家族だから   作:カフェいろ

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それなら

 風が強い。そして、目の前にいる二番の当たりも強かった。

 

「答えて、七海」

「私の質問にも答えてください」

 

 先程から似たような遣り取りを繰り返している。

 会話が始まった時よりも風は強さを増していて……あぁ、二番の下着が少し見えた。ふむ、チェリーピンクか。今後役に立つかは不明だが、しっかりと脳裏に焼き付けておこう。

 

「ちょっと、ちゃんと私の目を見て」

 

 待って、後少し、今吹いている風が止むまで。

 

「はいっ。見ました。ありがとうございます」

「なんでお礼……?」

 

 別に布切れ一枚に強い拘りがあるわけではない。だけど、なんだか見ておかないと勿体無い気がしたのだ。

 ……少し脱線してしまった、話を戻そう。

 どうしてこの人は、強風の日に屋上なんかを指定してきたのかが疑問だ。人が寄り付きにくいという条件なら満たされているが、話し合いをする場所としては相応しくない。だが、私はここから離れる提案をすることができなかった。たった一言を告げればいいだけなのに、どうしてそうしないのか。いくら考えても答えを導き出せないでいる。

 

「先に私の質問に答えて。本当は、あいつと話一つしてほしくないのよ」

 

 『あいつ』というのは上杉先輩のことだ。一体何故、こんなにも嫌悪の感情が篭った言葉が出てくるのだろうか。

 二番の性格なら、単純に自身の(テリトリー)に突如として踏み込んできた人間だから、毛嫌いに近い形の感情を持っている――そう考えるのが最も違和感がない。だが、決め付けるのは早計だ。私の知らない事情があってもおかしくない。

 

「どうしてですか?先輩後輩の間柄なら、話をするぐらい普通のことでしょう?」

「ダメったらダメ。あいつがオオカミにでもなったらどうするの?」

「狼って……」

 

 狼に変身した上杉先輩を脳内で形を作(イメージす)る。……ふむ。あの枝分かれしたアホ毛と、密かに気に入っている彼の目が残っているというのなら、触れ合っ(モフモフし)てみたいという結論が出た。

 

「アリですね」

「アリ!?」

 

 あのアホ毛は、私にとってスパゲッティ(メジャーなパスタ)をフォークで巻くかのように弄るか、それともヘリコプター(空中で静止できる航空機)のプロペラみたいに高速回転させるのか、どちらかを選べと言われたら長考しても決められそうにない魔性の毛だ。五番のアホ毛と取り替えてもらえば、毎日家で弄り放題なのだが……どこかにアホ毛の交換技術を有する職人はいないものか。

 

「あんた、それマジで言ってる?」

「いえ、狼って」

 

 返答を中断する。鳴り響く風切り音の中で、微かだが人の足音を拾ったからだ。

 

「きゃあ!」

 

 足音の主はすぐそこにいて、動作(アクション)を起こした。それによって状況が動く。

 

「っ!」

 

 足音に気づいていなかった二番が肩に手を掛けられ、驚いた拍子に持っていた(テスト)を手放してしまったのだ。

 当然、強風の吹く屋上でそんなことをすれば、テストは宙に舞う。

 数は五枚。彼方へと消えてしまう前に回収できるかは判らない。だが判断を下すよりも先に、私の体は動いていた。

 テストが舞った方向にいた二番の脇を最小限の動作で躱すように抜けて、散らばってしまった五枚のうち、一枚目を掴む。十二点、外れ。

 次に近かった一枚を一旦放置し、最も高く舞い上がっていた一枚を、跳躍して人差し指と中指の間で挟んだ。文字通り紙一重でのキャッチだったが、点数は二十。これも外れだ。

 片足で着地して、空いた片足と腕を前へと伸ばす。三枚目も確保。三十二点、また外れ。

 四枚目は、タイル(スレスレ)を滑るように動いていた為、(ひざまず)きつつ上から押さえつけた。八点、今度こそ当たり。ではあるが――。

 

「え、ちょっと!?危ないよ!」

 

 ――狙うは大当たりだ。

 囲壁(パラペット)に風で押し付けられていた、最後の一枚目掛けて迷うことなく駆ける……が、この手が届く前に紙は宙に舞った。

 

「ちょっ、嘘でしょ?!」

 

 二番の驚きに満ちた声を背にしながら、勢いをそのままにパラペットを飛び越える。

 

『七海!』

 

 当然、その先には飛ぶ前と同じ高度の床があるわけではないので、投げ出すように飛んだ我が身は、すぐにでも落下を始めるだろう。

 そうなる前に、私は五枚目を掴むことに成功した。

 

「よかった」

 

 姉達の中では、最も勉強に意欲があるのが五番だ。そんな彼女なら、このテストを有効活用してくれる可能性が高い――そう考えて、大当たりという表現を用いたのだった。

 『落ちる』というより、私にとっては『引っ張られる』ような感覚を受けながら、着地の瞬間を待つ。

 

「っと」

 

 難なく綺麗な着地に成功。無論、飛び降りたの先は地上の地面ではなく、一階分下にあったルーフバルコニーだったからこその着地だ。

 これ以上、ここにいても良いことはないと判断して、バルコニーから屋上へと直接繋がっている階段を上る。

 

「なにやっているんですか?二人とも」

『え?』

 

 パラペットに手を掛けていた姉二名は、私に呼ばれると目を見開きながらこちらを向いた。

 

「そんな幽霊でも見たような顔っぷ!?」

 

 二番が唐突に突進してきたので当然のように避けようと試みたのだが、先程の着地で足を痛めてしまっていたのか、鋭い疼痛(とうつう)で動きが止まり捕まってしまう。

 

「よかった!よかった!よかった……!」

 

 全然よくない。胸で窒息しそうだ。

 

「むー!むーっ!」

 

 私の意識が失われるまで、まだ少しの猶予はあるが早めに主張(アピール)しておく。

 

「二乃。離さないとやばいかも」

「え」

 

 一番の呼び掛けで、ようやく開放された。

 

「ぷはあっ!……抱きしめるなら、もう少し私が苦しまない形でやってくれませんか?」

「それなら、私たちのことも心配させないで欲しいんだけど?」

 

 おっと、これは形勢不利だ。話題を逸らすのが最適解(ベスト)か。

 

「……そういえば、二乃姉達は最近転校してきたばかりでしたね。なら、心配をかけたのにも納得です」

 

 言外に心配かけてごめんなさいと込めてみたが、伝わったかは不明だ。

 

「まさか、七海が跳んだところにも屋上があるなんてね」

「屋上でも間違ってはいませんが、ルーフバルコニーですね。正確には」

 

 大して意味のない注釈と共に視線を逸らすが、二番は態々私の視界に入るように回り込んでくる。

 

「あそこに階段があるのに、気付かなかったんですか?」

 

 少し呆れるような声音で、流れをこちらに引き寄せようと試みるが……。

 

「あはは、さっきは必死だったから、気付かなかったよ」

「うん、気付かなかった。誰かさんがあんな紙切れの為に身を投げ出すなんて、思ってもいなかったもの」

 

 一番はともかく、二番に効いた様子はない。苦し紛れの発言で引いてくれるような相手じゃないか。

 

「……取り敢えず、ここは風が強くて話すのに向きません。場所を変えませんか?」

 

 ならば、ここは逃げに徹するとしよう。

 

「そうね。話しは家でじっくり……ね?一花」

 

 呼びかけに反応して、一番もこちらに近づいてきた。

 

「あの……これは?」

『逃げないように捕まえたの』

 

 両腕に抱きつかれ、暑苦しくて仕方がない。

 

「これじゃあ、歩きにくいんですが?」

『…………』

承諾しました(オーケー)。行きましょう」

 

 無言の要求を呑んで、少しでも早くこの状態から開放される為にも歩き出す。

 

「あの、扉を開けられないので、どちらか開けてもらえます?」

 

 一瞬静寂が訪れたが、二番がドアノブに手をかけてくれる。

 

「な、なにこれ。開かないじゃない」

 

 無理やりあけようと力を込めている。ここで扉を壊されでもしたら面倒だ。

 

「どうやら鍵を閉められてしまったようですね。屋上を確認せずに閉めるなんて、教員の誰かが生徒に頼んだのかもしれません」

 

 二重の意味で適当な推理をして――

 

「ルーフバルコニーの方にも扉がありますし、そちらも確認しましょう」

 

 ――続けざまに別の糸口(アプローチ)を提案して破壊活動をやめさせる。

 

「こっちもダメみたい。もしかしなくても私たち、閉じ込められちゃった……?」

 

 今度は一番が確認してくれたが、結果は同じ。

 

「屋上に閉じ込められるという表現は、果たして適切なんでしょうかねぇ……」

 

 不安や焦燥を覗かせる姉二人を落ち着かせるように、故意に暢気な発言をしてみた。

 

「なんで七海はそんなに落ち着いてるわけ?」

 

 概ね予想してたとおりの言葉が返ってきた。

 

「まあ、今ここは風を凌げますし、この扉も開けようと思えばいつでも開けられますので」

『え?』

「そして、ここから脱出するには私の腕を自由にしてもらう必要があるんですが……」

『……逃げない?』

「家で話をするなら逃げようがないと思いますよ。いつかは帰らなきゃいけないんですし」

『に・げ・な・い?』

「……逃げませんよ」

 

 家に帰るまでに似たような遣り取りを後何回繰り返すのか、予想しかけたが虚しくなってやめた。まぁ、何が言いたいのかと言うと、拘束されたままでは無駄な思考をしてしまうぐらいには、できることがないということだ。

 

「更に歩きにくくなったんですが?」

『いいから扉を開けて』

 

 腕は自由になったが、腹に縋りつかれた。これ以上抗議するのはやめよう。一刻も早く家に帰ることだけを考えるんだ。

 

「二乃姉がちょうど掴まってる部分の内ポケットに、ツールボックスが入っているので放して欲しいのですが。片方掴まってれば十分でしょう?」

「確かになんか硬いのがあるわね。私が取るから七海は動かないこと」

「はいはい」

 

 もうなんでもいいから早くしてくださいな。

 

「手が冷たいです。というか、内ポケットはワイシャツにあるので下のシャツまで捲らないでください」

「……うん、わかった」

「全然わかってないじゃありませんか!(まさぐ)らないでください!」

 

 まさか頭を(はた)くわけにもいかず、ついさっきやめようと決めた抗議をするほかない。

 

「一花姉まで捲らないで!しかも顔を突っ込もうとするなんて、変態みたいですよ!」

 

 この姉達は……もう!

