目が覚めると知らない天井だった。
そうだ、俺は昨日蝶屋敷に泊まったんだ。
というかこれから毎日ここで寝泊まりすることになったんだけど。あとついでに蟲柱・胡蝶しのぶの継子になった、もといされた。
俺がぼんやり昨晩のことを思い出していると戸を叩く音がした。
「起きていますか、陽吉津さん!」
声の主は神崎アオイさんだった。俺の様子を確認しに来たらしい。
「今起きました」
「でしたら顔を洗ってきてください。朝餉の準備はできていますから。もうカナヲもしのぶ様も待っています」
それだけ言い残してアオイさんは行ってしまった。
残された俺はというと呆け面のまま固まっていた。さっきのアオイさんの言葉を噛みしめていたのだ。
朝餉を待ってくれている。
ただそれだけのことかもしれないが、俺にとっては新鮮なこと。
親を亡くしてからは一人でずっと生活していた。朝起きて顔を合わせる人はおらず、いってきますやおかえりを言う相手も言ってくれる相手もいない。食事は当然のように一人でとるのが当たり前だった。その寂しさに耐えかねて時々ご飯も食べずにいたことだってある。
なぜかわからないけど急がないと。
妙な焦りを感じた俺は手早く寝ていた場所を整理し、言われた通りに顔を洗いに向かった。
早く、早く。
そのまま急いでカナヲたちのところへ向かう。
「廊下は走らないでください!」
「……」
「朝から大忙しですね陽吉津君」
「陽吉津さん大丈夫ですか?」
「陽吉津さんおはようございます」
「おはようございます」
「あ……おはよう、ございます」
アオイさん、カナヲ、しのぶさん、なほちゃん、きよちゃん、すみちゃん。
皆俺が来るのを待っていたようだ。
「さ、陽吉津君も来たことですし、いただきましょうか。陽吉津君はカナヲの隣に座ってもらいます」
そう言われ俺はカナヲの隣に準備されていた膳の前に腰を下ろした。
「では、いただきます」
しのぶさんが音頭を取って皆が一斉に「いただきます」と声に出した。俺もをれに少し遅れる形で言う。
各々食べ始める中、俺は箸を手に取ることもせずその光景をポーっと見ていた。
これが、皆で囲む食事なんだ。
「どうかしたんですか? もしかして具合でも悪いとか」
一向に食べ始める気配のない俺に気付いてアオイさんが心配してくれた。
「あ……いや、具合は大丈夫。うん」
何てたどたどしい返事だろうか。これではむしろもっと心配されてしまうだろう。
現にアオイさんは訝し気に俺を見ていた。
「……フフッ」
するとそのやり取りを見ていたしのぶさんが突然笑い出した。急に笑い出すものだから全員の箸が止まってしのぶさんに注目が集まる。
「フフフッ、ごめんなさい。陽吉津君の反応が面白くて我慢できませんでした」
そんな面白い反応だったか?
