最初に彼が感じたのは、ちりつくような熱気だった。
次いで鼻孔を抜けてくる何かが焼ける匂いと、瞼を閉じたままでもなお網膜へ突き刺さる赤色。
ゆっくりと開いたその眼に映ったのは、ただただ燃える世界だった。
「——なんだよ、ここ」
つぶやいた言葉は、轟々と背を伸ばす無数の赤にかき消された。
家屋が燃えていた。
流れる川が燃えていた。
生い茂る木々が燃えていた。
目に見える世界全てが燃え盛っていた。
生きたまま地獄に落ちたのではないかという錯覚。この世が終わる時が来たのなら、それはこんな光景なのだろうか。
パキリ、と何かを踏みつけ、彼はゆっくりと一歩踏み出す。
足元を見ることは無かった。
パキリ、パキリと音の間隔が少しずつ短くなり、ゆっくりとしていた足取りは気付けば駆け足に変わっていた。
ひび割れたアスファルトを踏み越える。赤い景色は変わらない。
朽ち果てた家屋を潜り抜ける。朱い景色は変わらない。
何かであった物を横切る。紅い景色は変わらない。
どれだけ走っても、燃える世界から抜け出すことはなかった。
「生きてる人は、いないのか——」
開けた場所に足を踏み入れていた。足を止め、ぜえぜえと走り続けて上がった息を整えながら、彼は言葉を吐き出す。
頬を伝って落ちた汗はすぐに消えてなくなった。身に着けている防護スーツが無ければ、間違いなく熱気で、あるいは一酸化炭素中毒で命を落としていただろう。
「生きてる人は、いないのか——!」
この環境で生きていられる者は存在しないのだろう、それでも叫ばずにはいられなかった。劣悪な環境、焦燥感、取り残されたような孤独感が、彼を襲っていた。
声に応える者は、ここには存在しなかった。
否。
ズドン、と背後に質量のある何かが地に落ちた音がする。
『■■■■■■————ッ!!』
声に応える
世界は、滅びの一途を辿っていた。
語弊がある。
XXXX年、日本と呼ばれていた島国に突如として謎の奇病が発生、伝染したのだ。
抗体も特効薬も存在しないこの奇病は、ゆっくりと、しかし確実に島国から世界へと広がっていた。
最初の1年はおおよそ1000人程度が命を落とした。
5年経つと、ひと月に1000人以上が命を落とした。
10年経つと、日を跨ぐ度に1000人が命を落とした。
100年経つ頃には、分針がひとつ進むたびに1000人近くが命を落としていた。
100年経っても人類は、この奇病を治す事はおろか、止める事すら出来なかった。
長い時間をかけて、少なくと分かった事がある。それは空気感染する事と、一度予兆が見られれば確実に死が待っている事。
そして人としての尊厳はなくなる事だった。
「そして、我々は地下に行く者と極地へ行く者とで別れた」
しゃがれた声が、薄暗い室内に響く。
よれた白衣とくたびれたシャツ、年季の入った縁無し眼鏡を掛けた男はくつくつと喉を鳴らした。
「地下に行った奴らはどうなったかは知らんがね、アレが地下に染み込んだらどうなるかわかるだろうに」
地表に積もったあの塩が、雨水に溶けて地下に行ったらな——。
そう続け一つ咳をすると、彼は口に溜まった痰をちり紙に吐き出しゴミ箱へ投げ捨てた。
塩、だ。
そう、塩なのだ。
人類を脅かしている奇病、それは塩であった。
始めは軽い体調不良程度だった。それが少し経つと、咳と共に口から少量の塩を吐き出すようになり始め、次第に爪先が、内臓が塩に作り替えられていく。
そして生きるために必要な組織が塩になり、生命活動を維持出来なくなった瞬間。コマ送りのように肉、骨、髪の毛の一本に至るまでが塩化し人体が崩壊。そこに塩の山が出来上がる。
地表は人の塩で埋め尽くされた。
「結局の所、この病の原因——元凶は何だったのでしょう?」
手近な椅子に腰を掛けた男に対し、部屋の中央に備え付けられたテーブルを跨いだ対面側。その壁際に直立不動で佇む女は言葉を投げかける。
人口の網膜の奥にあるレンズは、対面の椅子に座る男に静かに焦点を絞った。
男はうっすらと笑う。皮肉が込められた笑みだった。
「そうか、これは君のデータベースには登録されていないのだったね」
そもそも登録する必要のないものだが、と彼は続ける。
「この100年、医学者研究者を始め無数に居たいわゆる天才達は、ただ指をくわえて見ているだけではなかったさ。勿論私もだよ、天才の端くれだからね」
軽いジョークに女は眉一つ動かすことはなかった。
「あらゆる人が集まったよ。人種・言語・宗教・倫理、その全ての垣根を越えた。文字通り世界が一つになったってやつだ」
争いや戦争もなくなった、ラブ&ピースというやつだ。皺だらけの両手でピースサインを作る。