 

「いやぁ、七海からいい香りがするからもっと嗅いでおこうと思って。ところで今の変態って部分、リピートしてもらっても?」

「本当に変態じゃないですか!」

「あんたら何やってんの。もう取ったわよ」

「元はと言えば二乃姉が……あぁ、もういいです」

 

 余計なことは考えない考えない……。

 

「開きました。お先にどうぞ……はいはい、一緒にね」

 

 投げかけられた質問に適当に答えながら無事開錠。そのまますぐにでも帰途につきたかったが、鍵を開けたままでは後から面倒が起きかねないと考え、施錠まできっちりと行った。

 

「後は紙を――付箋でいいか」

 

 念には念を。問題が起こってからでは遅い。同じことが繰り返されないためにも、注意書きを貼り付けておく。

 

「もう一つの出入り口のほうに寄っても?」

「う、うん」

 

 一番の返事は歯切れこそ悪かったが了承は得られたので、すぐに移動する。

 

「ホントに七海は気遣い上手ね。……あいつに協力するのも、ただの気遣い?」

「あいつ?」

 

 そういえば、一番は遅れて屋上にきたから何を話していたか知らないのだった。

 

「上杉先輩のことです」

「優等生くんのこと?」

「さっき必死に拾ってた紙切れも、あいつの作ったテストだったってわけ」

「テストってこの前の?」

「ええ、これ要ります?皺だらけになっちゃいましたが」

 

 流れで手渡したものの、こんな物は使い道に困るだけか。

 

「さっきのケンカ?もこれが原因?」

 

 何気ない質問を聞いて、私の体は自然と止まっていた。そして、止まった体の代わりと言わんばかりに口が呟く。

 

「ケンカ……?そっか私、喧嘩したんだ……」

 

 喧嘩――それは、私が経験したことのなかったことだ。交友関係が希薄なことが要因の一つだったが、昔は喧嘩をするだけの余力すらなかったというのが理由の大半を占めている。

 何やら両隣で会話が繰り広げられているが、それらは耳に留まることはなく帰宅した。

 

「それで、何を話すって言うんですか?」

 

 帰宅直後にどこで話すかを聞いてみたら、私か二番の部屋で話そうという案が出た。当然のように省かれている一番の部屋は今度掃除しておこうと心に決めつつ、最終的に私の部屋に集まることでまとまった。

 

「それは……あいつに協力するような真似をやめろって話よ」

「そもそも、私は上杉先輩に協力しているんでしょうか?」

 

 我ながらふざけた返しだ。だが、最終的に行き着く結論がわかりきっているこの会話、無駄にしないためにもお互いの気持ちの整理に利用しようと決めていた。

 

「は?」

「偶々リビングに置いてあったテストを見つけて、自分の勉強も兼ねて注釈を書き加えただけですよ。勝手にいじったことは反省しなければなりませんね。ごめんなさい」

「ふざけないで、五人分もいじったっていうの?同じ問題なのに」

「……意外にしっかりと目を通していますね。筆跡も真似ていたはずなんですが、どうやって気づいたんですか?」

「勝手なイメージだけど、あんなカラフルにペンを使い分けるようなタイプじゃないでしょ。あいつは」

「なるほど、今後の参考にします」

 

 単純に私が間抜けだっただけか。

 

「認めたってことでいいのね?」

「ええ。二乃姉達と同じ学校に通い、同学年の成績最優秀者。家庭教師の人選としては申し分ない相手なはずです」

 

 他人ではなく自分自身に確認させるように放った言葉。

 

「とはいえ、五人分を一人で受けもつのは大変だと思うので、協力は惜しまない考えです」

「……これ以上何を言ってもムダそうね。もういい、なら私にも考えがあるから」

 

 今決心がついたと言わんばかりの態度で部屋を出て行った二番だったが、私が関係してなくてもその『考え』は変わらなかっただろう。遅いか早いかの違いでしかない。

 

「会話に入ってこなかったところをみるに、一花姉の用件は違うようですね」

 

 さて、こっちの姉との話も手短に終わらせて夕食を作るとしますか。

 

「うん、一昨日のことなんだけど――」

 

 

 

 

「四葉姉。夕食ができたのでみんなを呼んできてもらえますか?」

「うん、わかった!」

 

 駆け出していく四番を尻目に、効率よく食器に盛り付けていく。いつもなら盛り付け方に拘るところだが、そうせずに考えるのはこの後の予定だ。

 先程の二番との会話で、改めて上杉先輩の協力をしようと決めた。私がどれだけの力になれるかは不明だが、協力する相手に隠しながら動くのはやめよう。ならば、明日にでも上杉先輩にこの件を持ち掛けるか。

 残る問題は、くしゃくしゃになったテスト。新しい紙に書き写さなければいけないが、すでに渡してしまった一番はともかく、二番と三番に対しては受け取ってもらえるかすら怪しいのが現状だ。つまり、優先すべきは四番と五番の分だ。今日中に仕上げておこう。

 

「七海。呼んできたよー」

「ありがとうございます――一花姉と二乃姉がいませんね」

 

 後者に関しては、今会うのが気まずいといった類の理由だろうが。前者がいないのは気にかかる。

 

「二乃は後で食べるって」

「一花姉は?」

「それがどこにもいなくて」

 

 眉を『へ』の字にしてこちらを見つめる四番からは、憂いの感情が強く伝わってくる。一番を捜索する前に、彼女の笑顔を取り戻すほうが先か。

 

「誰も家の外に出た様子はないので、心配しなくても大丈夫ですよ。私が探してきますね。先に食べててください」

「え……でも」

 

 しまった。四番相手にこの対応は悪手だったか。なら、別の対象に興味を移させることで対処しよう。

 

「ほら、五月姉が涎を垂らして大変なことになっています。四葉姉を律儀に待っているからでは?」

「うわっ、ほんとだ」

 

 笑顔を引き出せはしなかったが、憂いの帯びた表情を変えることには成功した。気を取られているうちに、ここから離れてしまおう。

 

「さて、どこにいるのやら」

 

 いただきますの声を背にしながら捜索を開始する。高級タワーマンションと言っても、そこまで広くはない。探す場所も大してないのだ。

 真っ先に向かうは、行方不明者本人の部屋。当然ここは四葉姉が探した場所だろうが、念のためもう一度確認する。

 

「一花姉。いますか?」

 

 ノックをし終えてから呼びかけるが返事はない。

 

「開けますよ」

 

 中で寝ている可能性も考慮して部屋に入る。

 

「いないか……にしては」

 

 汚い。雑誌やメイク道具など様々な物が散乱している部屋だが、最も散らばっているのは衣服だ……。

 

「はっ!気がついたら畳んでいた」

 

 今は部屋の主を探さなければ。だが、次に足を踏み入れたときには全てを片付けてやる。

 今日は決意をよく固める日だと思いながら部屋を後にした。二番の部屋にも寄っていこうかと考えたが、今は一人にしたほうがいいと判断して通り過ぎる。そのまま携帯を取りにいこうと、自室の扉を開けた先に彼女はいた。

 

「人のベッドで気持ちよさそうに寝ちゃって……」

 

 一番との話し合いは、私のほうから少々強引に切り上げたのだった。その時、彼女を置いていく形で部屋を出たので、このような事態が発生しているのだろう。

 

「制服のままだし」

 

 これでは皺だらけになってしまう。起こすか否か迷ったが、あまりにも気持ちよさそうに寝ているせいでそれも憚れた。となれば、明日の為にも替えの制服を用意しておかなければならない。

 携帯電話を手に取り、電子メールが来ていることを確認する。今までは家族相手にしか使わなかった機能だったが、初めて家族以外を相手にしたとあって、新鮮な気分が味わえていた。

 

「ふふっ」

 

 内容を見て、思わず笑みが零れた。なるべく私の思いが伝わるように文章を熟考(じゅっこう)してから返信をする。

 そう遠くない未来に、私とこのメールの主は出会う――いや、再開を果たすだろう。その時、私が最初に掛ける言葉はすでに決まっている。

 

「楽しみだなぁ」

 

 呟いたものの、いつまでもこの感情に浸っているわけにはいかない。今は他にやるべきことがある。まずは部屋を後にし――。

 

「そんなことない!」

 

 ――ようとしたところで、唐突に眠っていたはずの一番が叫んだ。視線を向ければ、先程まで幸せそうだった表情は苦悶のものへと変わっている。目は瞑ったままなので、ただの寝言ではあるようだが……。

 そのまま何も聞かなかったことにして部屋を出ようと試みたが、まるで呼び止めるかのごとく私の名前を呼ばれたので引き返すことに。

 

「大丈夫ですよ」

 

 過去に病院で、保健室で、時折目を覚ますと一番が私の手を大事そうに握っていたことがあった。それを模倣した形で、今回は私から握る。

 だが、私はこの人みたいに、起きるまで握り続けることはできそうにない。握り方だって、どんなに似せていようとしていても、きっと違うのだろう。そこに篭められている思いも同様にだ。

 

「大丈夫。きっと|貴女達五人なら、どんな困難でも乗り越えていけるから」

 

 『大丈夫。きっと私たち二人なら、どんな困難でも乗り越えられるよ』

 

 ……また一つ、私は嘘を重ねた。

 

 

 

 

「七海、どうだった?一花はいた?」

「ええ、部屋で寝てましたよ。随分と深い眠りに就いていたので、起こさないであげてください」

 

 私が階段を降りると同時に、こちらに駆け寄ってきた四番。反射的に返事をしたあとで不思議に思う。もう食事を終えたのかと。

 

「遅かったから心配したんだ」

 

 どうやら自室で文章を考えたりしているうちに、結構な時間を消費していたようだ。

 

「……あれ?でも、私がさっき見たときはいなかったけど」

「入れ違いになったのでは?」

 

 間違っても『誰の』部屋かは言わないでおく。本当は私の部屋で寝ていて、ベッドが空いていないなんて伝わったら『せっかくだから』とかいう私には到底納得できそうにない理由で彼女のベッドまで引っ張られるのが目に見えている。 

 ちなみに、一番のベッドが空いているという正論を振りかざそうとも、この人に通らないのは経験済みだ。

 

「そっかぁ、一花寝ちゃったんだ……」

「……どうかしました?」

 

 言葉尻で勢いが無くなり、不思議に思って尋ねたみたが、何だか嫌な予感がする。

 

「え、えっとぉ……お、お姉ちゃんと一緒に寝ない……?」

 

 到頭(とうとう)理由もつけずに誘ってきました。だが、今の彼女には理由以上に勢いがない。いつもなら有無を言わせぬ怪力で腕を引っ張ってくるのだが……。

 まぁいい、今なら軽く断るだけでも引いてくれそうだ。早速言葉にして――。

 

「構いませんよ」

 

 ――ないのですが。どうした私の口。

 

「ほ、ホント!?」

 

 ウソです。今のナシ。キャンセルで。

 急いで訂正しようとする心から、まるで乖離(かいり)したかのように望む言葉が出てこない。

 

「やったぁっ」

「いや、あの……はぁ」

 

 もういい。嬉々の感情を体中から滲み出している四番を見たらどうでもよくなった。

 少なからず、今日の一番と二番の密着よりかはマシなはずだ。そう思わないとやってられない。

 

「……この後やることがあるので、十時になってしまいますがいいですか?」

「うん!大丈夫!部屋で待ってるね」

 

