──我が名はサタン、魔王サタンである。
人類を長い間苦しめてきた、魔王軍の首領──魔王サタン。
数年前に勇者と呼ばれる伝説的な力を持つ青年と一騎打ちの激闘を繰り広げ、城の崩壊に巻き込まれて消息不明になった人物。人? 多分人。
地帯の底で今も力を蓄えているだとか、黄泉の国から死者を掠め取っていくだとかいろんな噂が立っているがそれが誠か否かは不明だ。
勇者は左目を失って胴体に穴が空く大怪我をしたが、一命は取り留め──国に監視されながら、毎日を過ごした。魔王という強大な存在、それこそ山や川を一撃で崩壊させうる力を保有する相手を単騎で撃破してしまった勇者は、危険人物として人類に認識されていた。
個人個人で救った者たちはそうは思ってないかもしれないが、立場のある、後ろめたい発想を行う者にとってはそうはいかない。魔王が消えても、人間社会には色んな敵がいる。魔王は、ただ共通した敵であったというだけだ。
山奥にてひっそりと、将来を誓い合った幼馴染と会うことすら許されず──勇者は世間的には死んだと発表された。会いにくる者もおらず、それは勇者の心を密かに荒廃させていった。
たが──それでも彼は構わないと笑った。人を想い、悪逆非道を許さず力を奮った彼は心の強さも桁違いであった。それが正しいかどうかは、さておき。
そんな荒んだ毎日を過ごして数年、彼の元に転機が訪れる。
あれは、毎日変わらない曇り空の下──空から太陽が差し込んだ、いい日だったと。
後に、彼は語った。
-勇者と魔王-
扉を開き、外を見る。
毎日変わらぬ曇り空、それなりの標高であるのに山の麓まで見通すことのできる景色。ふぅ、と息を吐いてゆっくりと深呼吸。見えない左側と、違和感を抱かなくなった右腕を動かせない感覚にもどかしさを覚える事もなく日常が始まる。
いつも通り、そのまま崖を滑るように落ちる。自殺志願者か、よっぽどの狂人か──そんな人間が行う選択肢を、勇者は平然と行った。減速する事なく落下、地面を大きく陥没させ着地した彼はそのまま残っている左腕を木に向かって振る。
ス──と、小さな掠れるような音と共に、勇者が木に近づく。左腕で躊躇なく掴み、自らが落ちてきた崖の上へと木を投げ飛ばした。綺麗に切り株だけ残して空を飛んでいく木を見届ける事もなく、次の木を掴む。
三度ほど同じ動きを繰り返し、そのまま自分も跳ぶ。崖のあるようでない突起に足を引っ掛けながら、上に加速していく。崖の上へと登りきった勇者は、いつものように木の枝の処理をしようとした。
しようとしたのだ。
だが、出来なかった。何故か?
──それは、自分の投げた木が腹を突き破り、そのまま山へと磔のように突き刺さっている謎の女性がいたからだ。
思わず勇者は困惑した。ここ数年間で最も感情を出したかも、というより魔王に出会った時より感情が出たかもしれない。
?? 、疑問符を頭の上に浮かべてその情報を処理しようとする勇者にその女性が動き出す。ぶらんと脱力した腕で木を掴み、そのまま引き抜く。ぞるぞる、と内臓が引っ付いてきているのがなんとも残酷でグロテスク、勇者ですら思わず目を逸らしたくなった。
「ぐ、ぐぐくく……いきなりコレとは、随分と嫌われたものだ」
ずるんと内臓諸共木を引き抜いた女性に若干引きつつ、何故こんな場所にいるのか勇者は問いた。普通なら心配して然るべきタイミングだが、今の勇者の立場がある。この場所は人間界の中でも秘境に近い場所であるし、そもそも地図にない山である。
来るのは国の人間くらいだが──木ね腹を突き破られて、内臓諸共引き抜くような狂人が果たして人間と呼べるのだろうか。
「フン、つまらん顔をしおって。もっと愉快な顔をしろ!」
などと言いながら出てきた内臓がうねうね女性の腹に戻っていく。ひたすら気持ち悪い、勇者は柄にもなくそう思った。
「……待て。貴様、もしや我のことを忘れているな?」
俺にこんな狂った知り合いはいない──彼はそう伝えた。
「狂った……? 何処がだ。今のだってフランクさを出そうとしてる我の気遣いが読み取れるモノだろう」
本気で言っている──勇者は思わず空を仰いだ。この滅茶苦茶な感じに覚えのある勇者は、まさかという気持ちが湧いてきた。
『ククク、お前が勇者か! 我は魔王、魔王サタン!』
「我を忘れるとは貴様、死罪に値する──が! 我ではお前は殺せん! ガハハ!」
