あの任務で雪が舞い降る中意識を失った俺は蝶屋敷へと無事戻ってきた。一応怪我人扱いだが鬼との戦闘で直接的に負った傷はなく、意識を失った原因も体温の低下によるものだったから二日ほどでしのぶさんとアオイさんのお許しが出た。
そして今、たった二日とはいえ全く動かなかった……というか動かせてもらえなかったから体が少しではあるものの鈍ってしまっている。
そこで蝶屋敷で行う『機能回復訓練』に参加させてもらっていた。
この蝶屋敷はしのぶさんの意向もあって怪我を負った隊士たちの治療拠点として存在している。怪我といっても大小様々で、今回の俺みたいな二日間動けないというのは軽い方だ。
しかしいくら治療のために動けなかったからといっても完治して任務に戻れば鬼は待ってくれない。寝込んでいたから体力落ちていましたなんて言い訳は通用しないのだ。
そこで蝶屋敷の機能回復訓練がある。
その名の通り少しでもここへ来る前の体に戻すことを目的とした訓練。
内容としては凝り固まった体を柔軟でほぐし、並べられた湯飲みを掛け合う反射訓練で瞬発力を戻して、最後は体力を戻すために全身を使うよう鬼ごっこを行う。
簡単なように見えてこれが実は結構辛い。
柔軟は寝たきりの固まった体には拷問のように痛いし、湯飲みに入った薬湯はにおいがきつい。というか反射訓練と鬼ごっこはカナヲが担当することもあるから並の隊士だとまず勝てない。そのためにアオイさんが相手することもしばしばだ。
何でここまで知っているのかというと、蝶屋敷に住んでから時折聞こえてくる訓練に参加している隊士たちの苦悶の声が聞こえてきたりするからだ。
俺自身こうして機能回復訓練に参加するのも見るのも初めてで緊張している。
「それでは陽吉津さん。機能回復訓練を始めますがよろしいですね?」
「よ、よろしくお願いします」
「それではまず柔軟です」
訓練場の端に畳が敷かれ、その上に柔軟ができる環境が整備されている。
「よろしくね、すみちゃん、きよちゃん、なほちゃん」
柔軟は三人が担当してくれるようだ。
「任せてください!」
「陽吉津さんにはしのぶ様から徹底的にやるよう言われてます!」
「安心してくださいね!」
どういうことですかしのぶさん。聞いてませんよそんなの。
現在柱の任務に出ているしのぶさんだが、あの企んでそうな笑顔が脳裏に浮かぶ。
もしやまだあの件を引きずっているとか?
だとすればさすがにしつこいですよしのぶさん。
「さ、こちらに横になってください」
「お、お手柔らかに……」
想像もつかない痛みだったとだけ言っておこう。
みっともなく叫んでしまったが、あの柔軟を平気で受ける奴なんてこの世にいないはずだ。いたら尊敬できる。いやほんと。
「大丈夫ですか?」
「ごめんなさい」
「やりすぎました」
うつぶせのままピクリとも動かない俺を心配して声を掛けけてくれる。いいんだ。三人は悪くないよ。悪いのはあの蟲柱様だから。
「な、なんとか」
「何してるんですか。次は反射訓練ですよ」
アオイさん、何だか俺への当たり強くないですか?
瀕死状態の俺にアオイさんは無情にも次を急かしてくる。これはアオイさんも地味にあの件を引きずっているに違いない。
あの頭を撫でてくれた時の優しさはどこへ行ってしまったのだろうか。
「……」
「……あの」
「何か?」
体に鞭打って反射訓練の位置まで来たが、対面に座る相手を見てアオイさんに抗議の声を上げた。
「相手、カナヲなんですけど」
「当たり前のことを言わないでください」
「アオイさんじゃないんですか?」
「継子としてしのぶ様に育ててもらっているあなたに私が敵うはずないじゃないですか」
いや、そうなんだけど。もうほんとアオイさんは正論しか言わないからぐうの音も出せないんだけど。
でもさすがに俺の相手がカナヲというのは酷くないですかね?
