と思って書き始めたら出来ちゃった。
深夜酔い潰れ、ベンチで横になった長谷川泰三ことマダオは翌朝、違和感に気付く。
マダオ「公園で寝てた筈なのに……ここどこだよ!江戸じゃねーじゃん!」
―――高知県、某小学校。
「7月25日。 朝起きると、アサガオが芽を出していました。おはよう、アサガオさん。僕はアサガオに水をたくさん上げて、お母さんには、『もうアサガオさんはお腹いっぱいだよ』と水やりを怒られました」
まだ残暑の残る季節、少年が両の手に広げた日記帳をあどけない声で朗読する。
夏休みが終わった後だということもあり、自由研究の内容をクラスで発表している最中なのだ。
「――とても、楽しい夏休みでした。 おわり」
少年が粗方読み終わり、隣にいた教師が口を開く。
「はい、有難うタカヒロくん。見事な観察日記でした。アサガオ咲いてよかったね~、お母さんとも仲直りできて、本当によかったねェ~。 みんな、拍手拍手!」
教師が言うと、教室内に穏やかな拍手が響き渡る。
朗読を終えた少年は照れくさくも歓声を受け取り、自身の席へと戻っていく。
「タカヒロくんの気持ちが良く伝わってくる、大変良くできた観察日記でした。はい、では次の発表者は……あぁ、郡さんか」
瞬時に穏やかだった教師の雰囲気が冷徹なモノへと変貌する。
それは教師だけでなく、クラス全員が視線を教室の隅の席に座る一人の少女に侮蔑と冷徹な感情をこめて向けられる。
「……」
長い黒髪を揺らして立ち上がった少女、郡千景が大事そうに日記帳を抱えて教卓へと歩み出す。
『淫乱女』
『あばずれ』
『キモイんだよ』
その道中、心無い声が生徒の中から囁かれるのを千景は聞く。
だが、そんなモノに耳を傾けることなく力の無い双眸で教卓へとたどり着いた千景は徐に口を開き、
「私も、観察日記を書いてきました」
「そう…それじゃ、さっそく読んでもらいましょうかね」
教師も、さも興味なさげに呟いている。
明らかにトーンを落とした声。千景を見つめる生徒たちはくすんだ瞳を向けている。何人かはニヤニヤと、時には悪口を呟いていた。
これがこの小学校の現実。
郡家の諸事情を知った悪評がこの村の住民たちに広がり、生み出されてしまった厳しいイジメの現実。
教師も、近隣住民も、クラスの男女も、全方位に千景の味方はいない。全てが敵だった。
「……7月20日。 今日から夏休みが始まりました。特に私はすることがなかったので、公園に行ってみる事にしました」
そんな敵陣の中ともいえる状態の千景は、周りの視線と心無い言葉に萎縮することなく淡々と語り始める。
彼女にとっては忘れられない、あの夏の日の出来事を―――。
――――――-
―――
――
―
私が公園に行ってみると、夏休みでどこかに出かけている人が多いのか、そこには誰も居ませんでした。何もすることも無く、だらっと過ごそうとしていましたが、でも……
『さ、酒……酒をくれぇ………』
地べたを這うようにして求めるよな声を出す物体が私に迫ってきていました。
そこで私は、マダオと出会いました。
一度息を着くようにして間を置いた千景に、
教師が、果てはクラスの生徒たちが動きを止め、同時に同じ言葉を思う。
―――――あのぅ……マダオってなに?
~郡千景の夏休み、マダオ観察日記~
7月21日。今日からマダオの観察日記をつけることにしました。
―――郡さん、ちょっと待って? マダオってなに、ねぇ?
―――郡さん、それただのオッサンだよね?公園に住んでるただの無職のオッサンだよね?
昨日お酒を家から持って来たら、懐いて喋ってくれるようになりました。
―――イヤ駄目だって!そんなモノあげたら! 知らないオジサンに!
『お嬢ちゃん……酒は?』
お酒が無いと生きられないというので、私はいっぱいマダオにお酒を上げる事にしました。
まだかな、いつになったらマダオは咲くんだろう……。
――――咲かないよ!? そんなモノあげてる限り永遠に咲かないよそのオッサン!!
