁いた。
川崎の──女子の吐息が耳にかかり、一瞬俺の背中がゾクリと震える。
一体どこでそんな話を聞いたんだ?
あ、そういえば俺が自分で口を滑らせたんだったか……。
そう、確か例の万引事件の後、学校で川崎と話したときにそんな話をした記憶がある。
「いや、まぁ、時給が良いというか良かったというか……」
時給が高かったのは夏休みが終わるまでの話だ。
あの後すぐに時給は下がったし、そもそも俺はそのバイトを辞めているので川崎の期待に添うことはできない。
いや、まぁ続けていたとしても普通のバイトではないので期待には添えないのだが……。
「つかスーパーで働いてたんじゃないのかよ、何? 辞めたの?」
「辞めたっていうか、潰れたよアソコ。秋ぐらいには新しいスーパーが入るって」
それは初耳だった。
駅の正面という最高の立地なので売上は良さそうだが……何か問題でも起こしたんだろうか。いや、確かに問題と言えば問題がありそうな従業員はいたが……。とにかく、今はスーパーのことより川崎のことだ。
「別に、俺に頼まなくてもバイトなら他にも色々あるだろ、金に困ってそうには見えないけど……なんか急いで金が必要な理由でもあんの?」
「……まぁ、そうだね」
俺がそう聞くと、川崎は少しだけ深刻そうに顔を伏せたが、それでもはっきりとそう答え、同時に俺はしまったと後悔する。
「アンタだから話すけど……うちさ、下に弟と妹いるんだよね」
突然始まる身の上話。
それはある意味予想通りの展開でもあり、正直聞きたくないと思っていた類の話だ。
だって、聞いたら引き返せなくなりそうだったし……中途半端に関わってしまうと俺の経験上ろくなことにはならない。
「妹はまだ小さいし、弟は今年受験で……その、お金のこととかさ……親は心配するなっていうけど、正直これ以上迷惑掛けたくないんだよ……」
尚も動き続ける川崎の口を止める事はできず、俺はただその話を聞くことしか出来ない。
というか、弟のことはどうでもいいとはいえ、妹の話と聞けば同じ妹好きーとして聞き逃す事はできなかった。
「でも、アタシやりたいことあってさ……大学も諦めたくないんだ……」
川崎の言い分も全く理解できないわけではない、むしろものすごく共感してしまう。
というのも、うちの親父は、俺より小町に金をかけると断言しており、俺自身進学のためにスカラシップを狙っている身なので、そろそろ勉学に力を入れなければとも思っているからだ。
「だからさ、もし割の良いバイト知ってたら紹介してもらえない?」
真っ直ぐ俺を見つめる川崎のその申し出を断るのは簡単だった。
繰り返すようだが、そもそも俺はもうすでにバイトを辞めているし、それは俺がクビになったとか、自主的に辞めたとかではなく、その必要がなくなったからに過ぎない。
俺の後釜として川崎を紹介するなんていうことは不可能なのだ。
だから断るしかないし、断るのが正解ではあるのだが──。
「どうしても無理っていうなら諦めるけど……」
あまりにも真剣な川崎の瞳を見て、俺は少しだけ考える。
これは偏見かもしれないが、女が金を手に入れる手段というのは男に比べると多いように思えたからだ。川崎は見た目も決して悪くないし、それこそ世の中には俺の知らないやばいバイトだってあるのだろう。
そういったバイトに川崎が手を出すのではないか?
間違った方向に走ってしまうのではないか? という思いが俺の中によぎる。
別に川崎がどんなバイトをしようと、それがコイツの意思なのであれば俺がどうこういう権利はないし、止めようとも思わない。
ただ、一応こいつは一色の恩人でもあるのだ。
あの場にコイツがいなければ、一色は冤罪を掛けられたままだったかもしれないし、俺自身川崎に助けられた部分もある。
それに何よりコイツの事情も知ってしまった。
このまま知りません、分かりません、無理ですと断るのは簡単だが、どうにも後味が悪い。
何よりけーちゃんが悲しむかもしれないしな……。
だから俺は柄にもなく、つい安請け合いをしてしまった。
「……一応、聞くだけ聞いてみるけど……断られても文句言うなよ?」
「ああ、うん。それでいいよ、助かる」
まだ何かが決まったわけでもないのに、川崎はそんな俺の言葉で肩の荷が降りたとでもいうようにホッとした表情を浮かべる。
やはり、何か良からぬ手段を考えていたのかもしれない。
それと同時に、俺の肩に重いプレッシャーのようなものが伸し掛かった。
もしこれで駄目だったら、川崎は一体どんな手段を取るつもりなのだろうか?
そう考えた俺は、川崎の眼の前でスマホを取り出し、とある人物へのコール音を鳴らした。
とある人物なんて言っているが、勿体ぶるつもりはない。
俺がこういう時頼れる人物なんて一人しかいないのだ。
「……おっさん? 今良いか?」
「おう、八幡か。構わんが、そっちから掛けてくるなんて珍しいな? どうした?」
「あー、その……実はちょっとおっさんに相談に乗ってもらいたいことがあって……」
「ほぅ……?」
電話の向こうで、おっさんが低い声でそういったのを確認すると、俺は目の前の川崎に視線を送り、無言で頷いた。
というわけでいよいよ90話台突入!
あと10話で100話な今回は
川崎さんとの馴れ初め(?)回でした。
次回は久しぶりにあの人登場!?(またこのパターンか)
感想、お気に入り、評価、ココスキ、誤字報告、メッセージ等お手すきでしたらよろしくお願いいたします。