笑顔を残し、部屋から出ていったマックスと別れた俺は、床に寝転がって一休みしたあとに片付けを再開した。
段ボールの箱にしまわれている荷物の梱包を解き、中身を棚や床へと並べたりして集中しながらもやりすぎないように時間を気にする。
そうしてひと段落ついたとき、ここへ来るときに見かけた商店に夕食と翌日に食べる物の買い物へと行く。
いくつかの商店を巡り、食料品を手に入れてからは家へと戻ってまた作業を再開する。
梱包を開いて整理する作業が終わり、料理を作る元気がなかったためにカップ麺で夕ご飯を終えたあとは母さんへ引越し完了の電話だ。
今日の朝に会ったばかりだというのに、声を聞くとちょっとだけ寂しくなってしまう。5歳の頃から一緒に暮らし、これからは別々に暮らすということが段々と実感していく。
母さんは電話越しに俺のことをとても心配し、住んでいる艦娘にいじめられたらすぐに呼ぶのよ、なんてことを入念に言ってくるのだから。
電話を終えたあと、引っ越ししたんだなぁと感じながら、寝転がってぼぅっとしていると挨拶をしに艦娘たちがやってきた。
その艦娘たちはマックスが言っていた、ガングート、磯風、熊野の3人だ
3人とも美人で、だけど2人ほどは怖そうだ。でも熊野という女性が優しそうな雰囲気なのに一安心する。3人からはマックスと同じような名前呼びや話しかたでやっていこうと言われたことで、敬語をあまり使わずにフレンドリー、でも敬意を忘れないように気を付けないといけない。
そうして緊張しながら、それぞれの艦娘と挨拶を終えたあと、今までどんな人かと軽く緊張していた気持ちは落ち着き、新しい日を終えることができた。
翌日はカーテン越しに明るい太陽の光を感じながら朝9時という遅い時間に起きると、誰もいなくて静かな艦娘荘での1日が始まる。
寝間着からチノパンとシャツに着替えをし、昨夜に引き続きカップ麺の朝ごはんを食べると部屋の細かい片付けをする。そのあとは艦娘荘の建物がどういう状態かを見て回る。
素人目ではあるけれど、激しく痛んでいるところがないと確認してからは、立派な庭へと歩いていく。
庭には昨日見て心奪われた立派な西洋芝が植えられていて、ずいぶんと手がかけられた木々や庭は見ているだけで愛情を感じられた。
ただ美しく剪定をして形を整えただけでなく、木ごとにやり方が違っている。風や日差しが入るように、または細い枝を丁寧に切っている木が。
そして芝生は端っこのほうまで綺麗に刈られている。芝生の手入れはあまり詳しくないけれど、芝刈り機だけでは綺麗にできず、機械ではできない部分を鎌で刈るという作業が必要だったような気がした。
この綺麗な庭の維持は誰がやっているかわからないけれど、よければ俺も一緒にやってみたいなんて思ってしまう。
それは維持が大変だと思う気持ちと、自分の手でやれば愛着と満足感、美しさを味わえると思って。
そんな芝生や木々をぼぅっと5分ほど眺めたあとは駐車場がある裏手へと回る。
裏手には窓から見えた、地面を固めただけの駐車場があった。そのそばには小さな畑が。
俺が住んでいる部屋ひとつぶんほどの広さしかない小さな畑には、白いプラスチックのネームプレートが突き刺されていて、それぞれにバジルやオレガノといったハーブの名前が書いてあった。
3月の末だからか、プレートがある名前の植物はまだ何も生えてはいない。種を蒔いたばかりなんだろう。
その畑のそばには、木で作られた物置があった。その物置は学校にある掃除ロッカーを横にふたつ並べた幅で奥行きも同じくふたつをくっつけたような感じだ。
扉を開けると、錆びた蝶番から耳障りな甲高い音が鳴る。
物置の中にはガーデニングや畑仕事で使う様々な道具があった。その道具のひとつひとつの正しい名称はわからないけれど、どれもが手入れをされていて刃はサビもあまりなく研がれているように見える。
