鎮魂の廃寺に着いたのは、すっかり日が落ちてからだった。首元を吹き抜ける風の冷たさに、マフラーを取ってくればよかったと少し後悔した。
装甲車から降り、神機を構えてユウ達のもとへサカキを連れていく。装甲車の中でサカキから、通常任務に偽装してヴァジュラとシユウの討伐をユウ達に命じていた事は聞いていた。本日ミツハが全休であったのも、もしかするとサカキが根回ししていたのかもしれない。第一部隊総出の事態に、ますますミツハはサカキの目的が何なのかと首を傾げるばかりだ。
地上のアラガミはソーマに任せ、浮遊するザイゴートをブラストで撃ち落としつつユウ達が居る作戦区域のD地点へ向かう。遠くのエイジスが見える崖の上で、ユウ、アリサ、コウタ、サクヤの四人がシユウの死体を取り囲んでいた。
ユウがシユウを捕喰しようと神機を変形させるが、それをサカキが止める。
「――それ、ちょっと待った!」
「……えっ、博士!? ソーマとミツハも!?」
「なんでこんなとこに?」
滅多な事ではアナグラの外へ出ないサカキの登場にユウ達は随分驚いているようだった。首を傾げるユウとコウタにサカキは手招きをして笑う。
「説明は後だ。とにかくそのアラガミはそのままにして、ちょっとこっちに来てくれるかな?」
サカキの言葉に不思議そうな顔をしながら、ユウ達と共に物陰に身を隠す。「何があるの?」声を潜めながらサクヤが尋ねてきたが、ミツハも詳しい事情は聞かされていないのだ。一緒になって首を傾げていると――サク、と雪を踏む音が聞こえた。
「――来たよ!」
声の声量こそは小さいが、随分と興奮した声色でサカキが呟く。放置されたシユウの死体に目を向ければ、白い人影があった。
雪のように白いショートカットの髪に、抜けるような青白い肌。ボロボロなフェンリルの旗をポンチョのように身に纏い、他は何も身に着けていない。冷たい雪の中だと言うのに、素足のままで足跡を刻んでいた。その足跡は小さく、背丈はミツハとほぼ同じくらいだ。
そんな白い少女の手足は――真っ赤な血で染まっていた。
少女はシユウの骸に飛び乗り、何やら死体を漁るように身を屈めた。一体何をしているのかとアリサ達と顔を見合わせたが、ソーマは何かを悟ったのか一番に飛び出した。それに続いてミツハ達も少女を取り囲むようにして近づく。
先程少女が何をしていたのか――それは、すぐに分かった。
少女はシユウの硬い翼の一部をもぎ取り、それを――〝喰って〟いたのだ。
少女はごくんとか細い喉を上下に揺らし、ゆっくりと此方を振り向く。
「……オナカ、」
あどけない、ソプラノの声だった。
「スイ、タ……」
そんな可愛らしい声とは似つかわしくない、赤く染まった口元を拭った。
「……ヨ?」
血に濡れた首を傾げながらたどたどしく言葉を紡ぐ少女は、なんとも異質だった。月明りに照らされた琥珀色の瞳と目が合い、ミツハは思わず後退る。
――なんだろう、この子。
不思議な感覚がした。人の姿をした〝何か〟に狼狽えるようにミツハがまた一歩退くと、それを止めるように後ろから両肩に手を置かれた。緊迫した空気を壊すようなサカキの陽気な声が頭上から降ってくる。
「いやあ、ご苦労様! やっと姿を現してくれたねえ!」
サカキは随分と上機嫌なようで、顔をいつも以上に口元をにやつかせながら少女に話し掛ける。最も、少女はあまり意味が分かっていないようで首を大袈裟な程に傾げるばかりだが。
「は、博士、」
「ふたりとも、此処まで連れてきてくれて有難う。君達のおかげで、此処に居合わす事が出来たよ!」
「……礼などいい。どういう事か説明してもらおうか」
「いや、彼女がなかなか姿を見せてくれないから、暫くこの辺一帯の〝餌〟を根絶やしにしてみたのさ。どんな偏食家でも、空腹には耐えられないだろう?」