7月22日。マダオはまだ芽が出ない。
――――芽が出ないって…大の大人にそれはないんじゃないかな郡さん?
いくらお酒をあげても、動きも働きもしません。
なんでなにもしないの?と聞いたら、
『一度枯れた花はな……二度と咲かねェんだよ……』
悲しそうな顔で、そう言っていました。
――――なにコレ!? なんの研究!? 子供になんて事言ってんの!!
7月23日。マダオはまだ芽が出ない。
いくらお酒をあげても、全部目から流しちゃいます。
どうしてせっかくあげたのに、流しちゃうの?って聞いたら、
『ごめんね……もう流さないから……ごめんね…』
そう言ってまた、眼からお酒を流していました。
日が暮れるまで、ずっと……。
―――郡さん、ちょっと重いねェ…もうやめない?
7月24日。マダオはまだ芽が出ない。
―――郡さん、分かった。ホントは自由研究やってないんでしょ?そうなんでしょマダオなんて実はいないんでしょ?
マダオが肩を押さえて怪我をしているようだったので、どうしたの?と聞くと。
ロープでブランコを作ろうとして失敗したのだと言っていました。
――――郡さん!
私はどうして、公園にはもうブランコがあるのに、ロープで輪っかをつくったブランコを作る必要があるのか不思議でした。
いつになったらマダオは咲くんだろう……。
――――郡さん、これマズイことになってるから! 大丈夫なのコレ!?
7月25日。マダオはまだ芽が出ない。
いつものように公園に向かう途中、マダオが線路で寝てました。
なんでこんな所で寝てるのと聞くと、「寝苦しくなってここまで転がってきた」と言っていました。
遠くを見ると、電車がすぐ近くまで迫って来ていました。
いつになったらマダオは咲くんだろう。
○
「はい発表終わりッ! 途中まででしたが良くできてましたね――」
千景が25日の日記を読み終えた時、教師の声が続きを読ませることを中断させる。
教師は危惧する。これ以上先を読ませたら何かとんでもないデッドエンドの結末を聞かされるハメになるのではないか、と。
だが。
「えーっ!? 先生、終わらせないでよー!」
「そうだよー! マダオはどうなったのー?咲いたのー!?」
「続き教えてー!」
なまじ、インパクトのある内容だったためか、生徒たちのほとんどが千景の話すマダオの観察日記に興味津々だった。
「あっ、ちょっ!? 生卵投げないで! わかった!わかったから! 取り敢えず全員生卵とか投げるのやめろ!」
何故か教師に目がけて投擲される生卵の数々。恐らくは、もともと千景にむけて投げられるものだったのだろう。
しかも中身が腐ってる匂いがした。タチが悪い。
「分かりました!分かりましたァ! 郡さん8月、8月から……要点だけ掻い摘んで、ね?」
教師は決断する。
これ以上の生徒たちによる腐った生卵投擲を止めさせるためにはこの危険な自由研究の続きを読んでもらうしかない、と。
「分かりました……」
しかし、それは郡千景の思惑通りだったことに、教師と生徒たちは気付いていない。
○
『こっちよ、マダオ』
『……』
8月1日。家族が一人増えました。
――――掻い摘み過ぎだろォォォォオ!! 何でマダオが家族の一員になってんの!? この数日の間に一体何があったの!?
じっと虚空を見つめるその乾いた双眸からは何も伺い知る事は出来ない。
地に堕ちた堕天使ルシファーの意を、神でさえ解することが出来なかったように。
――――しかも、なんか文章が達者になってきてんですけど!?
もううんざりだ。私は地面に向かって唾を吐き、マルボロに火を点けた。
――――何があった!?この夏一体何があったァ!?大人の階段どころじゃないだろ!大人のエスカレーターだろ!?あと煙草に火つけるな!!