 足に羽が生えている光景を幻視するほどに、ノリに乗ったスキップ歩きで去っていく四番。その羽で作った布団は、さぞ軽いことでしょう。

 くだらない想像をやめて、早いとこやることをやってしまおう。時間を指定した以上、遅れるわけにはいかない。

 食事や入浴などの日常習慣を済ませ、一番を起こさないように静かに自室に入る。そうして真っ先に手にしたのは、皺だらけになったテストだ。

 リビングへと再び戻り、白紙の紙に問題文や解答を書き写していく。筆跡、字間、消し跡、皺がつく前と何一つ変わらない状態の物へと複写する作業は、かなりの集中力を消耗することとなった。

 

「……ふん」

 

 作業終了と共に姿を現したのは二番。こちらを一瞥したが、すぐに何も見なかったかのように風呂場のほうへと去っていった。

 私が嫌われること自体は何の問題もないが、それによって他の姉妹に八つ当たりする展開だけは防がなければならない。何かしらの対策は考えておくべきか。

 もう一度自室へと戻り、薬を手にしてから四番の部屋に向かう。指定した時刻限り限りで気持ちが表に出たせいか、少々荒っぽいノックになってしまう。

 直後、中からも荒々しい物音が聞こえてきた。片付けでもしているのだろうか、大人しく待つこととする。そうして待つこと数十秒、勢いよく扉は開かれた。

 

「いらっしゃい!七海!」

「お邪魔します」

 

 限度一杯で来た私を、元気一杯で出迎えてくれた四番。これから寝ることを解っているのだろうか、この人は。

 

「寝る前に少しゲームしない?」

 

 なるほど、直ぐに寝る気なんてないからこそ、あの出迎え方だったわけか。

 

「その前にこれ、拾いましたよ。どうぞ」

「これって……私のテスト!」

 

 私が手渡したのは、先程複写したテストだ。前はリビングに起きっ放しにしたがため二番に全部取られてしまったが、今回は各人に手渡しすることで同じ失敗を防ぐ考えだ。

 そういえば、結局二番が全員分のテストを持っていた理由を聞き出せなかったと、今更ながらに気づく。

 

「よかったぁ。失くしちゃってどうしようかと思っていたんだ。ありがとうっ!」

「どういたしまして。十一時までには寝たいのでゲームは四十分だけですよ」

 

 拾った経緯を聞かれると面倒だ。話を進めることで追及されるのも回避する。

 

「えぇ?!四十分だけ!?急いで準備しないと」

 

 一体何時間やるつもりだったんだか。明日も学校なことを忘れているのではなかろうか。

 

「じゃじゃーん!今回やるのはコレ!」

 

 準備が終わるとすぐモニターに映し出されたタイトルは、様々な有名タイトルのキャラクターが使用できる対戦アクションゲームだった。前に三番とゲームをした時は協力型のゲームだったが、今回は違う。ネットワークに繋がっている為、オンラインで見知らぬ人とも遊べるが、四番が望んでいるのは私と一対一での対戦だろう。

 

「いつも通りの規定(ルール)でいいですよね?」

「うん。大丈夫だよ」

 

 私が確認したかったのはルールだけではない。同時に四番がどのぐらい集中しているかも見ておきたかった。先程までとは別人かと思うぐらいに、落ち着きを帯びた声音が返ってきて()()する。

 

「それじゃあ、最初の使用キャラを書きましょうか」

 

 四番と二人っきりでゲームをするのは、今回でちょうど百回目だ。そして、そのほとんどに共通していることがあった。それは――。

 

「負けないよ。七海」

 

 ――本気(マジ)でやっているということだ。

 

「…………」

 

 返事はしなかった、四番も気にした様子はない。

 ゲーム内で操作キャラクターを選択してから、先程紙に書いたものと間違っていないかをお互いに確認する。 

 キャラクターセレクトを終え、ステージ選択の画面に移ったところで、私はコインを右手の甲に乗せてから左手で覆い隠した。

 

「表」

 

 腕を突き出せば、何も言わなくても答えが返ってきた。これが当たっていればステージの選択権は四番に、外れていれば私になる。

 余談になるが、最初はじゃんけんで決めていたのだけれども、あまりにも私に勝率が偏ってしまう為に、こういった手法に変わった経緯がある。

 

「表です。当たったので四葉姉にステージ選択権がありますね。ステージ拒否は、これでお願いします」

 

 ゲーム上では、選べるステージ数が百を超えるが、私達二人で遊ぶ時は総数の十分の一にも満たない。更にその中から拒否されたステージも選択できなくしているので、最終的に選べるのは片手の指で数え切れるまでに減る。

 これらのルールは賞金などが出ている大会を参考にしているが、最初からこういった遊び方をしていたわけではない。私達が二人でゲーム遊び始めた頃は、協力ゲームなどを和気藹々とプレイしていたが、何回か遊んだ頃には四番が求めている遊び方がこういったものではないことに気がついた。それからしばらくして私が提案した遊び方というのが、今やっているような本格的なルールで対戦ゲームをプレイすることだった。決して、私が協力することが苦手だったから逃げたわけではない。ないったらないのだ。

 

『…………』

 

 張り詰めた空気が、空間を支配している。普段の私達からは到底考えられないような雰囲気なので、他の姉達がこの様子を目撃したら、何事かと喫驚(きっきょう)することとなるだろう。

 読み込み(ロード)が終わり、試合(マッチ)が始まる。今回選んだ互いのキャラクター相性は五分五分だったと記憶しているが、最近のゲームは調整(アップデート)されることが多い。このゲームも先週アップデートが適用されたばかりで、その内容を私は知らなかった。

 現代では、無知を罪とする見方が多数ある。そして、罪は露呈すれば咎められることがほとんどだ。

 

「……その攻撃、発生フレーム減ったんですね」

 

 返事はなかったが気にしない。今さっき、私の操作キャラクターが攻撃を食らったばかりで、態々聞かなくても気づいていたことだからだ。自分自身に意識させるために呟いた意味合いのほうが大きい。

 キャラクター相性や得手不得意、それに適したステージ選び、操作技術、駆け引きなど、このゲームで役に立つ要素を自分なりに最大限利用して、互いが目指す結果は唯一つ――。

 

「よしっ!まず一本!」

 

 ――勝利のみだ。

 

「……やりますね」

 

 ワンマッチが終わり、結果(リザルト)画面に表示された勝者は四番の操作キャラクターだった。しかし、三本先取制を採用しているので、すぐに次へと意識を切り替える。

 

「ステージ拒否は、これでお願いね」

 

 先程は操作キャラクターを先に決めたが、今度はステージが先だ。そして、ステージの拒否と選択をする立場も逆になっている。その後のキャラクターセレクトでは、直前のマッチで勝者だった四番からキャラクターを選ぶ流れだ。

 このように、負けた側が次のマッチで有利になりやすいルールになっている。故に、最終マッチにまで(もつ)れ込んで接戦となることも多い。単純に私達の実力が拮抗していることこそが最大の要因ではあるが。

 私にとって、勝負とは接戦であるほど面白い。それに加え(プラスし)て、勝利したほうが更に面白く感じられるのは、勝負事が好きな人には言うまでもないことだろう。

 

『絶対勝つ!』

 

 今という時間だけは、この気持ちを胸に全力を尽くす。これこそが、私と彼女が最も心を通わせる瞬間だろうから。

 

 

 

 

 最終マッチにまで縺れ込んだ戦いは、四番の勝利に終わった。敗因はいくつか思い当たったが、反省よりも先にすることがある。

 

『ありがとうございました』

 

 握手を交わす。これも毎回やっていることだ。調子(コンディション)が万全でなかったとしても、結果がどうだったとしても、私達は今という限られた時の中で力を尽くしたことには違いない。ならば、それに感謝することを忘れてはいけないと私は考える。

 

「時間的に、次をやるには無理がありますね。検討でもしますか?」

 

 昨今のゲームには、便利なことにリプレイ機能というものが搭載されていることも多い。それを用いて反省会をしようと提案してから、あることを思い出す。

 

「あっ!何だったら、この前やった上杉先輩のテストでも復習しませんか?」

 

 茶化すように、思いついたことをそのまま口に出しただけの提案。当然断られるだろうなという私の予想は、大きく外れることとなる。

 

「お、お願いできる……?」

「……はい。それでは、すぐに片付けちゃいましょうか」

 

 一瞬動揺したが、おくびにも出さずに了承する。

 屋上での一件。八点の――四番のテストは『当たり』と表現したのだが、五番のテスト同様『大当たり』に訂正したほうがいいのかもしれない。

 

「でも、復習って七海の解るところなの?」

「ご丁寧に書き加えられていた解説を見たので大丈夫です」

「あっ、ホントに書いてある。いつの間に……」

 

 さっき手渡したとき、名前と点数の部分にしか目を通さなかったなこの人。

 

「その解説を見て解答欄を埋めれば、充分復習になると思うので読み進めてみては?それでも理解できなかったら、私に聞いてください」

「う、うん。分かった……」

 

 首は縦に振られたものの、不安感が隠しきれていない。八点しか取れなかったテストを、いきなり復習しろと言われれば無理もないか。

 

「四葉姉は、家庭教師の話が出た時にどちらかといえば賛成派でしたよね?」

「そう……だね。五月のほうが賛成していたと思うんだけど」

 

 それがどうして、あんなにも敵視したかのような態度を取っているんだか。

 

「今の五月姉を見てると、家庭教師に……というより、上杉先輩に教えを乞うことに反対しているようですが」

「あはは……。あの二人、相性悪いのかな?」

 

 何か原因があるはずだと遠まわしに聞いてみたが、回答を持っていないのか、あるいは隠蔽しているのか、判断はできなかった。……まぁいい、それよりも今は四番のやる気が出るように努めなければ。

 

「それに比べて、四葉姉は相性良さそうですね。上杉先輩と」

「え゛っ……えぇ!?そ、そんなことない……よ?うん。多分っ!」

 

 随分と露骨な反応だ。面白いのでもう少し突いてみよう。

 

「そうでしょうか?四葉姉のテンションに付き合ってくれる人、中々いないと思いますが」

「……もしかして、私のテンションって面倒に感じる?」

 

 調子に乗って要らない発言をしてしまった。好奇心で動くと碌なことがないな。

 

「そんなことありませんよ。私は、四葉姉にいつも元気を貰っているので感謝しています」

 

 どの口が言うのだか。自分のことなのに、内心非難せずにはいられない。

 

「相性はさておき、上杉先輩は不安なんじゃないでしょうか?」

「不安?」

「ええ、あの人は成績こそ優秀と聞いていますが、教える経験が豊富ではないのだと思います。そんな中、いきなり教え子を五人も持って、そのほとんどが非協力的。これから上手く行くのかと、不安を感じていてもおかしくありません。もしかしたら、今も不安で眠れていないかも!」

「上杉さんが、そんなにも思い悩んでいたなんて……!」

 