「……チッ、悪知恵だけは一流だな」
「そもそも説明になってない……」
訝し気な顔をするソーマとミツハをのらりくらりとサカキは躱し、ミツハの肩から手を離して少女の下へ歩み寄る。状況が飲み込めていないコウタがあの少女が何者なのかと尋ねるが、サカキは勿体ぶるように研究室で説明すると言い、この場での明言はしなかった。
「……餌、ってどういう事なんでしょう」
「う、うーん……あのシユウがあの子の餌、ってこと……?」
「私にもよく分かんない……でも、あの子食べてたもんね」
アリサとコウタと顔を見合わせて頭を悩ませる。白い少女は相変わらずゆらゆらと身体を揺らしながら、ミツハ達の姿をそれぞれ見ていた。そしてその琥珀色の瞳はソーマを捉えて、何かが気になるようにじっと凝視する。
「……あの二人、何をコソコソしているんでしょう。怪しいです」
少女の目線の先に居るソーマはサカキと何やら声を潜めて話をしていた。説明不足なこの状況にアリサは少々腹が立っていたのか、棘を含んだ声色で二人に声を掛ける。
「そこ、コソコソ何してるんです?」
「――ああ、ごめんごめん!」
アリサの言葉にサカキがわざとらしい大声をあげて此方に向き直った。サカキはにっこりと胡散臭い笑みを浮かべ、耳を疑うような言葉を続けた。
「ちょっとソーマから人生相談を受けていてね。いやあ、初恋の悩み。誰もが通る道だねえ」
「は――」
「ええ!? ソーマが!?」
「マジで!?」
衝撃的な言葉にアリサとコウタが大袈裟に驚く。
――初恋。
その言葉の響きに、ミツハは開いた口が塞がらなかった。サカキの言葉にソーマも目を剥き、怒気を含んだ声で否定する。
「ふ、ふざけるな! 誰がそんな――」
「あ、あ、相手は誰なんです!? 私、貴方がミツハ以外の女の子と話してる姿見た事ないんですけど!?」
「うるせえ、黙ってろ! クソッ、付き合ってられねえ……」
問い詰めるアリサからソーマは背を向け、神機を肩に担いで階段を下りていく。早足で階段の下へ消えていくソーマの背中を見送りながら動揺で固まるミツハの背中を、少し呆れたようにユウが軽く叩いた。
「……いや、嘘だと思うよ? こんな状況で、ソーマがそんな場違いな話をするわけないだろうし……」
「――あ、そ、そうだよね!? びっくりしたあ……」
少し考えればアリサの不信感を誤魔化すための虚言だと分かる事だ。一瞬でも真に受けた自分が恥ずかしく、火照る頬を抑えながらミツハはソーマの後を追って階段を降りた。
寺の境内を抜けるとミツハ達が乗ってきた装甲車が見えた。白い少女とサカキを兵員室に乗せ、乱暴にハッチを閉めるソーマの様子からして随分腹の虫が悪いようだ。そんなソーマにユウとサクヤが近寄る。閉じたハッチを不安そうに見ている。
「ソーマ、何なのあの子……?」
「博士、あの子を誘き寄せる為に、僕達にミッションを依頼したって言ってたよね。ひょっとして……」
「……サカキのオッサンに聞いてくれ。俺も何を企んでるのか、よく分からねえ」
ユウはあの少女が何なのか、何か気づいているようだった。ミツハがユウに尋ねようとする前にソーマが運転席に向かい、「早く乗れ」とフードの下から覗くインディゴブルーが無言で訴えていたので、慌てて助手席に乗る。アクセルを踏んで動き出した車内に、行きと同じように携帯で曲を鳴らした。
「博士、ほんと何を考えているんでしょうね」
「あの狐が考えてる事は理解出来ん」
「狸の次は狐ですか」
苦笑しながら、サカキの言葉を思い出す。サカキはあの少女を誘き寄せる為に、色々と根回しをしていたようだった。その上サカキが直々に赴いたのだ。それ程までに白い少女は特別な存在なのだろうとは察するが、その正体が何なのかはいまいちミツハには分からなかった。