コンドルが空を飛んでいる。
人は環境に応じ、絶えず変化しなければならない。
歩みを止め、変化を拒んだその男はもはや屍に等しい存在だった。
――――なんでコンドル!?ってか、お前が変化しすぎだろ!! お前の方を観察したかったわ!!
8月3日。私は父親からくすねてきたウィスキーを無造作にマダオに投げつけた。
マダオ、環境は変えてやった。後はお前だけだというのに、何故お前はそこで淀んだままでいる。
犬小屋と言う寝床を与え、三食欠かさない生活。一体何が不満だというのか。
そんな言葉に応えることなく、マダオは苦い顔でウィスキーを舐めるばかりだった。
――――明らかだよね!? 何が不満なのか、丸わかりだよね!?家族を得たってそう意味なの!?ペットって意味なの!?
マダオは一体いつになったら咲くのか…。
そんな私を嘲笑うかのように、上空ではコンドルが旋回していた。
―――だからなんで高知の空にコンドルゥゥゥゥウ!!?
8月10日。マダオを飼って10日が経つ、しかし相変わらず芽はでない。
私はいつものように、父親からくすねてきたバーボンを無造作にマダオに投げつける。
―――そこはもう、無造作じゃないとだめなの!? 頑なに、無造作なの!?
『千景……お前、それ……』
『……犬よ』
最近父がマダオを気味悪がっている。
どうやら私が飼い始めたのが犬ではなく、マダオだと気付きつつあるようだ。
―――最初から丸わかりだよ!最初から気味悪いよ!!
私は父に一言だけ告げて、引きこもるように自室へ戻った。
ゲームを起動させてイヤホンを耳につけると、現実の世界からゲームの世界へと完全に移動し、自分だけの世界へと入り込む。父への不信感か、負の感情なのか。
私がこうして父だけではなく、家族そのものに対して絶望し、現実に対して壁を作るようになってしまったのは、一体いつからだろうか。
―――なんか凄い重くなってきたよ!? 郡さん、そろそろ締めて! ねぇお願いだから!!
3年前の8月10日。
あの日も、うだるような暑さだったのを覚えている。
―――もういいつってんだろ!! なんで日記で過去編やり始めるの!?
母親の夫。つまり、私の父も……
私の父は子供の無邪気な心を持ったまま、大人になったような人だった。
父親としては問題のある人物で、風邪を引いた私の母を「薬を飲ませておけ」と一言で済ませ、会社の同僚と飲みに行き、泥酔して返ってきたのは午前2時過ぎ。
そんな自分勝手で好きなことをやる父親の行動は、やがて家族との確執を生み出していく。
当時、まだその頃の私は信じていた。
両親が一晩中喧嘩をしても、父親が母親を殴ったりしても、私が、郡千景が生まれた時の二人は、心からその誕生を祝福し、愛をこめて育ててくれていたことを知っていたから。
どんなに周りから酷く、扱われたとしても。
だけどそんなある日。
学校から父と一緒に帰ったその日、母親の不倫が発覚した。
私は思う、両親ともども、もう私に対する愛は枯渇していたのだと。
互いに私を育てる事を押し付け合い、その度に喧嘩する二人を見て、悟った。
私は、生まれて来てはいけない人間だったのだと。
この世界では、呪われた子だったのだと。
それから私はゲームに熱中することになる。
イヤホンをすれば、画面の世界に没頭していれば、何も聞こえないし、好きなことに夢中になっている訳だから、いくらか気は紛れたのだ。
たとえ廊下で足を掛けられ、転ばされても。
たとえ階段から突き落とされても。
たとえ衣服を燃やされても。
たとえ髪と耳を一緒にハサミで切られたとしても。
耐える事は出来たのだ。
心を引き裂くような痛みには耐える事が出来なかったが。
『なぜ、そんな話を……俺に?』
私の頬に、雨が当たって流れた。
気づけば長々と、目の前のマダオに話し込んでいてしまったらしい。
『ごめんなさい、今の話は忘れて……』
『なら、どうして俺を……連れてきた』