 よくもまあ、これだけ適当を言えるものだ。今さっき非難したばかりでなんだが、今度は関心してしまう。

 

「こんな現状の中、誰か一人でもテストを復習してきてくれてたら、上杉先輩すっごく安心するだろうなぁ」

 

 適当なことは確かだが、的は得ているだろう。さすがに、今も眠れていないというのは大袈裟だと信じたい。

 

「そうだよね……上杉さんを安心させなきゃ!私頑張る!」

 

 やる気が出たなら何より。上杉先輩と四番の関係性は多少気になったが、私にとって重要なのは利用価値があるかどうかだ。今回のように行動を制御(コントロール)するのに役立つというのなら、詳細など知らずとも問題はない。

 早速テストと睨めっこを始めた四番を、少し離れた位置から見守る。

 

「な、七海。早速聞いても……いい?」

「はい。どの問題でしょうか?」

 

 遠慮がちな姉の不安感が増さないよう、平静を帯びた声音で答える。

 すぐに指差された箇所は、一問目だった。……これは、二十五問全てに質問される可能性も考慮しておいたほうがよさそうだ。いや待て、二問は正解していたから二十三問かもしれない。……大して変わってないな。

 

「えっと、解説は読んだんですよね?」

 

 すぐに首が縦に振られる。なら一体何を聞きたいというんだ。自分で書いておいてなんだが、相当わかりやすく解説は書いたし、上杉先輩の筆跡を真似したとはいえ、元の字自体が綺麗だったので読みにくいなんてこともないはず。

 

「これ、なんて読むのかなって」

「……陶晴賢(すえはるかた)ですね。私も初めて見たときは、どう読むか分かりませんでした」

 

 そういえば、振り仮名(ルビ)は振っていなかった。私の配慮が足りないことは確かだが、それ以上に私の学力と四番の学力の違いによって生じる常識のずれを把握出来ていないことが大きい。すべての漢字にルビを振るわけにもいかないし、難しい漢字だけに振れと言われても()()()区別がつけられないのだ。調べることも可能ではあるが、それでは非効率がすぎる。

 

「ありがとう!七海」

「どういたしまして」

 

 満点をあげたくなる笑顔でお礼を言われたが、それよりも今は、次のテストで満点に近づけるように頑張って欲しいものだ。

 

「それでー……こっちも聞いていい?」

 

 ……あぁ、教えるって難しいな。次は、一体どんな質問がくるのか想像もつかない。上杉先輩は、これを五人同時にか……。とても私にはできそうにないと、四番に気付かれないよう、静かに息を吐いた。

 

 

 

 

「終わったー!」

「お疲れ様です」

 

 本当に疲れた、私が。最初から最後まで多種多様な質問の嵐で、十数分あれば終わるかと思っていたの……に?

 

「って、時間!……ちょうど四十分……十一時の」

「あはは……。ごめんね、付き合ってもらっちゃって」

 

 アラームをセットし忘れた私の落ち度だ。普段の四番は就寝が早いので、こんな夜遅くまで起きているだけでもつらいはず……なんだけど。

 

「お気になさらず。それよりも四葉姉、全然眠くなさそうですね」

「え゛っ……そ、そんなことないよー?スッゴク眠くて、今すぐにでも夢へと旅立っちゃうかも!」

 

 目一杯見開きながら言われても、説得力の欠片もない。

 

「私が来る直前まで寝てましたね?」

「はぃ。ごめんなさい」

 

 ノックした時に聞こえてきた物音は、飛び起きたからだったわけだ。

 

「別に責めてはいませんよ。ただ、無理してまで私に合わせた理由は気になります」

「それは……えっと、その」

 

 それこそ無理してまで聞くことでもないか。

 

「まぁ、いいです。明日も学校ですし、早く寝ましょうか」

 

 濡れた薄い紙(ウェットティッシュ)で手を拭いてから先にベッドに入る。私と偶に寝るからか、一人で寝るには少し大きいサイズになっているベッドの奥側へと体を寄せて、四番を手招く。

 

「っ!七海!?」

 

 ゆっくりと近づいてきた彼女の手をとり、一気に引っ張る。ちんたらしていたら明日になってしまう。

 

「眠くないかもしれませんが、目は瞑ってください」

 

 間違っても抱き枕にされないよう、手と手は繋いだままにしておく。

 

「そういえば、四葉姉に報告しておくことがありました」

 

 どうせ、私も四番もすぐには眠れないだろうし話題を振ることにした。

 

「え?」

 

 握った手の力が強くなる。そんなに警戒しなくても、大したことではないのに。

 

「私、上杉先輩の家庭教師業務を手伝うことにします」

 

 報告はあくまでもついで、宣誓の意味合いのほうが大きい。

 

「どうして?」

「単純に五人一気に受け持つのは、負担が大きいと思ったからです」

 

 現時点じゃ五人も参加しないと思うが、余計なことは口にしない。

 

「七海が……」

「はい?」

 

 不自然に会話が途切れたので、疑問に思い目を開く。

 

「寝てるし……」

 

 今さっき布団に入ったばかりなんだけどなぁ。私が話題を振った時には、すでに寝ていたのだろうか。

 

「はぁ……」

 

 溜め息を吐かずにはいられない。何故ならば、私の手が痛いほどに強く握られているからだ。話題を振った瞬間から徐々に強くなってきていたのだが、もう無視(スルー)できそうにない。そして――。

 

「似合いませんよ。その表情は」

 

 ――苦しそうな彼女の表情を見ていると私の胸が締め付けられるようで、手の痛み以上に苦しくて仕様がないのだ。

 悪夢でも見ているのだろうか。まさか夢の中に介入できるはずもなく、対処法は思い浮かばない。

 こういった時、今は亡き母ならどうしたのだろうか。母親の代わりになど成れるはずもないが、何らかの糸口(ヒント)を得る為に古びた記憶を探る。

 しかし、どの記憶も靄がかかったようで顔すらも曖昧だ。姉達の中なら、最も似ているのは誰なのだろうか。

 

「あっ」

 

 そこまで考えて、今日私の部屋で一番に似たようなことをしたのを思い出した。

 空いていた片手も繋いでいた手に重ね、優しく包み込む。

 

「大丈夫。きっと貴女達五人なら――」

「――どうして、七海が生きているの?」

「ッ!?」

 

 心臓が停まったのかと錯覚するほどに驚いた。

 ……残念ながら、四番の寝言に対する答えを私は持っていない。なんだったら、私のほうが教えて欲しいとさえ思う。

 

「どうして、私なんでしょうね……」

 

 意味などないと分かっていても考えてしまう、何故私が生き残ったのかと。

 何度考えても答えになんて辿り着けない。そもそも答えが存在するのかさえ分からないのだから。それでも思考を放棄することをしないでいるのは、この先後悔することになった時の言い訳の為でしかないのだろう。

 四番に――中野四葉にとって、中野七海という存在は罪そのものなのだ。ただ視界に入れるだけで、声を聞くだけで、思い出すだけで、罪悪感が彼女を襲う。

 無論、私自身は四番のことを恨んではいないが、どう接するのが正解なのかは日々悩んでいた。私が人知れずくたばってさえいれば、四番がこんなにも苦しむことはなかっただろうに。

 だが、もう遅い。再会して――いいや、私の生存が四番に知られた時点で、死ぬ機会を逃してしまったのだから。

 

「うぅ……」

 

 なんだか、さっきよりも四番の表情が苦悶に染まっている。より恐ろしい悪夢を見ているのかと思ったが違う、いつの間にか力を込めていた私の手が原因だった。

 

「あっ、ごめんなさい」

 

 反射的に謝ったが、届いたかは不明である。それと同時に手を離そうと試みても、四番の方が離してくれなかった。

 結局、私の手は強く握られたままだ。このままじゃ痛みで眠ることさえ叶いそうにないが、もうそれでも構わないと諦めることにした。四番の表情自体は、少しはマシになったので私が我慢すればいいだけの話。

 この痛みは……そう、私への罰だと思えばいい。罰に対して良いイメージを持つ人は少ないだろうが、罪を背負って下ろすことのできなくなった人間にとって、時に罰は救いになりうる。

 

「違うよ……違うんだよ」

 

 何が違うと言うのだろうか。この時の私には、全くもって分からなかった。生き残った理由も、罰だと思い込んでいた『それ』の正体も、本当は凄く簡単な答えがあるというのに。

 

 

 

 

「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」

 

 一定の間隔(リズム)で荒い呼吸を繰り返す。意識するのは、吸うときではなく吐くとき。多くの息を吐いた分だけ、意識せずとも体が勝手に吸ってくれる。

 そうして、雑念を振り払うかのごとく疾走する私の姿が早朝の郊外にあった。求めるのは速さ(記録)であり、その為に必要なことだけを意識する。

 四番との粒子の交じり合いは、早朝になってようやく終わった。私の手より、一晩中力を込めていた四番の手のほうが心配だ。

 

「って、違う!」

 

 思わず叫んでしまった。周りに人は見当たらなかったが、少しだけ頬が熱くなる。まぁ、全身が暖まっているので誤差だということにしておこう。……って、この言い訳じみた思考も要らない。

 姿勢を最適化し、呼吸と鼓動をリズムよく刻むように心掛け――。

 

「お話を伺ってもよろしいでしょうか?」

 

 ――たかったんだけどなぁ……。曲がり角で待ち伏せしていたのか、唐突に姿を現した二十代後半と思われる女性に声をかけられた。

 

「すみません。今、急いでいますので」

 

 態々言わなくても分かることを強調して言う。何の効果も表れないと、これまた分かっていながら。

 

「この前の件、考えてくれましたか?」

 

 文脈など無かったかのように進む会話。これではキャッチボールになっていないどころか、ドッヂボールですらない。互いに相手の投げたボールを避けながらも、懐から出したボールを投げている感覚だ。しかも、投げたボールは地面に転がったままで。

 

「…………」

 

 一度断りを入れたので無言を貫く方向性にシフトし(切り替え)て、今は記録(タイム)を出すことに力を注ぐ。

 

「私と組みましょうよ。あなたの体験談を本にすれば間違いなく売れます」

 

 私の過去なんて不幸自慢にすらなりはしない。ただただ私の愚かさを世間へ晒すだけに終わるだろう。

 

「ビジュアルだっていいのだから芸能界でだってやっていけますよ」

 

 友人の一人すらいないのに芸能界でやっていけるとはとても思えない。

 

「だから私と組みましょうよ?ね?」

 

 それが一番だと言わんばかりの口調で、同じ言葉を繰り返す。このような形で、この女性の勧誘は過去何度も行われてきたが、いつも『あなたならあなたなら』と、私の可能性のことばかりを主張してくる。例え、芸能界や出版に興味がある人物でも、このような勧誘方法では成功するとは思えない。自身や所属会社の実績、メリットなどをアピールするほうが効果的だと思うのだが、それは私が素人だからだろうか。

 

「ぜぇっ……!ぜぇっ……!ぜぇっ……!」

 

