レイプ被害者ぐだ男の公開女装配信   作:シャグナム

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レイプ被害者ぐだ男の公開女装配信

 雪纏う深山に沈むは、人理継続機関フェニス・カルデア。その秘匿されし内部構造にて、日々の日課である種火回収を終え、汗ばんだ体をシャワーで洗い流した後、藤丸立香は食事のために食堂へと顔を出した。ただし常ならば共に連れ立って向かうであろうサーヴァントの姿はまるで見えず、それどころか食堂に居るサーヴァントの数さえ少なかった。職員と男性サーヴァントの減少は数えられる程度のものであったが、女性サーヴァントは殆ど居ないと言ってよい。

 

「さて、今日の夕食は何にしようか……」

 

 立香は人数の少なさを認識しながらも敢えてそれには言及せず、わざとらしく独り言を呟き、厨房で鍋を振るうエミヤの下へ駆け寄ろうとしたその時、ふらふらとその場を歩いていた一人とぶつかってしまった。立香は当然の如く尻餅をつき、もう一方も丁度対面するかの様に尻餅をついた。「うわっ!」と反射的に声を上げ、相手に謝罪の言葉を掛けようとした立香であったが、それは困惑の感情に遮られた。目の前で尻餅をついていたのはシールダ―のサーヴァント……先程まで立香と共に種火回収に精を出していたマシュ・キリエライトであった。ただしその顔は真赤に染められ、動揺を隠そうともせずに目を見開いていた。

 

「マシュ?」

 

立香の顔を見つめたまま目を見開いて口をあわあわと忙しなく動かしていたマシュは、その声で漸く自分が転んだことに気が付いたようで、慌てて立ち上がり挙動不審に謝罪した。

 

「あ、あ、ああああすみませんマスター! ああ、ええと、どうにもぼうっとしてしまって。……う、すみません!」

 

 普段の落ち着いた言動は如何したのか、忙しなく口を動かし続けていたマシュであったが、しかしその瞳は初めに立香を捉えた時から微塵も変わることなく見開かれたまま、点々と彼の体に視線を注いでいた。未だ完全には乾かずに毛先に水滴の残った髪の毛先、こちらを心配して見つめ返す青色の瞳。そして何よりも、今し方自身に触れた胸板の硬さ! 体の内から身を焦がすどうしようもない程の情動に、マシュは喉元をごくりと鳴らした。しかしその捕食的な響きは、立ち上がったはいいが動こうとしない二人に注がれた胡乱げな視線と静寂により、反響を伴って彼女自身の耳に捉えられたため、マシュはたちまちの内に顔を再び真赤に染め上げた。

 

「ああ……すみません……すっかり夢中になってしまって。その、先輩の……」

「……いや、大丈夫だよ、マシュの事だからね」

 

 立香は言外に皮肉的な茶化しを含ませて、人目を憚る様になるべく小言に早口で返した。マシュもその言外の意味を十全に承知したのか、顔をさらに赤く染めて、しかしながら普段通り冷静に言を並べることもなく、恥ずかしそうに髪を右手で弄びながら、「はい……。では、その、今夜待っているので……」と言って足早に去っていった。

 

 後に残された沈黙程、立香にとって辛いものはなかった。胡乱げな視線はすでに消えていたが、そこに在るのは哀れみや侮蔑や興奮の瞳であった。彼等の多くは食事を一時中断して、マシュが溢した「今夜」という単語についての複雑な感情をあえて口に出さずにいたが、中にはそのようなことを気にも留めない者もいた。

 

「____マスターはまだあのような事を……」

 

「いい加減に…………」

 

「男…………」

 

 誰のとも知れない呟きの数々が立香の耳に入ると、それだけで顔が赤くなり、心拍は乱れ、視線は遥か下方へと押し込められた。拳は握りしめられ、唇を固く閉ざしながら、立香は微妙な顔をするエミヤの下へと足早に駆けより、適当に選んだ料理を忙しなく胃に詰め込んで、逃げる様にマイルームへと帰ったのだった。

 

 

 

 さて、時刻は午後十一時四十五分。食事も終えた。風呂も済んだ。一日にやるべきことはすべて終了した。立香は食堂から帰った後、様々な雑事を終え眠りに就こうとしていた。普段の就寝時刻通りだ。だが立香の心臓は普段寝床へ着くときのそれとはかけ離れた状態であった。心臓の拍動は何かに怯える様に、何かに期待するかの様に、どくどくと細やかな響きを繰り返している。だがその事を思慮の内に置いたうえで、立香は普段通りにベッドに横になって部屋の電気を消した。

 

 ぱちん、という音と共に部屋が一瞬にして暗くなる。その際にちらりと時計の時刻を確認した。十一時五十五分。日付が変わるまであと少し。立香は目を閉じた。部屋の暗闇と瞼の暗闇が混ざり合う。その暗闇の内に長く息を吸って、吐いた。しかし心拍のスピードは遅まらない。どくどく、どくどく。起き上がって時刻を確認する。

 

「……ふぅ。………………」

 

 十一時五十七分。まだ日付は変わっていない。再びベッドに潜る。今度は頭まで布団をかぶって自らを完全な暗闇の内に。息を吸って、吐く。自分の口が吐き出した生ぬるい空気が他の空気と溶けていかずに留まり続ける。また息を吸って、吐く。自分の吐息がべったりと、じめじめと、自分の顔に張り付いて汗を流す。どくどく、どくどく。心拍は加速している。起き上がり、時計を見る。

 

「…………」

 

 十一時五十八分から、丁度五十九分へ。どくどくどくどく、スピードが速まった。ベッドへと急いで戻り、布団の中で丸まって瞳を閉じ、まるで健全に寝ている様なふりをする。しかし、どくどくと、どくどくと、心臓は休まらない。五十、四十九。数を数える。額に生じた汗を目を閉じたまま拭った。胸元を少し扇ぐ。三十、二十九。どくどくどくどくと心音は高鳴る。吐く息は荒く、甘い。十、九。心臓は休まらない。休まることなどない。加速し続けていく。布団の中はもはや熱い。五、四。汗がじっとりと背中を冷やす。三。どくどくと心音のリズムが耳を塞ぐ。二。口は決して開かず、鼻だけが荒く甘い呼吸を回転させている。一。食堂の時と同じ様に、唇を固く閉ざした。ゼロ。日付が変わった。

 

 ____カチャリ、と扉が開く音が響き、間髪入れずに何者かが立香の部屋へと侵入してきた。立香は固く目を閉ざして寝入っているふりを続けたが、一方で侵入者には気づかれまいとする姿勢は微塵も見えず、一直線にベッドへと近づき、荒々しく布団を引きはがした。立香は熱く蒸れた布団内の気温と部屋の温度との差異に一瞬体を固くしたが、それでもなお彼は目を閉じて寝た振りを続けていた。しかし侵入者はその様子を気にかけることもなく、黒い布を立香の頭へと被せると、そのまま流れる様な手捌きで両手、両足を紐の様な物体で拘束した。全身の肉体を制限され、自分の力では抵抗出来なくされた立香を背に抱え、侵入者は部屋を出て廊下を進み始めた。壁に反響する硬質的な音が響くのを、立香は光が遮断された布袋の中で、騒ぎ立てもせず、困惑もせずに、先程までと同様に心臓を高鳴らせたまま聞いていた。右、左、左、直進……。足音は迷いなく続き、ある扉の前で急に止まった。侵入者はその部屋に入ると、電気をつけることもなく、今まで背負っていた立香をそっと優しく、床の上に敷かれてあるカーペットに横たわらせると、これで役目は終わったとばかりに、何も言わずに去っていった。