「そして多大な犠牲を出しながら、次代々々へと受け継いだその研究は100年近くになってようやく結果を出した」
「その結果とは?」
間を置かずに、女は男へ問いかける。
にんまりとした笑みを浮かべた男は、これは私の代で決着がついたのだがねと前置きすると、誇らしげに口を開いた。
「
「——わからない?」
その言葉に、今まで表情一つ変えることが無かった女が初めて眉をひそめた。
それを見た男はまたくつくつと、本当に愉快そうに喉をならした。
「いやなに、言葉が悪かったな。——100年の歳月を掛けて、ようやく
振り返った瞬間生存本能が、生きる事への無意識の執着が彼を咄嗟に後ろへ飛び退かせる。
その数瞬後、彼が足をつけていたアスファルトが、文字通り轟音を響かせ爆ぜて砕けた。
不可視の壁に体を持ち上げられるような感覚、その衝撃と砕け散ったアスファルトの破片がスーツ越しに身を打ち付ける。
通常ならば全身をひき肉に変えるような威力は、纏っているものと全力で後ろへ下がった事もあり——幸か不幸か勢いよく大川に架かる橋へ吹き飛ばされるだけで済んだ。
体感浮遊時間3秒の小飛行、それの終わりと共に背中から地面へ叩きつけられた。
うっ、と思わず呻き声が漏れる。地面との衝突で勢いは殺しきれず、ザザザと地を滑った体は橋の半ばにある横転した物体にせき止められた。
「うぅ——」
よろよろと立ち上がる。脳が揺さぶられているような感覚が足取りを狂わせていた。
自分をせき止めた物体に手をつき、体を支えながら顔を上げた彼は、自分が飛ばされてきた方向へ目をやる。
黒く、大きな何かと目が合った。3mを優に超えるそれは、大木を思わせる二の腕にひどく原始的な凶器を携えていた。
黒い何かが一歩、彼の元へ踏み出す。ズシンと、響く音と共に地面が割れた。
二歩目を踏み出し、三歩目で身を屈める。
四歩目で跳ねた。ズシンなんて生易しい音ではない、盛大何かを踏み抜くような音を出し地面を陥没させてそれは跳んだ。
高くまで跳び上がった巨体は、さながら隕石のようであった。岩石を削り取ったような巨剣を両の手で振り上げ、眼前の物を叩き潰さんと迫り来る。
『避ける』なんて考えも『逃げる』なんて考えも思い浮かばないまま、彼は眼前に迫る死の存在にブルブルと足を震わせ、ギュッと瞼を閉じた。
何かが爆ぜる音がした。叩き潰されるような感覚はない。
何かが砕けるような音がした。四肢の感覚はまだ残っている。
連続で何かが破裂するような音がした。肌を通して、大気が小刻みに揺れるのが分かった。
訪れぬ死の感覚に恐る恐る瞼を開く。眼前まで迫っていた壁に見紛う巨体は、彼から数歩離れた場所まで退いていた。
「無事か、逃げるぞ」
何者かにがしりと腕を掴まれる。振り返るといつの間にそこにいたのか、長身の男が彼の腕を掴んでいた。
返答を待たず強引に駆け出した男に手を引かれ、足を縺れさせながらも一緒に駆け出す。
「■■■■■■■■————!!」
背後からビリビリと空間を揺らすような咆哮がした。次いで地響きを起こしながら、巨大な質量がこちらを追ってくるのが背中越しにわかる。
「追いつかれるか——援護を頼む!」
先導する男が声を上げる。
走る視線の先に、小柄な人影が写った。橋の中央に佇む人影は、両の腕にそれぞれ携えた筒状の何かをこちらに向けていた。
「了解。次弾、
筒状の何か——砲身の先端が火を噴いた。一回だけではない、秒を数える間に何発もの間隔で砲弾を吐き出し続けた。
走る二人の背後へ撃ち込まれた砲弾が爆ぜる。連続した爆発音と共に、質量のある足音が止まった。
「このまま走れ!向こう岸に皆がいる!」
先導していた男が振り返る。そのまま足を止め、己の得物であろう杖をどこからか取り出した。
「私はここで奴の足止めをする!そちらは合流出来次第、急いで離脱してくれ!」
すれ違いざまに掛けられた男の声に、見えるかもわからない頷きを返しながら走り続ける。
背後から響いていた爆発音が止んだ。走る先に見える人影——細身の少女が構えていた砲身の先端からゆらりと煙が立ち昇る。
「振動榴弾撃ち切りました、武装格納後目標を回収し離脱します」
少女は手に持っていた砲身を、粒子を散らし文字通りかき消した。それと同時に、低い駆動音を響かせ地面を滑走。走る彼の元へ滑り込むと、その細腕で抱き抱えた。
抱えあげられた彼と、抱き上げた少女の目が合う。彼はこの少女の顔に見覚えがあった。
「ノルカ——!」
「はい、
ノルカ——ノルカティーテと呼ばれた機械の少女は、頬の筋肉組織を小さく吊り上げ微笑んだ。