鬼が姿を消した。それもただ姿を消すだけじゃない。
姿も、気配も、においも音も。何も感じることができなくなった。
恐らくあの血で胸に何かを描いていたのが原因だろう。それこそあの鬼の扱う血鬼術の準備動作だったのだ。
そうとわかっていれば全力で阻止したのに、もう後の祭りだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……くそっ」
鬼の攻撃を読み取れる材料がない以上、動き回る方が攻撃に当たりにくいと判断してでたらめに動き回っている。そのおかげか最初の一撃以外に攻撃は受けていない。
だけどそれはほんとに鬼の攻撃を躱しているのかもしれないし、実は鬼の攻撃はなく動き回る俺を鬼がどこかで眺めているだけなのかもしれない。
思った以上に厄介な血鬼術だった。
いや、これがもししのぶさんだったらこうはならなかっただろう。
最初の木に偽装された人たちを発見した時点で鬼の血鬼術におおよそ見当をつけて対処していたと思う。
俺は確かに強くなってきてはいるが、それでも経験というものは一朝一夕ではどうしても身に付かない。俺に足りていないものの一つはそれだ。
いくら全集中・常中ができるとはいえ、動き続けるのは体力の消耗が激しい。
あの鬼も、俺が消耗しきったところを狙ってくるはずだ。
だけどこちらからは手出しすることができない。鬼がどこにいるのか皆目見当もつかないのだ。
だけど一つだけ。
たった一つだけ現状でも使える型がある。
俺にできることはそれくらいしかない。問題はそれが通用するのかということ。
あの型は直感と勘が頼りだ。感覚と神経研ぎ澄ませるほど精度が高くなるが、果たしてあの鬼の猛攻に耐えきれるだろうか。
まず間違いなく俺が止まった瞬間を狙って鬼が攻撃してくる。だけど俺は守ることしかできず、機会がくるまで攻めに転じることはできない。
その間に俺がやられれば負けで、その機会がくれば俺の勝ち。
勝てる見込みはあるが、負ける可能性もある賭け事のようなやり方だ。
だけど、やるしかない。
できるだけ開けた場所に止まるんだ。少しでも不安要素は潰せ。
そして俺は周りに生えている木々が少ない場所を選び、迎え撃つべく型を繰り出した。
山の呼吸 壱ノ型 不動顕山
構えを取り、緊張の中じっと耐える。
「……」
……。
……。
……。
……。
「はっ」
何も聞こえず、感じることもできない。
だけどそこに俺は刀を振った。
手応え、あり。
鬼の次の攻撃はすぐにはこなかった。恐らく動揺しているのだ。不可視の攻撃がなぜ防がれたのだろうか、と。
ただし、一度だけならまぐれで片付けることができる。鬼はきっとまた攻撃してくる。
……。
……。
──後ろだ。
背中を守るように刀を構えると、再び手応えがあった。
相変わらず何も感じない。だけど何となく刀を振っている。それは確実に鬼の攻撃を防いでいた。
──右。
弾く。
──前。
弾く。
──上。
弾く。
──左。
弾く。
きっと鬼はすごい顔をしているに違いない。普通ならここまで防がれることはあり得ないだろう。実は見えているのではないかと疑ったとしても無理もない。
だけど正真正銘、気配も、においも、音も感じない。
俺はただ自分の体が思うままに身を任せているだけだ。
──右右。
弾く。
──上前。
弾く
──後ろ後ろ。
弾く。
さすがに焦っているのか攻撃の感覚が狭まってきた。
まだだ。まだ反撃の機会は訪れていない。
──上上右。
弾く。
──右後ろ左。
弾く。
──前上後ろ。
弾く。
まだだ。まだ。
──前左左後ろ。
弾く。
──上右右前。
弾く。
まだ……。まだ……。
──右右右前。
弾く。
──前左左前。
弾く。
前前ま──
鬼の攻撃に耐えて耐えて耐え抜いた。
姿が見えてなくても、確実にそこにいるのなら俺の攻撃が当たるかもしれない。それだけをずっと狙っていた。
その機会は、今訪れたのだ。
俺は刀を握り直して上段に構えた。
山の呼吸 肆ノ型
渾身の力で前方に向け刀を振り下ろす。
この型は単純な振り下ろしだが、それゆえに呼吸で得られる力を乗せやすい。その破壊力たるや山の大樹を砕き割ることもできるほどだ。その一撃が目の前に振り下ろされる。
刀で出したとは思えないほどの衝撃が響き、地面が少しだけ抉れた。
切った感触は、あった。
壱ノ型で閉じていた目を開けると、片腕を切り飛ばされ、衝撃で大きく体勢を崩している鬼の姿があった。
その双眸は理解できないことが目の前で起きたと言わんばかりに見開かれている。だが同情も哀れみも浮かんではこなかった。
肆ノ型で地面に刀を振り下ろしている状態。この状態から最速で繰り出せる型。
山の呼吸 陸ノ型
腰を落とし、低い体勢からの鋭い切り上げの一閃は、まるで吸い込まれるかのように鬼の頸に刀身を食い込ませ、勢いよく通過した。
「な、なんだよなんだよなんだよっっ!!」
全てに理解が追い付いていない鬼は認められないといった風に叫び声を上げた。
「俺の血鬼術は完璧だったはずだ! なのに何で全部防げるんだよ!? まるで俺の動きに合わせるように攻撃がくる? ふざけんなっ!」
胴と首が離れた今、鬼の体は先の方から灰となっていく。
「いやだっ、死にたくないっ」
