灰色と青   作:69

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02.古びた群青色

 アラームではなく、着信音で目を覚ました。寝ぼけたままスマホを耳に押し当てて、流れてくる上司の声に心臓を凍らせた。

 生まれて初めてではないけれど、少なくとも社会人になって初めて寝坊した。話の流れで、体調が悪いということで休ませてもらうことになった。社会人になって5年、これまで一日たりとも遅刻も休んだこともなかった。それまでの信頼が、一日の猶予をもたらした。でも、初めての休みが仮病か。なんだか馬鹿らしくて、乾いた笑みが零れた。

 くしゃみをする。それで、自分が衣服を身につけていないことに気が付いた。僕は寝る前のことを思い出して、ベッドの隣の存在を見てしまわないように細心の注意を払いながら、シャワーを浴びに向かった。

 

 女の子は援交少女だったのだと、シャワーを浴びながら思い至った。多分、これまでも同じようなことをして生きてきたのだ。それは予測だったけれど、確信に近い閃きだった。

 僕は女の子のことを何も知らない。自ら進んで知ろうとも思わない。僕はただ、灰色から抜け出したいだけだった。女の子が僕を利用するように、僕もまた、女の子を利用していた。

 火照った体で部屋に戻ると、女の子はすでに起きていて、灰色のスウェット姿だった。やっぱり似合っていない。

 女の子が僕に気づいて、おはようございますと言った。僕もおはようと返す。

 

「ギターを、弾いてもいいですか」

 

 唐突に、女の子は許可を求めてきた。電気のついていない部屋の中に、窓の外から朝日が差し込んでいる。明るい光が女の子のギターケースを舐めるように照らしている。ギターケースに浮き上がる傷跡のせいで、昨夜見た時より一層ボロボロに見えた。

 

「いいよ」

 

 僕の返答を聞いて女の子は頷くと、ギターケースを開けて、中からギターを取り出した。古びた群青色のギター。女の子は竿の先のところに小さな機械を付けて、弦を触りながらネジみたいなのを回し始めた。あの行為はなんと呼ぶのだったか。僕は音楽関係に疎い。

 部屋は少し、いやかなり精神的によくない匂いがする。汗やら他の何やらが入り交じった匂い。昨日の行為を思い出して体が疼く。ただでさえ湯上りなので熱い。僕は女の子の脇を通り抜けて、部屋の窓を開けた。換気の意味合いが強かったけれど、入り込む風が意図せず心地よかった。淫らな空気と共に、女の子のギターの音色が外へ飛び出していく。カラカラに乾いた音色は、四月の空に受け入れてもらえず、宛もなくさまよっている。

 突如、ドンと大きな音がした。どうやらお隣から壁を叩かれたらしい。なんだろうと考えて、嗚呼、ギターがうるさかったのか。初めての体験に嬉しさで笑みを零す。少し、世界が変わって見えた。

 女の子は変わらずギターを弄っている。機械を外すと、今度は本格的に弾き始めた。その傲慢さは、まるで世界に女の子一人しかいないみたいだ。

 僕はこれまた精神衛生上よろしくないシーツをベッドから剥がして、洗濯機にぶち込んだ。洗濯機を稼働させると、機械的な生活音が響き始める。負けじとしてか、女の子の演奏のボリュームが大きくなる。お隣がまた壁を叩いた。さっきより力強い。女の子はギターに夢中だ。素知らぬ様子で火に油を注いでいる。その光景が可笑しくて、僕は声を上げて笑った。

 

 

 

――――

 

 

 

 昼になっても夜になっても、ご飯とトイレの時間以外、女の子はギターを弾き続けていた。手垢だらけの使い古された紙の譜面を乾いた音色でなぞっている。地に足がつかない覚束無い演奏だなと思った。

 ボロボロのギター。ボロボロのピック。ボロボロのギターケース。ボロボロの譜面。ボロボロの指先。女の子のものはなんでもボロボロだ。

 僕は元々ひとり暮らしだったから、二人分の食事を用意し続けた結果、合わせてたったの三食で冷蔵庫の中身が枯渇した。元来料理もそんなにしないから、食材を買い込んでいるわけでもない。夜になり、窓の外は暗い。窓に女の子が映っている。コンビニ弁当でも買いに行こうか。

 僕は一心不乱にギターを引き続ける女の子の肩を叩く。無表情の女の子がちょっとウザったそうに振り向いて、僕の瞳を見上げた。無気力なのに熱の篭った昏い緑の瞳は、岩のように揺るがない。

 

「晩御飯買ってくるけど、なんでもいい?」

「え……あ」

 

 女の子は突如として何かを思い出したみたいに無表情を崩した。まるで雨の日に歩いていて、たった今傘をさし忘れていたことに気づいたような顔。それは小説の余白のように微細な変化だった。ギターの余韻が、瓦礫のように部屋に積もった。

 

「コンビニ弁当でも買ってこようかと思うんだけど」

「……はい」

 

 女の子は時々、僕のことを忘れる。もしくは、この世界に女の子と古びた群青色のギターしか存在していないみたいに振る舞う。そうして、僕のことを思い出した時、女の子はそれを失態と捉えているように思う。けれど、何処かで諦観の念を感じる。女の子は、何かに取り憑かれるようにギターを弾いてしまう。

 

「じゃあ、行ってくるよ」

 

 と僕は言った。

 

「わかりました」

 

 と女の子は言った。

 コートを着て、財布と鍵をポケットに突っ込む。靴底のすり減ったスニーカーのかかとを踏み歩き、雑に履く。玄関の扉を開けて、外に出た。星の薄い夜空が街を見下ろしている。四月の夜はまだ寒い。