……管理人として来たけれど、俺の仕事はあまりないんじゃないんだろうか。と、そんなことを思ってしまう。管理というのは水道管が凍結した、壁に穴を開けてしまったと相談をされた時に対処をすることや、敷地内の手入れをすることだと思っていた。
でもこのままだとあまり仕事もなく、平和に高校生活を送ってしまいそうだ。
それが悪いわけではないけど、何かしたい。そう思って敷地内をぐるぐる歩いていると、仕事になる部分があることに気づく。
周囲の森には枝が折れた枝や葉っぱが溜まっていて、片付けをしないと見栄えが悪い。悪いといってもそのままでも問題ないだろうし、わざわざ気にする人もいないだろうけど少し気にはなった。
他にはアスファルトの道路からこちら側にある砂利道には道の脇や真ん中あたりに雑草が生えていて邪魔に思える。
やることはないと思っていたが、注意して見てみると少しはあるものだ。見栄えに影響する草取りをさっそく今日から始めないと。
やることを決めたあとは部屋に戻って出かける用意をし、自転車で出かける。
目的は町の把握に食料と雑草取りに使う軍手を買うことだ。
町をぐるりと巡り、10隻ほどしか漁船がいない小さな漁港から高さが100m程度はありそうな山のふもとまで。といってもそれほど距離はなく20分ほどでたどり着く。
町の様子がおおまかに分かったあとは、途中で見つけた店で買い物をする。
自分の部屋へと帰った俺はで軽く飯を作ったあと、午後は引越し後の手続きをやっていく。昨日のうちに電気や水道の確認をしてあり、あとは業者の人と一緒にガスの開栓手続きだ。
それが終われば、もう手続きは全部終了となる。役所関係なんかは母さんが全部やってくれたから。
あとは高校の入学式を待ちながら暮らしていくだけだ。
そんなだからこそ考えてしまう。早く大人になって、自分でできることは自分でやって母さんの手間をなくしたいと。
引き取ってもらってから、多くの時間と愛情とお金をかけてくれた。そんな母さんに早く恩返しをしたいと思う気持ちがあるのはあたりまえのことだ。
「大人は遠いな……」
ひどく静かな部屋でぽつりとつぶやいてしまう。
小さくため息をついたあとは、今できることをやっていこうと決心し、買ってきた軍手を身に着けて雑草取りへと行く。物置によって、取った雑草を入れるバケツを持ってくるのも忘れず。
昨日と今日で1度ずつ通った砂利道。そこにしゃがみこむと、名前もわからない草たちを次々に抜いていく。
穏やかな風に木々が揺れ、葉っぱ同士がこすれる賑やかな音。まぶしくも暖かな日差しを頭と背中に感じながら穏やかな気分で作業を続ける。
途中、腰が痛くなりながらも休憩しつつやっていると、ふとエンジン音と砂利道を踏んでゆっくりと走る車の音が聞こえた。
顔をあげると、そこには外国の軍用車っぽい大きな車を運転し、暗い赤色の半袖シャツを着たガングートが左の運転席にいるのが見える。
昨日あったガングートは月明かりがよく似合いそうな綺麗な銀色の髪色で、腰あたりの長さまでの癖っ毛がちょっとあるロングヘアーだ。
20歳ほどに見える顔、琥珀色の瞳に白い肌に目を奪われる大きくて形のいい胸。ツリ目な目元の下にある左頬のまっすぐな傷跡があって少し怖く感じる。
だが、頭のてっぺんにはアホ毛と呼ばれる癖っ毛があり、そのために全体の怖さが抑えられている。
「自主的に雑草取りをするなんて素晴らしいな」
運転席の窓を開け、身を乗り出しては感心したふうに俺へと声をかけてくれる。
声をかけてくれたことに嬉しく感じながら俺は立ち上がると、邪魔にならないように道の隅っこへと移動した。
「おかえり、ガングート……さん」
「マックスと同じように呼び捨てでいいと言っただろう。仲良くなるにはそっちのほうがいいからな」
そう言ってにんまりと笑みを浮かべてから窓を閉めて走り出すが、すぐに車は止まってしまう。