マダオからの問いに、私は脚を止めた。
『わからない』
ただ、そう一言しか浮かばなかった。
自分が生まれなければ、この世界で父と母は喧嘩することなく、静かに暮らすことが出来たのではないか、と。
あの性格では、時間の問題だったかもしれないが。
『お前が……ただ辛いだけなんじゃねぇのか。 マダオの姿なんて……』
いつからか、私は家族とマダオの姿を重ねてしまっていたのかもしれない。
自己満足にもならない、自分をただ苦しめるだけの行為があの時失ったものを、今からでも取り戻せると思っていたのか。
「そうね……」
その先の言葉を言う事も出来ず、私は部屋へと戻ってからは逃げるようにゲームに没頭した。
その日、マダオは私があげたバーボンに口をつけることは無かった。
8月11日。私は風邪を引いてしまった。
クラスからのイジメを受け、隠された衣服を雨の中で探していたのが原因だった。
熱は39度。身体の熱さに、うなされた私は布団の中でひたすら休息に入る。
父親は相も変わらず、薬だけ与え、私を看病することなく仕事へと向かっていた。
その日、眠ってからどれくらい経っただろうか。布団で寝ていた私は突如響いた怒号に目を覚ました。
まだ身体を動かすこともできないだるさに、部屋を出ることなく、布団に身を置いたまま、その怒号の正体を耳で探る。
隣の部屋から聞こえてくる声は、
『テメェよ! 千景ちゃんが風邪引いてるってのに、なに呑気に仕事なんてしてんだァ!!』
マダオの声だった。
『会社に事情を説明すれば休みまで貰えなくとも、午前中で切り上げたりすることだって出来るだろッ!! なんで酒飲んで日を跨いだ頃に帰って来るんだよ!!』
カーテンを全部閉めていたから分からなかったがいつの間にか真夜中になっていたらしい。
気づけば頭に濡れタオルや、部屋の掃除がされていた。もしかしてだが、マダオがやってくれたのだろうか。
『か、会社での付き合いだってあるんだ……』
『付き合いィ!? ンなもんより、娘の事が心配にならねぇのかよ! 風邪だって馬鹿にできねェ! 人間どんな病にかかっても、死んじまう事だってあんだからな!!』
公園で出会ってから今日初めて、マダオの怒号を私は聞いた気がした。
『虐められてんのだってテメェ知ってんだろ? 千景ちゃんが辛いときに、側で支えてやらないでどうすんだ。それでもよぉ、あの子の父親かよオイ!!』
『お、俺だって……クソがッ お前に何が分かるんだ! マダオの癖に!!』
物音が聞こえ何かが転がるような音。マダオか、または父か、どちらかが殴り、殴られ、転がったのだろうか。
『どいつもこいつも好きなことばっかり言いやがってッ!! 俺はッ!自分の事でいっぱいいっぱいなんだッ』
ざっけんなよ、とマダオが低い声で言うとまた物音が響いた。
『自分のデスクワーク、会社の雑用、外回り、営業、接待で頭が回らなくなる……仕事やってらァ誰にだってあるのは分かるんだよ。俺だって元々は御役所勤めだからな。お前さんの気持ち、痛ェほど分かる』
それでも、とマダオは続ける。
『それでも父親ってのはなぁ、身を犠牲にしてでも、愛する家族を護らなきゃならねェ時があるんだよ……それを放棄してまで我が身が恋しいってかぃ、ガキかテメェは……
ガキはいつまでもガキのままじゃいられねぇんだ。 ガキのままで大人になっちまったら、なんも責任もクソももたねぇ、情けねェ大人になっちまう。それで誰が一番苦しい思いをするか、分かるか?』
私の父は、マダオの言葉に答えれなかった。
『その子供だろうが。 千景ちゃんは……あの子はテメェらが生んだ紛れもないたった一人の娘だ……子供を育てるってのは、家族を養うってのはよォ、それだけ重い責任が付いて回るんだよ、それができねェヤツに、男であることも、父親であることを名乗る資格はねェ』
マダオは言う。
郡千景を、自分たちで産んだ大切な娘をもっとちゃんと、
『愛してやれよ』