つくづく身勝手な奴だ。人を殺しておきながら死にたくないなどと。
「きっとお前の殺した人たちもそう言ってただろうさ。だけどお前は殺した。その行為は、巡り巡って今お前に返ってきてんだよ」
「そんなっ、理不尽だっ! 弱いのが悪いっ、脆いのが悪いっ、俺はわるく──」
その言葉が最後まで続くことはなかった。自分にとって都合のいいことしか言えない口は、とうとう灰となって消えていった。
これで任務は完了だ。
あの担がれてきた女性と助けた女の子を町まで送らなければ。
俺は刀を鞘へと戻し、女の子を寝かせていた場所まで戻った。
少し心配だったが、女の子の姿を隠すためにかき集めておいた草や枝は荒らされた様子はない。一応どかして確認したが女の子はそこにいた。
これで女の子はいい。残るは女性の方だ。
眠ったままの女の子を背中におんぶして、あの鬼と最初に出会った場所に向かう。
「……」
何かはわからないが、危険を感じた。慌ててその場から飛び退くけど何もない。周囲を確認しても怪しいものはなく、ただの森の景色しか見えない。
だけど今なお全身の鳥肌が止まらない。
本能に危険を告げている。
「急いだほうがいいな」
こういう時の直感ほどよく当たるものだ。本来なら調査するべきだろうが、今は女の子の命もかかっている。一刻も早く帰らなければいけない。
そして最初の場所までやってきた。何度見てもこの光景は吐き気を催してしまう。助けられなかったことが悔やまれるが、この女の子だけでも助けられたのは不幸中の幸いというやつではないだろうか。
そんなことを思いながらあの女性を探している時だった。
「きゃあああああぁぁぁぁぁっっ!!」
「叫び声!?」
夜の森に女性の甲高い悲鳴が木霊した。この叫びから察するにただ事じゃない。
俺は慌てて声の方向へ駆け出した。
すると人影が二つ見える。一つは地面にへたり込んでいて、もう一つはそのへたり込んだ人影を見下ろしている形だ。
へたり込んでいる方には見覚えがあった。あの鬼が担いできた女性だ。
やはり生きていたようで、特に怪我らしい怪我もない。だけど女性は酷く怯えた様子だった。対象はもう一人の見下ろしている人影。
考えるより先に体が動いた。女の子は茂みに隠れるように置いてきている。
柄に手を掛けて一目散に見下ろしている人影の方へと距離を詰める。
「やめろぉぉ!」
女性の顔へと手を伸ばす人影。その手首を切る勢いで刀を抜刀し振り下ろした。
だけど俺の刀は空を切った。避けられたのだ。
「あ、鬼殺隊? 柱じゃ……ないのか。よかったー」
人影は鬼だった。
危うく女性を殺されるところだったが、間に合ってよかった。
「大じょ、ぶ……」
女性の状態を訊こうと声を掛けるべく振り向いて絶句した。
へたり込む女性は、首から上がなくて、その頭が繋がっていたであろうところからは血が勢いよく噴き出していたのだ。
あれ? 俺は確かに間に切り込んで助けたはずだ。
「はー、ちょっと待って。ここに来るまでにお腹減ったからさ。お前殺すのは少し食べてからね」
その言葉に鬼の方を見ると、その手には既に半分ほど齧られた女性の……。
「っ!」
山の呼吸 伍ノ型 無剣山
衝動に任せた移動。そこから即放たれる無数のような突きは、しかし一つも届くことはなかった。
すべてを受け止めるか、流されたのだ。
だけどまだだ。
山の呼吸 玖ノ型 回山倒海
多少動揺はしたもののすぐさま次の型を放つ。だがこれは鬼が後ろへ飛び退いたことで躱されてしまった。
「話聞けよ。殺すのは腹ごしらえしてからって言ってるでしょ」
「じゃあその前に頸をもらう」
再度鬼との距離を詰める。今度こそ頸を切り落とそうと勢いよく刀を振るが。
「だから待ってろよ」
「がはっ!?」
一瞬だった。俺が刀を振るより早く鬼が懐に潜り込んできて、俺の体を殴り飛ばしたのだ。
想像以上に重い一撃だった。
軽々と吹っ飛ばされた俺は急なことで受け身も取れずに木へと背中を打ち付けてしまった。
「……っ」
衝撃で肺の中の空気が強制的に吐き出される。そのせいで咳き込んでしまうが鬼が追撃を掛けてくる様子はない。
食事をしているのだ。俺は食事を優先させられる程度でしかないということ。
あの鬼、何かが違う。
さっきの鬼に近い。いや、さっきの鬼がこっちに近いんだ。
「……ふぅ。少しだけ腹も膨れたかな。朧鬼の人間も後でもらおうか」
俺は為す術なくその鬼を見ていることしかできなかった。
「さてと。そこの鬼殺隊。さっきはよくも邪魔してくれたね」
「……黙れ」
自分の不甲斐なさに腹が立つ。それと同時に目の前の鬼に強い憎しみを抱いた。
「黙れ? そんなことお前程度から言われたくないね」
「いいから黙れ!」
声を聞くだけで神経が逆撫でされる。虫唾が走る。イライラしてしょうがなかった。
「……もういい。殺す。『十二鬼月』である私にたてついたこと死んでから後悔すればいい!」
この鬼、今何て言っただろうか。
聞き間違いでなければ『十二鬼月』と言っていた気がする。
そこで俺は初めてその鬼の顔を見た。その目にはある文字が刻まれていた。
『下肆』
「安心して。殺した後は全部食べてやるから。この下弦の肆、
今日この日、俺は初めて『十二鬼月』と遭遇した。