何か変なことでもしただろうかと不思議に思っていると、ガングートはルームミラー越しに俺を少しのあいだだけ見つめてから走り出した。
その車の姿が艦娘荘の裏側に行くまで見送ったあと、また雑草取りの作業を再開する。
でもそれはすぐに砂利道を踏む音が聞こえたことによって中断された。
顔をあげると、さっきは運転中だったために見えなかったガングートの黒い長ズボンが赤いシャツとの色合いのバランスがよく、とても似合っている服装だ。
「おい、祐一。お前はさっき私になんと言ったか」
その少し怒ったような声を聞いて立ち上がった俺の前に、俺よりちょっとだけ背の低いガングートがやってくる。
背が小さくても筋肉が充分についている体格で鬼気迫るほどの表情をするのはなかなか怖い。
なにか変なことを言ったかなと怖いガングートを前にして考え、最初に言った言葉かなと思い当たる。
「……おかえり?」
「それだ、それ。今のをもう1度、さっき会ったときのように言ってくれ」
ガングートは何度か頷いたあと、俺から距離を取って穏やかで落ち着いた表情で言葉を促してくる。
俺は深呼吸をし、1度視線を空に向けてから言う。
「おかえり、ガングート」
それはさっき言ったときのように、嬉しさと優しさの感情を込めた挨拶の言葉だ。
この言葉を聞いたガングートは硬直したように固まったあと、恥ずかしそうに両手を顔に当てては俺へと背を向けた。
「ガングート?」
「待て、少し待て。……………よし。誰かにおかえりと言ってもらうのはずいぶん久しぶりだ」
なんともなかったかのように振り向いたガングートは明るい笑みを浮かべた。
恥ずかしかった瞬間を隠したがっているらしいから、そのことに何も言わず、おかえりの挨拶についての話をしていく。
「そんなに?」
「ここに住んでいる奴らとはそんなことを言わないからな。戦争中は出撃から帰ってきたあとに、よく言って言われたものだ」
遠い目をして空を見上げるガングートに釣られ、俺も空を見上げる。
高くて遠い、ライトブルーの色をして透き通るほどの青空を。
「祐一、明日は早朝から釣りに行かないか?」
「釣り?」
「仲を良くするなら釣りだろ? 私の好きな映画でも、平社員と社長の人が釣りを通じて物凄く仲良くなったのを私は知っている」
「まぁ明日の予定は空いているからいいけど。でも釣り具はないし、未経験だ」
「なに、心配するな。竿も仕掛けも餌も腹が減ったときのメシも全部私に任せておけ。場所は近くの漁港で堤防からのウキ釣りだ。お前は暖かい恰好をしていれば、それでいい」
「そこまで言ってくれるなら甘えるけど」
「ああ、存分に甘えろ。今日の夜にまた連絡するからな!」
そう言ってガングートは気分良さげに自分の部屋へと帰っていった。
釣りはやったことがなく、初めてやることを楽しみにしながら雑草取りの作業を再開した。
◇
翌朝の午前5時半にガングートが部屋にやってくると30分前に起きていた俺は長袖長ズボンの服の上にジャンバーを着て、ズボンに白いコートを羽織っているガングートと一緒に車で漁港へと向かう。
ごく短い時間だけ車に揺られて目的地に着くと、俺とガングートは車を降りて釣りに使う道具や荷物をそれぞれふたりに持って防波堤の上を歩いていく。
とこどころ雲がある夜明けの空に太陽が昇り始めた時間帯。小さな湾内には漁で漁船がいなく、波と風の音しかしないほどに静かだ。
海特有の湿った風と磯の匂い。それらがむせそうなほどに強く、けれども早朝のために冷えた空気は新鮮さを感じて歩く足を止めて2度深呼吸をしてしまう。
吸い込んだ空気は冷たく、寒さで顔がこわばり、手をすりあわせて暖める。昼間とは違う空気にどことなく現実感がない。
先に歩いていたガングートは立ち止まって俺に気づいて振り返ると、小さな笑みを浮かべて楽しそうに見つめてくる。
その小さな子供を見るような、実際中学生である俺は子供には違いないのだが、それが恥ずかしくて早足で歩きだして隣へと並ぶ。