 

 後に残されたのは暗い部屋に残された身動きの出来ない立香だけかと思われた。しかしもう一人、暗闇の端で立香が現れるまで蹲り、微動だにしなかった影が立香の下へと寄ってくると、それは徐に立香の上着に手をかけ、ゆっくりと脱がしかけた。立香は目の慣れぬ暗闇からの突然な刺激にびくり、と体を震わせたが、それも一瞬のことで、すぐに素知らぬ顔をして自分に触れている何かに対して刺激を与えない様に息を整えた。それに対して立香を脱がそうとしている方は、その反応に対し動きを硬直させ、おどおどと迷うような姿勢を見せた後、部屋が暗いままであることにようやく気づき、だが今電気を付けたら恥ずかしいんじゃないかと迷い、でもマスターは迷惑じゃないかな、と迷いながらも、結局はマスターの方に重点を置いたようで、部屋の入り口付近に駆け寄り、パチリ、と電気をつけた。

 

 そこにいたのはシールダ―のサーヴァント、マシュ・キリエライトであった。照明のスイッチに手をかけて立っているが、しかし、危機に陥ったマスターを助けに来たという風情ではない。その瞳は欲情に塗れ、まるで長距離間を走り抜けたかの様に、甘く、堪え切れないような息を断続的に吐き続けている。その上気した顔を立香に向けることなく、カーペットを見つめたまま再び近づくと、今まで表皮と衣服との間に蓄えられていた風呂上がりのゆるやかで心地に良い匂いと、多量の汗から感じられる健康的な青少年の匂いとの混合がマシュの鼻を芳しく擦る。その様に、思考を半ば雑念に支配されながらも立香の足元へ手を伸ばし、固く締め付けられた拘束を不慣れな手つきで解放した。しかしマシュはそのまま両の手に移ることなく一旦離れ、手を拘束され、うつむいたまま頬を紅潮させた立香へ向けて静かに硬直した。マシュは何か話しかけようと口をまごつかせたり、食堂で感じたものと同様の奔流に身を任せたくなったりもするが、そのいずれもに手が出せず、双方共に口を開くことのない、静寂に満ちた、そして緊張に溢れた無言の時間が過ぎていった。と、そこでさすがに被害者的立場であった立香もこの無音に息苦しくなったのか、「マシュ」と、自分の方から話しかけた。

 

「はいっ!な、なんですか!?」

 

「……緊張してるの?」

 

「うっ……!」

 

 マシュは赤面した。ただしそれは恥辱からではなく、そのことを指摘する立香の顔が、いつもの心優しく包み込むかのようなそれではなく、軽んじるかの様に目を細め、悪戯っぽい、こちらを挑発する笑みを浮かべたものであったための、情欲と支配欲から成った赤面だった。もちろん緊張していたのは事実であり、普段ならばマシュはその事を素直に受け入れるのだが、まるで普段とは異なる顔を見せる立香に動揺し、そのような顔をするという事実に反発したいがために、マシュはわざと虚勢を張った。

 

「そんなわけ、無いじゃないですか!私だって、先輩のしていることぐらい知っているんですよ!……そんな目をして!」

 

「ふぅーん」

 

立香はその返答ににやにやと笑うと、彼女が言うところの「そんな目」で見つめながら、わざとらしく体を捩ると、あざとらしく、肉欲香り立て、嘲る様に、マシュの目の前で足を広げて見せた。

 

「____じゃあ、マシュも僕をレイプするんだね」

 

「……っ!」

 

 先程までマシュの頬に瑞々しく湛えられていた紅潮がたちまちの内に消失した。マシュも、僕を、レイプ。…………以前より認知はしていたとはいえ、実際の状況に対面してみれば、そのような言葉が敬愛するマスターの口から発せられている暴力性と倒錯した反社会性に、マシュは何か清らかで暖かいものに対する冒涜を感じた。

 

「ぐ、む……うう……え、ええ、そう、そうですよ……」

 

 気を張って言い返したはいいが、言葉が脳内で反芻される……。嘘だと信じていたかった。嘘吐きだと怒りたかった。混沌とした感情が胸の内で膨らみ、喉元までせりあがるも、幸か不幸か、マシュはそれを言語として表現するだけの悪心を持ち合わせていなかった。だがそれでも、それでもと、何か己の感情を伝える術はないのかと思考を働かせたその時に、彼らが入ってきた扉とは反対方向に配置されたもう一つの扉が、こん、こんと、叩かれた。

 

「あ……」

 

 マシュは虚を突かれたような思いをし、はた、と動きを止めた。消化不良の思いがじくじくと心身に染みわたる……。だが、扉が叩かれたという事、即ち時間が迫り、催促されているという意味を知っているマシュは、その実直な性格からそれを無視することはできず、慌てて作業に取り掛かり始めた。

 

「いっ、今行きます!」

 

 マシュは名残惜しそうにしながらも、立香を直視しない様に衣服を整えると、髪の毛を櫛で梳かし、顔を温水に濡らしたタオルで拭い、最後に手の拘束が十分か確認すると、立香を立ち上がらせ、ごくり、と唾を飲み込みながら扉に手をかけた。

 

「……それでは先輩、行きましょう」

 

「……うん」

 

 開かれた扉の先はぼんやりとした暗闇が広がっており、マシュはおずおずとぎこちなく足を踏み入れていくのに対し、立香は慣れた様子で暗闇の中を、逆に先導する形で進んでいった。やがて、然程時間をかけることもなく、ほのかな光が前方から現れた。だがそこからは光だけでなく、数人、いや、数十人程の雑然とした話し声が聞こえていた。だがそれも二人が近づく程に小さくなっていき、やがて光の間近へと……カーペット、椅子、机、棚など、にぎやかな家具がある一方へと開かれる様に配置されていた。その中点にはスタンドマイクが置かれ、そこを照らすための照明が天井に張り付く様にして揃えられている。ここはカルデア内の娯楽室の一つ、映画観賞用の小ホールであった。尤も、今はプロジェクターも幕も取り外され、新しく自由に歩いたり踊ったりできるスペースが構築されており、その上手側の舞台袖に立つ二人からは逆光となって目視することは叶わないが、ある一方、即ち観客席側には食堂には姿を見せていなかった数多の英霊がひしめき合う雑然とした様子が窺えた。

 

「……じゃあそろそろ、行こうかマシュ」

 

「は……はいっ!」

 

 壁に取り付けられた丸時計を確認し、悠然と進む立香に対して、マシュは全身を緊張に強張らせたまま、ステージの中央へと歩を進めた。途端にかすかなざわめきも物音も全てが消え去り、後ろ手を縛られた立香へと、ぎらぎらと性欲に塗れた視線が突き刺さる。やがて中央へと至り、スタンドマイクへ顔を近づけ、「あー、あーー」と動作を確かめると、確認する様に会場の端から端まで見渡し、満足そうに、そして確かな興奮を滲ませながら、再び背中を折り曲げて口を開いた。

 