私はその時、初めて動けないくらいの風邪を引いていてよかったと思った。
今その場所に行ったら、泣き腫らした顔を隠せる自信が無かったからだ。
『うぅっ、……俺は、俺は……っ!!』
父親の情けなく、すすり泣くような声が聞こえる。初めて聞いた声だった。
『俺は確かにマダオだ。 仕事も失ったし、家族も失った……お前さんも、色々と失っちまってる。 似たようなもんかもしれねェし、そうじゃねぇかもしれねぇ……たったひとつの違いは、今のお前さんには千景ちゃんが居るって事だ』
『……』
『今からやり直すってのは、正直大変かもしれねェ。それこそ、千景ちゃんを取り巻く環境は変えてやれるか分からねェ……それでも守らなきゃな、子供は父親の背中を見て育つってもんだしよ。
もう一度、ゼロから始めようぜ。 立派で恥の無い背中を、あの子に見せれるようによ』
私は初めて、マダオの事を誇らしげに思えた。
8月20日。あれから父とマダオは変わった。
父は会社に事情を話し、会社を休んでまで私を看病してくれた。
初めて作ってくれた父の手料理は御粥だったが、それが身に沁みた。
『千景……今まで、ごめんな』
『……うん』
今までしたことを私は無かったことにしてはいけないと思っている。
父も、その罪を忘れず、私と向き合うことを決めてくれた。
『マダオ……最近、お酒飲まないわね』
『……もう飲まねェよ』
マダオはその日から酒をきっぱりやめ、私の父が居ない間は掃除洗濯などの家事全般をこなしつつ、
日雇いの仕事を探しては、片手に持った求人雑誌を読み漁っていた。
『なぁなぁ、この求人どう思うよ、結構良くね?』
『長谷川さん、ちょっと待ってください。条件が良い会社の求人程、悪い部分は隠してあるものです。ネットを活用しましょう、もしくは明日会社の友人たちにもあたって見ます』
『え、お前そんな事できんの?有能すぎね?』
いつの間にかマダオから長谷川という名前で呼ばれていることに違和感を覚えたが、千景はすぐにその違和感を忘れた。
こうして、夜中になったらマダオの職探しを父が色々とアドバイスをしていたりと、二人は張り切っていた。
仕事についたら、別居中の嫁と寄りを戻すんだ。人生やり直すんだ、とか。
今の会社でもう少し上の役職について、少しでも千景に楽をさせてやるんだ、とか。
私はお互いの未来を笑いながら語る、そんな二人を見て微笑んだ。
今の状況が、マダオによって少しずつだが明るい物になりつつあると思っていたから。
その夜、父が私に言った。
『千景、もしお母さんと連絡取れたら……会いたいか?』
『……なんで?』
『いや、なんでもない』
良くわからなかったので今度はマダオに聞くと、
『知らねェよ……お前はどうなんだよ』
『……昔みたいに、笑顔でみんなで暮らせたら、いいなって』
『もう……寝な』
大人の言う事は良くわからない。
8月26日。いよいよマダオの芽が出る時が来た。
マダオは見事、父と一緒に探した求人の最終選考に残ることが出来たのだ。
『ありがとうございました。 お蔭様で、どん底から這い上がることができました』
『何言ってるんですか。こちらこそ、お世話になってるんです。 それに、長谷川さんはこれからが勝負なんですよ』
父とマダオ曰く、求人自体定員が少なく、厳しいがそれなりに勤務形態がしっかりしている会社とのこと。
『遅刻だけは厳禁ですよ。どんな理由があっても、大切な面接に遅刻なんてしたら、企業は即バッサリ切り捨てますし……』
『マダオ……』
『どうした、千景ちゃんよ』
私は無言で、マダオを手招きする、彼のネクタイが曲がっていたので締め直してあげた。
マダオは照れくさそうに笑った。
『んじゃ、行ってくるよ』
『……吉報を待ってます』
『マダオー! 頑張れー!』
決戦に向かうマダオとそれを見送る父はまるで旧知の戦友のようだった。
頑張れ、マダオ。
8月27日。結局、あれっきりマダオは家に帰ってきませんでした。
