馬の小説   作:長谷雄山

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何年ぶりだろう


稲通い妻もどき概念

 かちゃかちゃ、と食器の擦れる音がした。

 ぼんやりと、八重沢なとりは視線の先を見る。優しい色味の照明が、なとりの全身を照らしていた。少し固い、冷たい感触を投げ出していた左手で確認し、なとりは自分がソファに己の身を沈めていたことを思い出した。

 どうやら、食後の満足感で意識を飛ばしていたらしい。腹に力を入れて上体を起こすと、彼女の視線は自然と正面のダイニングキッチンに立つ大男の背中に吸い寄せられる。頭に被る安物の馬マスクの耳が、ぺなぺなと左右に揺れている。

「――のみすぎたーのーはあ、あなたのせーいーよお」

 機嫌良さそうに大男――ばあちゃるは歌いながら食器を洗っている。

 トレードマークである白い手袋と紺色のスーツを脱ぎ、白いシャツの袖を捲った姿で水仕事をする彼の姿は、こうしてなとりがばあちゃると共に夕食を摂るようになって初めて知った姿だ。ちょっとした優越感を覚えながら、なとりは軽くのびをした。

「はいはいはい、ご馳走さまでしたなとなと。何時も通りバリ旨だったっすよ!」

「あ、すいませんばあちゃるさん。お皿もわたしが洗うべきだったんですけれどね」

「いやいやいや」ばあちゃるは大袈裟なくらいに首を横に振りながら、「全部やってもらっちゃったんじゃあばあちゃるくんの男が廃る、ってもんっすから。此れくらいやらせてほしいんすよ」

 だから気に病まなくていいんすよ、とばあちゃるはふたつのカップをテーブルに置いてから、ゆっくりとなとりの座るソファに腰掛けた。湯気を昇らせる白いカップを覗くと、焦げ色の液体が見えた。

 コースターに乗せられたカップをなとりの座る場所の前まで静かに持っていきながら、ばあちゃるは言う。

「砂糖二個とミルク少し、でしたっけ、なとなと」

「あ、はい。そうですそうです。有り難う御座います」

 ひとつふたつ、息を吹きかけてから、なとりはコーヒーを口に含んだ。口の中に広がる苦味と鼻に抜ける芳ばしい香りにほう、と息を吐いた。おいしい、と声が漏れる。

 はっと気付いたときには、隣に座るばあちゃるはマスクの上からでもわかるくらいにこにこと笑っていて、少し恥ずかしかった。

「いや、嬉しいっすから。どんどん美味しいって言ってほしいっすね」

「……まるでくいしんぼみたいじゃありません?」

「食いしん坊なくらいがいいんすよ人間。美味しくご飯を食べられないひとだってたくさん居るんすから、沢山食べていられるなら恥ずかしいと思わず食べたほうがいいとばあちゃるくん的には思うわけで」

「二ヶ月くらいまえまで夕食という名前の栄養補給をしていたひとが言うと説得力がありますよね」

「嫌味っすか」

「身体が資本な業界で働いておいてまともに食事もしない生活を送っていたひとに言うことはありませんね」

 えぐー! とばあちゃるはオーバーリアクションに叫ぶ。最近、此の動きが都合が悪い事から逃げるためのリアクションなのだということになとりは気付いた。以前までは知らなかった彼のことを知れる度に、胸の奥を暖かいものが走る。

「冗談ですよ」くすくすと笑みながら、なとりは彼を許してあげることにした。「わたしが居れば、ばあちゃるさんの生活はバラ色ですよ」

「最初は驚いたんすよ?」ぽりぽりと頭をかきながら、「『ご飯、作ります!』なんて言って家までなとなとが来たときとか」

 なとりの通い妻のような生活は、既に二ヶ月ほど続いていた。

 幾度言っても生活を改めないプロデューサー、ばあちゃるに業を煮やしたなとりが家突撃の上で彼のために夕食を作ったのが始まりで、押し問答に弱いばあちゃるにふたりだけの秘密だと機密の共有を強引にさせ、なし崩しで続いている生活だった。

「いや、でも感謝してるんすよ。最近身体の調子もいいっすし、仕事の効率も上がってるっすしね」

「ふふーん。もっと褒めて下さい」

 得意げな表情を浮かべるなとりに、ばあちゃるは手を伸ばす。大きな手が、少女の茶色の髪を撫ぜた。

「有り難う御座います」

「崇め奉ってください」

 頬を紅潮させながら、なとりはふんすと息を吐いた。

「此れは、ご褒美が必要な展開っすかね」

「え、いや、別にそういうことのためにしてるわけじゃないですし……」

「でも、感謝ってなにかのカタチで伝えたいっすし」ばあちゃるはうーんと軽く唸りながら、「なとなと。なにか欲しい物ってあるっすかね。ばあちゃるくん、大抵のものならあげちゃうっすけど」

