獪岳くんの鬼退治【旧版】 作:めりお
夜になると鬼が出る。
都会では洋燈に代わって電灯が夜を明るくし、数は少ないものの自動車が走るようになった今では些か信じ難い迷信の類である。
西洋の後追いや輸入をしていた明治の初めの頃から進んで、四十年を過ぎてからは国内での科学の発達に拍車がかかった。
この科学の時代に鬼が出ると信じているのは田舎の古老くらいだ。夜に人を襲う者がいるとして、鬼ではない。強盗や獣の仕業だ。教育を受けた者ほどそう思う。
だが鬼はいる。
千年の昔より夜の闇に潜んで人を喰う悪鬼は実在する。尋常ではない再生力、怪力、血鬼術という怪しい術で、人間の生き血を啜り肉を食む。まともな方法では殺せない。
そして鬼を狩る者がいる。
鬼に対する唯一の武器、日輪刀を携えて、厳しい鍛錬と呼吸の技術によって鬼のように強い力を振るう人間の集まり、それが鬼殺隊だ。
獪岳は雷の呼吸を修め、隊員希望者を振るい落とす選別に合格した鬼殺隊の剣士だ。
鬼殺隊より任務を受けて日輪刀で鬼を殺す。
なお、伝令役につけられた鎹鴉とはどうも馬が合わない。
あいつの性格が悪いのが悪いと獪岳は思っている。
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その森がひるあめと呼ばれるのは文字通り蛭の雨が降るからだ。
木々による日陰と水場が近いことでじめじめ湿気た環境では山蛭が繁殖する。
山蛭は動物が近づくと吐息に含まれる二酸化炭素や熱を感知する。獲物を見つけると木の幹を這い上り、枝葉の先から落ちて襟元の隙間に侵入し、首や背中にいつのまにかくっついている。この樹上から落ちてくる蛭の量がやたらと多い。雨が降るのに紛れて落ちてくると、強い雨に打たれているのか蛭に打たれているのかわからない。落ち葉の下から靴を登り、足や脹脛、太腿まで入り込んで血を吸って膨らむ。吸血する際には痛みを感じさせない麻酔を注入するので気づけない。無理に剥がすと皮膚が千切れる。傷口からはなかなか血が止まらない。
厄介な相手だが、火で炙ればころりと落ちる。頭巾を被り手袋をして、足首や手首、首元を徹底的に布で巻いて皮膚の露出を作らないようにすること、山蛭に取り付かれていないか確認を怠らないことである程度防ぐことはできる。
そんな手間暇をかけて川を目当てに森を通るくらいなら迂回した方がマシだというのが地元民の共通の考えだが、時折忠告を聞かない余所者に被害が出る。山を降りた後、靴を脱ぐと血を吸って丸々と太った蛭を見つけて悲鳴を上げる。
被害といってもその程度のものだ。ある意味山を舐めてはいけないという勉強になるだろう。だけど、決して夜のひるあめの森に入ってはいけない、と麓で入山者の管理をしている
まりは初老の女で、慶応生まれだが物心ついて殆どの人生を明治と過ごした。女だが一人っ子なのもあってか親が教育熱心だったので、物事への興味関心が育った。よく本を読み、新聞にも目を通した。世の中の不思議が解明されていく時代の中で、子供の頃は信じていた近所のお爺さんやお婆さんの話は、子供に夜を出歩かせないための方便だろうと思うようになったという。
「で、その話ってのは?」
尾野蛭ヶ岳で行方不明者が出ている、鬼の仕業かもしれないので調査せよとの任務を受けた獪岳が促す。
「夜には大蛭が出るというんです。頭を丸呑みできるほど大きくぽっかり口が開いた、人の背丈ほどある大きな蛭が。見つかったら全身に噛みつかれて血を吸われて死んでしまう。だから夜のひるあめには入ってはいけないと」
「犠牲者はいたのか? それともただの言い伝えか?」
「実際、夜の間に森に入り込んで見つからなくなった人はいました。見たという人もいました。でも全員というわけじゃなかったし、それは暗さと地面の湿気に足を滑らせてどこかに落ちたまま亡くなったとか、霧で何かを見間違えたとか、そういうことだろうと」
そこでまりは絞り出すように言った。後悔の滲む声だった。
「だから、大きな人喰い蛭なんておどかすための作り話、そう思っていた。でも違ったんです」
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まりが結婚したのは二十歳の頃で、当時としては遅かったが、夫はそれを詰らない優しい人だった。
子供を身ごもったまりは悪阻が酷く、いつもなら食べられるものも食べられなかった。そんな中でなぜか魚だけは食べることができた。
海は遠いので魚屋の魚は高い。それに新鮮ではない。幸い近くで川魚が釣れる。夫はまりのために釣りに行ってくれた。
「ご馳走でした。感謝していました」