『きっと、面接に落ちちゃったのよ。 それで私達に会わせる顔が無くて……馬鹿ねマダオ、そんな事、気にしなくてもいいのに……』
『……』
父の包丁で調理する音だけが、家に響き渡るだけだった。
8月29日。 私たちは、久し振りに外食をした。 私と父ともう一人……不倫をして、家を出ていった母と。
母は泣きながら、これまでの事を話してくれた。
家を出ていった後、不倫した男性に捨てられたと。
行く宛ても無く、最後に残されていたのは大切な千景と父の事だったと。
それでもこれまで自分のしたことが許せず、もう母親として会う資格などないのだと。
思いつめた母がビルから飛び降りて自殺を図ろうとしたことを。
飛び降りた母を身を挺して護り、搬送されたその病院先でいろいろと説教されたことを。
貴女の事を待ってくれている人が、ちゃんといるんだと言ってくれた人が居たのだと。
父と私は最初こそ戸惑っていたが、母がもう一度やり直そうと言ったので父も泣きながら思っていたことを、これまでの事をお互いに謝った。
『千景、いままでホントにごめんね……ごめんね…っ!』
『お、お母さん……』
久々に母に抱きしめられ、その温もりに私は思わず涙を流した。
それから、私の家族は本来の形に戻ったのだった。
父は朝から晩まで働いているが、今までよりも家族の事を考え、休日は家族で出かけるように家族サービスを欠かさない男になった。
母親も虐めてくるクラスメイトや、住民の罵倒からは私を身を挺して護り、母親としての強さを千景に見せてくれている。
今だからこそ私は思う。
自分は生まれて来てよかったと。幸せであると。
いなくなったマダオは、一体何だったのだろうか。あれから一切見る事も無く、一向に連絡はつかない。
もしかしたら、私に家族の大切さを教えてくれた神様からの遣いだったのかもしれない。
私の夏休みは蝉の鳴き声と共に過ぎていった。
○
「これで私の観察日記は終わりです」
そう言って静かに日記帳を閉じる千景。
気づけば彼女の教室には大きな変化が起きていた。
「うぅ……郡さん、あ、ありがとうね…! 最後の方、殆ど小説だったけど……いい話だった…っ! あと、ごめんね、先生…いっぱい謝るから、ね…」
隣の教師、目の前のクラスメイトたちから嗚咽が聞こえた。
千景を除いた教室内の全員が泣いていたのだ。
「あ、先生。 エンドロールあるんでもう少しだけ良いですか」
「え、そんなものまで用意してるの?本格的だね……あ、ホントだ、画面に流れてきた。 皆、拍手拍手ー!」
~キャスト~
マダオ 長谷川泰三
私 郡 千景
父 郡 父
母 郡 母
~朗 読~
郡 千景
~監督・脚本~
郡 父
「ってお父さんが書いたんかィイイイイ!!!」
宿題とはなるべく自分の力でやり遂げなければならないモノである。
○
物語はまだ終わらない。
このお話には続きが存在するのだ。
確かに、千景の作った夏休みの観察日記は父親が書いたものである。だが、その内容はいくつか現実のものとなっている。
郡千景は父親と和解した。
しかし、母親は千景が勇者に選ばれた後に天空恐怖症候群を発症して帰ってきた。
それでも家族を今度こそ護ると誓った父と千景の看病の甲斐もあり、家庭環境は荒れずに今を健やかに生きている。
父は看病に追われ、仕事も時間に融通の利くパートタイムへと転職し、苦しい生活だが千景の母の容態は次第に改善されていった。
当初、千景の母は日常生活に支障をきたす寝たきりのステージⅡだったが、現在は傘さえあれば外出ができるほどに回復している。
医者もこれほどの回復力を見せた患者はいなかったと、驚いていたほどだった。
「お母さん、その……大丈夫なの? 今日遠出するって言ってたけど」
「大丈夫よ……丸亀市からちょっとだけ離れるだけだから。 帽子と傘だって持ってるし、それに」
「父さんもついてるから、千景は友達と一緒に夏祭りへ行っておいで。 ちゃんと楽しんで来いよ、息抜きも勇者の御役目だ」