ああ、これは同一人物だ──黒く靡く髪を後ろ髪で纏め、少し外ハネ気味の髪を持つ生意気そうな顔をした女性を見て勇者は確信した。
こいつは、あの戦いの後行方不明になった魔王サタンだと。
「む、すまんな」
取り敢えず、先手という形で図らずも攻撃してしまった勇者は家に招き入れた。自分で楽しむためのそこらへんの雑草からとったお茶を出して、二人分用意する。
勿論火は自分で起こした。面倒だが最早指パッチンで火花が散る辺り人間を超えてきているのかもしれない。
「それではまず先に名乗ろう、不敬にも我のことを忘れているようだからな!」
キリッとした目つきで言う魔王に嘆息する勇者。
「我は魔王、魔王サタン! 正式な名前はサタネールだが、まぁそれはいい。お前が勇者で間違いないな? 間違いないよな? 本当に勇者だよな?」
数年前と少し変わった魔王を見て、なんだこいつはと内心思う勇者。あわあわと感情を露わにする魔王は、まるで人間のようだった。
「うん? ……ははーん、さては貴様我に見惚れたな?」
な訳ねーだろカスと言いながらデコピンを放つ。ブオオオオ! と大きな突風が巻き起こり魔王の顔をひん剥く。
「あががががが!」
色々顔のパーツがヤバいことになってる魔王を放置し、勇者は問いかける。お前は魔王、何しにきた。これまで何をしていた、何故人間界に戻ってきた。
「か、顔が……我の、顔が……」
ガクガク震える魔王にイラッとするが、数年前のことを考えるとすぐ復活するだろうと適当に考えた勇者。実際すぐさま復活した。
「く、やるな勇者……! それはさておき、貴様の問いに答えるとしよう。先ずは、何をしていたか」
真面目な顔つきで、雑草茶を啜る魔王。口に合わなかったのか、顔を顰めて不快な顔つきをしている。
「に、苦……。取り敢えず、貴様に敗れて城の崩壊と共に地底に我は引き摺り込まれた。そこまでは貴様の認識と変わらんだろう」
こくり、と頷く勇者。
「その後、魔物界──詰まる所、自分の世界に強制的に引き戻された。そもそも軍略で攻略というより、政治面での攻略をメインで行う予定であったからな。我はその囮だ」
さりげなく滅茶苦茶気になる話を聞かされた勇者は、続きを聞きたくなるが我慢する。政治面がメイン、武力は囮。それなら自分がやったことは一体──その少ない情報で、勇者は正解に辿り着いた。
「……気が付いたか。貴様がこうやってここにいるのも、全部我々の策略だ。別に貴様一人に我々は負けん。だが、より綺麗に、スマートに攻略するには……貴様は、強大すぎた」
聞かされる衝撃の事実、勇者は内心雷を浴びたかのような衝撃を受けていた。自分の成したことが無意味であったこと? 否。
自分がもっと考えていれば、これは防げたことであったという事。魔王と言う、会話できる生命体がいる時点で考えるべきであった。何故人類の政治に潜り込んでこないと思ってしまったのか──もう悔やんでも仕方のない事だ。
「我は想定していた以上のダメージを喰らい、しかも地底の底でよくわからん魔法使いに変な魔法をかけられて──この姿になった」
たしかに、記憶の中の魔王は男性的であった記憶がある。
「向こうに戻って、まぁ、ちょっとな……色々あって、こっちに逃げてきたと言うわけだ。すまんが、詳細は話せん。我が話したくない」
影のある表情でそういう魔王に、そんなこともあるだろうと適当に考える勇者。
勇者という立場は、既に死んだ。ここにいるのは過去を捨てて人々のために生き、絶望へと叩きつけられた一人の怪物。◼︎◼︎という人格が残り、そうして生きる理由もなく、死ぬ理由もないから生きる。
究極的に、どうでもいいで完結してしまう。してしまうのだ、勇者は。
「それで、頼み事があってな。簡潔に、結論から」
んっ、と女性的な声を出して目を閉じる魔王。
「我が貴様を助けてやる。だから貴様は、我を救え」
にっ、と笑う魔王の姿が、遠い記憶の誰かに重なって見えた。窓から差し込む日差しが、魔王の姿を照らす。悪の親玉だの、最低な黒幕だな散々な言われようをしていたが、それも全部策略。そう思うと、やるせなくなる。
──わかった。
気が付けば勇者は、そんな声を出していた。深く考えた訳ではない、だからと言ってどうでもいいと思った訳でもない。彼自身が、救ってみせると誓ったのだ。人々が幸せになるのなら、彼は統治される事だった構わない。