「えーーっと……、それでは、僕……藤丸立香の公開女装配信を始めたいと思います」

 

 ごくり、と誰とも知れない生唾を飲み込む音が木霊し、一拍置いた後、万雷の拍手がホール内に響き渡った。……事情を理解していない者にとっては異常事態にしか見えないであろうが、表立って口にはされないものの、これがカルデアの日常であり、常識の一つであった。そう、マスターが女装姿での自慰行為をウェブカメラで配信し、それをサーヴァントが劣情の視線で見つめることが、である。いつごろ始まったかなどは情報管理の都合上、定かにはされていないが、少なくともアメリカ大陸を横断し終わった時点でこのようなちょっとしたイベントは行われる様になっていた。

 

「それで、アンケートで決まった通り、僕のパジャマ姿に手だけ縛った姿なんだけど、これって女装って言えるのかなあ?個人的には……恥ずかしくても顔を隠せないから、えへへ、困るね」

 

 ひゅうっ、と調子のいいサーヴァントがお決まりの様に茶化すと、立香も恥ずかしいとは言いながら慣れた様子で笑顔を振りまいた。その応酬に観客のサーヴァントは沸き立つが、時間が経った事で当初の肥大化した興奮による視野狭窄も緩和し、その後方で影の様に立つマシュの姿に気づき始めていた。ざわざわと、今度は困惑と疑問によるざわめきが響きだすと、立香は頃合いだと感じ、「マシュ、前に」と後ろに囁けば、恥ずかしげに、そして複雑な感情を胸に秘めながら、ステージ上で立香と並び立った。

 

「えーー、皆さんお気づきの通り、本日の公開配信には、特別ゲストとして、頼れる後輩の、マシュ・キリエライトさんに来てもらいました!」

 

「あ、あの、はい!よろしくお願いします!」

 

 ぱらぱらと、まばらな拍手が響いた。彼等の主目的がマスターが公衆の面前でひん剥かれ、その肉体を露わにしながら辱められる様を目にすることであるために、そのような展開の邪魔になるから、というわけではない。目的は本当にそうなのではあるが、彼女、つまりはマシュ・キリエライトがこの場に現れるのが初めてであったことによる困惑が非常に大きかったからである。そう、マシュは立香が女装に目覚め、ふざけ半分で配信を始めたことも、それがだんだんと過激になり、遂には自慰行為の配信を始めたことも、何一つとして知らなかったのだ。故にサーヴァントたちは無暗に衝撃的な事実を告げて傷つけぬよう、自然と彼女の前ではそういった話題を避けており、また、一番マスターと親しい彼女には秘密でマスターが皆に恥辱を晒しているという事に興奮もしていたのだが、今ここに立っているという事は、遂に彼女の耳に入ってしまったのか、と無言の最中に理解した。

 

「今回マシュは、この様に、縛られて手が動かせない僕に代わって、色々と手伝ってくれるので。慣れていないとは思いますが、どうかよろしくお願いしますね」

 

「は、はいっ!皆さんよろしくお願いします!」

 

「ふふ、緊張しているね。さっきからずうっと、よろしくしてばかりだよ」

 

「あっ、え、ええっと、す、すみません……」

 

「あはは、謝らなくてもいいのに、ねえ?みんな」

 

 立香の問いかけにざわざわと、言葉にもならないざわめきが空間に木霊する。その声色を占めていたのは突然与えられた情報に困惑するものが大多数であったが、中には困惑が喉元を通り抜けたがために、思い出したかのような情念が腹の中で膨らみに膨らみ、激情と共に言葉を吐き出す者もいた。

 

「引っ込めーーーっ! 引っ込みなさぁあーーーいっ! わたくしはますたぁの痴態を拝みにやって来たのですっ! 断じて他の女子などと言葉を交わすような……っ! 例えそれがマシュさんであろうとも! 引っ込みなさぁーーーいっ!!!」

 

「そうでおじゃるよぉーー! 拙者が見たいのはマスターが恥辱のままに全身を快楽に震わせて、涙目になりながら腰砕けでメスイキする姿なんだ! 引っ込めでおじゃるーーっ!」

 

「わ、わっ! す、すみません……清姫さん。黒ひげさん……」

 

「あ、あはは、ご、ごめんね……」

 

 バーサーカーのサーヴァント、清姫と、ライダーのサーヴァント、エドワード・ティーチであった。双方檄を飛ばして壇上に立つマシュを罵倒しており、それに影響されて周囲のサーヴァントも口々に声を上げ始める。

 

「せやねえ。うちらは旦那はんのメスイキが見とおかったのに、別のひとを見せられても困るわなぁ。ここは一つ、旦那はんに罰として、アレをやってもらわな収まりませんわぁ」

 

「あー、なるほど。そっか! アレだね! ……そうだね。ボクも見たいよ久しぶりに! さ、早く!」

 

「そうだ、そうだ! マスターは反省するべきだ!」

 

「その通りだ!」

 

「反省!反省!反省!」

 

「み、みんな……」

 

 当初は一部のサーヴァントだけが文句を言っていたが、次第にその要求の矛先がマシュから立香へいつの間にか推移すると、今まで特に文句も言わないでいたサーヴァント達もここぞとばかりに立香への罰の要求を開始した。

 

「先輩。アレ、とは…………」

 

「ああ、うん……」

 

 異様な雰囲気に硬直するマシュの問いにも曖昧に答えることなく、立香は顔面を紅潮させ、何かに助けを求める様に周囲を見渡した。しかし、皆が皆立香を目的に集まっているこの空間で、それを助長させる存在は数多に存在しようとも止める存在などありはしないだろう。立香は冗談めかす様に「本当にやるのー?」と口にしようとして、止めた。自身の一番近くに鼻息荒く陣取り、騒ぎにも衆目せず立香をひたすらに視姦し続ける、静謐のハサンや、源頼光といった狂気的なサーヴァントから、一番奥の、静かに興奮を湛えながらこちらを見つめ続ける、ランサー・アルトリアやジャンヌ・ダルク・オルタといった、比較的理性を保つサーヴァントに至るまでが、およそ正常な精神では表せないような____尤も、英雄に至る人間など全員が精神異常者のようなものではあるが____堪えがたき色欲の色を秘めて眼球を輝かせていたからである。数多に連立する相対の眼球に対決するのは、並の人間では冷や汗を流し、奥歯を噛み締めねば不可能であろう。しかし立香はその視線の連なりを易々と自身の内側に、もっとよく言えば前立腺の辺りに吸収し、自らの快楽の糧とした。さすがは人類最後のマスターであり、人類最後のマスターであるのにメスイキを日課とする変態女装野郎であると言えよう。

 

「……もう。しょうがないなぁ……。いいよ。ちょっと待っててね。マシュ、これ解いてくれる?」

 

「えっ!? は、はい……」

 

 マシュが紐のようなもので固められた立香の両腕を解放すると、彼は再び舞台袖へと戻り、舞台上にはマシュのみが残された。しばらくの間、空間を沈黙が支配する……。集まったサーヴァント達は何某かに期待し胸躍らせ、言葉を発想とせず、マシュもまた、慣れぬ場、慣れぬ状況であるが故に、自ら声をかけることも出来なかったのだ。

 