「何でも」

「はい、何でも」

 頭を撫でる手を止めないばあちゃるに訊いたなとりは暫し考えて、

「……じゃあ――」

 

 

 

「~♪」

「……なとなと」小さく身体を揺らすなとりにばあちゃるは問う。「ほんとに此れがいいんすか?」

「はい!」

 ぐる、と首を背後のばあちゃるのほうに向けてなとりは勢いよく言う。風呂上がりだからか、彼女の顔は紅潮していた。

「別にお金に困ってたりしてはいないんすけどね。これ、いっつもしてることっすから、もっと特別なことでもいいんすよ?」

「お金とかじゃありません。こーいうのは誠意と親愛の感情があればいいんです」

「誠意と親愛」

「はい。出来れば親愛を友愛に、そしてゆくゆくは恋愛に変えてくれれば嬉しいですけど」

 ストレートに好意をぶつけてくるなとりにばあちゃるはぽりぽりと頬のあたりを爪先で引っ掻くしか無い。彼女がこうしてアプローチを繰り返し、ばあちゃるが半ば受け流すように其れを誤魔化すのが、此処一ヶ月ほどで二人の間に生まれた日常だった。

「俺みたいなおっさんよりいい人なんて、其れこそ星の数ほど居るんすけどね」

 言いつつも、彼は彼女の感情を否定しない。拒絶しない。控えめに、心変わりを期待するように軽く窘めるだけだった。少女たちの感情を踏みにじることだけは、彼には出来ないからだ。

 まあ、此れも俺の勤めなのかな、と考えつつ、ばあちゃるは己の膝の上に座るなとりの長い後ろ髪をひとつかみ手にとった。枝毛一つ無い、絹糸のような美しい髪だ。

 太い指の間を、栗色の髪が通り抜けていく。風呂上がりの髪は、湿度と女物のシャンプーの柔らかい香りを湛えていた。

「綺麗っすよねぇ」

「自慢の髪ですし」

 顔は見えないが、きっと破顔してるんだろうなとなんとなく考える。なとりがおだてや肯定意見に弱いことを、ばあちゃるは彼女との二ヶ月あまりの生活で良く知ることが出来た。

 洗面所から持ってきたなとり専用の櫛を通す。音一つたてず、彼女の長い髪が整えられていく。どうやら心地良いらしく、なとりは身体をゆっくりと前後に揺らしていた。

 膝の上の柔らかくて暖かい感触と髪から放出される女の香りが湯気とともに己の鼻を襲う二重攻撃に、男は無心で髪を梳くことで抵抗した。淫行学園長生徒を手篭め、なぞという縁起の悪い見開き週刊誌を想像するだけでぞっとする。

 溜まってんのかな俺、と無我夢中にばあちゃるはなとりの髪を梳き続けた。

 全ての工程が終わったのは、二十分ほど経った頃だった。ドライヤーでの仕上げまでを熟した彼は、疲労困憊という体でソファに背を預けた。

 途中から、なとりが背中をばあちゃるの腹に預けてきたのが負担だった。身体の前面で少女の柔らかい体の感覚を味わったばあちゃるは、逃避するように言った。

「終わったっすよ」

「有り難う御座います」

 言って、なとりはばあちゃるに習うようにばあちゃるに寄りかかる。首の下までを少女に支配されたばあちゃるは思わず呻いた。一拍空けて、問う。

「なにしてんすかなとなと」

「――幸せを噛み締めてるんです」首をばあちゃるの顔に向けて倒して、「すっごい、幸せです」

 逆さまの整った顔が、少女らしい笑みに崩れた。夢を叶えているような、愛しいものに向けるような、そんな笑みだった。

「……本当の幸せは、もっと大きいっすよ」

「じゃあ、わたし壊れちゃいますね」

「……」

「其処は、壊れるくらい愛してやる、って言うべきですよ」冗談めかしてなとりは言った。「何時でも、待ってます」

「……言ってくれるっすよ」

 マスクを被っててよかった、とばあちゃるは思った。

「おとなになって、なとなとと大きな愛を育んでくれる、素敵なひとが、ね」

 不覚にも、心にキてしまったではないか。

「もう、見つけてますよ」

 なとりが身体を向ける。そして、ばあちゃるの首に両手を回し、しがみつくようにしながら宣言した。

「絶対、ばあちゃるさんはわたしを幸せにしてくれるでしょ? 今よりも、もっと、ずっと」

 サンタを信じる童女のように言われる。ああくそ、とばあちゃるは内心で頭を抱えた。

 

 ――もう、逃げられないかもしれない。

 

 柔らかさと暖かさと精一杯の愛情を全身に感じながら、ばあちゃるは天を仰ぐしかなかった。


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