俺が来たのに合わせ、ガングートは再び歩き出す。
「今日の海は風も穏やかで空も悪くない。釣りをするにはいい天気だな!」
「……俺には寒いんだけど」
「その格好をしていれば問題ないから気を強く持て! 男の子だろ!」
精神論を言われながら、少し痛い程度の力で肩を叩かれてしまう。顔で嫌そうにするも、ガングートは気にせずに防波堤に向かって歩いていく。
湾の外側には波を打ち消すテトラポッドが防波堤沿いに置かれてあり、それに打ち付ける波しぶきの音とガングートの元気な声を聞き、防波堤の先端部分あたりの場所に荷物を置く。
置いたものはクーラーボックスに、釣りの仕掛けが入っているプラスチックの箱と大きめな布の袋。釣り糸を出したり巻いたりするのに使いやすいスピニングリールとセットで着いている、やや短めの竿が2本だ。
「準備しておくから、祐一はそのへんをぶらぶらしていていいぞ。あぁ、海に落ちたときは叫んでくれよ?」
「落ちないように努力するよ」
釣りの仕掛けを準備しながら、からかうように言ってくるガングートに対して適当な返事をして俺は堤防から1歩足を出し、重なって置かれているテトラポッドの上に乗る。
そして人生初めてのテトラポッドに乗ったのはなんでもないことなのに、なんだか感動してしまう。海に近づくことさえ珍しいから、こんな気持ちを持ったのかもしれない。
昔から海に行く機会はなかった。母さんと一緒に出掛けたときは、俺が海へ近づかないようにとうるさいほどに注意をされてきた。
別に海を嫌っているようではなかったけれど、俺が近づくのを極端に嫌がっていたのが今でもわからない。
テトラポッドの上から見る海は遠くから見るのと違い、視界いっぱいに広がる景色は言葉にできないほどの壮大さだ。
それでもこの気持ちを言葉にするのなら、すごいという単純な感想の言葉が真っ先に浮かぶ。どんな遠くを見ても海しかない。これが水平線というものだろうか。
視界に映る景色は深く暗い青色の海と、まぶしい朝日の色と青のグラデーションがある空。
そんな海を近くで見たくなった俺はテトラポッドを伝って下に降りていき、別なテトラポッドへ移る。そこは波しぶきがかかりそうなほど近く、波がテトラポッドへぶつかる音も大きい。
下を見るとテトラポッドが積みかなさっている所は太陽の光が届かなく、影になっている。でもその影は木々や建物の影とは違い、つい吸い込まれそうなほどの魅力を感じる。
それをじぃっと眺め込んでいると、上からガングートの「準備ができたぞ、あがってこい!」と声がかかり、海の底に沈んでしまいそうな意識が浮き上がる。
堤防の上に戻ると、ガングートがあぐらをかいて座っていて、その隣には用意された竿が2本置かれている。
俺は簡単な釣り竿の説明を聞いたあと、俺はそれをじっと見つめる。
竿の先から伸びる糸には棒ウキと餌がついた針があり、その針にはミミズに足をつけたような気持ち悪い生き物が短く切断されてつけられていた。
「……ガングート、それは?」
「これか? これは釣り餌だ。アオイソメを切った奴でな。釣りをやったことがないなら見るのは初めてか。これはアオイソメという名前の虫で、釣りではごく一般的な餌だ。さわってみるか?」
そう言って俺へと差し出してくる透明なパックに入っていたのは、言葉にするのもおぞましい虫がたくさん詰められていた。
それはまるでホラー映画を連想する光景。そんなモノを魚が食べていると知ってしまった今、しばらくのあいだ魚を食べたくないという気持ちでいっぱいになってしまう。
「あー……気持ち悪かったか。すまん。戦争中の時にも駆逐の奴らに見せたら同じ反応をされたな。……男のお前なら大丈夫だと思ったが、これは私が悪かったな」
顔を少しうつむけ、ひどく寂しげな顔をしたガングートは置いてあった竿を持って湾内側の海へと糸を垂らし始めた。