ある夜にまりは産気づいた。産婆を呼んで出産の準備のため男が追い出されるまでに、手を握ってくれていた夫は自分に何かできることはないか聞いた。
まりは朦朧とした意識の中で魚が食べたいと言った。無理なのもそんな場合でないのもわかっていたが理性がきかなかった。ただのわがままだから気にしないでよかった。
無視してよかったのに、夫はわかったと返事をして夜の森に入った。
朝になり子供は生まれたが夫は帰ってこなかった。
大の大人なら帰ってこれるはずの距離だ。
森や川を捜索したが見つからない。
何日経っても行方がしれない。
森の中で釣り具や服が散乱しているのが発見され、大蛭が出たと噂になった。
それからまりは尾野蛭ヶ岳の麓に住み込んで、入山者の管理のついでにひるあめの森の警告をしている。
聞いてくれる者もいるが、わざわざ遠くから噂を聞いて肝試しに入り込んで帰ってこない者もいるという。
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夜の森は真っ暗で、夜露を吸った濃い緑の匂いがする。
山蛭を避けるため、塩や酢、その他地元に伝わる野草の汁を混ぜた液を染み込ませたり被った。それでも気がつけば隊服の肩や靴に山蛭が登っている。振り落としてもキリがない。
鴉はいない。ついてこなかった。蛭が嫌だと言う。
俺だって嫌だ。
がさがさと落ち葉を踏みながら森に分け入り鬼の気配を探った。
立ち止まって呼吸を整える。
蛭が寄るのは諦める。
時が来るのを待った。
樹上と地面の両方から同時に気配がした。
上から傘のように広がった大蛭が獪岳めがけて落ちてくる。下から絨毯のように広がった大蛭が獪岳を包もうとする。
木の上から虎視眈眈と機会を狙っていたのも、地中を掘って真下に来ていたのも、察しはいたが気づいていないふりをしていた。山蛭がどんどん群がってきていて嫌になったが耐えた。わかっていればどうということはない。足場が消え、上下に挟まれる寸前に獪岳は横に飛ぶ。お互いにくっつきあって一塊になった大蛭を上段から両断した。
「ぎゃっ」
悲鳴があがった。
月明かりが差し込み相手の姿がはっきり見えた。
人の背丈より大きな蛭がいた。てらてらと光る茶色の背にいくつかの黒い筋が走っている。山なりの背は猪に似ていた。先程斬られた傷は再生している。長年蛭に擬態して、年々人を喰って身体を膨らませていったのだろう。
仮に蛭が異常に巨大成長したもので、鬼でないとしても、殺すのが楽になるだけだ。
獪岳は溜息を吐いた。
「頸がどっちかわかんねえな」
真っ二つではさっきのように引っ付いてしまい駄目そうだ。
どうするか。
普通に考えて、口がある方が頭だろう。
つまり悲鳴をあげる方が頭だ。
「とりあえず刺すか」
日輪刀で頸らしきところを落とすと塵になったので、鬼だった。
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ひるあめの森を抜けて麓に降りた獪岳は、まりに大蛭の正体は鬼だったこと、鬼は退治したことを告げる。
「そうですか。……鬼が」
この先どうするか尋ねると、まりの死に別れた夫との息子が、一人の母を心配して町で一緒に暮らそうと誘っているそうだ。
今までは森に入る人を止めるため山の近くにいたが、これでその役目もなくなった。
山を出るのか聞くとまりは首を横に振った。
「頭の働くうちはここにいたいです。ここからは森がよく見えるから」
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まりと別れて近くの藤屋敷へ向かう。
道中嫌な予感がして隊服を脱ぐと案の定数匹の山蛭が腕や腹に吸い付いていた。背中にも付いているかと鴉に聞けば間抜ケと嗤われながらつついて教えられる。地味に痛い。
炙ったり蛭避けの汁をかけたりしてなんとか剥がしたが血がだらだらと止まらず嫌な思いをした。
「鬼ト戦ッタ傷ヨリ酷イナァ! 藤屋敷デ医者ヲ呼ンデ治療シテモラウンダロウ。蛭ニ喰ワレタッテナァ!」
「てめえにもくっつけてやろうか」
飛んで逃げようとする鴉の首根っこを獪岳は掴んだ。
焦げて地面に転がる獪岳の血を吸った蛭からは、人を炙った匂いがした。
獪岳はふと思った。
大蛭の鬼の食い残しはどうなっていたのだろう。
決まっている。森の山蛭たちがありついていたのだ。
おこぼれに預かって跡形もなく片付けてくれる山蛭たちと、鬼はある種の共生関係にあった。
殺して喰っていたのは鬼にせよ、こいつらはその死体を貪って生きていた。
獪岳は蛭を一匹残らず念入りに踏み潰した。
鴉くんの出番が少ない
すまない
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