 女性が私と並走し始めて、まだ一分も経っていなかったが早くも呼吸が乱れている。やがて並走は追走へと変わったが、それでも諦めてはくれなさそうだった。何故ここまで私に執着するのか、直接聞いたわけではないが想像はできる。

 きっと、それは私が姉達に幸せな未来を歩んでいって欲しいと望む、身勝手な押し付けとなんら変わらないのかもしれない。他者に可能性を感じ、未来を(想像す)れば、他者の瞳を鏡にするかのように、自身の未来も想像しやすいからだ。尤も、瞳に反射させて視えた光景など、未来のほんの一部でしかない。想像した未来に至るまでの道のりは、平坦でないことだけは確かだろう。

 

「…………」

 

 到頭、息切れの音すら私の耳に届かなくなった。だが、足音だけはまだ辛うじて拾える。いい加減楽にさせてあげよう。

 走り始めてから、ほとんど変化させていなかったペースをここにきて一段上げる。すると、すぐに振り払うことに成功して、女性の姿は見えなくなった。

 道中、何人か私と同じように走る人とすれ違ったが、目線を合わせることもせずに駆け抜ける。前だけを見て、目を背けたい過去から逃げるように。

 人生は選択の連続である。私は、今日という日の朝も様々な選択をした。それは、四番を一人にして家を後にしたこと。女性を振り払ったこと。すれ違った人物に目を合わせず、よく姿を確認しなかったことなど、挙げればきりがないが、それらの選択一つ一つが未来を形作る、重要な欠片(ピース)であることを私は理解していなかった。

 

 

 

 

 三十八分二十一秒。それが、今回十kmを走り終えた私が出したタイムだった。途中、気が散るイベントがあったり、昨日屋上で感じた疼痛がまたこないかと警戒しながら走ったせいで自己ベストよりは幾分か遅い。それでも、一般的には決して遅くはないタイムだが、同じ日本人女子高生という括りでも三十分台前半の記録は存在する。それらを更新したいとまでは強く思わないが、同じ三十分台前半を目指している私にとって、残り四分弱は余りにも遠く感じた。

 『がっかり』或いは『しょんぼり』。そんな気分で帰宅した私は、今日も今日とて姉達に捕まる前に家を出ようと行動する。

 

「居ない……」

 

 家を出る前に着替えや登校の準備をする為、自室に入ったときは昨日と変わらず一番が私のベッドで寝ていたはずなのだが……シャワーでも浴びているのだろうか。私もこれから浴びようと思っていたので、なんとか鉢合わせないようにできないかと策を練りながら浴室に向かったが、予想は外れて無人だった。

 

「まぁ……いっか」

 

 今は、一番のことよりシャワーだ。さすがに多量の汗を掻いたまま登校したくはなかったし、今の気分も一緒に流してしまおうという考えだった。

 滴る水の音を耳にしながら、家族のことを想う。といっても、今回は姉達のことではなく父親のことだ。

 あの人と顔を合わせる機会は、同じ家に住まう家族とは思えない程に少ない。帰宅時間は夜遅く、朝は早くに出て行く、そもそも帰宅そのものをしない日も珍しくはなかった。

 現在、こうやって綺麗な水で体を洗い流せるのも、私達姉妹が学校に通えているのも父のおかげだ。しかし、私は与えてもらうばかりで、父に何一つ恩を返すことができていない。

 この生活は、当たり前だと思ってはいけない。当たり前だと思っていた日常が、ある日唐突に終わるのを私は身を持って体験している。それでも愚かな私は、忘れそうになってしまう。だから戒めるのだ。己の体に刻まれた傷を見ることによって。

 

 『嫌っ!離して!』

 『……がぁ”っ”!ぁ”……な……ぜ』

 

 体が熱かった。碌な言葉も発することができず、目を見開きながら手を伸ばすことしか出来なかったあの日のように……?

 

「って、あっつ!」

 

 急上昇したシャワーの温度に遅れてリアクションする。浴室の外からも温度の調整ができる為、誰かが変えたのだろう。問題は誰が変えたかだ。

 急いで浴室を出ようとしたが、その前に温度を変えた犯人が先に戸を開けた。

 

「おはようございます。五月姉」

「おはようございます。七海。ごめんなさい、中に入っていたのに気付きませんでした」

「いえ、お気になさらず」

 

 口調こそ丁寧な挨拶をしたが、態度はあまりいいものとはいえない軽い会釈をして通り過ぎ――。

 

「待ってください」

 

 ――ようとしたところで腕を掴まれる。

 

「二乃と喧嘩したそうですね」

 

 急にシャワーの温度が上がった時は一体誰がやったのかと少し頭に来たが、姉達の中で最も()()な人物だった為、すんなり通してくれそうだから良かったと思っていた。しかし、今日の五番は面倒そうだ。

 

「えぇ、軽い言い争い程度ですが」

 

 深刻な事態ではないと言外に込める為、即答する。

 

「二乃、落ち込んでいましたよ」

「何かしらの補い(フォロー)は考えているので、ご心配なさらず。二乃姉が他のみんなに当たることにはならないよう配慮します」

 

 努めて平静を装う。この会話において重要なのは、私の感情を表に出すことでもなければ、二番の心配をすることでもない。五番に安心してもらうことが何よりも大切なのだ。

 

「そうではなくて――」

「――そんなことよりも、この前上杉先輩が出したテストを拾いました。解説なども書き加えられていたので、復習に使ってみては?リビングの卓上に置いておくので、今度は無くさないでくださいね」

「そんなことって……」

 

 どうやら、言選を誤ったらしい。しかも、発言の頭から誤ったが故に、後続の発言に意識が向いてもいない。もし、今の発言を自己採点するとしたら零点だ。

 

「……ごめんなさい。家族の問題なのに、投げ遣りな発言をしたら心配になりますよね」

 

 誤りは謝りで修正する。傷口が広がる前に、迅速な対処を行うことが私の処世術だ。

 

「責めているわけではないんです。ただ……」

 

 沈黙が生まれる。

 途切れた言葉の先は、大方の予想が付く。それは、ただ心配なだけなのだろう。心配だけど、具体的な案は思い付かない。心配心配と繰り返し伝えたところで、事態は一向に好転しないのだから。

 

「ただ――」

 

 代わりに、私が言葉を引き継ぐ。

 

「――心配しすぎなんですよ。二乃姉も、五月姉も……そして、私も」

 

 無論、他の姉や……或いは父だって。みんな、心配するばかりで動けないのだ。良い案が思い付かない。時間が取れない。感情が邪魔をする。理由は様々だろうが、こんな心配だらけで思うように動けない関係性も、家族のよくある形なのだろう。

 でも、少なからず明日生存しているかどうかを不安に思う生活よりかは余程良い。

 

「七海も……ですか?」

「はい、私もです。何が心配か分かりますか?」

 

 唸りのお時間(シンキングタイム)に入った五番には申し訳ないが、このままでは私の体が冷めてしまう。答え合わせは、また今度にさせてもらおう。

 

「答えが出たら教えてくださいね」

 

 そう言い残して浴室を後にした私は、五番の腹の足しになりそうな物を調理してから登校した。

 

「おはようございます」

 

 教室に入ると同時に、同じ一室で学ぶ彼ら彼女ら(クラスメート)に挨拶を行う。お世辞にも交流値(コミュニケーション能力)が高いとは言えない私だが、挨拶と返事さえしっかり行えば、なんとかやっていけると考えている。

 

『おはよう――』

 

 まだ教室には、総席数の半分すら生徒は集まっていなかったが、幾人かの生徒が挨拶を返してくれる。

 

()()さん』

 

 挨拶までは、普段となんら変わりのない定形句であったが、後に続いた私の呼称は、クラスメートの口からは聞き慣れないものだった。

 内心不審に思ってはいたが、(おくび)にも出さずに会釈をしてから席に付く。

 小さく息を吐いてから思考する内容は、当然私の呼称についてだ。

 昨日までは、間違いなくクラスメートからは『中野さん』と称されていた。それがどうして今日になって変化したのか。

 

「おはよう」

「おはー」

 

 女子生徒一人が入室してきた。彼女は、特定の生徒にのみ挨拶を投げ掛けるが、挨拶されれば誰が相手でも返す性質(タイプ)だ。その習性を利用して、今回は情報収集させてもらうこととしよう。

 

「おはようございます」

「おはよう。七海さん」

 

 彼女が私の席近くに来た時、こちらから挨拶を投げ掛ける。するとすぐに返事が返ってきた。ご丁寧に名前(ファーストネーム)付きでだ。

 明らかにおかしい。私からは彼女の名を呼んではいないのに、あちらだけが名前を呼んでくる。まるで、私の名前を呼ぶ行為が決まりごとかのように。

 彼女が入室してきて最初に行った挨拶では、相手方の名は呼んでいなかった。勿論、普段の挨拶でも同様だったと記憶している。

 その後、他の生徒と挨拶するたびに名前を呼ばれ続け、愈々(いよいよ)気味悪くなってきた。

 自身の肩を抱きしめたくなる衝動を抑えながらも、更に時間は経過していく。席が生徒で大方埋まったあたりで、教師が入ってきた。

 挨拶を終えてから、点呼が始まる。つまり、名前が呼ばれるということだ……まさか!

 気づいた時には、呼ばれる寸前だった。思わず生唾を飲み込む。

 

「中野さん」

 

 いつも通りの苗字呼びでした。

 

「中野さん?……中野七海さん!」

「あっ、はい!」

 

 返事を忘れたが故に、結局姓と名(フルネーム)で呼ばれることに。

 クラスメート達から、小さく笑い声が漏れていた。肩を抱き締める動作こそしなかったが、竦めることにはなった朝だった。

 

 

 

 

 昼休み。私は、上杉先輩を探していた。正式にと表現するのかを適切かどうか疑問の余地があるが、家庭教師業務の手伝いを申し出る為だ。

 しかし、中々見つからない。数時間前に呼び出しのメールは送っておいたが音沙汰なし。いっそのこと、そのままメールで用件を済ましてしまおうとも考えたが、こういったことは直接伝えたほうが良い結果をもたらす(プラスに働く)だろう。それに加えて、出来うる限り早期に伝えるのが最良(ベスト)だ。

 食堂、教室、図書室。その他様々な所を探しても成果は出ない。ならばと外に出てみたら、唐突に私の足下へとバスケットボールが転がってきた。

 

「放ってくんないー?」

 

 女子生徒が一人こちらに向かって手を挙げ(ジェスチャーをし)たので、直ぐ様ボールを拾い上げ御注文通り()()こととする。

 目標までの距離は、バスケットコートで言えばハーフライン数歩手前ぐらいだ。

 下半身で充分に溜めを作り、地面から脚を離す。跳躍の最高到達点付近で手にしていたボールを放った。

 回転したボールは、放物線を描いてリングを通過する。それを確認した私は、目標から背を向けてその場を――。

 

「待って」

 

 ――去らせてはくれないようだ。いくら何でも、無言でシュートして背を向けるのは失礼が過ぎたか。

 