魔王を救う事がどうなるのか──勇者の彼は、簡潔に理解していた。
死んだとされていた勇者が、過去の敵である魔王を救う。それが何を意味するのか──どうだっていい。これも魔王軍の策略なら、構わない。過去を悔やんでいても、変えられるものはないのだから。
ならば未来に進むしかない。
魔王。
「……ほ、本当に良いのか? 騙しているのかもしれんぞ」
それならそれでいいさ、と薄く笑う。外からする気配に、やはりと思う。
ガ、と魔王の腕を掴んで引き寄せる。外から家を割りながら突撃してきた攻撃に対して、残った腕を振る事で押し返す。
旅の途中で手に入れた、伝説の武具なんてものは無い。残ったこの身一つで、何が出来るのだろうか。そればかり、ずっと考えていた。
なら、今こそ生きる理由を探す時なのかもしれない。人のために生きて、人のために死ぬ。それも悪くは無いだろう。だが、この魔王を見て──結局自分は、誰かの手で人生を狂わされ、踊らされる人を見るのが嫌いだと確信した。
だから邪魔させてもらう。
右手で魔王を抱き留め、頭からいつのまにか生えた角が胸に当たる。少し圧迫感があるが気にせず、左手で適当なサイズの木の棒を取る。
初期装備、木の枝。懐かしいなと子供の頃を思い出す勇者。
ニ、と笑って言い放つ。
「俺がお前を救ってやる。お前は俺を救ってみせろ」
-勇者と魔王、逃走-
斬る、払う、押す、殴る。
身体全てを使って流し続ける。空から、大地から、至る所から襲いかかってくる攻撃を払って払い続ける。見覚えのあるシルエット、されどその動きの速度と威力は段違い。先ほどの魔法の話の信憑性が増すな、と内心思う勇者。
「──邪魔だ!」
ゴオッ! と身体から大規模な炎を撒き散らす魔王。近付いてきた魔王軍──いや。魔族に対し、衝撃波となって津波のように襲いかかる。
「無事か勇者っ」
ととと、歩いてくる感じがとても魔王には見えず勇者は目を擦る。一体何故ここまで女性的になってしまったのだろうか──数年もあれば慣れる。そういうものか。
焼け焦げ、一面に転がる魔族達。辛うじて息はあるようだが──どうするか、魔王にアイコンタクトを取る。
「……別に、殺す必要はない。我はもう、干渉されたくないだけだ」
十分だろう、と言ってそこらへんの魔族から武器を奪う魔王。ほれ、と言いながら勇者に手渡しする。魔族製、即ち別世界である魔界から生まれた武器。流石に握るのは初めてだが、なんだか手に馴染む。
ブンブンと何度か振ってから、鞘も奪って収める。
「うむ、流石は勇者。似合っているな!」
腕を組んで満足そうな笑顔をする魔王に、毒気が抜ける。……何故、わざわざこんな風に気持ちよく笑える奴が人類へと侵攻したのだろうか。囮役をする事を引き受けたのだろうか。勇者は少し、気になった。
「さて、早く逃げるぞ。あまりこんなところに居ても得はないからな」
こんなところ──数年暮らした土地をナチュラルにディスられたが、あまり反論できる要素がなかった。勇者は寂しくなった。
刹那、勇者の顔へと高速で飛来した何かが激突する。勢いそのまま倒れ込んだ勇者、魔王は思わず駆け寄った。
「勇者!?」
走りながら飛んできた方向へと炎を飛ばす。
当然既に何もなく、直線上に木々が少し焼失しただけだった。
「これは──」
「久しぶりだな、勇者ヤロー」
茂みから一人の男性が歩いてくる。
ギザギザした髪の毛に、特徴的な目の傷。左腕は肘から刃のようなものに変化しており、不気味で非人間的に感じる。
「やっぱ生きてたのか。お前がくたばるとは到底思えなかったが──健在でむしろ安心したよ。死ね」
久しぶりだな、傭兵。
国と国を飛び回る傭兵団のボス、首領傭兵とよく呼ばれている男。左腕を改造して、ある魔族と契約して人間には出せない力を発揮し過去の闘いに於いても幾度か交戦したことがある。
「はあぁ、ったく……貧乏くじだ。色々気になる話だが──今は依頼なんでな」
カチャ、と左腕を構える首領。此方も彼に対し武器を構える。
「…………死にたかねぇなぁ」
呟いたその言葉を皮切りに、始まる。
左腕から高速で飛び出てくる刃を空いている手で受け止めて、そのまま此方に引き寄せる。伸び縮みする射程が分かりづらい特殊性がこの男の武器であり、強み。逆に言えば、それを分かっていれば然程梃子摺る相手ではないのだ。
「ぐぅ……!」
