夜風が気持ちいい。
そんなことを考えて散歩していた俺は、今は息を殺して、気配を出さないように物陰に潜んでいた。
どうしてかというと、散歩していたら炭治郎が屋根で瞑想している姿を見かけ、「頑張ってるなぁ」なんて思いながら散歩の足を止めて見守っていたのだ。
するとどうしてだか、しのぶさんが炭治郎の下にやってきた。
そこで居座らずに、さっさと部屋に戻ればよかったものを、二人の会話が気になって今に至る。
だけどよくよく考えれば、会話を盗み聞きしていることがしのぶさんにバレたら、俺の身が危ない。
そのことに気付いたときには、戻るに戻れない状況に陥っていたというわけだ。
こうなったら、絶対にしのぶさんにバレるわけにはいかないな。
俺はしのぶさんがいなくなるまで、その場に隠れ続けるしかなかった。
そうこうしているうちに、二人の会話が始まった。話している様子は窺えないが、辺りが静かだから、会話の声は聞こえてくる。
「お友達二人はどこかへ行ってしまったのに、一人で寂しくないんですか?」
「いえ! できるようになればやり方を教えられますんで! それに陽吉津もよく付き合ってくれてますから!」
「ふふ、そうですか。……それにしても、君は心が綺麗ですね」
しのぶさんに、俺が炭治郎の修行に付き合っていることがバレてしまった。
いや、別に隠したかったわけでもないし、やましい行為でもないから問題はないはずなんだけど、単純に恥ずかしい。
当然ながら、今まではなす機会が少なかったであろう二人は、しのぶさんの言葉を最後にしばらくの沈黙が流れた。
それを破ったのは炭治郎だ。
「……あの、どうして俺たちをここに?」
炭治郎はそんなことを訊いていた。
「禰豆子さんの存在は公認となりましたし、君たちは怪我も酷かったですから」
しのぶさんは「それから……」と続けた。
「君には私の夢を託そうと思って」
「っ!」
危うく声を上げるとことだった。
やっぱりしのぶさんも思うところがあったのだ。それが、今聞ける。
「夢?」
「そうです。鬼と仲良くする夢です」
「……それ、陽吉津も似たようなことを言っていたような」
覚えていてくれたのか。
「そう……陽吉津君も。きっと似た思いなのですよ。君ならきっとできるという」
「……怒ってますか?」
炭治郎は何を言っているんだ?
姿が見れないから、状況がよくわからない。今の流れで、何で怒っているかなんて訊くんだろうか。
「なんだかいつも怒っている匂いがして……ずっと笑顔だけど」
……何で炭治郎にはそれがわかったのだろう。
匂い、という点は気になるけど、炭治郎の言っていることは的を射ているように思った。
しのぶさんはいつも笑顔の裏で何かを抱えている。それが怒りとまでは、俺にはわからなかったけど、それの存在くらいなら把握していた。
「……そう、ですね。私はいつも怒っているかもしれない」
そしてそれは、しのぶさん自身が認めた。
「鬼に最愛の姉を惨殺されたその時から……」
これが、しのぶさんの本当の声なんだ。
「鬼に大切な人を奪われた人々の涙を見る度に……絶望の叫びを聞く度に、私の中には怒りが蓄積され続けて膨らんでいく」
俺の想定していた以上の怒り……憎悪とも呼ぶべき感情。
「体の一番深い所に、どうしようもない嫌悪感があるんです」
しのぶさんが俺に、カナエさんの話をしてくれた時を思い出した。
一体、どんな心境でいたんだろうか。
「私の姉も君のように優しい人だった。鬼に同情していた。自分が死ぬ間際ですら鬼を哀れんでいました」
もはやしのぶさんにバレないようになんて考えはどこかへ消え去り、今はただしのぶさんの独白に耳を傾けていた。
「私はそんな風に思えなかった。人を殺して可哀想? そんな馬鹿な話はないです」
鬼に大切な人を奪われる。絶望。怒り。それは同じ境遇に立つ者にしか推し量れない。