それはとても悪いことをした気持ちになってしまい、親切でしてくれた想いを踏みにじってしまったのではと強い後悔の気持ちを抱く。
俺は深呼吸をしたあと、置いてあったもうひとつの竿を持つとガングートの隣に座る。
「これはどう使えばいい?」
「ん、あぁ、それはだな、リールについている―――」
そうして竿やリール、魚が餌に食いついたときのウキの沈み具合。時間帯による海流の流れ、この時期に釣れるメバルやアイナメといった魚の話。
俺が知らない色々なことを、ガングートはとても楽しそうにしながら分かりやすく説明してくれた。
知りたいこと、知るべきことをひととおり聞いたあとはお互いに海面を見つめながら静かに魚が釣り針へとかかるのを待つ。
時々ウキが海中へと沈み込み、竿を上げては糸を巻き上げ釣りあげた。
それをガングートが3回、俺が1回。4匹を釣りあげながら雑談をしつつ静かな時間を過ごしていた。
「そろそろ、腹が減っただろう。これを食え。うまいぞ」
あまりにも平穏な時間を過ごし、釣りが飽きてきたころ、ガングートはその言葉と共にラップに包まれたサンドウィッチと水筒を布の袋から取り出した。
「ありがとう。手作りだとは思っていなかったよ」
「メシは任せておけと言っただろう? 菓子パンや総菜パンを買うより私のほうが断然うまいぞ」
ガングートから渡されたサンドウィッチは黒パンで、ラップを外して食べ始めると中身はトマトにベーコンとチーズが入っていた。それらが挟められ、焼き上げられたサンドウィッチはおいしいという感想がまっさきにやってくる。
できてから時間は経っているものの、黒パンの酸味、トマトの甘味、チーズのまろやかさにベーコンの油具合が混ざり合ってとてもいい。
「すごいうまい。ガングートは料理ができるんだね」
頭の中で昨日カップ麺を持ってきたマックスを思い出しながら、そんなことを言ってしまう。
「そりゃあ家でも仕事でも作っているからな」
「仕事先でも料理か。どんな職業か聞いても?」
「メイドだ」
そう言ったガングートの再び視線は海に浮かんでいるウキへと向けられた。
恥ずかしそうにするでもなく、自慢げなわけでもない。ただ静かにメイドと言葉を発した。
そう、メイドだ。金持ちの家で掃除などをするメイドという職業の言葉に俺は固まってしまう。
仕事は何をしているの、と聞いてまさかメイドという言葉が出るとは思わなかった。
それほどにメイドというのは衝撃的で、体格がよくて男勝りで男装が似合いそうなほど美人でかっこいいガングートがメイドというのは想像がつかない。
ふりふりひらひらの可愛いメイド服を着るガングートっていったいどんな姿なんだろう。
あまりにも黙っていたためか、ガングートは俺へ顔を向け、視線を空へと1度動かしたあとに説明を始める。
「別にメイドと言ってもただのメイド喫茶で働いているだけだ」
「メイド喫茶!?」
それはミニスカな服で、オムライスにケチャップで文字を書いたりする、あのメイド?
誰かの家で掃除や何かをして働くと思っていたら、別方向なメイドさんだった!?
「いや、メイド喫茶といってもロシアンメイドの本格的な奴だぞ?」
俺のあまりにも驚く表情に、困惑したガングートは追加で言ってくるがロシアンメイドと言われて理解の先を越えた。
ロシアンメイド。それは単にメイドというより言葉のインパクトが強い。
「メシはきちんと店で作るし、店員はロシアかロシア語圏の人を使っている。私が経営しているんだから、紅茶の淹れ方や仕草なんかはしっかり教育している」
メイドから始まった衝撃的な言葉に、頭の中はまだ混乱したままだ。
話を聞き続けてもガングートがメイド服を着る姿は想像できないし、おしとやかな仕草や喋りができんだろうか。そもそもロシアンメイドってどんな服を着るんだ? そして、そんなロシアンメイドな店を経営しているって戦争後にいったい何があったんだ!?
