零 -紅い蝶-   作:柊@

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-紅贄祭(アカニエサイ)-

 

 暗闇の山の中を、ただひたすらに走っていた。

 

 乱立する木々の隙間を縫い、急な段差を踏み越えながら、とにかく必死で前へ進んだ。ばらけた小石や突き出た木の根に躓き、何度も転びそうになったが、八重(やえ)は繋いだ手だけは放そうとしなかった。

 

 心臓が破裂しそうな程、大きく脈を打っている。険しい山道を駆け続けていて、足が棒のように固い。酸欠で意識が朦朧とし、大量の汗が身体中から溢れ出ていた。

 

 ……苦しい。

 

 しかしどんなに苦しくても、この足を止めることは出来なかった。なぜなら追手が、すぐそこまで迫っているからだ。

 

「八重、本当にこれで良かったのかな」

 

 八重に手を引かれ、後を追う少女が掠れた声で問いかけた。八重は振り向くことなくこくりと頷く。

 

「私には紗重(さえ)を殺すことなんて出来ないよ」

 

 八重もまた息を切らしながら、精一杯の声で紗重に答えた。

 

 今日、皆神村(みなかみむら)紅贄祭(あかにえさい)が行われる。双子の巫女の片割れを供物として捧げる儀式。(うつろ)という黄泉の門を鎮める為の、村に古くから伝わる因習だ。

 

 儀式の内容は極めて残酷で、巫女となった双子の妹または弟の首を、その姉または兄が絞め、殺した後に死体を深道の先にある大穴……、虚に投げ込むというものだった。

 

 その祭の一切を取り仕切っているのは、皆神村の長の黒澤良寛(くろさわりょうかん)である。今回急ぎで巫女に立てられたのが良寛の双子の娘である、八重と紗重であった。八重と紗重は、実の父親に供物とされたのだ。

 

 厳格な人間ではあったが、良寛とて一人の親であり、自分の娘達に愛情がないわけではなかった。だが娘が双子という形でこの世に生を受けた以上、巫女の運命は避けられない。代々言い伝えられる村の伝承の数々を、猜疑の心を持ち合わせることもなく唯々諾々として受け入れ、さらには村の長としての在り方を余すことなく理解し、所願して黒澤家当主の座についた良寛なのだ。良寛にとって親としての立場よりも長としての立場を重んじるのは至極当前のことで、当主の使命とあれば鬼となり家族の情を捨て去ることなど造作もないことだった。

 

 しかし本来ならば、八重と紗重が巫女になるのは、もう少し後になるはずであった。にも関わらず、良寛が早々と娘達を犠牲にしなければならなかったのは、直前に行われた別の巫女の紅贄祭が上手く行かなかった為だ。巫女はただ儀式に沿えばいいというものではなく、その内に秘める互いの感情も少なからず黄泉の門に影響を及ぼす要因であり、強い想いを持って成してはならなかった。

 

 前儀式の巫女であった立花家(たちばなけ)の兄弟、樹月(いつき)睦月(むつき)はこの失敗の道を辿ることとなり、兄樹月の手によって絞殺された弟の睦月は、成功の証である紅い蝶になれずに、虚へ葬られた。

 

 もはや一刻を争う事態に陥り、良寛は次の紅贄祭が決まるまで、不安定になってしまった黄泉の門を一時的に抑える必要があった。手立てがないわけではなかった。過去にこういった失敗はしばしばあったようで、その時に取るべき最善の行動も昔から決められていたのだ。

 

 ……陰祭(かげまつり)である。紅贄祭が失敗した際、歴代の当主達は必ずこれを行い、次の紅贄祭までの礎としたのだ。

 

 この祭で欠くことの出来ない(ちぎり)という供物があり、村の外部の人間、主に客人(まれびと)が対象となっていた。その選ばれた客人を生きながらにして苦痛を与えた後に即身仏にし、これを契とするのだ。この時の苦痛が大きければ大きいほど虚の鎮静の効力を増すとされていて、後のない当主達は大概必要以上に客人に残虐極まりない仕打ちを与えていたという。