 しかして数分の後、かつりかつりと硬質的な音が、立香が入っていった舞台袖の内から聞こえてきた。途端に衣擦れの音すら消滅し、空間は完全なる静寂の内に静止した。マシュはその急速的な空間変化に、ああ、再び先輩が登場するのだ、と察し、安心しながらも、一人取り残された空間内における居心地の悪さの極致に至った。張り詰めた空気と突き刺さる視線の双方が、今現在壇上にて立つ自身を存在認識から除外しているのである。

 

「みなさんの精神が、先輩に集合している……」

 

 マシュはようやくこの状況がどれだけおかしいのかを再認識した。初めてレオナルド・ダ・ヴィンチの独り言を偶然にも盗み聞きしてしまったときは、その内容に耳を疑ったものだが、こうして直に当事者として参加してみれば改めてその異常さが浮き彫りとなるのである。…………集合しているのだ。たった一人に、好意、好色、そして嫌悪に至るまで、あらゆる精神の機敏が立香という一人に向けて注がれるのである。普段も立香はマスターとして、様々なサーヴァントの期待を請け負い、戦闘の指示を下しているが、この空間における指向性と比べれば意にも介さぬものに過ぎなかった。

 

「……う、うう、うううううううううううう…………。先輩……。逃げないと、ここから逃げないと……」

 

 マシュは譫言の様に呟いた……。理解が及ばなかったのである。普段信頼し、尊敬してきた種々のサーヴァント達が、今はたった一人に悍ましき精神を集中させていることに。そしてその空間が、いつの間にかカルデアを確立させるための確固として要因に変化していることに、つい先程まで純真無垢を体現する少女であったマシュ・キリエライトには耐えがたいのであった。しかし、マシュ・キリエライトが恐れる精神異常者集団の中心に立ち、この奇行を牽引しているのは、何を隠そう、彼女が共に連れ出そうとしている藤丸立香、彼自身なのである。その彼は今まさに舞台袖から姿を現し、衆目の目にその姿を晒そうとしている。最早マシュの一存で変えられるものではない。そして、彼自身もそれを望んでいるのだから。

 

「先輩……っ____」

 

 ____果たして、そこにいたのは少女であった。……いや、少女ではない。少女のごとき容貌をしながらも、色欲匂い立つ藤丸立香である。先程まで確かに健康的な青少年であった彼は様変わりし、暖色に彩られた柔らかい印象を与えるドレスに身を包んでそこに立っていた。黒髪のウィッグを涼やかに首筋に流し、足の爪先から指の爪先に至るまで過剰な程に肌の露出はなく、体中の至る所にフリルやリース、リボンが装飾されており、彼自身の歩く所作や中空に漂わせる指の動きなども可愛らしく庇護を誘う。青少年という異妙なるキャンパス上に造形するために、完璧に計算され尽くした少女の完成形がそこにはあった。

 

 ……ああ、だがその様相は確かに少女とは呼べないであろう。肉体が、と言う意味ではない。むしろ、非現実化された夢想である少女像を完全に体現している時点で、彼は実際に生きている……つまりは現実に生活してしまっている少女よりも、余程少女然としているだろう。故に、少女という完成を直前で破壊しているのは、紛れもなく彼自身の精神である。……マシュは見た。彼の性的興奮を覚えた顔を。衆目に晒されながらも羞恥を悦楽に溶かすその頬の紅潮を! そして……匂うのであった。デミ・サーヴァントであるという肉体的特徴とは関係なく、マシュの嗅覚がその生臭く籠もった、濃厚に遊動する匂いを捉えた。未だに性的絶頂を覚えるどころか、肉体の成熟さえ迎えていないマシュ・キリエライトには分からなかったが、それは確かに動物的で原始的な、性交を求める人間が放つ肉欲の匂いであった。立香は少女然とした己そのものを冒涜するかの様に、少女の衣装という鎧を両の手で堅く握りしめながら、事実として浅ましき発情を晒していた。しかし不思議なのは、藤丸立香がこれ程の卑しい匂いを股下から垂れ流しているというのに男性器を勃起させていないことである。

 

「やあ…………。どうかな?」

 

 立香は一応、と言った風に感想を問うた。何故なら、変幻した姿を見られる事による不安や羞恥といった感情は既に数多の体験によって通り越し、大いなる反響を以て迎えられることが確定事項として存在しているからである。故に彼の脳内は賞賛と卑猥な罵声を待ち望む事が第一であった。……自らの姿を美しいと思い、それ自体に興奮を覚えながらも、それを淫猥に否定されることをこの男は望むのだ。それは人類未到の旅順に付随する精神疲弊に追い打ちをかけた、嘗てカルデア内部にて行われた不特定多数による性的虐待を原因とした精神疾患……悍ましき精神的苦痛への正当化、順応に対する、奥底の否定が成す自己虐待なのかもしれない。……もしくは、単純に彼がナルシストのマゾヒストであるということなのかもしれない。いずれにせよ、立香はただ純粋に快楽を貪り、更なる快楽を求めてサーヴァントの反応に期待しているという事である。

 

「あははははは!いいよマスター!ボクよりかわいいよぉ!この淫売!死ね!」

 

 ライダーのサーヴァント、アストルフォが立香を罵倒する。その言葉とは裏腹に嫌悪の色は見えず、立香ヘと向けた性的興奮のみが彼の精神を支配していた。アストルフォも今の立香と同じく、性別とは合致しない服装を好みとする性癖を持ち合わせている。しかし今はその様な事など忘れ去り、目を血走らせ、半開きに開かれた口からは絶えず捕食獣が如き吐息と涎を垂らし、正しく立香が望む愚直な性欲を一直線に発信している。元より理性が発情している彼が打算的なことを考えられるはずもないが、彼は常に立香が望む罵声を届けるために、胸の内で好感を持たれていた。

 

「死んでください!死んで!……ああ、ますたぁ、何故その様に頬を紅潮させて……!死んでください!わたくしの目の前で……ああああああ、ああ、……………………」

 

 一方で清姫が罵倒と共に叫ぶ。言動さえ見ればアストルフォとは対照的に、彼自身が喜ぶであろう言葉を与えつつも、そのこと自体には困惑をしている様であり、まるで性的興奮を覚えていない様に見えるが、実態はそれを奥底に閉じ込めているだけであった。その心情を詳しく解体していけば、彼女が理想とする安珍なる者とは明らかに矛盾するこの姿に対し、あからさまに嫌悪を示しているのだが、その一方で清姫自身は確かに興奮もしているのである。その点で彼女を駆り立てる感情の構造は、相対する矛盾の感情が、矛盾を維持したままに損なわれず情動を形成しているという点で、立香と近しいものがあると言えよう。

 

「あああああっ!見ないでください。見ないでください!わたくしのますたぁを……。見ないでくださいぃ……」

 

 しかし決定的に違うのは、今の周囲に瞳を閉じることを懇願するという不可解な行動にも見られる通り、彼女のそれは立香を独占するものであり、内向的に閉じることこそが、具体的に言えば自らと立香の二人のみで世界を完成されることを理想としているものである。しかし立香はと言えば、現状に現れている通り、不特定多数に自身の痴態を公開することに興奮を覚えているため逆方向の開放型に向いている。そういった意味で言えば彼女の霊基に規定されている精神構造……狂った前提を狂ったままに追いかけ続ける様をまざまざと具体化した事例であるとも言え、実に皮肉な様相であろう。…………時に、そのような精神の矛盾を突き、元より精神的に破綻している彼女を再び破綻させてしまえば、そこには何が残るのだろうか? 何もなくなるのか、より狂気を重ねた異常者が生まれるのか、はたまた清姫という殻を破って、全く新しい精神異常者が生まれるのか? いずれにせよ彼女は何れ遠くない内に死ぬだろう。肉体ではなく、精神を苦痛に歪ませて。