「ちょっと相手してよ。骨のある相手を探してたんだ」

 

 どうやら、遊び相手が欲しくて呼び止められたようだ。

 

「ごめんなさい。今、人を探しているので」

 

 当然断る。私の中での優先順位は、そう簡単には揺るがない。

 

「誰?」

「上杉先輩という方です。頭頂部で二つの髪が跳ねているのが特徴的な方なのですが」

「あー……あの人ね。それならさっき見かけたよ。そうだな……私と一対一(1on1)してくれたら教えてあげる」

「……三本勝負でいいですか?」

 

 前言撤回。少し悩みはしたが、優先順位はすぐに入れ替わった。五番のことをちょろいと評していたが、私も大して変わりないのかもしれない。

 

「オーケー」

「準備するので、少々お待ちを」

 

 髪を一つに束ねながら、四番と勝負(ゲーム)する時と同様に集中力を高める。情報提供の条件に勝敗は関係なかったが、相手は真剣勝負がお望みらしい。

 軽く汗を流(ウォーミングアップを)しながら、対戦相手の様子を確認する。

 私と身長に差が無い少年風(ボーイッシュ)な彼女は、クラスメートではあるが交流したことはほとんどない。

 そんな彼女が、何故いきなり私に対して勝負を仕掛けてきたのか、それは深く考えずとも理解できる。

 

「お待たせしました。やりましょうか」

 

 校庭と同じ砂に白線が書かれた簡易コートに足を踏み入れた。ここは、体育館が他の部活に利用されてる日にバスケ部が練習場所としている場所だが、昼休みは体育館と違って事前の申請がなくても自由に利用可能だ。

 

「……いいね。楽しめそう」

 

 バスケットボールというスポーツを少人数で行う際、コート全体(オールコート)ではなく、その半分――ハーフコートを使用するのが一般的である。

 

「アンタから先でいいよ」

 

 彼女が言っているのは攻守のことだ。つまり、先攻を譲ってくれたことを意味する。

 地面で一回弾み(ワンバウンドを経て)、ボールが私の手に渡った。開始の合図だ。

 それと同時に、重心を低く構えながらも上半身はしっかりと起こしている守り(マーク)に付かれた。……簡単には勝たせてくれなさそうだ。

 私もドリブルを開始する。足元でボールを遊ばせながら揺さぶりをかけてみるが、前かがみになることも、変に力が入ることもなく自然体のままで隙はない。

 状況を打開する為、一瞬だけ後ろに重心を持っていき、そこから一気に切り込む(ドライブを仕掛ける)

 それに反応して、相手はお手本にしたいぐらいのステップを駆使して対処してくる。その後も切り返しや欺き(フェイント)など、いくつかの方法で仕掛け(アプローチし)てみたが抜くことはできなかった。

 しかし、それらは失敗に終わったわけではない。抜くことはできずとも、ゴールまでの距離を詰める事には成功したからだ。

 バスケットボールというスポーツは、相手を抜き去ること目的ではない。リングにボールを通過させることが目的なのだ。

 

「ちっ!」

 

 舌打ちが聞こえる。勢いを付けていた私が急停止をするところまでは良かった。しかし、その直後に再びボール持った私が、左足を軸にして後退する動きに対して反応が遅れたからこその舌打ちだろう。

 後退の勢いをそのままに跳躍する。体が後ろに流れたままではシュートの成功率は下がるが、先程のドリブルでゴールまでの距離を詰めたことにより、それなりの確率で入る。

 体勢を維持してボールを放つ。相手も跳躍のタイミングこそ私とほぼ同時だったが、距離が空いている為、ボールに手を伸ばしても届かないだろう――そう思っていた。

 

「だあ!」

 

 雄叫びをあげた彼女の指先が、僅かにではあるがボールに触れた。それによって弾道が逸れる。

 間違いなく外れると判断する前に、体がリバウンドをするためにゴール下へと向かう。

 着地は私の方が早かった。しかし、シュートの時は有利要素だった距離が不利に働く。先にゴール下へと到達した相手に妨害(スクリーンアウト)をかけられ、その後のリバウンド勝負にも敗北したのだった。

 

「ほい」

 

 ボールを取られたので攻守交代。今度は私からパスをするのが開始の合図な為、一度ボールが渡される。

 その時、相手と視線が交差する。随分と得意げな表情だ。これの意味することは……。

 

「…………」

「どうしたの?もしかして、作戦でも考えてる?」

「はい、その通りです」

 

 正直に答えると同時にパスを出す。

 

「それは楽しみ……だっ!」

 

 マークに付いたら、まずは私から見て左側に誘導するように構えた。すると、相手は私からボールを遠ざけるように行動するので、右手中心でドリブルしてくるだろう。

 学校生活での彼女は、左手を主に使用していたと記憶している。意図してそういう生活を送っていない限りは、左利きで間違いないだろう。態々、相手の得意なことをさせる道理はないのだ。

 しかし、ドリブルだけでバスケットボールは成り立ってはいない。パスする相手がいなくとも、放る先は他に存在する――そう、彼女はいきなりシュートを放つ体勢(モーション)に入ったのだ。

 それを見た私は、冷静に対処する。少しだけ距離を詰めて、相手の動きをよく観察した。結果、今の動作はフェイントだったようで、すぐに始まったドライブに付いていく。それは、私よりもキレのある動きだった。

 ここまでの動きを視るに、バスケットボールにおける技術は相手の方が上手だと結論付けていた。だからこそ、相手は得意な(プレー)に持ち込み易く、行い易いと考える。

 相手が急停止をした。反応こそできた私だが、バランスを崩しかける――ここまでは先程した私の攻撃と似た流れだ。違ったのは、相手が垂直に跳躍したことだった。

 私は、先程作戦を()()()はいたが、練りはしなかったのだ。より正確に表現するなら、細かな作戦を考える必要性を感じずに放棄した。

 何故なら、普通にプレーしていれば相手のほうから高さ勝負に持ち込んでくると踏んだからだ。

 無論、先程の私の攻撃で、高さでは勝てないことを理解している。だから、勝負するのは高さではない。速度で勝負するのだ。それも、走ったりする平面によるものではなく、跳躍による上昇速度で。

 

「なっ!?」

 

 驚愕の声が聞こえる。数瞬遅れて跳躍した私が、シュートを放つ前にボールを弾き落としたからだ。

 ルール上は身体の接触はないので反則(ファウル)にはならないが、審判がいればシュートモーション中にボールが放たれる前のブロックはファウルをとられやすい。しかし、今ここには審判がいないからこその選択だった。

 着地も先に完了した私は全力で駆ける。すると、ボールがコート外へと出る前になんとか回収することができた。これでまた攻守交代。

 

「どうぞ」

「……さっき考えていた作戦に見事にハマったってわけか」

 

 『見事に』ではなく、『勝手に』が正しいかもしれない。

 私のシュートをブロックした後の表情や、お互いにバスケットボールをプレーする姿が初見であることを加味すれば、得意なこと(高さ)で勝負してくるのも読みやすかった。

 敢えて緻密な作戦を立てなかったのは、意図した動きで誘導すれば悟られる可能性が高いと判断したからだ。

 そして、跳躍速度という特技を隠し持っていたが故に、開幕のシュートモーションを用いたフェイントにも余裕を持って対応していた、というわけである。

 

「…………」

「どうしたの?余所見なんかして、勝負はこれからでしょ。早くやろう」

 

 最後の部分には同意するが、勝負はすぐに終わらせるつもりだ。

 ボールを受け取り、私の攻撃が始まる。

 何の揺さぶりもかけずにドライブを仕掛けるが、当然それでは簡単に阻まれる。

 スリーポイントラインの内にすら入ることはできずに、到頭コートの隅にまで追い込まれた。だが、これでいい。ハーフコート側の隅に追い込まれたならともかく、ここはスリーポイントライン手前の隅――私の最も得意とする位置だからだ。

 ゴールリングは見ない。地面を見て()()()を確認する。そして、上から俯瞰した時にゴールからちょうど零度の角度となる位置で私は止まった。

 そこからゴールに対して体を向けず、地面を見たままシュートを放つ。軽くステップでもするかのような小さな跳躍から放ったのは、片手で弧を描く(フック)シュートだ。

 想定外だったのか、ブロックどころか跳躍することすらできずにボールの行方を眺めている相手を横目に、コートを出ようと歩き出す。直後、気持ちのいいネットとボールの摩擦音が聞こえてきた。

 

「ちょっ、ちょっと待ってよ!まだ勝負は終わってない!」

 

 敗者が付き纏ってきた。

 

「終わりですよ」

 

 返事こそしたが足は止めない。

 

「は?」

「私、言いましたよね。()()()()だって」

「……え?だから、三本勝負でしょ?」

「ええ、三本勝負です。三セット勝負ではありません」

「は……はあぁっ?!そんなの普通、攻守三回ずつって思うじゃん!私を騙したな!」

「勝手に勘違いしただけです」

「あ、わかった!あんた勝ち逃げする気でしょ!」

 

 大正解。これ以上やったら、私の負けは目に見えている。

 

「ちょ、ちょっと待ってってば……そうだ!人探していたんでしょ?えーっと、うえ、うえ、うえ……もと?」

「上杉先輩です」

 

 呼称すら曖昧……まさかこの人。

 

「そう!その人の居場所、決着付けないと教えてあげない」

「そもそも居場所なんて知らないのに、よくそんなことが言えますね」

「え”っ……なんでわかったの」

「ふっ……」

 

 居場所どころか、上杉先輩自体が誰なのかすら分かってなさそうだ。

 

「あっー!また騙したな!」

 

 騙したのはそっちだろう。それに今のは騙したわけではなく引っ掛(鎌をか)けただけだ。

 ちなみに今の遣り取りで重要なのは、疑問系ではなく責めるように発言したこと。これによって否定されにくい。

 

「ねぇ、騙したのは謝るから勝負しようよー」

 

 そもそも情報が欲しくて勝負したわけではない。誘ってきた時の表情が、四番の表情と似ていたから思わず承諾してしまっただけだ。そんな理由だったが故に自身のことをちょろいのかもしれないと疑っていた。

 そして、勝負を唐突に終わらせたのにも理由がある。

 

「この格好じゃ全力も出せないでしょう。今度時間を作るので、その時にやりましょう」

 

 今の今まで制服姿だったのだ。上はともかく下のスカートが問題で、動き難いだけならともかく、途中で校内の窓から見物人(ギャラリー)が出始めていた。私は下着を見られるぐらいなんとも思わないが、彼女の気持ちを考慮すれば早くに終わらせておくのが良いと判断した。

 

「ホント?!約束だからね!いつにする?放課後?」

 

 表情だけでなく、私への距離感も四番と似ている。正直面倒くさい。

 