 

 同じように良寛は急いで陰祭に取り掛かり、契を見定めた。生憎、供物の選定に困ることはなかった。都合よく、興味本位で村を探りに来た民俗学者が二人滞在していたのだ。良寛は機を逃すまいと躍起になり、真壁清次郎(まかべせいじろう)といった学者の一人を契に立て、陰祭を遂行したのだった。

 

 かくして黄泉の門は仮初の安定を得て、次の紅贄祭の日を迎えたのである。……肝心の巫女が失踪してしまったままに。

 

「……でも、ずっと前から決心してたはずだよ」

 

 言いよどみながら、紗重は続けた。

 

「その時が来たら、互いに儀式を認めるって」

 

「それでも、急すぎるよ。心の準備が出来てない」

 

 紗重の従順な態度に不快感を覚え、突っぱねるように八重は言った。妹を手にかけるのは、姉である八重の方だ。勿論殺される側の紗重も相当な覚悟がいることだろう。けれど、紗重は何もしなくても儀式を終えることが出来るのだ。対して八重は、自分と同じ顔を持つ肉親の首を、自らの意思を持って絞め、息の根を止める程に力を込めなくてはならない。そうなった時、きっと紗重は痛々しい顔をし、悲しげな眼差しを送ってくるだろう。そんな紗重の悲痛な表情を思い浮かべるだけで、八重は心が抉られるような気持ちになるのだ。失敗の許されない儀式で、迷うことなく決行出来る自信が、未だ八重にはなかった。

 

 それを最後に二人の会話は途切れ、息絶え絶えの逃走は続いた。が、気づくと静まり返る山中に響くのは、いつの間にか互いの足音だけになっていた。

 

 やはり教わった通りにこの時間を選んだのは正解だった。相手が大人の時点で初めから体力的に不利があるが、視力の効かない夜であれば逃げる側が圧倒的に有利だ。いくら松明を持っていようが、その明かりの届く範囲に入らなければなんてことはない。追う側はこちらの位置を音だけで判断するしかないのだ。闇雲に走っていても、こうして撒くことは可能だった。

 

 ただいくつかの問題もあった。こちらも視界の悪い中での逃避を強いられるのだ。物に躓いての転倒や、最悪高所からの転落の恐れもあった。

 

 そして追手から逃れた今、対策を講じなければならない難題が浮かび上がっていた。

 

 これから向かう方角である。辛うじて視認出来る山の高低から、おそらく中腹辺りにいるのだろう。しかし、どちらの方向を目指し、どう下山すれば安全な山麓に出れるのか。がむしゃらに駆けていた八重たちには、それが全く分からなかった。

 

 八重はゆっくりとペースを落とし、紗重を一時の休息へと導いた。二人はしばらくの間、両手を膝に乗せ、肩を大きく上下させることしか出来なかった。

 

 やっと迎えた安堵の時。だが、あまり長く休んでいるわけにはいかない。空が白むまでに、山を抜けなければならなかった。

 

「追手から大分離れたみたいね」

 

 八重は急いで呼吸を整え、紗重に言ったが、紗重からの返答はなかった。元々八重は活発な性格で運動は得意な方であったが、紗重はその億劫な性格からか、伴うように運動が苦手なようだった。紗重は無視したわけではく、未だ声を発することが出来なかったのだ。とても苦しそうだったが、こんな所で足踏みしている時間はなかった。

 

「でも急がないと、夜が明けてしまう。もう一人で走れるよね?」

 

「……うん」

 

 紗重は顔を上げ、短く相槌だけを打った。紗重もまだ道中であると理解しているのだ。本当はつらいのだろう、荒らい呼吸を押し殺しながら、平静を装っていた。

 

「じゃあ、行こう」

 

 とりあえずは追手に気を付けながら、下山する他に術はない。再び八重は走りだし、紗重もまた八重の背中を追うように走り出した。

 

 ……後に八重はこの時のことを酷く後悔することになる。紗重とはぐれてしまわない様、手を繋がなかった事に。

 


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