そして、もう一つ。サカキの虚言を思い出す。
「……ソーマさんって、恋した事ありますか?」
ミツハの唐突な問い掛けに、ソーマはぴくりと眉を動かした。
「お前、なにオッサンの言葉を真に受けてんだよ……」
「いや、流石にあの場で恋愛相談してたとか思ってませんけどね!? ただ、まあ、……気になってしまいましてですね?」
どうしても目が泳いでしまうミツハの心臓は妙な打ち方をした。そんなミツハを一瞥し、ソーマは馬鹿馬鹿しいとでも言うように溜息を吐いた。
「あるわけねえだろ」
「……そう、ですか」
「なんだよ」
「いえ」
した事がない、ではない。あるわけがない、とソーマは言った。
まるで自分とは無縁の事だと言いたげな言葉だった。
――それはそれで、なんだか寂しい気も、する。
「……そういうお前はどうなんだよ」
「えっ、この話続くんですか」
「てめえから言い出したんだろうが」
まさかソーマからこの話題の続きが振られるとは思ってもおらず、ミツハはぎこちない苦笑を浮かべる。
「ご、ご想像にお任せします」
「此処で降ろすぞ」
「……あ……あり、ます……」
「元の世界でか」
「そう、ですけど……うう、もう許して下さい……思い出すだけでセンチメンタルになってくるので……」
「はあ?」
俯きながら両手で顔を覆う。想い人に昔の恋愛事情を話すというのはなかなか拷問染みた事だった。
良くも悪くも、ミツハは高校生〝らしい〟恋愛をしていた。思い出すと複雑な感情が腹の底に濁り、それを掻き消すようにミツハは携帯の音量を上げる。五月蠅くなった車内だが、ソーマには何も言われなかった。
§
アナグラに着き、第一部隊の面々はサカキの研究室に足を運ぶ。すぐに少女について説明されるかと思いきや、定位置の赤い椅子に座ったサカキは頻りにキーボードを叩いており、解析が終わるまで少し待っていてくれと興奮気味にモニターを見ていた。
暫くソファに座りながら、ぺたんと床に座る白い少女を訝し気に見ていたのだが十分そこらでそれも終わった。サカキが椅子から立ち上がり、モニターを回り込んで少女の傍へやって来た。ミツハ達もソファから腰を上げ、少女を囲むようにしてサカキの前に立つ。
「いやあ、長らく待たせてしまって悪かったね」
「それで、この子は一体何なんですか?」
「アラガミだよ?」
「…………」
サクヤの問いに、なんでもないようにサカキが平然とそう返した。
けろりと吐かれた〝アラガミ〟という単語に一瞬静まり返り、そしてソーマを除いた全員で驚愕の声を揃わせた。
「あ、あの……今、何て……!?」
「ふむ、何度でも言おう。これはアラガミだよ」
「ちょっ!? まっ、あ、あぶっ!?」
「えっ、あ……」
「まあ落ち着きなよ。これは君達を捕喰したりはしない」
危険を感じて身を引こうとするコウタとアリサに、サカキが可笑しそうに笑い掛ける。
「知っての通り全てのアラガミはね、〝偏食〟という特性を有しているんだ」
「……アラガミが個体独自に持っている捕喰の傾向……私達の神機にも応用されている性質ですね」
「その通り。まあ君達神機使いにとっては常識だね」
「……知ってた?」
「当たり前だ」
「勉強したよね」
少し焦ったようにコウタはちらりとソーマとユウに問えば、呆れたような声が返ってくる。その様子にミツハは小さく苦笑しながら、説明の続きを聞く。
「このアラガミの偏食はより高次のアラガミに対して向けられているようだね。つまり、我々は既に食物の範疇に入っていないんだよ。……誤解されがちだが、アラガミは他の生物の特徴を以って誕生するのではない。あれは捕喰を通して、凄まじいスピードで進化しているようなものなのだ。結果として、ごく短い期間に多種多様な進化の可能性が凝縮される……それがアラガミという存在だ」