「今日の放課後は先約があります」

「えー、誰よそいつ。私がキャンセルするように言うから教えて」

「誰かは分かりません」

「は?」

「手紙で屋上に呼び出されているんですよ」

「まさか告白?」

「さあ?」

「さあって……。誰が出したかもわからない手紙なのに律儀に従わなくてもいいんじゃない?というかこのご時勢に手紙って……」

「とにかく、他にも用事があるので時間が確保でき次第お伝えします。それまでお待ちいただけますか?」

「わかった。絶対だよ」

「あぁ、それと」

「ん?何さ?」

 

 片手を差し出す。どんな形であれ勝負をしたら行おうと決めている行為だ。

 

「握手です。対戦ありがとうございました」

「……嫌。次に決着をつけたときにしようよ」

 

 まさか拒否されるとは思っていなかった。私が約束を反故にすると怪しまれているのだろうか。

 

「分かりました。……昼休みが終わるまであまり時間は残されていませんし、私は更衣室で汗を拭おうかと思っています。貴女はどうしますか?」

「あー……私もそうしよっかな」

 

 すぐに更衣室へと辿り着き、早速タオルを取り出す。

 

「にしてはさ、アンタ気持ち悪くないわけ?」

「はい?」

 

 唐突な質問の意味が解らず首を傾げる。

 

「朝から色んな奴に名前で呼ばれてたじゃん。それを澄ました顔でスルーして、誰にも理由を聞きもしない。私があんなことされたら気味悪すぎてソッコー家に帰ってたかも」

 

 家に帰るのは度が過ぎているが、気味が悪かったのには同意だ。

 

「何か理由を存じているんですか?」

「まぁね」

「ただでは教えてくれないと」

「おっ、察しがいい。出来る限り早くに再戦したいからさ、そうなるように動いてほしいなって」

 

 やはり疑われているか。

 

「……正直、今の私では数戦すれば種が尽きて貴女相手には勝負にならなくなります。なので、練習する期間を経てから再戦したいというのが本音です」

「意外と負けず嫌いなんだ……。そういう理由ならいいよ、何とか我慢してみる。けど、やっぱり早い方が嬉しいな」

「ご理解感謝します。制汗剤、使いますか?」

「お、サンキュー」

 

 返事と同時に制汗剤を放る。

 

「言葉使いは堅苦しいくせに、こういう部分はラフだね。さっきのゴールも見ないフックシュートといい」

「別に誰に対してもこういった行動をするわけじゃありません。しても問題ない相手だと判断したまでです」

 

 シュートに関しては条件が揃わないといけないことは匂わせないでおく。駆け引きに使えるカードは曝すべきではない。

 

「ふーん……。あっ、いい匂い」

「そうですか、なら良かった。臭いがきついと隣の人が不憫ですから……ごめんなさい、これでは貴女が臭うかのように聞こえてしまいますね。飽くまで私の話です」

「いや、私はそういうの気にしないからいいけど……というか、アンタなら汗かいたままでも歓迎されると思うけど」

「そんなわけないでしょう」

「……アンタってさ、自分が人気なことに気づいてる?」

「友人の一人もいない私が人気者だとしたら、全員人気者になると思うのですが」

「あー、もういいわ。この話は終わり」

 

 要領を得ない会話だ。彼女――ではいい加減ややこしいので、バスケットボール女子を省略して『バス(じょ)』とでも呼ぶとしよう。とにかく、そのバス女を見ていてふと思った。もし私に姉妹がいなかったとしたら、バス女のような感じに育っていたかもしれないと。

 そうバス女に話したら『なんだぁ?!私に姉妹がいれば、この無駄にでかい胸もあったって言うのかー!』と、意味不明な叫びと共に私の胸を揉まれることになるのだが、それはまだ先のお話。

 

 

 

 

 放課後。私は二日連続で屋上に佇んでいた。

 昨日と違って風は大人しい。スカートが捲れて下着を見られる可能性もないなと、どうでもいいことを考えながら待っていると扉が開かれる。

 

「ごめん、待たせちゃったかな」

 

 現れたのは一人。今朝、教室で最初に私の名前を呼んだ男子生徒だった。

 

「それほど待っていませんのでお気になさらず」

「あはは……そっか……」

 

 現れてからここまで、彼は両の手を握って開く動作を繰り返している。緊張によるものだろうか。しかし、私には他に予定が控えている為、相手の気持ちを汲んで悠長に時間を浪費するわけにはいかないのだ。早々に話を進めさせてもらおう。

 

「それで、ご用件は」

「あーっと、それは……」

 

 また沈黙か。

 

「言い難いことでしたら、また後日でもよろしいですか?」

「あっ!いや、待ってくれ。今言うから」

 

 三分間だけ待ってやる……嘘だ、実際はそんなに待たない。

 

「中野七海さん。あなたのことが好きです!付き合ってください!」

 

 やはり告白か。入学して一、二ヶ月の間はされていたが、最近はなかった。何故今なのだろうか――そう疑問に思ったが何よりも優先すべきは返事の言葉だ。

 

「ごめんなさい。私は、誰かと付き合う気がありませんのでお断りします」

 

 お得意の嘘は混ぜない。何かを告白するという行為は、とても勇気のいることだから。その勇気に少しでも見合った言葉で返すことにしている。

 

「……やっぱり断られたかぁー」

「分かっていながらも行動したのですね」

「あー、それは……」

「差し支えなければ教えてくださいませんか?」

 

 渋る彼には悪いが、未来で役に立つ情報かもしれない。引き出せるだけ引き出しておこう。

 

「えーっと、先週のことなんだけど――」

 

 先週?何かあっただろうか。

 

「――放課後、お姉さん達が教室に来た日があったよね」

 

 おぅ。思い出させないで欲しい。あれは恥ずかしかった。

 

「その時、お姉さん達との遣り取りで見せた表情が、普段のクールなものと違って……こう、胸にきた?といいますか」

 

 要するに普段との違い(ギャップ)にときめいたわけか。なるほど、よーく分かった。姉達には教室に来ないよう釘を刺しておこう。

 

「ありがとうございます。参考になりました」

「いや、例を言われるほどのことじゃ」

「思いの丈を教えてくれたんです。感謝ぐらいは受け取ってください」

「あ、あぁ。……にしても恥ずかしいなぁ。明日から誰かにいじられたりするかも」

 

 こちらに顔を見られないよう、天を仰ぐような形で呟く彼を見て、私の口から自然と言葉が出た。

 

「堂々としていればいいんですよ」

「え?」

 

 上を向いていた顔が私を――前を向く。

 

「堂々としていればいいと言ったんです。自身の想いを打ち明けるなんて簡単にできることじゃありませんから。それも色々と下準備をしたのでしょう?」

「そんなことないよ。さっきも言ったとおり、衝動的に告白しただけ――」

「――嘘」

「え”っ」

「アプリのグループ会話で、クラスのみんなに私の名前を呼ぶよう誘導したんですよね?」

 

 ちなみに、そのグループに私は参加していない。学校生活が始まった最初の頃、私は忙しくてクラスメイトと碌に交流をしようとしなかったので誘われなかったらしい。

 

「な、なんで知って」

「クラスメイトから聞きました」

 

 バス女のことだ。更衣室を出た後、約束通り事の詳細を教えてくれた。

 

「し、知られたくなかった」

「私は、知れてよかったと思っています。だって、理由はどうであれ私がクラスに馴染めるような行動をしてくれたんですから」

 

 名前で呼ばれること自体を気味悪く思っていたわけではない。あくまで原因が分からなかったからだ。

 

「……ただ告白する時に名前で呼びやすいようにしたかっただけでも?」

「それはまぁ……随分と女々しい理由ですね」

「ごふっ!」

 

 あぁ、しまった。急所を抉る気は無かったのだが、つい。

 

「では、こういうのはいかがでしょうか?」

 

 彼は先程嘘をついた。ならば私も一つ、思ってもいないことを言葉に混ぜるとしよう。

 

「貴方のした告白は、これから胸を張って生きるに十分自信と成り得る経験だと思います。例え結果が失敗に終わっていても、その相手は私――中野七海なんですから」

 

 私は今どんな表情をしているだろうか、それは目の前の彼のみぞ知ることだろう。

 

「なんだそれ。めちゃくちゃな理屈だな。というか、そういうキャラだっけ?」

 

 そんなわけない。しかし、私に告白してきてくれた人達に少しでも誇れるような自分に成らなければとは考えている。

 

「さあ?どうでしょうね」

 

 知りたいことは知れた。もうここに留まる理由もない――そう思って歩き出したが、すぐに呼び止められる。

 

「七海さん!」

「……貴重品を投げないでください。落としたらどうするんですか?」

 

 投げ渡されたのは携帯端末。

 

「コントロールには自信あるんでね。それに、七海さんがあの程度の軌道でキャッチミスしないことぐらいは知ってるよ」

 

 画面に映されていたのは、バーコードの発展型(QRコード)

 それを自らの携帯端末を懐から取り出して読み込んだ。すると、グループ会話への招待状が届く。

 

「っと、落としたらどうすんの?」

 

 渡された時の軌道を真似て投げ返すと、苦笑と共に質問が返ってきた。

 

「それぐらいは難なく捕ってください。正捕手、狙っているんでしょう?」

 

 偶々耳にしていた情報を利用して返答と言い訳をした。

 

「では、私はこれにて失礼しますね」

 

 屋上を後にした直後に、グループ会話へと参加する。

 

「よろしくお願いします」

 

 呟いた言葉と同様の意味を表すスタンプを投稿すれば、すぐに多数の返信がきた。

 そのほとんどは挨拶だったが、一つだけ質問が混じっていたので答えることとする。

 内容は、投稿したスタンプの入手手段が知りたいとのことだったので、自作品だと返すと一気にグループ内の会話が盛り上がって行く。

 正直、成り行き(ノリ)で入ったグループだったが、上手くやっていけそうだと感じて密かに胸を撫で下ろした。

 だからだろうか、普段ならすぐに気付くような熱を帯びた視線が、背後から突き刺さっていることに気付かなかったのは。

 

 

 

 

「見つけました」

「…………」

 

 無視。

 

「もしもーし、聞こえていますか?」

「…………」

 

 帰り道にて、偶々上杉先輩を見つけたので声を掛けたのだが、話しかけても反応が無い。

 

「先輩?……っ!」

 

 唐突に私にもたれ掛かるよう倒れてきたので、驚きながらもなんとか支えた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 距離が近くなったことによって、彼の呼吸音が聞こえてくるが随分と苦しそうだ。

 

「……このままでいいです。付いてきてください」

「あ、あぁ……」

 

 大量の発汗。鈍い応答。ふらついた体。それらの症状から考えるに熱中症だろうか。とにかく、少しでも涼しい場所へと移動しなければ。

 

「ここに横たわってください」

 

 周りに建物もなかったので、日陰で我慢してもらうことにした。ベンチにタオルを敷いて、枕代わりにした応急ベッドに寝かせる。

 

「スポーツドリンクです。自分で飲めますか?」

 

 私の飲みかけで悪いがこれしか持ち合わせていない、また我慢してもらうとしよう。

 もしこれで飲めないようなら、医療機関に連れて行こうと決めていた。

 

「……ぷはぁ!悪い、助かっ――!?」

 

 無事飲んでもらえて安堵したのも束の間、すぐに動き出そうと体を起こした彼を抑えつける。

  

「今さっき倒れかけたばかりなんですよ。何すぐに起き上がろうとしているんですか?」

「いや、もう大丈夫――」

「――五分」

「え?」

「五分間だけ休んでください。お願いします」

 

 物理的に押さえつけるのは簡単だ。しかし、この後に控える本命の願い事を通すためにも、先に簡単なお願いをすることにした。

 

「お願いします……」

 

 見下ろす形で目を見つめ、繰り返しの要求を行う。すると、返事こそなかったが大人しくなった。

 

「…………」

 

 沈黙。何か話した方がいいのだろうか。彼が元気になるトークなど思いつくはずもないが、今に至った経緯でも聞くとするか。問診代わりにもなるだろう。

 

「症状から見るに、熱中症だと思います。どうしてこうなったか原因は思い出せますか?」

「しりとり」

「は?」

「しりとりをしていたんだ」

 

 この人、大丈夫だろうか。しりとりと熱中症のどこに関連性があるのか全く分からない。やっぱり医療機関に運んだほうがいいのでは?