 振り向いて扉を閉める。ちらりと隙間から見えた仄暗い廊下の先で、女の子はボロボロのギターを抱えて俯いていた。

 

 

 

――――

 

 

 

 予期しなかったこととはいえ、折角の休みの日にコンビニ弁当とは如何なものかと考え、行き先を業務用スーパーに改めた。

 業務用スーパーで食材を買い込み、帰路に着いた。買い物袋で両手が塞がるなんていつ以来だろう。思い出せないくらい昔な気がする。

 帰りながら、昨日知り合ったばかりの女の子を一人残して家を出たのは、なかなか肝が据わっているなと思った。自分のことなのに、ひどく当事者意識の低い思考だ。僕はどこか投げやりになってしまう節がある。

 中途半端に年季の入った外観のアパート。所々が錆びた階段を上る。一歩足を乗せるたびにギシリと重たい荒涼が鳴った。

 自分の部屋の扉の前に立つ。鍵を挿して、扉を開いた。玄関の前に女の子が立っていた。僕は少なからず驚いて肩を揺らした。がさりと買い物袋が雑な主張をした。

 

「どうしたの?」

 

 僕は女の子に問いかける。玄関は狭い。扉と女の子に挟まれて、奇妙な圧迫感を覚えた。住み慣れた部屋なのに。

 女の子の指先が、僕の手の甲に触れる。冷たくて、ざらついた感触。

 女の子に手を引かれる。買い物袋を手放してついていく。ベッドに倒れるようにして引きずり込まれた。横向きで女の子と向かい合う。女の子の長い髪からサボンの香りが僕の鼻腔をくすぐった。同じシャンプーを使っているはずなのに、信じられないくらい甘くて扇情的な香りがした。

 

「今日の分です」

 

 女の子が囁いて、顔を近づける。長いまつ毛が綺麗なのに、諦念を湛えた昏い瞳が台無しにしていた。

 

「家賃なんだっけ」

「ええ、そうです」

 

 唇が触れ合う。二人しかいない空間に、ささやかなリップ音がこよりのように絡まって、ひどく遠回りな刺激を僕の下腹部にもたらした。

 女の子は必死に目を閉じている。せがむように唇を啄む仕草が愛らしい。目じりに溜まった涙が美味しそう。晩御飯はこの後か。

 女の子の後ろに窓がある。カーテンが閉められていない窓。窓に部屋の様子が映っている。ベッドに横たわる女の子の後ろ姿に隠れて、僕の姿は映っていない。すると、なんだかこのシンプルな部屋が、あどけない美しさを宿しているように思えた。

 

 

 

――――

 

 

 

「キミはセックスが好きなの?」

 

 風呂を終え、晩御飯を一緒に食べながら、僕は女の子になんとも不躾な質問を投げかけた。それはこの瞬間にはひどく不適当な言葉だったけれど、女の子は嫌な顔一つせずに口を開いた。

 

「いえ、特にそういうわけではないです」

「そうなんだ」

「はい」

 

 テーブルの中央には大きめの皿に豚肉の野菜炒めが盛られている。インスタントの味噌汁を置くスペースがギリギリで、ご飯の茶碗は左手に持っている。僕らは右手の箸を忙しなく動かしている。

 

「ただ」

 

 女の子の箸が止まる。視線が虚空を泳ぎ、ここではないどこか遠くを見つめている。まるで籠の中の鳥のように。

 

「そうすれば、男性は家に泊めてくれるので」

 

 ぼとりと、女の子の言葉が床に落ちる。僕は深い納得でそれを受け止めた。

 多分、残酷な発言だったと思う。けれど、僕はそうは思わなかった。女の子が僕を都合のいい宿主として認識しているように、僕は女の子を灰色からどこかへ連れ出してくれる可能性のある人としか思っていない。お互いがお互いを一時的な寄生先としているだけ。別にキミじゃなきゃダメな理由はない。それは女の子の方もそうだろう。

 

「でも、ご飯まで出してくれたのは、貴方が初めてでした」

「そうなんだ」

「はい」

 

 女の子が箸で白米を口に運ぶ。まるで小さな宝石をピンセットでつまんでいるみたいに、おそるおそる。

 箸の先ごと小さな唇に吸い込まれる。女の子は緩慢に咀嚼して、白い喉で嚥下した。女の子の首は細くて、綺麗で、脆そう。

 

「死にたいって思ったことはある?」

 

 それは極めて唐突な質問だった。ひどく無計画で、冷たいほどに色気がなくて、どうしようもなく極地的。

 女の子は、ただ、小さく頷いて。

 

「はい」

 

 と言った。

 僕は仄かに微笑んで。

 

「そうなんだ」

 

 と言った。

 僕はそれまで所在なげに空中で停滞させていた箸を動かし始めて、ご飯を口に運んだ。気がつけば女の子も同じように、食事を再開していた。

 

「もう、ああいうことはやめようか」

 

 僅かな沈黙を挟んだ後、僕はひどく親しげにそう告げた。

 女の子は不思議そうに首を傾げる。

 

「セックスのことですか」

「うん」

「それは、つまり、私を家から追い出したいということでしょうか」

「違うよ」

「では、なぜ」

「僕は明日から、また仕事なんだ」

 

 それがなんだと言いたげに、女の子は目を細める。

 僕はなんだか可笑しくなって、くつくつと喉を鳴らしながら、僕が留守の間、家事をしてくれると助かるよ。

 女の子は、やはり不思議そうに首を傾げた。あるいは、訝しげに目を細めた。

 


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