講義のような説明を咀嚼して、理解する。サカキの言葉に、一同は呆気に取られたように白い少女を見やった。
多種多様な進化の可能性。例えば、虎を捕喰したオラクル細胞はその特徴を取り入れ、結果としてヴァジュラという虎に姿を模したアラガミが誕生した。クアドリガは見た目通り、人工物である兵器を捕喰してその通りに進化した。
ならば、このアラガミは。ヒトの姿を模したこのアラガミは、きっと――。
辿り着いた可能性に、サクヤが信じられない、と言った声色でサカキに問う。
「つまり、この子は……」
「うん。これは我々と同じ、〝とりあえずの進化の袋小路〟に迷い込んだもの。――ヒトに近しい進化を辿ったアラガミだよ」
「……人間に近い、アラガミだと?」
そう聞き返したソーマの声は、僅かに震えていた。
「そう。先程少し調べてみたのだが……頭部神経節に相当する部分が、まるで人間の脳のように機能しているみたいでね。学習能力もすこぶる高いと見える。実に興味深いね」
「――――」
サカキの言葉に、ソーマだけでなくミツハも言葉を失った。
――
人間の姿をしたアラガミが何なのか、ミツハは悟った。
琥珀色の瞳を見て湧き上がった不思議な感覚は、きっと――〝世界から爪弾きされたもの〟同士の、ある種の同族意識だと理解した。
サカキが話を続けるが、生憎と耳に入ってこなかった。ミツハはただ呆然と人の姿をしたアラガミを見つめる。少女はミツハと目が合うと、にこっと朗らかに笑った。
「――最後に、この件は私と君達第一部隊だけの秘密にしておいて欲しい……いいね?」
呆然としている間にいつの間にやら話が終わっていたようだった。はっとして顔を上げたミツハは、狐のように底の知れない表情をしたサカキを見た。
そんなサカキにサクヤが訝し気に声をあげる。
「ですが、教官と支部長には報告しなければ……」
「サクヤ君。君は天下に名立たる人類の守護者、ゴッドイーターが……その前線拠点であるアナグラに秘密裏にアラガミを連れ込んだと、そう報告するつもりなんだね?」
「それは……しかし、一体何の為に?」
「言っただろう? これは貴重なケースのサンプルなんだ。あくまで観察者としての、私個人の調査研究対象さ」
言い負かすようにサカキがサクヤを問い詰める。たじろぐサクヤを他所に、サカキはにっこりと笑顔を浮かべていけしゃあしゃあと言葉を連ねた。
「そう! 我々は既に共犯なんだ。覚えておいて欲しいね」
「うわあ……」
「博士って本当……なんというか……」
食えない人だ。アリサと顔を見合わせながらそう思った。
そんな様子に気に掛ける事もなく、サカキは狐のようににこにこと笑いながら床に座る少女を見やる。そして、ソーマに顔を向けた。
「彼女とも仲良くしてやってくれ。……ソーマ、君も宜しく頼むよ」
「――ふざけるな!」
叫ぶような声だった。
「人間の真似事をしていようと、化け物は化け物だ……!」
その言葉が、誰に向けられたものなのか。その言葉に、どんな意味が込められているのか。
――痛いぐらいに、ミツハには分かってしまう。
ソーマは少女から逃げるように、研究室を後にする。その小さな背を追おうとミツハも扉に足を向けたのだが、それをサカキに止められてしまう。
「すまない、ミツハ君。少し話したい事がある」
「……それは、今じゃなきゃ駄目ですか」
「じゃあ聞こう。今ソーマを追って、なんて言葉を掛けるつもりだい?」
「…………」
「……博士、その質問は意地悪だと思いますよ」