天恐の症状が落ち着いてから夫婦二人の愛が再燃してしまったのか、最近では隙あらば二人してイチャつき始めるという光景に千景は見慣れつつある。
二人が幸せそうなのはいいことではあるのだが娘の前でイチャつき始めるのはどうかと思う、余所でやって欲しい。
「夜までには帰ってくる……千景も、高嶋ちゃん達と遊ぶのは構わないがあまり遅くならないようにな」
「分かってるわよ」
白のワンピースに大きな帽子を被った母を支えるようにして千景の父と母がバスに乗り込む。
勇者としての御役目、最初は家族と別居をしていた千景だったが程なくして、両親の方から大赦側へ「娘を支える為に住居を丸亀市に移したい」という申し出があった。
勇者、郡千景の精神が安定するならば是非も無しとの考え方だった大赦は特に反対することも無く、その申し出を受け入れた。
千景自身もそれを望んでいたこともあり、今では丸亀市の大赦から与えられた住居にて家族三人で生活を送っている。
「ぐんちゃーん!」
市営バスの停留所にて、両親を見送った千景のもとに駆け寄る一人の少女の姿がある。
同じ勇者、高嶋友奈だ。
「遅れてごめんねー! 待ったかな?」
「高嶋さん……いいえ、大丈夫よ」
そっか、と太陽のごとく笑みを浮かべる少女、高嶋友奈につられて千景も笑顔を浮かべた。
今日は丸亀市で一年に一度行われる夏祭り、まるがめ婆沙羅祭りの日だ。日々御役目に励んでいた千景たち勇者が揃って祭りを楽しもうと決めていた日である。その当日だ。
千景は先に友奈と合流し、後に若葉たちとも現地で会う約束をしている。
勇者として苦しいこともあった。
若葉と確執を生み、チーム全体の雰囲気が悪化したり、切り札の精霊の影響で精神に異常を来したり、
杏や球子が重傷を負い、戦線を離脱した中、厳しい戦いを迎えたりと。
だが、その度に千景を家族が、友が支えてくれた。もし支える者が誰一人としていなかったら、千景は恐らく精霊のもたらす悪影響に支配され、心が壊れていただろう。
仲間や家族と困難を乗り越えた千景は以前より強く、たくましく、文字通り誰もが認める勇者となったのだ。
「いこう!向こうで若葉ちゃんたち、もう着いてるって!」
「ふふ……せっかちね高嶋さん。 そうね、次のバスで行きましょうか」
小さく笑って、二人は次のバスを待つことにする。
その矢先―――、
「よぉー、お嬢ちゃん、お嬢ちゃん」
千景たちの後方で声がした。
振り向けば、そこは小さな公園があり、千景から見て出口から真っ直ぐに木製のベンチが見える。
「オイラにちぃとばかり…酒を恵んでくれねェかぁい…」
ベンチに横たわっていたサングラスを掛けた男は飲んだくれた声で空のワンカップ酒を片手に、千景たちに酒を求めていた。
飲んだくれの男は、マダオだった。
丁度その時、遠くからバスの姿を捉えた。
千景の隣にいた友奈は悲しげな瞳の後、
「……ぐんちゃん、バスが来たよ。いこ」
「……」
その高嶋の声に、千景はマダオのいる公園へと足を踏み入れた。
徐々に歩を進め、距離を近づかせながら、千景は胸に去来する思いとともに言葉をぶつける。
「……お酒、飲まないって言ったじゃない」
思い浮かべるのは悲しみか、怒りなのか。それら二つを混ぜた感情が千景の表情に影を落とす。
かつて、心を入れ替えて人生をやり直すと誓った男の姿はもうそこになかった。
ただただ酒に溺れ、
時を浪費し、
こうして道行く人に酒を求める堕落っぷりは目も当てられない。
それでも自分の姿を、勇者となった自分の姿を見ればなにか男の心を動かすことができるのでは、
そんな奇跡に期待を抱いた千景だったが、
「……酒がねェなら、とっとと失せろガキ」
口に含んだ紫煙を漂わせ、苛苛を募らせたかのような低い声をマダオは発する。
「日々この世界で人々に持ち上げられている勇者サマは俺らみたいな底辺のこと、さも見下してんだろ?