「どうですか陽吉津君。皆で囲む食事は?」
「その……新鮮で、よくわからないです」
「そうですか、でも心配はいらないですよ。これからは毎日こういうことがあるんですから、例え嫌と言っても慣れてきます」
「毎日……」
「ええ、毎日です。何せ私たちはこの蝶屋敷で共に暮らす者。言ってしまえば家族同然の存在なのですよ」
そう言ってしのぶさんは俺に温かい笑顔を向けてきた。
俺は周りの人も見まわした。
アオイさんは当然のことだと言わんばかりに俺を見ている。
なほちゃん、きよちゃん、すみちゃんの三人は眩しいくらいの笑顔で俺を見ている。
そしてカナヲはあまり表情が変わっていないように見える。だけど纏っている空気というか雰囲気でわかる。カナヲも俺を蝶屋敷の一員として認めてくれているということが。
「ね?」
最後にもう一度しのぶさんを見れば自信たっぷりにそう言われた。
これから俺はここで暮らすんだ。そのことが急に実感を伴って俺の胸を熱くさせた。
「っ……」
溢れるものを堪えそうにない。
俺は箸を取ってかきこむように食べ始めた。
「あらあら……フフッ」
再び各々が食べ始める。
この日の朝餉の味はよくわからなかったけど、今まで食べたことないくらいにおいしく感じた。
朝餉を食べ終えた俺は恥ずかしさに耐え兼ねあてがわれていた部屋へと一目散に閉じこもった。
まさか初日から皆の前であんな情けない姿を晒すとは思っていなかった。
それもこれも全部しのぶさんが悪い。
俺がそんな風にすべての責任をしのぶさんのせいにしていると突然戸が開け放たれた。
「……」
カナヲ、せめて一声掛けてほしい。
「どうしたんだ?」
「……修行」
そういうことか。
全て理解した俺は刀を持ってカナヲと一緒にしのぶさんの下へ向かった。
しのぶさんがいたのは隊士の機能回復訓練用に使うという訓練場だった。
「カナヲ、ありがとう」
しのぶさんがお礼を言うとカナヲは訓練場から出ていった。一緒に訓練するものじゃなかったのか。
「さて、今日から私の継子として陽吉津君を鍛えていきますが、私は陽吉津君がどれほどの実力があるのか何もわかりません」
と言いながらしのぶさんは木刀を手渡してきた。
「なので今から陽吉津君は私に全力で向かってきてください。もちろん鬼を相手にするときと同じようにです。あ、反撃するかもしれないので注意してくださいね」
「え」
まさかの柱直々お相手するらしい。まぁ、継子の実力を測るのに柱が相手する方が何かといいのは確かだ。
だけど柱を相手には荷が重いです。
「それではいきますよ」
「あ、ちょっと」
戸惑う俺をよそに無情にも「始め!」の合図が下った。
こうなったらやるしかない。
覚悟を決めて木刀を正面に構えた。
「……」
しのぶさんは俺の一挙手一投足に至るまで真剣に見ている。
「ハアッ!」
まずは普通に切りかかっていくが、当然当たるはずもなく躱される。
ここからだ。
呼吸を意識して次の動作へと移る。
岩の呼吸 弐ノ型 天面砕き
瞬時にしのぶさんへと肉薄して本気で木刀を振り下ろした。
だが振り下ろす手にしのぶさんの手が添えられて横に軌道を変えらてしまう。
技の失敗による無防備な状態。これを柱であるしのぶさんが見逃すはずもなく鋭い蹴りが飛んできた。
「ぐっ!?」
ただの蹴り。そのはずなのにとんでもなく重い。
吹き飛ばされはしたもののすぐさま体制を直す。そして次にしのぶさんを見た時には既に俺に飛び掛かってきていた。
岩の呼吸 参ノ型 岩軀の膚
慌てて俺は手にしている木刀で周囲を殴りつける。
これにはさすがにしのぶさんも距離を取った。
「くっ……」
やはり柱であるしのぶさんの実力は圧倒的だ。未熟な俺の呼吸では勝てる気がしない。
「なるほどなるほど。だいたいわかりましたよ」
「もう、いいんですか?」
「はい。蹴ってしまって申し訳ありません。大丈夫ですか?」
「それは大丈夫です」
あの蹴りだって相当加減されていたものだったはずだ。それくらいで怪我でもしようものなら恥ずかしさで死ねる。
「それじゃこっちへ来てください」
言われた通りしのぶさんの近くに寄った。
「まず刀の構えですが、これは問題ないですね。振り方に関してはもう少し脇を締めたほうが力も籠めやすくなると思うのでこれから意識してください」
さっきのやり取りで発見した改善点を次々と告げてくる。
「それから呼吸ですね。ほとんど独学ということでしたが、形にはなっています。鬼にも十分通用すると思うのですけど……まだ不完全ですね」
やっぱりか。だけどそれは俺自身十分に理解していることだ。
「どうしたらいいですか?」
「そうですね……岩の呼吸なら岩柱でもある悲鳴嶼さんが適任かと思うんですけど」
しのぶさんはそこまで言ってから何やら言い淀んでいた。
「……もしかすると陽吉津君は岩の呼吸に適性がないのかもしれませんね」
「……え?」
それは、どういうことだ?