咄嗟に言葉が出ず、唇を噛むミツハとサカキの間にユウが割って入った。すまない、と肩を竦めるサカキだが、相変わらず狐のような目をミツハに向けている。辟易しながらサカキの方へ向き直ると、にこりと笑ったサカキはユウ達に退室を促した。
「……それで、話ってなんですか?」
「この子の事でね」
ユウ達が研究室から出ていき、部屋にはサカキとミツハ、そしてアラガミの少女の三人だけとなった。ミツハは少々不満げな顔を浮かべながらサカキに問う。
「……博士、この子って、〝特異点〟……ですよね?」
「ああ、そうだよ。よく分かったね」
「そりゃあ……人間に近いアラガミって、似たような事を最近聞いたばかりですし」
〝ヨハンの目の付け所は流石だ〟――そう言ったサカキの意味が分かった。
人間に近いアラガミが特異点になるのならば、限りなくアラガミに近い人間もまた、特異点に成り得るのかもしれない。ラットを見るヨハネスの目を思い出し、ミツハは振り払うように拳を握った。
「特異点って確か、終末捕喰を起こす鍵……なんですよね? 博士はなんで、支部長に秘密でこの子を……」
「言っただろう、個人的な研究だと。……すまないね、ミツハ君。深く追求しないでくれると有難い」
「……わかりました」
きっと聞いても無駄なのだろう。素直に食い下がるミツハに、アラガミの少女は大きな声をあげた。
「……オナカスイタ!」
「わっ!?」
暫く大人しく座っていた少女は突然立ち上がってそう叫んだ。びくりと驚くミツハとは反対にサカキは子供でもあやすように笑いながら、オラクル規格の小さな保管庫から何処か見覚えのあるヒレを取り出し、少女に手渡した。すると少女は嬉しそうにむしゃぶりつく。
「ゴハン! イタダキマス!」
「グボロの尾ビレだあ……美味しいの?」
「……オイシイ? ンー? ウマイ! イタダキマス、……マス? スル? イタダキマス、スルカ?」
「えっ、わ、私はいいよ」
ずい、とヒレの一部をミツハに差し出すが丁重に断る。「ソウカ?」こてんと首を傾げた少女は、再びヒレを美味しそうに食べ始めた。
この少女に尻尾が生えていたのなら、子犬のように大きく振っていた事だろう。夢中で食事をするその様子が、友人が飼っていた白いポメラニアンのように見えた。
アラガミだとか特異点と言う事で少々身構えていたのだが、そんな毒気が抜かれる程の無邪気な姿だった。
「ミツハ君は、この子をどう思うかい?」
「……どう、って、言われても」
口いっぱいに頬張る少女を見ながら、サカキがミツハに意地悪をするかのように問う。
「難しく考えなくていい。ソーマと同意見か、そうじゃないかって事だよ」
「…………」
化け物は化け物だと言い切り、出ていったソーマを思い浮かべる。彼がこの少女を認めない気持ちは、ミツハにもよく分かる。認めたくないのだ。
だって、そうだろう。
姿形はどう見ても人間の少女そのもので、脳まであると言う。言葉を発し、此方の言葉も理解している。そんな人間のような化け物が、目の前に居る。
――じゃあ私達は、なんなんだろう。
片や、アラガミ化した母親から生まれ落ち、生まれながらにして偏食因子を持った人間。
片や、オラクル細胞由来の偏食因子が自然発生し、時代を飛び越えた人間。
そんな化け物のような人間とこの少女の境は、何だと言うのだろう。何を以ってして、人間を人間たらしめるのだろう。何を以ってして、アラガミではないと言うのだろう。
姿形。意思疎通。人間を、喰らわない。それが境だと言うのならば――。
考え込むように、白い少女を見下ろす。すると琥珀色の瞳と目が合い、ごくんと喉を上下してミツハに飛びついてきた。
「イタダキマシタ!」
「わっ、え、ちょっ!?」