イイ御身分だ……消えちまいな、俺の目の前から……テメェとはもうこれっきりだ」
卑屈に歪んだ顔で言われると千景の胸を刃物で突き刺したような痛みが走る。
その痛みに耐えきれず、白い頬を伝うように涙が流れた。
「ぐんちゃん! いこう、もう行かないとっ!」
高嶋が後ろから抱きしめるように身体を引き寄せようとする。
それでも、千景は涙を拭うことなく、高嶋の力に負けないようその場に踏みとどまった。
「マダオ、私は知っているから!」
千景は叫ぶ。
「どんなに嘘ついたって、どんなにお酒に酔ったって、どんなに皆が悪口言ったって、マダオは……マダオは……」
勇者、郡千景だけが知っている。
マダオはもう、とっくの昔に咲いていたのだと。
心の死んでいた千景を救い、
家族の事に見向きもしなかった父を改心させ、
自殺を図ろうとしていた千景の母の飛び降りを身を挺して救い、
自分の会社の面接時間を潰して病院へ送り、千景たちに会うように説得してくれた男が居てくれたことを。
千景の家族が忘れていた大切な物を取り戻してくれた、
「誰よりもカッコいい侍で、私にとっての『勇者』だってことを!!」
「ぐんちゃん!」
友奈の引っ張る力が強まり、耐えきれなかった千景の身体がバスへと引きずられるように徐々にマダオとの距離が開いていく。
それでも、
「私は忘れないから! 絶対……絶対に!!」
その言葉を最後にバスのドアが無情に閉められた。千景の言葉など、仕切られた扉からはどんなに叫んでも聞こえないだろう。
それでも千景は最後まで、マダオの姿が視界から見えなくなっても叫び続けていた。
「……」
あのバスが去っていく中で、千景は何を言っていたのだろう。
その言葉は、先ほどと同じ言葉だったかもしれない。
ありがとう、だったかもしれない。
もしくは、さよなら、だったかもしれない。
だが、それはマダオにとってどうでも良かった。
「なんだい騒がしいのぉ……お、長谷川さん、最近見ないと思ったが戻って来たんだね」
マダオの後ろ、草むらから姿を現したのは老人だ。
衣服は汚れ、手入れの届いていないぼさぼさの髪と不健康な肌の老人はマダオの横に置かれている液体の入ったワンカップ酒を笑みを浮かべ手に取ると、
「ちょっともらうよ」
まるで自分の物のように手に取って、さも悪びれる様子もなく口元へと運んでは、
「ぶふぉぉぉぉッ!!」
老人は液体を吐き出した。
ぺっぺっ、と中の液体の味と自分の知る酒の味に違和感を感じた故の反応。
「な、なんじゃこれ……酒じゃなくて水じゃねェか…!!」
何飲ませてくれてんだ、と一言だけ残して目当ての酒を飲めなかった事に老人は苛立ちながら再び草むらへと戻っていく。
一人残ったマダオは先ほどまで千景が居た公園の出口を見つめて、
「酒も仕事も…もう、いらねェよ……」
一人呟く男の頬に小さく、一筋の水が伝った。
「俺はもう充分色んなモン、貰ったからよ……」
ここ数年の間に耳にした郡千景の勇者としての活躍。
家族や友と語らうその姿を見たマダオはもう遠くへと離れていった少女へ向けて言葉を贈る。
「千景ちゃん……父ちゃん母ちゃん、友達とも楽しく、幸せにな」
一人の少女の幸せ。
ただそれだけを願った男の夏は蝉の無き声と共に過ぎ去っていった。
ぐんちゃんにはこれくらい救いがあっても良かったんじゃないかな。
両親まで改心させるのは多分意見が分かれるのだと思うけど。