「さっさと位置についてください」
仕方なく所定の位置についた。だけどこれにはカナヲもさすがに申し訳なく思っているのかおろおろしている。
カナヲはやっぱり優しいな。
「カナヲ、しのぶ様からの伝言です。全力で叩きのめせとのことです」
ちょっと言葉! そして蟲柱の胡蝶しのぶさん、またあなたですか。
さすがにカナヲもしのぶさんからの言葉には逆らえず、静かに覚悟を決めたようだ。
これは……俺も腹をくくるしかない。
「それでは、始め!」
「……っ」
「くっ」
合図とともにお互い目的の湯飲みを掴み、空いた手でお互い持ち上げるのを阻止する。動作としてはその繰り返し。ただそれを行う速度は尋常じゃないくらいに早い。
「……」
「あ……」
だけどその攻防はすぐに終わった。俺にぶちまけられる薬湯。
俺に向けて湯飲みを向けているカナヲはとてつもなく申し訳なさそうにしている。
「陽吉津さんの負けですね。では次です」
どうやらまだまだ続くらしい。
毛先から薬湯の水滴をポタポタ落としながら俺はぼんやりと考えていた。
あと何回薬湯を被れば済むのだろうか、と。
それからしばらく反射訓練は続き、終了の声が掛かるまで俺はカナヲに一度も勝てずに終わった。カナヲといえばもうこれ以上ないほど申し訳なさそうにして縮こまっている。
いや、カナヲも悪くないんだ。悪いのはカナヲの師範様なんだ。
俺の方はもう何十杯と薬湯を被り上半身はびしょびしょだった。
「陽吉津さん、手拭いです」
きよちゃんから手拭いを受け取り濡れた髪と顔、それから簡単に上半身と着ていた服をふき取る。
「ありがとうね、助かったよ」
ぐしょぐしょになった手拭いを返してお礼を言った。きよちゃんはパァっと明るい表情で笑ってくれた。
「さ、これで最後ですから」
「まだやるんですね」
「当然です」
容赦ないアオイさんの言葉にがっくりと肩を落とした。
最後に残っているのは鬼ごっこだ。
勿論相手はアオイさんでなくカナヲ。これ以上はカナヲの良心が危ないのではないだろうか?
「アオイさん」
「これもしのぶ様からいわれたことですので」
結局やるしかないのか。
「それでは今から始めます」
さすがにこのまま負け続きなのもそろそろ心が折れそうだ。どうにか一矢報いたい。
「始め!」
まず俺はカナヲから逃げる。このまま時間まで逃げきれれば俺の勝ちなんだけど……。
ポンッと肩に手を置かれてしまう。あっさりと捕まってしまったわけだ。
二日間といえど動けなかった反動は大きい。特にカナヲに比べて俺が全集中・常中を扱えるようになった期間は差がある。万全の状態ならカナヲといい勝負ができると思うが、それらの差が今顕著に出ているんだ。
鬼の交代。今度は俺がカナヲを追いかけるが、ひらひらと巧みに躱されてしまう。刻々と時間だけが過ぎていく現状に歯噛みするしかない。
「くっ」
「……」
追いつくことはできる。
「このっ」
「……」
だけど後一歩が足りない。
「そこまでっ」
ついぞカナヲに触ることはできずに終わった。
「はっ、はっ、はっ」
ムキになって全力を出し切ったせいで息が苦しい。
大の字になって床に倒れこんでいると、カナヲが水筒に入った水をくれた。カナヲの方も少し息が上がってはいるが、俺みたいに疲れてはいない様子だ。
お礼を言ってから水筒を受け取りのどを潤す。よく冷えている水が喉を通るのがわかる。
「これで今日の訓練は終わりです。見たところほとんど大丈夫そうですからもう任務に出ても構いません。もしまだ訓練を続けたいなら私に言ってください」
一応任務のお許しはもらった。だけどこう……やられっぱなしなのは男としても俺としても嫌なわけで。
「アオイさん。明日もお願いしていいですか? 反射訓練と鬼ごっこだけ。勿論相手はカナヲでお願いします」
「……わかりました」
「カナヲ、お願いしていいか?」
「……」
カナヲは快く頷いてくれた。
明日は今日の雪辱を果たす。今日だけでかなり勘が戻ってきたからきっと一回くらいは勝てるはずだ。
「それじゃこの話はここまでということで。もういい時間ですし夕餉にしましょう」
アオイさんのその言葉で思いだしたかのようにお腹が空いてきた。さっきの鬼ごっこで全力を出したから余計に。
一先ず今日のところは休んで、明日に備えよう。
そうして俺たちは訓練場を後にした。