引っ張られ、踏ん張るが軽く引き寄せられる首領。腕を改造しているとは言え、所詮ただの人間。勇者というイレギュラー相手には、抵抗できない。
ドガ、と木にぶつけられそのまま倒れこむ。
「ぐ……ち、やっぱり、敵わねぇな……」
なんとか起きあがり、立ち上がる。
「…………ハ、勇者さんよ。お前がやろうとしてること、どういうことか分かってるか?」
無論、全部わかってると勇者は答える。自分の与える影響も、これによって何が起きるかも。全て全て、理解した上でやっている。
「っ……ならよ! あの戦いは何だったんだよ!」
吐き出す様に思いを言葉に乗せる首領傭兵。
「部下達は死んだ。あの戦いで、そこの魔王に殺されたよ。それはまぁ、よくあることっちゃあ良くあることだ。けどよ……」
「それを、アンタがやっちゃダメだろ。筆頭になって、俺たちを引っ張ってくれたアンタが……やっちまったら、ダメだろ」
遣る瀬無い、そんな表情で語る傭兵。
要するに、過去の自分のやったことに責任を持てと──そういう話か。勇者は呟く。
「……そこまでは言わねぇ。アンタが居なかったら、今のこの状況だってなかったからな。仲間は失ったけど、今はこうして種族関係ない裏の仲間ができた。それはそれで、悪くはないと思う」
だけど、過去の恨みが無くなるわけではない。
「……納得はしねぇ。アンタも、勇者も魔王も──もう、標的にされてんだ」
それはつまり──首領の苦い顔が見える。
「クソッタレだ。こんな世界、狂っちまえよ。クソ……何が、国だよ」
そう言いながら、再度左腕を構える。
悪いが、俺にも譲れないものができた。勇者としてなんかじゃない。勇者はもう死んだ。一人の怪物として、俺は生きる道を選ぶ。
勇者の声が響き、傭兵が動く。
激突し、吹き飛ぶ傭兵。
動かなくなった傭兵を見て、死んではいないことを確認する。昔の知り合いを殺すほど、堕ちてはいないと信じたい。怪物に堕ちたこの身でも、まだ心は持ち合わせていたいから。
「すまんな、勇者。我の所為で貴様までターゲットにされてしまった」
どこか申し訳なさそうに言う魔王にらしく無いと思う。お前はもっと尊大で、強大で、傲岸不遜であったと記憶していると告げる。
少し影のある表情で、口を開き、閉じ、二回ほど繰り返し勇者を真っ直ぐ見つめる。
「…………少し、な」
山から離脱して、砂漠地帯を歩く勇者with魔王。
先程家を襲ってきたのは魔王軍で、斥候として勇者の下まで放たれた兵士達だった。傭兵もちょっと、こう、ボコボコに痛めつけはしたが死んではいないだろうと勇者は適当に考えた。適当にもなるものだ。
もう勇者なぞ死んだ。ここにいるのは名前も過去もない、一つの怪物。
「この身体になって、な。やられたよ、色々と」
魔王の絞り出す声で、察する勇者。
そうか、と一言告げて歩く。日差しが強く、肌をジリジリと焼く感覚が懐かしい。あの時もこうして歩いたな、と彼は密かに思った。
『勇者殿ぉ……あ、暑くないですか? 因みに私はめちゃめちゃに暑いです。水ください』
『自分で飲みきったのが悪いんでしょうがっ』
仲間達との、懐かしい記憶。
もう、過去の栄光と言った方が正しいかもしれない。
ピク、と勇者が止まる。ある気配を感じて、彼は目の前に聳える塔の麓を見た。砂漠に忽然と聳え立つこの塔は、幻影の塔と呼ばれている。過去、仲間の一人である賢者が知識を求めて行きたいと言ったからここに来た。
「…………勇者」
砂漠の真っ只中、灼熱の太陽が煌めくこの土地に合わない厚着。膝上辺りまで覆う赤のローブに、頭には古めかしい帽子。まさに魔法使いと言った風貌に、キリッと強い目つきが特徴の女性。
よう、久しぶりだな。
勇者のその声に、なにかを答えようとして答えるのをやめる女性。
「彼奴は……まさか、賢者か?」
コクリと頷く。
賢者──元勇者の一行であり、現存する魔法使いで一番の実力者も謳われる人物。その魔法力は勇者に拮抗する力であり、魔王軍を最も屠った。
「なに、してんの。こんな所で」
震える声でそう言ってくる。
「死んだんじゃ、無かったの。いや、死んだのは、わかってたの。確定してたの。どれだけ占っても、視ても、結果は同じだったから。なのに、ねぇ。なんで、どうして……?」
混乱しているのか、うまく言葉が纏まってない。それを噛み締めて、勇者は答える。
結局、俺たちは踊らされてただけだ。わかってんだろ?