適性がない? でも俺は岩の呼吸を形だけでも使えているはずだ。適性がないなんてことは。
「ああ、すみません。適性がないは少し語弊がありますね。正確に言うなら陽吉津君の呼吸は何か他の適性があるかもしれない、です」
「……」
それは、考えたこともなかった。ずっと岩の呼吸を使えるように毎日鍛錬を重ねてきた俺にとって思いつくはずもない可能性だろう。
「しのぶさんには俺に何の適性があるのかとか見当がついたりは……」
「発言しておきながらすみません。さすがにそこまでは。ただ岩柱の悲鳴嶼さんとは任務を共にしたこともあるので岩の呼吸はその時に何度か見ています。さすがに柱とだけあって陽吉津君と比べものにならないですけど、それにしても何かが違うと思いますね」
どうしたらいいのだろうか?
今までずっと岩の呼吸を使いこなせるように鍛錬を積んできたのに、それを土台から崩すかもしれない事実を突きつけられた。
強くなろうとした矢先にこれだ。
「陽吉津君? 陽吉津君!」
「あ……しのぶさん」
「大丈夫ですか?」
今まで重ねてきたことすべてが無駄になったわけじゃない。しのぶさんが言っていたじゃないか、鬼を倒すのには十分だと。
それは理解しているけど、この喪失感にも似た気持ちはすぐには整理できない。
「大丈夫……じゃないですね」
「陽吉津君……そんなに気落ちしないでください。陽吉津君に感じたものは私の見てきたどの呼吸とも元の何かが違う気がします。でもそれは私の蟲の呼吸だって同じ。私の蟲の呼吸は姉の使っていた花の呼吸を私でも使えるように編み出したものなんです。私の言いたいこと、わかりますか?」
蟲の呼吸は花の呼吸から派生したもの。
新しく、編み出したもの。
しのぶさんの言いたいことは……。
「自分の呼吸を、しのぶさんと同じように派生させろってことですか?」
俺の言葉にしのぶさんは確かに頷いた。
だが呼吸を派生させるなんて俺にできるだろうか?
「呼吸の派生は意外と多いことなんですよ? 柱でも蛇に音、それから恋の呼吸なんてのもありますし」
「恋!?」
全く想像できない。一体どんな呼吸なんだろうか?
「あまり難しく考えないことです。派生なんですから元の呼吸を参考にしたっていいんですよ」
呼吸の派生。これはじっくり向き合っていかないといけないことかもしれないな。
「さ、指摘に関してはこの辺りで止めておきましょうか。次は『全集中・常中』について教えていこうと思いますが、陽吉津君は知っていますか?」
「ぜんしゅ……?」
初めて聞く言葉だ。覚えきれなかった。
「その様子だと知らないみたいですね。簡単に言えば四六時中、全集中の呼吸をすることで基礎体力を向上させるものなんですよ」
「全集中を四六時中!? それって寝るときとかは」
「もちろん寝る時もしますよ」
無理だ!
四六時中ってそのまんまの意味だった。ただでさえ鬼と戦う際の一瞬一瞬でしか使わないのに、たったそれだけでもすっごい疲れるのに、それをずっとなんて……不可能だろ。
「柱は例外なく全員がこの全集中・常中を扱えます。それ以外だと継子なんかも扱えますね」
ということはカナヲも全集中・常中が扱えるのか。だからあそこまで力が強かったのか。
俺は為す術なくカナヲに上着を剥ぎとられた時のことを思い出していた。
「というわけなので同じく継子である陽吉津君にも完璧に扱えるよう特訓してもらうので覚悟しておいてくださいね」
笑顔のままそんなことを言ってくるしのぶさんは俺からすると楽しそうに見えた。とんでもないよこの人。
「この全集中・常中を扱えるようになれば確実に強くなれます。ですから頑張ってくださいね」
「……わかりました。お願いします」
強くなれるのならやってやる。必ず全集中・常中を習得してみせる。
俺は覚悟を決めてしのぶさんに力強く返事した。
「よろしい。それではまず──」
それから俺はしのぶさんの教えの下に全集中・常中の習得、構えの矯正、それと並行して任務をこなし、更には課題の俺のための呼吸の派生に注力した。