進撃の巨人 ~もしこの壁の中で、一人の『少女』と『狩人』が恋に落ちたとしたら~   作:空山 零句

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第一話 「 少年 」 -Eren Yearger- ③

 

 洗面所の小さなポンプのハンドルを動かす。

 すると、いつも冷たい水が勢い良く蛇口からは流れてくる。指先で冷たさを確認する。指先の神経はそれがやはり冷たいと、文句を言う。

 そうして、手に取って顔をゆすぐ。

 水滴の一つ一つが当たる度に弾けていくそれは、視界をハッキリと明瞭にさせていく。

 下ろしたての柔らかなタオルで顔を拭う。

 

「……………」

 

 拭きそびれている黒い髪から、水が滴る。

 黒い眼、黒い髪。鏡に映った自らを一瞬だけ垣間見てはぁ、と小さく息をつく。そうしてそこから目を逸らした。

 引き出しから紫、黒、茶色の三種類のヘアゴムを取り出す。この三つは特にお気に入りのもの。これを、持っていこう。

 

 今日で当分はこの使い慣れた洗面所とはお別れだ。

 明日からは、きっと訓練兵団の宿舎で毎朝これを繰り返す。そう考えると、ミーナは少し憂鬱にならざるを得なかった。

 すると、洗面所の木製の扉が音を立てて開かれる。

 

「ミーナー」と扉を開いた本人は彼女の名前を呼ぶ。姉だった。

 

「どーしたの、お姉ちゃん」

 

「んやー私もそろそろ準備してお母さんと同じ職場行かなきゃだからさあ」

 

「あ、そういうことか」

 

「そゆこと」

 

「ていうか早いよね、あんたも訓練兵団に入団か。お姉ちゃんびっくりだよホント」

 

「そうかな?」

 

「うん、昨日の豪華な晩御飯のおかげでちょっとは実感もてるのかなって思ったんだけどさ。……いっつもこうやって二人で朝の支度してるから全然実感湧かないのよね」

 

「…………」

 

「……ねえ、ミーナ」

 

「? なぁに?」

 

 彼女もまた、顔をゆすぐ。そうして姉妹で会話をしてると、顔を洗い終わった姉がふと鏡越しにミーナを見つめる。「どうしたの、お姉ちゃん」

 

 その表情は何か悩ましげにミーナからは見える。意図が全く読めない。すると、姉は何やら苦笑する。そうして「……アンタにいいものあげよっか?」と小悪魔そうな微笑みを浮かべた。

 

「え、なに」

 

 大抵こういう悪そうな表情を浮かべる時の姉はろくな事を考えていない覚えがある。

 姉とは中途半端に歳が離れているからか、喧嘩することもやはり多かった。その経験上、思わず少し警戒せずにはいられない。

 

「いやいや! 別にそんな悪いことじゃないよ」と姉はそんな妹を見て笑う。笑う度に、自分よりも少し明るい黒色の髪が揺らぐ。

 生糸のような一つ一つのそれは窓から漏れている日差しによって、密かに輝く。それを見て、少しだけ胸に悔しさが滲む。

 

「──────これ、あげる。餞別(せんべつ)だよ」

 

「え?」

 

  そう言うと、姉は手から何かをそっと自分の手に渡す。その左手を開く。そこに在ったのは────緑色の鮮やかな色彩と光を放つヘアゴムだった。「……………え?」

 

「お姉ちゃん、これ」

 

「あげる。大切なものだからアンタのそのミサンガと一緒に大切にしなさいよ?」

 

「え、え、いいよ! これお姉ちゃんが彼氏さんに貰ったものなんでしょ!」

 

「だからよ」

 

 え、とまたミーナは小さく驚く。

 すると。

 先程、自分が思わず母親を抱き締めたように───姉は、妹を抱きしめた。それはとても急な事で、ミーナは「ぅえ!? ちょちょ、お姉ちゃん……!?」と思わず動揺せずにはいられない。

 

「…………いい? ミーナ」

 

「え?」

 

「これ、もしかしたら母さんも同じこと言うかもだけどさ」

 

「辛くなったら、いつでも帰ってきていいから」

 

「───────ぇ」

 

「ここがアンタの家なんだから。いつでも、帰っておいで」

 

「約束よ、ミーナ。それ、大切なものなんだから……帰ってきて、かならず返してよね」

 

 そう言って自分を抱き締めている姉は、小さく、震えていた。こんな姉の姿を、妹である彼女は見た事が無かった。

 だからなのだろう。胸が、じんわりと締め付けられる。胸が湿ったような感覚になる。実感を嫌でも持ってしまう。

 

 そう。当分はもうここには帰って来れない。

 

 この約束のヘアゴムを返せる日は、遠い日の事なのだと。

 

 それだけは分かって、少女はそんな姉に何も返すことができない。

 せめて、思わず強く抱き締め返すことしか───ミーナには出来そうもなかった。

 


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