もう好奇心がぐるんぐるんと頭の中をぐるぐると巡り、考えるのを途中でやめた。
ガングートはメイド喫茶で働き、料理上手だということを覚えておけばいいんだ。
「……祐一、お前、何を考えているんだ」
「え、いや、意外だなと思って」
「まぁそうだろうな。いまだに私もそう思う。元々店をやるつもりはなかったんだが、日本で生きていくなら他にはない何か変わったことをやりたかったんだ」
「それがメイドなんだ」
「ああ。それにな、ロシアと違って日本は高い賃金をあげられるんだ。祖国の……祐一には私がロシア出身の艦娘と言ったか?」
俺はその言葉に対して、首を横に振ることで返事をする。
ガングートは持っていた竿を足で抑え、コートのポケット中から紙巻のタバコを取って口にくわえたが、俺の視線を受けてか気まずそうにタバコを戻していく。
「吸いたかったら吸ってもいいけど」
「そんなことできるか。子供であるお前の体に悪いだろ。気を遣わなくていい」
気にしてもらえるのは嬉しく思うけど、もうすぐ高校生になるというのに子供扱いをされるのは少しだけムッとしてしまう。
高校生でも子供に違いはないんだけど。
「日本に留学や移住した子たちのために働きやすく、それでいて儲かるような仕事を作りたかったんだ」
「それが理由なんだ」
「メイド喫茶にしたのは私でもロシアンメイドならやっていけるだろうという甘い考えだったがな。メイド喫茶に関する資格取得や勉強もしっかりした。起業なんかで多くの人に助けてもらった、はじめての店で成功したのは運がよかった」
「かっこいいね。自分でやりたいことを選んで、やりたい仕事でうまくいくっていうのは」
素直に思ったことを言うと、ガングートは顔を少し歪ませて褒められるのは嫌だという雰囲気を出した。
その表情を見て、俺は色々なことを考える。
そんな顔をしてしまうガングートはなんで戦争が終わっても日本にいるんだろう。せっかく戦争が終わったんだから、故郷のロシアでも仕事をしてもよさそうなのに。
不安で考え込む俺の様子に気がついたガングートはガシガシと頭を乱暴に撫でまわしてくる。
「お前は変に考え過ぎるな。……艦娘である私を、海を奪われたロシアを捨てて、艦娘が多い日本で戦った裏切り者だと思う人がいるというだけだ」
はじめは笑顔で。でも次第に寂しげな顔になっていくのを俺はなんとかしたかった。こんな顔はガングートには似合わないと強く感じたから。
「俺はガングートがいて嬉しいよ。こうして初めての釣りもできて、サンドウィッチはうまいし。戦争のことはあまりわからないけど、ガングートは今まで頑張ったと思う。だってこうして静かに釣りができるぐらいに平和なんだから」
自分で言っていることに恥ずかしくなっていると、ガングートはぽかんとした様子で口と目を開き、俺を見続けてくる。
「お前はいい男の子だな。困ったことがあったら相談してくれ。91年の人生経験を生かして悩みを解決してやろうではないか! なんなら今すぐでもいいぞ?」
「今の悩みといったら高校生活が不安というだけだから大丈夫。これからの目標だって、大学に行って就職して母さんを安心させてやりたいというのがはっきりしているし」
「それが本当にお前のやりたいことなら、私の出る幕はないか。そもそも私は自分のやりたいことを見つけるのに47年かかったからな。あまり偉いことは言えないか」
「メイド喫茶のこと?」
「いいや、戦争が終わったあとの私が生きる目標さ。もう少しで達成できるかもしれない奴だ」
ため息をついてそう言うが、ふと俺の顔や体を見つめてから、また乱暴にでも優しい目つきで何度も頭を撫でられた。
ぼさぼさになった髪の毛を手で直しながら言葉の続きを待っていたけど、ガングートは何も言わずに釣り竿を手に持ってウキを見つめ始める。
その時の横顔はしんみりとしているように見えた。
そして風によって長く綺麗な銀髪が揺らめき、朝日が当たると豪快な雰囲気ではなく幻想的な女性に見える。
「どうした?」
「え、あぁ、釣った魚はどうやって食べるかなって」
「小さいメバルだから、まるごとのから揚げでいいんじゃないか。できたら祐一のところにも持っていこう」
「それは楽しみだ」
見惚れていたことを誤魔化すように言った俺は持っている竿に集中し、でも餌がなくなったんじゃないかと思って巻き上げると餌はついていなかった。