 

 さてその様に、固定化された性質さえも変えうる可能性を発現させしめた当の本人は、その様なことなど露も知らず、依然として投げ掛けられる罵倒の暴力に自らを晒し、被虐的な悦楽に楽しんでいた。恍惚に歪む顔面に対比するかの様に屹立と壇上に立ち、視線を方々に彷徨わせては新たな罵倒を探している。

 

「あは、あははっ!もっと、もっと、ね?さ、さ、さ…………!」

「死ね!」

 

「くたばれ!」

 

「変態!この変態!マスターの……人類の恥め、売女め!」

 

「おかあさん、わたしたちが殺した薄汚い売春婦みたいーー!」

 

「あ、あはは、あ、あ!……!」

 

 甘い吐息が連続して吐き出される。急速的に注ぎ込まれる快楽による肉体の変調に同期して、赤熱した顔面の表皮から熱が放出されていく。それに付随する様に真赤に色付いていく頬は、彼自身が感じている快楽の度合いを示す様にも思われた。最早完成していた少女の幻想はぐずぐずに腐り果て、その腐臭を……つまりは肉欲に満ち満ちた発情の体臭を、全身から立ち上らせていた。……そうだ。少女が腐り果てたその先にあるのが女なのだ。幻想的な神聖を捨て去ったその先にあるものは……人体と精神の劣化がもたらすものは、その膨大な損失に比べて実に矮小な「性的快楽」という下らないものである。しかし、他ならぬ立香はそれを望んでいた。全く、それは遠大なる自死であろう! 彼は自らの神聖を徹底的に虐待し、死に近づいていくことに興奮していた。既に腰砕けになってほとんど蹲るような姿勢になり、心臓は早鐘を打って、興奮に茹だつ血液を全身に回転させている。……完全なる少女という夢想に化生した立香が衆目にその幻想を剥ぎ取られ、快楽に溶けて生々しく崩壊していくその推移を、マシュは無言の内に見つめていた。

 

「先輩……そんな姿を……」

 

 マシュは半ば侮蔑した目で呟いた。未だ肉体が変調せず、快楽も知らぬ真なる少女であるマシュには、立香と数多のサーヴァントが執着し、有り難そうに敬っている快楽というものを、実に矮小で、下らないと感じた。それは若さ故の傲慢であったが、同時にこれ以上ない程の真理でもあった。真実として、彼らが今熱狂していることは下らなく、彼らが属している機関が掲げる人理の再生という途方もない目的に比べれば、所詮肉体に囚われた些事でしかない。

 

「マシュ……」

 

「っ!はいっ、先輩!何でしょうか!?」

 

 マシュを呼ぶ立香の声は震えていた。膝は崩れ落ち、ほとんど土下座と見まごう姿勢で声を発しているため、マシュにはそれが何かへの懺悔の様に思えた。……はた、とマシュは思考を切り替える。もし何かに懺悔の念を向けているとして、その何かとは何だろうか。私だろうか、サーヴァントの皆さんだろうか。それとも自分自身に対する懺悔なのか。この期に及んで……。……恥知らず。淫猥なる。娼婦が如き……そこでマシュの思考は打ち切られた。何も今更、思い出したかの様に敬愛の感情を取り戻したわけではない。知らぬが内に浸食されていた猥雑なる思考に、冷静な部分から見つめ直したというわけでもない。それは偏に、徐に立香が顔を上げ、赤熱した表情でマシュを見つめてきたからである。

 

「なっ…………。………………」

 

 マシュの思考はたちまちの内に空白に支配された……。しかし、彼の蕩けた表情に、熱狂するサーヴァントたちと同じく魅了されたのではなく、方向性を同じくして全く異なる地点に着眼したのである。彼女の目を引いたのは無数の装飾に飾られ膨らんだ衣装から、漏れ出す様にして露出した「男性的な」鎖骨であった。マシュはごく最近の出来事を、食堂にて立香とぶつかった出来事を思い出していた。あの時感じた胸のときめきを、既に汚れていると知りながらも、心のどこかでは希望を保ち続けていたあの時のことを……。その鎖骨は、かねてよりマシュが思い描いてきた理想そのものであった。『……これがあれば、目の前で快楽に表情を歪ませる先輩を救うことが出来るのではないか? 自らに眠る男性的な部分をまざまざと見せつけ、自覚させたのならば……』マシュは半ば義務のような衝動に……或いは、本人でも自覚しない肉欲に突き動かされるがままに、隠された内側を現実に導くため、可愛らしい白色のドレスを留めるボタンの、その連なりを、暴力的に引き裂いた。

 

 ……ああ、そして、繊維が引き裂かれる音と共に、白色の襟元に秘められた、興奮のため仄かに朱が差した肌に隆起した男性的な鎖骨が露わとなった。胸板は白く、しかし平均以上の筋量を持ち合わせ、その筋が描く陰影の形の動揺から察せられる心拍のリズムによる異性的な、ともすれば男を惑わし溺れさせる娼婦の如きあざとさ! マシュはその色濃く溢れ出した官能に思わず言い訳を紡ぐのも忘れ、現実の感覚と空想の夢幻の間に夢中となって没頭していた。立香の胸元には男性的魅力と女性的魅力が反発せずして混合していた。異妙なる事ではあるが、これは決して周囲のサーヴァントが求めるような、男性性により崩壊する女性性を期待させているのではなく、むしろ女性性と混濁することによって男性的魅力がよりその存在を強力に進化させていたのだ。

 

 マシュはその存在を伝えようとした。今自分が見た美しく雄々しいもののことを、そしてそれにより立香が訓戒し、このような馬鹿げた催しは止め、普段通りの顔に戻ることを……。しかし、その言葉は発せられる前にこの世から消滅した。それは自らの脳内で繰り広げられていた夢想に闖入した声があったからだ。

 

「マシュ、マシュ……」

 

「……! はいっ! あ、えっと、こ、これは……」

 

「……マシュ、ねえ、マシュ? …………ごめんね?」

 

「……え?」

 

「あ、あ、あ……。ごめんね、ごめんねっ? ご、ごめんねっ! ああっ! あ、あ、あ、ああ…………」

 

「あ、ああ……。先輩……」

 