しのぶさんも、俺も、炭治郎も。
「でも、それが姉の想いなら、私が継がなければ。哀れと言う鬼を斬らずに済む方法があるなら、それを考え続けなければならない。姉が好きと言ってくれた笑顔を絶やすことなく」
その苦悩は相当なものなはずだ。
思えば、しのぶさんが俺にカナエさんの想いを話したのは、一人では抱えきれなくなっているという合図だったんじゃないかとさえ思う。
「だけど……少し、疲れまして」
そしてまた、限界が近づいているんだ。
「陽吉津君にも同じものを背負わせてしまって、また同じ過ちを繰り返そうとしてる。でも、きっと……」
しのぶさんは、俺にカナエさんの想いを話したことを後悔していたようだ。
だけどそんなこと気にしないでほしい。
俺は俺の意思で、カナエさんの想いを尊重すると決めたんだから。
「炭治郎君は頑張ってくださいね。どうか禰豆子さんを守り抜いてあげて」
そろそろ会話が終わりそうだ。そんな気配がした。
俺も戻らないと。
「自分の代わりに君が頑張ってくれていると思うと、私は安心する。……気持ちが楽になる」
しのぶさんの言葉を聞きながら、俺は静かにその場を去った。
「……」
部屋へと戻る最中、俺は先ほどまで聞いていたしのぶさんの言葉を反芻していた。
意図したものではないが、しのぶさんの本心が聞けた気がする。
しのぶさんのことだから、誰かにその心の内を曝け出すなんてできなかったはずだ。
柱としての立場もある。
今日ああして炭治郎に話したことで、少しでも抱えているものを下ろせたのならいいのだけど。
「……俺が悩んでもしょうがないか」
いろいろ考えてもしょうがないし、今日のところは早く寝よう。
そう思って自分の部屋に着き、戸を開けようとした時だった。
「ヒッ!?」
何かに肩を叩かれた。
あまりにも突然で、つい情けない悲鳴を上げてしまったが、恐る恐る背後を振り返る。
「ふふふ」
そこには満面の笑みを浮かべたしのぶさんが、俺の肩に手を置いた姿勢で立っていた。
心霊的な怖さはなくなったが、代わりに恐怖が増すことになった。
「……おやすみなさい」
「少しお話ししましょうか?」
ダメもとで寝るという意思を伝えてみたが、しのぶさんはお構いなしだ。
下手に刺激して雷が落ちるより、ここは素直に従った方がいい。
観念した俺は、そのまましのぶさんを部屋に招き入れた。
部屋へと入ってからも、しのぶさんは笑顔を浮かべている。笑顔を浮かべるのは大事ですけど、こういう時は怖いのでやめていただきたい。
とは言えず、俺の頭は「バレてた」という事実で一杯だった。
「陽吉津君、わかってますよね?」
「……はい」
一体どんな制裁が待ち構えているのか、できれば軽いものがいいなんて考えていると、「……そこまでビクビクしなくてもいいじゃないですか」と言われてしまった。
いや、さすがにそれは無理がありますよ。
「まったく、そんなに怯えるなら盗み聞きなんてしなければいいじゃないですか」
「返す言葉もございません」
盗み聞きしていた俺が全面的に悪い。
「まぁ、私も聞かれているのを承知で話していましたけどね」
なんとまぁ、俺の隠密空しく最初からバレていたらしい。
つまりしのぶさんは、俺にあの会話を聞かせたかったということになるのか。
「……あれはしのぶさんの本心なんですよね」
そういうことならいろいろ訊きたいこともある。この際開き直ってやる。
「そうです」
やはりあれがしのぶさんの本心。
俺の想像より、鬼に対して怒り、姉の想いを受け継ぎ、その板挟みに苦しんでいる。
「何で俺にあの会話を聞かせたんですか?」
俺の存在に気付いているなら、俺を追い払ってから話を再開することもできたはずだ。そこにはどんな意図があるのか。
「そうですね……一つは謝罪を。もう一つは、必要と感じたからですかね」
「謝罪なんて……そんなの俺には必要ないですよ」