「……っ……ってるわよ」
俺も、お前も。全部全部、踊らされて、馬鹿にされて、裏で笑われ、自分達で選んだと思わされた。相手が上手だった。それだけの話だ。
「じゃあ、じゃあ! なんで今なの!」
吐き出すように叫ぶ声を、一字一句残さず聞き取る。
「どうして、あの後すぐにこなかったの! 来てさえ、来てさえくれれば私は……!」
泣き叫ぶ彼女に、少し申し訳無さを感じる勇者。本当は分かっているのだ。互いに、どうすることもできなくて、何かをするということが出来なくて。
今、動き出したという事を。長年旅した仲間たちより、ぽっと出の魔王によって勇者は動かされたということを。
まるでそうなるように仕組まれていたかのような偶然。それを認めたくなくて、賢者は叫ぶ。
悪いけど、俺は進む。もう止まっている予定は無くなったんだ。救ってくれと言われた。救ってやると言われた。ならやるしかない。それが俺だ。俺に残った、たった一つの思いなんだよ。
勇者の言葉を聞いて、賢者が動きを止める。泣く音が次第に止み、目をゴシゴシと萌え袖のようになっているローブで拭き取る。
「──やって見せなさい。貴方が、変わったのを。私を超えて、飛んでいけることを」
キ──と彼女の周りが揺らぐ。莫大な魔力、人類最高の魔法使いと謳われた彼女の大魔法が解き放たれようとしている。
ああ、やって見せるさ。それが誓ったことだから。
煌めきが収束する。彼女の掲げた右手に、ありとあらゆる法則が辿り着く。記憶にある当時より濃度の高い質を感じ取り、成長している──強くなっていると理解する。
俺は止まったままだけど、皆は進んでいた。そう思うと、自分の旅は無駄では無かったと思える。ピエロで、道化だった俺の人生が──何かを進ませる手助けになってた。それがどうしようもなく嬉しく感じてしまった。勇者は一人、微笑んだ。
賢者の周囲に、七色の魔力が収束し球体となって漂う。赤黄緑青紫白黒──彼女の編み出した、世界で唯一無二の極大魔法。
世界の色を変えて見せる、そう願いを込めて作ったと嬉しそうに話すあの時が眼に浮かぶ。普段笑わない賢者が、自然な笑顔を見せたあの瞬間は今でも鮮明に思い出せる。
「──彩れ」
掛け声だ。
壊すだとか、崩壊させるだとか。相手を威圧する為の声ではない。彼女は自分の魔法に声を掛けているのだ。
鮮やかに、世界を染めて来いと。染められると。魔法を愛し、魔法に生涯を捧げると言っていた賢者らしいと勇者は考えた。
「──彩れッ!」
刹那、莫大な光の奔流が賢者から捲き上る。捻れ、唸り、濁流のように重なって訪れる光。それに対し──賢者の魔法に、左手をかざす。右手で魔王を庇うように動き、自分にのみ直撃するように。
視界が染まる。光の中に、鮮やかな色合いが重なって現れる。それはまるで、虹の滝のようで──何時迄も見ていたくなる。そんな美しい魔法だった。
──それを無遠慮に掴む。ガ、と左腕で握りしめてそのまま破壊する。賢者の夢、希望、これまでの軌跡か詰まったソレを、なんの躊躇もなく壊す。パキ、なんて儚い音もせず。ただ無音で飛散していく魔法を、勇者はどこか他人事のように眺めていた。
「──……相変わらずね、勇者」
なにかを堪えるように、目元が潤んだ状態で話す賢者。
ぐ、と握りしめられた拳から、何かを堪えている事は目に見える。
「……いいわ、行きなさい。皆、待ち構えてるわよ」
そのまま、そこに立ち尽くす賢者。
皆、そうか……理由は、聞かないのか? 勇者が尋ねる。
「聞く必要なんて無い。そこにそうして貴方がいる事が理由だもの」