 ……それは喘ぎ声であった。年若い少女の、少女らしい夢想をかき消すには、余りにも汚らしい現実……。それが立香の口から発せられていた。……立香は絶頂していた。表情を赤熱の内に蕩けさせ、腰を深く床に下ろしながらも、それを起点として全身を悦楽に震わせ、呼吸すら、言葉すらも忘れて快楽の波に楽しんでいた。自らの性器に手を触れる事なく、羞恥と自己虐待による感情のみを糧にして、前立腺を中心にメスイキを迎えたのだ。……ああ、しかし殊更に救えないのは、今まさに立香が発したこの言葉……マシュへの謝罪の言葉すらも、自らの快楽をより強化するための性的消費に過ぎないことである。自らの否定を無垢なる少女に無垢なるままで手伝わせることで、より自らの内で静かに眠る神聖の残滓をも、完膚なき程に冒涜させたのだ。それをマシュも一瞬の内に理解した。肉体的な……全身に律動する肉欲の駆動からではなく、彼自身の中枢を成す精神性の変化によって……言わば、彼と彼女が紡いできた信頼というものの作用によって、皮肉的にその機敏の詳細を完全に予測することが出来た。それは集中の方向性が双務的に絡み合った結果であり、そのためこれは…………マシュが、今この瞬間に絶頂した立香に、確かな欲情を覚えたことを示す証左である。

 

 

「あ、あはは、あはは…………」

 

「あはっ、おかあさんイっちゃった!男の人なのに変なところでイっちゃった!」

 

「アハハ、マスター、変態だね。死んでよ」

 

「……ぐ、ク、ク、変態、変態!死ね!」

 

 恍惚と硬直する立香に対し、サーヴァント達はこぞって罵倒を浴びせかける。死ね、死ね、と、存在否定の言葉が木霊する、人格否定の言葉が乱立して立香に襲いかかる。それらの言葉を、立香はただ無言の内に聞いていた。それは意識の混濁の内に、物事の推移を意識せずして見つめているのではなく、過去から今に繋がる連続性の発露なのであり、現状の再確認と未来へ自身を繋げるための規定行動であった。即ち……彼は単純に呆けて罵倒を聞き逸らしているのではなく、また、単純な快楽のためだけに罵倒を受け入れているのでもなかった。それは一種の……自死であった。ただ、先程までの羞恥の中で行われた自死と異なるのは、それが余りに直接的な、変化を基調とする自死であるということだ。彼は、この快楽による絶頂という行為自体を利用して、自らの基本存在そのものを殺そうとしていた。先程までの自死は……遠大なるものであった。短期的な絶頂のために、自らを腐敗させることによって快楽を得ていたのだ。言わばそれは、快楽を得るための副次的な自死に過ぎない。しかし、今成そうとしているそれは余りに直接的な殺人だ。殺人であると同時に姦淫であり、生誕であり、生命そのものであった。彼はこの赤熱した小さな娯楽室を子宮として、その最深部に文字通り胎動していた。それをマシュは、不思議と静寂に観察することが出来た。最早その変容の過程には、嫌悪の感情をも差し込む余地はなく、むしろ先程まで幻想の境地に存在した胸板を眺めるのと同じ心地で仔細を観察することが出来た。それは偏に、その変容による過程において、芋虫が蝶へと変態する際、硬質的に構築された蛹の内部で肉体と精神の境目が存在しなくなる様に、今まで並列して存在していた男性性と女性性の混濁が発生していたからである。

 

「死ね!」

 

「死ね!」

 

「死ねぇぇぇぇ!」

 

 罵倒の合唱は続く。最早それは個人の意思が介在しているのかも分からない程に茹だち、混乱の極みに達していた。マシュは今一度立香から目を離し、周囲を見渡した。……瞳は肉欲に染まり、罵倒の喉を荒げるその様子は、普段共に戦い共に生活している姿とは整合せず、一種の複雑な乖離を思わせた。…………それは無知なるものの感覚的な比喩であったが、偶然にせよ何にせよ、それは事実であった。そう、マシュが感じた通り、実際に乖離しているのである……。配信を聞き続け、この公開配信にも参加している時点で、ここにいるサーヴァントは全て肉欲の虜となっているに等しい。ましてや仄暗い密室の中、周囲は同士のみという状況内で、目的である性的対象、女装した立香が手の届くところに存在するならば、その精神をいくらか発熱させ、興奮の内に過激な発言をしてしまっても致し方ないだろう。これは人間に……例え狂人に至ろうが通用する、一種の暗示、自己催眠である。

 

「…………酷い、なんて、なんて醜い……。汚らしいんでしょうか」

 

 しかしマシュにはその様な理屈など通用しないだろう。何せ彼女は既に、彼らを理解しがたい異常存在と定義してしまっている。……普段なれば勤勉で貞淑な彼女は間違ってもこのように、性急な自己中心的で偏見に満ちた判断は下さないであろうが、これもまた先述した自己催眠の作用である。観客という立場に存在する彼らと対立する形で、マシュは舞台上に自らの精神を尖らせていった。それは自らの理性をも削り取る試みであり、事象を解析しながらも事象に囚われる結果になることは必至であった。つまりは嫌悪を覆さんと嫌悪に対決し、結果として狂気に囚われることになるのである。

 

「……ああ! あ、あ、ああ……先輩……先輩……!」

 

「____あ、ああ……マシュ……?」

 

「せ、せん、先輩……。先輩…………!」

 

 マシュはもう精神の発熱を抑えることが出来なかった。自らの内にある柔らかで暖かい、犯すべきでないものを、無神経に攻撃されているということに……そしてその犯せざるもの、神聖なるものが、敬愛する先輩が、自らそれを受け入れているということが腹立たしくて仕様がなかったのだ。マシュの精神は煮え立ち、泡立ち、赤熱に噴出していた。なまじ精神の恍惚という状況下で、双務的精神の作用という新たな境地を切り開いたがために、彼女には立香が本心で崩壊を認めているということを認識できてしまった。全く以て耐えがたく、許しがたい……。刻々と加熱する欲望の発露は激動を極め、その頂点には一つの逆転が存在した。即ち、崩壊を止める手立てが存在するならば、神聖が汚されることが不可避なるものであるならば、いっそ自分のこの手で……死を以て、決着させてしまおうという思想に行き着いたのである。最早彼女の精神は常人の理解が及ばぬ場所に……狂人の境地に存在した。その眼球は回転し、別天地を描いていた。別天地とは夢想の未来である。聖性を破壊し、自身もまた、その破壊の内に溺れる事をマシュは刹那に夢見ていた。それは正しく狂人の夢だった……。

 

「……そんなに、そんなに死にたいのなら……! 死にたいって言うのなら……!」

 

 私が先輩を殺します……! とマシュは続けるつもりであった。その言葉が寸での所で止められたのは、マシュが酔う夢想を冷ます闖入が、再び存在したためである。……暑くて喧しくて不快に満ちたこの空間が、その一瞬、どこか寒々しい氷室の如き殺風景に感じられた。

 

「______先輩……まだそんな目をするんですか、そんな、嫌な目で……私を」

 

 それは薄く開かれた立香の瞳であった。青く微睡むその色合いには、理性どころか意識の色すら存在せず、瞳孔は拡大と縮小を意味もなく繰り返し、森羅の万象を単なる出来事として些末に捨て置いていた。自らの首を掴むマシュでさえ……自ら望み、渇望したものを届けるものでさえ、彼の目には何れ来るものを早めた程度の存在でしかなかった。それをマシュは、今ここに至るまで理解できていなかったと、その瞳を通して改めて気が付いたのである。

 

「ああ……結局、何も理解など……先輩のことを、何一つとして知らないままだったんですね」

 