ミツハの腰回りに抱き着き、その勢いに圧倒されて尻もちをついてしまう。愛らしい少女の見た目をしているとはいえ、その実態はアラガミだ。抱き着かれる腕のその強さに焦り、ミツハはサカキに助けを求めるように目で訴え掛ける。そんなミツハに、少女は首を傾げた。
「ンー……ミツハ?」
たどたどしく、確かめるように名前を呼ばれた。
「え」
「みつは! ……ンン? ハカセ?」
「あっ、えっと、……ミツハ! 私、ミツハだよ。博士はあっち」
そう言ってサカキの方に目を向ける。にこりと笑ったサカキに、少女はクイズに正解した子供のように、ぱっと顔を綻ばせた。
「ミツハ! ハカセ! ゴハーン!」
それぞれを指差しながら、少女は楽し気に名前を呼んだ。学習能力がすこぶる高い、と言ったサカキの言葉を思い出す。これまでの会話から名前を聞き取り、もう個人を覚えたらしい。
「凄い、もう覚えたんだ」
「スゴイ? ウマイノカ?」
「う、美味くはないかな……? んー……偉い? 良い子?」
「エライ?」
「うん、偉い」
子犬にしてやるかのように、少女の頭を優しく撫でてやる。すると少女はもっと撫でろと言わんばかりに手にすり寄り、エライ! と嬉しそうに笑った。
そんな無邪気な姿に、思わず此方も笑いが零れてしまう。
――なんか、和むな。
純真無垢。その言葉通りの少女だ。無邪気で真っ白な姿を見ていると、少女を拒絶したい気持ちが薄れてくる。
「……さっきの質問、ちょっと保留にしていいですか」
「おや、決められないかい?」
「ソーマさんがああ言った気持ち、よく分かるんです。分かるんですけど……普通じゃないのは、私も同じじゃないですか。だから、その、……ちゃんと考えたいなって」
〝普通〟ではないアラガミ。〝普通〟ではない人間。化け物なのは、どちらも同じだ。
ミツハの答えに、サカキは嬉しそうにくすくすと笑った。
「ミツハ君は向き合うんだね、この子と。ソーマと違って」
声を荒げて出ていったソーマの背中は、随分と小さく見えた。迷子の子供のようにも見えた。人間の定義が、揺らいでいるのだ。
ミツハは柔らかな表情を浮かべ、未だ腰に抱き着いたままの少女を撫でた。
「……ソーマさんって不器用じゃないですか」
「そうだね」
「だから、割り切ってこの子を完全に否定する、なんて器用な事、出来ないと思うんです。悩んで、考えて、迷うんだと思います。逃げたんならなりふり構わずとことん逃げ続ければいいのに、優しいから。それで結局、自分が辛くなるんだろうなあって……」
それがソーマ・シックザールという男だ。ミツハはソーマの震える手を思い出した。温かな、優しい手を。
そうだね、とサカキはもう一度頷いた。
「きっと、岐路に立っているんだろう。人間か、アラガミか。ソーマは子供の頃から自分が何者なのか、ひとりで悩んでいたようだしね」
思い馳せるように、サカキが目を細める。幼いソーマの事をミツハはよく知らないが、想像はつく。ひとりで背負い込んで、眠れぬ夜を何度も過ごしたに違いない。
だが、それは過去の話だ。
「でも、今のソーマはひとりじゃない。ミツハ君が居てくれるんだろう?」
「当たり前じゃないですか」
「言い切ったね。頼もしい事この上ないよ」
肩を竦めてサカキが笑う。ソーマを追おうとした時、言葉なんて思いつかなかった。今でもなんて言葉を掛ければいいのか分からない。ミツハだってこの少女をどう捉えるか、まだ分からないのだ。
それでも、分からなければ分かっていけばいい。
ずっと話を聞いていた少女は内容をいまいち理解し切れていないのか、きょとんとした顔で「ヒトリッテ、ウマイノカ?」と首を傾げた。そんな様子に、ミツハは穏やかに笑った。
「ひとりはね、美味しくないよ」