大方、カナエさんの想いを話したことについてだろうけど、さっきも思ったように気にする必要はない。
「いえ、そういうわけにもいきません。陽吉津君と話したあの日、弱い私はついつい抱えているものを押し付けてしまいました」
俺からすれば、押し付けられたなんて考えてもいない。だけどしのぶさんは譲るつもりはないらしい。
「陽吉津くなら……そう思って姉さんの想いを話しましたが、それは少なからず陽吉津君を苦しめているはずです。陽吉津君だって、鬼に大切な人を奪われた側の人なんですから」
しのぶさんの言う通り、少なからず鬼について思うところが増えたのは事実だ。
ただ斬り倒せばよかった今までと違って、頭の片隅にはカナエさんの想いが居座っていた。その想いを尊重していたからこそ、鬼の本性を目の当たりにして勝手に裏切られた気分になったことも、なくはない。
ああ、やっぱり鬼は鬼なんだ。
そう思うこともある。
だけど、それすら俺は承知の上でいたのだ。
「ごめんなさい。本来なら私一人で背負うべきものを、陽吉津君にまで背負わせてしまった。今更取り返しはつかないと思いますが、それでも謝らせてください」
そう言って頭を下げるしのぶさん。
俺はそんな姿を見たくなかった。
「頭を上げてください。そんなことされても、俺は困るだけですよ」
渋々といった風に、頭を上げてもらうことに成功した。
「……しのぶさんの謝罪は受け取っておきます。確かに、少なからずそういうことはありました。でもこれだけは覚えておいてください」
謝るのはしのぶさんの自由だが、これだけは覚えておいてもらいたい。
「俺はそういうのも全部承知した上で、カナエさんの想いを尊重したいと思ったんです。俺の意思なんですよ、これは」
だから例え俺が鬼という存在に苦しんだとしても、それは決してしのぶさんのせいじゃない。
自分の責任は自分で持つ。
これだけは伝えておきたかった。
俺の思いを汲み取ってくれたのか、しのぶさんはそれ以上頭を下げることはしなかった。
そう、それでいい。しのぶさんが俺なんかに頭を下げる必要なんてないんだ。
「これで謝罪の方はいいですよね? もう一つの方は」
俺に聞かせる必要があるとか。
それはいったいどういうことだろうか。
「……私はあまり本心を話しません。柱という立場も関係していますが、姉さんを亡くしてから、私が蝶屋敷の皆を守らなければいけなかったから」
確かに、そうなると仕方ないかもしれない。
「……ですけど、それだといけない。それはあまりにも、不誠実です。だから、陽吉津君には知ってほしかった」
「俺に?」
「私の本心を話すには、カナヲやアオイたちではまだ勇気が足りなくて。ですけど、陽吉津君には姉さんの想いを共有している以上、私の本心を話さないといけないと思っていましたから」
しのぶさんは「不器用ですよね、私」と言って乾いた笑いを漏らしていた。
だけど、たとえ不器用だとしても、こうしてしのぶさんは俺に本心を聞かせてくれた。
そのことがどうしようもなく嬉しい。
「ありがとうございます」
「ふふ、お礼を言わないといけないのは私の方ですよ。姉さんのこと、実は結構一杯いっぱいだったんですよ? そんな時に、陽吉津君の存在は確かな支えになってくれました。私だけじゃないって。だから、ありがとうございます」
お互いにお礼を言い合うなんて、ちょっとおかしかったけどこれでいい気がした。
少しだけ、しのぶさんを知れた気がする。
それは本心を知ることができたから。
俺はしのぶさんの支えに少しでもなれている。少しでも信頼されている。
そう思った。思っていた。
だけど、俺は気付けなかった。
胡蝶しのぶという、一人の人間が心に決めていることを。
それに気づくことなく、俺はしのぶさんともう少しだけ話をしていた。
もし俺の直感が、それを感じ取れていれば、まだ違ったのかもしれない。