 マシュは静かに立香の首へ手をかけた。……この状況に至るまでの経験を通して、マシュは立香の性質を理解できていたと思っていた。思った上で……その上でなお、彼の性質を真正面から見つめ、その異形なる様をまざまざと見据えた上で……受け止めようと思っていた。しかし根本が間違っているのなら……そもそも彼の心情など、端から理解などしていないのであるのなら、全くの道化に過ぎず、これまで過ごしてきた時間の分だけがそのままに裏切りの証明となるのは、これ以上無い程の皮肉であろう。マシュはそのまま首を起点に立香を持ち上げて、サーヴァント達によく見えるよう、壇上の端に立った。衆目の視線はただ一点へと……マシュの腕に絡め取られている立香の首へと集中した。急な行動であったがために誰も止めることが出来ず、罵倒が止み、沈黙に満つ中で、敬虔な信徒が訓戒を漏らす様に、マシュは呟いた。

 

「ですが……先輩だって私のことを知らないでしょう? だから食堂であんなにも慌てて……」

 

 立香が言葉に反応し、薄く目を開く。首筋に少しずつ力が込められていく。マシュは感情の逆転の、さらにその先の境地へと辿り着いていた。それは行き詰まった犯罪者がよく使う手口であり、同時に無我に自在する高僧が好む方法である……。即ち、マシュは今一度煩悶を忘れ、原点へと立ち返っていたのだった。それを行わせたのは絶望を起点とした破滅であり、精神の崩壊である。立香の瞳が導いたのは、彼女の内側に存在した神聖なるものの完全なる崩壊であり、それを信仰する彼女の精神性の腐敗であった。……彼女は今この瞬間に、渦巻く精神と肉体から腐臭を放っていた。彼女は今まさに死んでいた! 彼女は……マシュは死んでいく。死んで、生まれ直している! 様々な尊いものを捨て、汚らわしい衣を被り、瞳には肉欲が、胸中には愛慕が存在した。そうだ、愛が溢れていた。それは肉欲と同期してマシュの精神の根幹を成し、現実に行動として表れていた。マシュは今、人類史上共通して最も汚らわしく悍ましい、大人の女というものになったのだ。それは決して成長とは呼べない、堕落と腐敗の象徴であった。

 

「知らないのはお互いなんですよ、先輩」

 

 露出した首筋が両の手で締められた。いくらデミ・サーヴァントの力を発揮していないとは言え、命を殺すことに長けた女による行為である。立香の命もいつまで保つか危ういものであった。しかしマシュは手を緩めることはない。その胸の内で煮えたぎる、理解を求める憎悪が、罰を下そうとする潔癖が、これこそが愛なのだと叫んでいる!

 

「…………知ってましたか?私は先輩が…………好きなんです! 愛しているんですよ!」

 

 告白した。いや、マシュは告発したのだ。それは罪の意識。変性意識による渇望の象徴、極点に至る感情の発露である。意味深長に快楽を起源とする肉欲を滅ぼす、唯一なる感情、それが理性を起因とする愛情の発露であるのだ。……その時、マシュは只管に幸福であった。自身の内に湧き溢れ出る感情に、酔夢にも似た幽玄の心地を味わっていたのである。

 

『異常なる事態を通して真なる感情を手に入れた』

 

『清心を脱ぎ捨てて立香への感情を自覚した』

 

 ……言うなればマシュは、自身の少女の崩壊と女性性の獲得を……即ち堕落と退廃の浸食を、これまでの人理修復の旅における、数々の精神的成長の延長線上に置いたのである。彼女はそれまでの人間関係から得られた体験とまるで同じ様に、その淫猥なる感情を、人間における純粋な……或いは美意識を保った性質の一種だと捉えていた。彼女は一体何を以てその様な、自らの体験……短き人生そのものさえも冒涜する暴挙に出たのか。敢えて考察するならば、若しや醜さの極地にて存在するものにそれが美しいと名付ければ、果たして幾許かの救済にでもなるかと考えたと言うことか? ……いや、実際にはその様な発想でさえなかった。彼女はその様なことなど考えさえしなかった。彼女はただ単純に、自覚したと言うことに幸福を覚えていただけなのである。……つまりは、彼女は初恋に浮かれていたと言うことなのだ。いくら異常な状況や、異常な様子の立香など、認識を阻害する要素を組み合わせたとしても、その結論が……いや、その結論として出したものが、恋という幸福に至る答えであったが為に、マシュは今この事態にも幸福な結末が用意されるものであるのだと……それこそ初恋の少女が如くに、根拠もなく考えていたのである。

 

 故として、その先に存在するのは明らかに幸福などではない。そして凡そ不幸とも呼べない、より醜悪で悍ましい、生々しく粘つく厭らしい物に行き着くのだ。そうだ。この時点で最早終わりは決まっていた。それは偏に立香が配信を始めたからなのか、それとも女装を始めたからなのか、それとも性的暴行を受けたからなのか……若しくは、それら全てが折り重なって、この事態を引き起こしたのか。その様な問いに答えることは最早無意味であった。ただ一つ事実であるのは、最早この先には何もなく、ただ縮小して断ち切られるだけの……あっけなく剪定されるだけの未来が存在するばかり、ということである。

 

 その様なことは夢にも思わず、マシュは自らが発見した感情の返答に対し、立香が当然同様の感情を返してくれる物だと思っていた。何も映さず、ただ空虚に身を窶すその瞳でさえ、今発した言葉に対してならば、当然の如くに感情を溌剌と発現させ、先程までの色欲による物とはかけ離れた、純情に由来する赤面を見せてくれることだろうと、そう思っていた。

 

 しかし実際に目の前に表れたのは……そのような反応なども見せずに、ただ停滞の内に沈む、肉塊に過ぎぬ立香の姿であった。空想に夢想を重ねた、理想的な姿など端先にさえ存在せず、彼は掛けられた言葉を過ぎ去るがままに放置して、その場に浮遊していた。この場合の浮遊とは単純に物質的な物ではない。勿論彼は首を掴まれて中空に固定されているわけであるが、その様な現実面の位置的な状況下よりも、より凄まじく精神的にその場から浮遊していたのである。……それは乖離であった。それは隔絶であった。熱狂し、狂乱の限りを尽くしたその場所から、彼だけが静寂を保持したままに、中心としての位相を崩すことなく鎮座していた。しかし、静寂とは言っても、それは無関心に依る物ではなかった。一定の温度を崩さずとも、それはある程度の暖かさを保ち続けて存在していたのだ。言うなれば、子供の戯れ言に心を動かされぬ母親が如く……。そうだ、彼は正に慈母が如き表情を浮かべてマシュを見つめていた。首を絞められたまま、呼吸の出来ないまま、遮られた酸素の供給に脳が悲鳴を上げ、青白くに顔色を染め上げながらも、慈母の表情をそのままに、するすると両の腕をマシュへと伸ばし、柔らかく、慈しむような手さばきで、二の腕から肩口に掛けてまでの肉の連なりを抱きしめたのである。

 

「…………ああ、そんな、先輩」

 

 マシュはその慰撫を自身への返答だと見なした。自らの恋の告白に対し、情動を変容させることもなく、感情の動揺を見せるでもなく、ただ慈しみ、代わりとばかりに肉を……そう、肉を! ……肉に対する接触を、肉に対する愛情を、代わりに差し出すとは……。『ああ、私も結局、肉欲を求めていたとしか思われなかったのでしょうか』『その心を繋ぎ止めることは……出来なかったのでしょうか』その様な悔恨と仄暗い絶望がマシュの胸の内に広がっては消えていった。最早無謀であると悟ったマシュは、その両腕に込めていた力を無気力に緩めていくと、かなりとも残った慈悲にも似た優しさで、立香を静かに優しく、ステージの上に横たえたのである。