釣り針にアオイソメを付けようと挑戦するも、うねうねする気色悪い動きにさわれず、ガングートに付けてもらった。
こうやって仲良く一緒に静かな時間を過ごす。今の気持ちを表現するなら―――。
「お父さん、かな」
「ん、なんだ急に」
「いや、父親がいたらこんなふうに釣りをしたのかなって」
「……がさつなのは理解しているが、女の私に向かってお父さんか」
嫌そうな顔をしていたが、時間が経つにつれて嬉しさと困惑が入り混じった様子になり、最後には苦笑いを浮かべていた。
「艦娘の私が父と呼ばれ、子持ちになるのは変な感じだな」
「別に悪気があったわけじゃなくて。俺は5歳の頃から母さんと一緒にふたりで生きてきたから。だから、父親はどういうものかわからなくて。だから父親がいたらガングートみたいな感じかなって思ったんだ」
母さんは俺のことを大事にしてくれたけれど、時々寂しく思っていた。父親がいたらケンカをして家出やバカなことをして仲良くなったり。そんなことをするんだろうなと。
あまり考えないようにしていた父親のことを考えると、気分が落ち込んでしまう。
少し大きなため息をつくと、ガングートは空を見上げたあとに糸を巻き上げる。そして釣り針についていたアオイソメを外して海に放り投げたあと、竿についていた仕掛けを外した。
そうしたあとにプラスチックの箱から取り出したウェットティッシュで手を拭いたあと、俺にも手渡してくる。俺はリールを巻き上げて竿を堤防の上に置いてから手を拭き始めるが、そのあいだガングートは口元に手をあてて思案顔でじっと見つめてくる。
「祐一、そのままじっとしていろ」
そう言うと膝立ちで俺へと近づき、片膝をついた状態で両手を肩や頭の後ろに回して抱きしめてくる。
それは大きな胸で俺の顔を抱きしめられるということだ。白いコート越しでもわかる胸の大きさと少しだけわかる柔らかさ。
突然のことに俺はどうしていいかわからなく、ただ思うことは母さんよりも大きいなと比べてしまった。
思春期の少年である自分としては女性に抱きしめられることは喜ぶべきなのだけど、そんな気持ちよりも不思議と安心な気持ちが強い。
母さんもよく抱きしめてくれるけど、それとは違う種類の安心感だ。力強い父親のような。
「父親ってのは不安になった子供をこうやって抱きしめるんだろう? ドラマの真似だが、どんな感じだ?」
「……なんだか安心する」
「
ガングートは安心したため息をつくと、わからない言葉のあとに日本語で言葉を続けたあとに途中で止めると、俺の頭を優しく撫でてくる。
「お前が可愛いからか、なんだか不思議と満たされてくる気持ちだ」
そんな言葉を満足げに温かく言うのはずるい。そう言われるとときめいてしまう。恋愛的意味ではなく、家族的というか、こんな人が父親だったらよかったのにと思う感情が。
「男に可愛いって言葉は嬉しくない」
「おっと、それは悪かった」
そんなときめいた心を隠したいために俺は不機嫌そうに言うと、悪げがまったくなさそうなガングートは抱きしめる手を放して立ち上がる。
それが寂しく感じたのと同時に、抱きしめられていたということに対して急に恥ずかしさがこみ上げてくる。
うまく言葉にできないけど、普通は男が女を抱きしめるのじゃないかとか。
「さて、今日はもう帰ろうか。帰ったらひと眠りしなきゃな! 祐一がよければまた私と、いや、父さんと釣りに行こうじゃないか」
恥ずかしそうに、けれども爽やかな笑みを向けてくるガングートに、俺は竿を渡しながら頷く。そうして他のも片付けをしていき、クーラーボックスを俺へと手渡して帰り支度が完了する。
「疲れたけど楽しかったよ。今日はありがとう、ガングート」
「喜んでくれたなら私は嬉しい。いつも1人で釣りだったものだから、2人なのは嬉しかったよ。また行こうな、祐一」
お互いに今日の釣りで楽しかったことを言いあいながら車へと乗り込み、艦娘荘へと戻る。
戻るってから車から降りると、道具を濡れ雑巾で一緒に磨いていき、そうしているときに車に乗って出社していく磯風、熊野たちに対して「いってらっしゃい」と俺は挨拶をする。歩いていくマックスにももちろん同じことを。
3人とも声をかけた時は一瞬驚いたらしくて動きが止まっていたけれど、すぐに笑みを浮かべて手を振ってくれたのは嬉しかった。
ここに来て3日目。5日後にある高校の入学式までには結構馴染んでいける気がした。