 そう検討している私を置いて、話は進んでいった。

 まとめると、走りながらしりとりをした後、水分補給を怠ったことが原因だったらしい。しかも、しりとりをした相手には飲み物を買い渡しておいて、自身の分は買わなかったとのこと。

 

「そうですか。以後、注意してくださいね」

 

 大雑把な内容だったが、省かれた部分も大方察することができる。なので詳細は聞かない。しりとりの相手が誰だったのかも、結果がどうだったのかも。

 

「そろそろいいだろ」

「あと一分です」

「細かいな、お前」

 

 貴方の作ったテストほど()()じゃない。

 

「……今度こそ五分経っただろ。ありがとな、助かった」

 

 チャンス到来。この感謝に故事付(こじつ)けて要求を通してやる。

 

「礼を言うなら、一つ願い事を叶えてはくれませんか?」

「願い事?」

「ええ、家庭教師の件です」

「なんだ?お前も生徒になるとかか?」

 

 似たような台詞を過去に何度か聞いた気がする。そして、私の返答も変わりはしない。

 

「違います。先輩の手伝いをさせてもらいたいだけです」

「は?」

「先輩は、過去に家庭教師の経験がないんですよね?」

「あ、あぁ」

「いきなり五人の相手は大変でしょう。なので、少しでも力になりたいと思いまして」

「い、いや、そんなことない。俺なら余裕だから手伝いなんていらないから」

 

 断られたか。なら、別のカードを切るまでだ。

 

「さっきの感謝は、所詮上辺だけのものだったんですね」

 

 責めるような口調で心に揺さぶりをかける。

 

「そういうわけじゃない」

「それなら――」

「――とにかく!」

 

 強い語気共に距離を詰められた。咄嗟に後退するが、すぐに近くの木にぶつかって追い詰められたような形になる。先輩もバランスを崩したのか、私の顔の真横に手をついた。……このシチュエーション、前に一番の部屋に開かれたまま落ちていた女性誌で見たことがある。なんというのだったか。

 

「あ、悪い……。とにかく、手伝いはいらない」

 

 断るのに何か特別な理由があるのだろうか、意固地になっているかのような態度を見るとそう思わずにはいられない。

 ……仕方ないか。必要とあらば嘘をつく、それが私のスタイルだ。手札が無ければ今ここで作るとしよう。

 

「断られても困ります。一応、父から監視の役割を任されているので」

「監視?!」

「先輩と直接お会いしたことがない程に、父は多忙の身です。ですので、私にそういった役割が回ってくることにも不思議はないでしょう?」

 

 嘘は真実で嵩増し可能。そうすれば露呈する可能性も低くなる。時間が経過するほどバレやすくもなるが、それまでに私の有用性を示せばいいだけの話だ。

 

「まぁ、手伝いはおまけみたいなものだと考えてください」

「……わかった」

 

 随分と渋ったうえでの了承だった。

 

「ご理解いただき感謝します」

「はぁ……」

 

 笑顔の私とは対照的に、疲労感を除かせる先輩。きっとまだ熱中症から回復しきれていないのだろう。そうに違いない。

 

「早速ですが前回のテスト、四葉姉だけは復習してくれました。昨夜のことですがね。次回に行う授業でどのぐらい記憶できているか確認してみてはいかがでしょうか」

「ほう、四葉がか、関心だな」

「随分と頑張っていたので、褒めてあげるとやる気(モチベーション)も上がるかもしれませんね」

 

 頭を撫でてあげると尚良い。あれは気分が高揚しつつも落ち着くという矛盾を孕んだ効果がある。なんだったら私が勉強する前にやってほしいぐらいだ。

 

「これ、テストの復習に使った物です」

「これって……」

 

 鞄から取り出したのは、余分に作っておいたテストのコピーだ。

 

「この解説、やっぱりお前が書いたんだな」

「前に否定したはずですが」

「前は、何かしたのかと聞いただけだ」

 

 おっと、いけない。鎌をかけられていたか。やはり断言されると引っかかりやすいな。

 

「そうでしたっけ?」

「とぼけるな」

「あぁ、失礼。つい悪い癖が出てしまいました」

「お前、やたらと姉達から心配されているんだな」

 

 そう、心配だけは一丁前なのだ。

 

「私も心配しているのでお相子ですよ」

「おあいこ……ね」

「あまり遅くなるのもいけませんし、そろそろ帰りましょうか」

「露骨に逃げたな」

 

 逃げてはいない。だって――。

 

「おい、お前の家は逆だろ」

「――家まで送りますから」

「は?」

「ほら、行きますよ」

 

 道は覚えていたので、引っ張るような形で先導していく。

 

「そう言えば、次の授業はいつですか?」

「明日の放課後に図書室でやることになっている」

 

 何人来るかは知らんがな。と、投げ遣り気味に付け加えた彼の表情を盗み見れば、不安と期待が入り混じっていた。

 

「私からも声は掛けます。きっと来てくれますよ」

 

 一人か二人は。

 

「というか、お前足早いぞ!俺のこと全然心配してないだろ」

「そんなことありません」

 

 ただ貴方のことはついでなだけだ。足早になるのにも理由がある。

 

「本当かよ……」

 

 背後から訝しむ視線を送られつつも、上杉家へと辿り着く。

 

「おい、どこまで付いていくる気だ」

 

 そりゃあ。

 

「中まで」

「は?中までって今は――」

「――いるんでしょう?らいはさん」

 

 そう、上杉先輩の妹。上杉らいはさんこそが本命。

 

「なんだ、約束していたのか」

「いいえ」

 

 玄関の前にまで来たところで答える。

 

「はっ?それはまずい!」

「まずいって、何が――」

「――お、お、お、お、お兄ちゃん……?」

 

 壊れかけのレディオような声が背後からした。

 

「な、なな、なななな」

 

 振り返れば、彼女はいた。

 

「ま、待て!落ち着くんだ、らいは」

 

 エコバッグを持った小さな手に力が込められるの視認した私は、数瞬先の未来を予期して身構える。

 

「なんで七海さんを連れてきちゃうの!?お兄ちゃんのバカー!!」

「す、すまん!」

 

 目を瞑りながら兄に突撃した妹は、エコバッグを振り回そうと遠心力をつけた。

 とはいえ、そこまで力の篭った攻撃ではないので大事には至らないだろう……頭部にさえ命中しなければ。

 目前の兄妹には身長差がある為、立ってさえいれば頭部に命中することはなかったはず。しかし、兄の方が謝罪して頭を垂れていたのだ。これでは綺麗に命中(クリーンヒット)してしまう。

 当然、その光景が訪れるのを阻止する為に上杉兄妹の間に入る。

 体で受け止めれば無事に終わる――そう考えていた私の耳が、特徴的な音を拾った。それは、プラスチックの音擦れる音だった。

 エコバッグを手にして帰ってきたということは、買い物帰りの可能性が高い。もし予想が当たっているのなら、プラスチック容器に食材が入っていたとしてもおかしくない上、そのほとんどは衝撃に対して脆弱だ。

 

「えっ!?」

 

 攻撃が当たる寸前でようやく目を開けた彼女は、標的ではない私が目の前に居ることに大層驚いていた。

 だが、勢いのついた動作は止まらない。

 

「きゃっ!? 」

 

 可愛らしい悲鳴が聞こえたが、私も動作を止める訳にはいかない。

 

「っと」

 

 なるべく衝撃が少なく済むように、らいはさんの腕とエコバッグを受け流す形で物体との衝突を回避させる。

 

「お怪我はありませんか?」

「え?……は、はい」

 

 状況が理解できていないのか、呆けた表情で返事がきた。これまた可愛らしい。

 

「それは良かった。バッグの中身はどうでしょうか?」

「あっ!卵!」

 

 どうやら、私の危惧は無駄ではなかったようだ。

 

「ほっ、よかったぁ~。どれも割れてない」

「んあ?何かあったのか?」

 

 ようやく頭を上げた『ついでの人』は放置して会話は進行していく。

 

「あ、あの!ご、ごめんなさい!」

「こういった時は『ありがとう』と言ってもらえると嬉しく思います」

 

 また思ってもない嘘を吐いた――そう思っていた。

 

「え、えっと、ありがとうございます!」

 

 ただ会話を誘導する為だけに吐いた嘘は、目の前の少女によって(まこと)へと変えられた。やはり、私の抱いた感情に間違いはなかったか。

 

「礼を言うなら、一つ願い事を叶えてはくれませんか?」

「おい、それってさっきの――」

「――心配無用です。無茶な要求をするつもりはありませんから」

 

 とは言ったものの、声音は自分でも驚くほどに固かった。

 その理由は、私が緊張しているからだ。

 屋上で告白してきた彼も、似たような気持ちだったのだろうか。

 

「らいはさん」

「は、はいっ!」

「もし、私に感謝してくれているのなら」

 

 同じ意味の言葉を、意味もなく繰り返す。これは、足りない勇気が満ちるまでの時間稼ぎでしかない。

 

「もし、貴女さえ良ければっ」

 

 さっきまで感じていなかったはずの喉の渇きは、まるで十kmを走り終えた時以上だ。

 

「それなら――」

 

 最近メールで遣り取りを始めた相手、それがらいはさんだった。

 そして、その過程で芽生えた想いこそが今から口にする願い(告白)だ。

 

「――私と友達になってください!」

 

 高まる鼓動とは裏腹に、緩やかに感じる時の流れがもどかしい。

 しかし、今は我慢の時だ。私に告白してきてくれた人達同様、ちゃんと答えを待たねば。そして、少しでも誇れる自分に成れるよう――。

 

「ごめんなさい!」

 

 ――……誇りは塵と化しました。今すぐ泣いて逃げ出したい。

 


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