賢者の答えに、そうかと答える勇者。事情があるのはわかる。それが特大の事情だと言うことも。
「魔王、なんでしょ。その時点で察するわ──本当に、本当に……」
ギリ、と歯を噛みしめる賢者。
「私は、王都に向かう。王都に行って、どうなってるか確かめる」
だから、貴方も──逃げ切りなさい。
そう言って歩き出す賢者に、相変わらず強い奴だと内心思う。聞きたいことも、確かめたいことも、やらなきゃいけないことが沢山ある今。彼女は物事に優劣、優先順位をつけてしっかりと行える。
その真面目さが、如何にも賢者らしい。
「……いいのか?」
魔王が問いかけてくる。不安を隠さない瞳、焦燥しているのが一目で分かるその状態を申し訳なく勇者は思う。
いいんだ。
勇者が短く答えるその声に、どこか安心したような表情に変わる魔王。ころころ変わる奴だな、勇者はそう思った。
砂漠を越え、山を越え、湖を越え、街を越え。魔族と人間も越え、二人で只管歩き続けた。誰も居ない場所へ、誰も来ない場所へ。夜を越え、朝を迎え、魔王と勇者の過ごした日々は互いにとって──無視できないものになっていた。
「勇者! 肉が焼けたぞ!」
ある日は食事の目新しさに目を輝かせ。
「勇者ぁー! 助けろ! 救え!」
ある日は気色悪い魔物から全力で逃げ、勇者に助けを求めたり。
世界から弾かれた二人は、それでも生きていた。干渉してくる他の生物を退け、逃げ、追われて、逞しく。
「ふふっ、どうだ勇者! 我が家を建ててやったぞ!」
魔王の意外な建築センスによって作られた小屋に、二人は暮らしていた。山の奥地、奇しくも勇者が住んでいた山奥と似た様な。
野生動物を少し狩って、保存食を作ってその日を暮らす。その生き方は自由で、楽で、勇者にとっては久し振りに良い心地であった。たまに賢者を筆頭に過去の仲間たちが遊びに来るが、その度に受け取る土産に見えない尻尾を振り回す魔王に苦笑いした記憶もある。
仲間達は最初微妙な顔をしていたが、ある程度踏ん切りがついた様で最近は笑顔が増えてきた。自分達の旅が、操作されて行われたものなんて信じたくは無いから。
「……勇者っ」
魔王が話しかけてくる。
二人で暮らし始めて、既に半年は過ぎた。その短い様で長い期間は、二人の在り方を変えるには十分だった。互いに、居なくてはならない存在になってしまった。
自らを救うと豪語して、救えと言ってきた魔王に勇者は惹かれた。その暗闇の中で鈍く光る輝きに。
お前を救う、俺を救ってみせろと言い放った勇者に魔王は惹かれた。その眩い煌めきの中で鈍く胎動する漆黒に。
勇者は、生きる意味を見つけた。
魔王は、生きる意味を見つけた。
二人にとって、十分だった。
他の物は要らない、干渉するな。
人間社会なんて知ったことか。魔物界の策略なんぞ知ったことか。世界が滅んでも、二人は生きる。それで十分だと。
にぱっと明るく笑う魔王に、勇者は微笑む。
燦々と輝く日差しの下、二人は笑い合う。街を追われ、国を追われ、人に追われ、世界に追われ──それでも、いいんだ。生きる意味なんて、深く考える必要はない。
過去争った二人。全て仕組まれた出来事。薄暗く、闇の泥に呑まれた人生だったが──それでも、悪くないと言う。過去は清算出来ない。変えられない不変のものだ。だからこそ強く反省し、後悔し、生きるのだろう。
未来を生かすため、人は生きる。
「勇者」
ぽつりと呟く魔王。その姿は儚く、今にも崩れ落ちそうで──それでも明るく、輝いて見えた。勇者は、その眩しさから目を逸らさず。
「──ありがとうっ」