 

「……あ、ああ! ますたぁっ! 大丈夫ですかっ!」

 

「!お、おい! 大丈夫か!?」

 

 すると、姦淫の熱狂の内に行われた突然の凶行に、呆気にとられて動けずにいたサーヴァント達も正気を取り戻し、今更ながらに立香の下へと集合していった。マシュは自身を押さえようとする幾つもの手を、『意味もないのに、滑稽ですね』などと考えながら無気力に受け入れながらも、最後にもう一度立香の顔を見ようと思った。……それは夢破れた恋心の最後の執着であったか。それとも、未だに彼を受け入れようとする姿勢の名残であったのか、定かではない。しかし彼女は、うつ伏せになっていた彼が、寄り集まったサーヴァント達の手によって抱上げられたことにより、顕わとなったその表情を見たのである。

 

 ……果たして、期待していたのは何であっただろうか。先程の表情など見間違いであったとする希望だろうか。それともその表情が現実であると確認して絶望に浸りたかったのだろうか。ともかくも、マシュはその両方を矛盾させた様な、さらに異なる複雑な感情さえも抱えた様な、混沌たる感情を自分でも整理しきれぬままに、疲れ切って精神を窶れさせていた。故にこそ、咽せて発熱した肌に張り付き、発汗に濡れて乱れた前髪から覗くその表情が、依然変わらぬ慈母の表情であろうとも、無気力に直視することが出来たのだが、果たして、その髪が彼を労る手によってかき上げられたとき……そう、彼の青色の瞳を見たその時に、マシュは思わず声を上げた。…………そこにあったのは、その瞳が映し出す物は、今現在も湛えられた慈母の表情とは似ても似つかぬ、虚空が如き虚無であった。

 

 それは決して立香が慈しみを装って、内部に無関心を隠し通していたことの証左などではない。寧ろそれは逆であった。その虚無は……虚無とは言いながらも、広大無辺に物寂しい様な物ではなく、それは彼自身の浮遊と同様に、一定の心地の良い温度を保った虚無であった。いや……虚無と言うよりは、無限の上限を持った穴とでも言うべきであった。仄暗く暖かな、精神的な穴がその瞳には存在した。穴と言っても、それは欠落や欠陥が故の穴ではない。寧ろ何かを受け止める為に存在する……受け止めて自らの内に宿すための穴であった。

 

『……ああ、そうだ。これは子宮だ』

 

 マシュは直感した。立香の眼球の表面上に展開されているのは、彼の精神的な子宮であった。その表情に宿すのが母親の肉体的な部分であるとしたら、同様に臓器である眼球に展開されるのは、最も母親然とした部分である子宮であるべきだった。そして彼の子宮は、実際の肉体的な物と比較して余りにも高度に情報的であった。当然の話だ。それは脳と直結し、豊富な筋肉の動揺までもが付随しているのだから、その子宮に表情が存在しても当然と言える。そしてマシュはその表情を巧みに読み取ったのである。

 

 ……いや、読み取ったと言うよりは、無理矢理にでも理解させられたといった方が正しかった。その瞳を直視した途端に、暖かな肉に包み込まれるようにして……つまりは体験を伴った上で、マシュはその子宮の存在に気が付いたのであった。……肉襞の蠢きに沿って滴る白濁の体液は不愉快な粘性と悍ましい臭気を発し、脂肪と混濁した赤黄色の膨らみが収縮を繰り返すごとに、その動揺を十全に反映させて自らを激しく泡立たせる。それは赤熱に沸騰したのではなく、自らの生命性を溢れさせては産まれ直す、情熱的な誕生欲の証左であった。依然として肉塊は暖かく、心地の良い温度を保っている。本当に心地の良い温度を……。しかし生きてはいない。その肉塊の収縮作用は、生命の存在を示すものではなかったのだ。本当に、それは生きてはいなかった。単純なる幻想でしかなかった。しかしマシュはそのような奇怪な幻想を強制的に幻視させられた。渦巻く回転に絡め取られ、深い穴へと落ちていくかのように……。

 

 マシュは今し方目の当たりにしたものが信じられぬとばかりに瞠目を重ねるが、その開閉の数など意にも介さぬと、立香の眼球を起点として展開されるグロテスクな幻想の投影は留まる所を知らない。……マシュは先程の、自らに向けて慰撫を実行した立香の姿を思い出した。酸欠に咽び、意識を夢中に漂わせながらも十の指を懸命に伸ばしては動かし、その一つ一つに感情を刻んでは愛情を伝えようとしていた。その両の手を形成する幾つもの関節が、滑らかに律動を重ねることで、言葉を介するよりも余りに饒舌に多大なる感情を与えていたのだ……。その感情のさざめきはマシュにも十全に伝わっていた。故にこそ、マシュはその愛情を、娼婦が客に注ぐ、差別めいた博愛と同じ様なものだと思っていた。それと異なっているのは、その感情の基点が諦念か、歓喜かによるものである。金銭のためにあらゆる人間を並列に並べる娼婦とは異なり、立香はあくまでも性的快楽を第一義とし、淫欲を恥じることなく曝け出して、自らを娼婦と同様に貶めたからこそ、自らに対する博愛が存在するのだと……そう考えていた。言うなればマシュは立香を、彼女の脳内には絶対に存在しない通俗的な言葉で例えれば……「間男に寝取られた後、風俗に沈んで挙句の果てにAVデビューした元カノ」のように見ていた。自らに向けた愛情も、相手を選ぶことのない歪んだ愛欲から来るものだと、そう考えていたのである。

 

 だが……実際にその瞳を見てみれば、どうだろう。そこには愛欲どころか、意思も思考すらも見当たらない、単なる存在としての子宮が映るばかりである。暖かくて柔らかく、こちらを抱きしめようとして憚らない、俗悪なまでに母親然とした子宮……。その存在に、マシュは知らずの内に惹かれていた。自らの知らない肉の心地、生命の抱擁、誕生の歓喜……! そういった物が目の前に存在し、かつ自身を求め受け入れる準備を整えていると言うことに、マシュは心身から喜びを感じていた。それは快楽に依らない、本当の意味での肉欲であった。乳飲み子が求める肌と肌の接触にも似た、純粋に個人を必要とする、代替の効かない肉の欲求であった。それは人間の奥底に共通して眠る欲求であり、例え意図的に設計されて生み出されたマシュ・キリエライトであっても……いや、無機質な機械の胎の中で生まれた彼女だからこそ、その肉に溺れ、深い眠りにつくことに、衝動にも似た激しい欲求を覚えていたのである。

 

 しかし、マシュはその子宮に心を惹かれる一方で、俄かに今までに感じたことが無い程の恐怖をも覚えていた。確かに目の前の存在は、暖かく腹を開き、彼女を迎え入れようとする母親であった。しかし、その存在は敬愛し、愛情を抱く藤丸立香その人でもあるのである。それは全く、奇妙な矛盾であった。今朝までには確かに既知の存在であったはずの立香が、一体どのような経過を辿れば「母親」なるものに化身するというのだろうかと……。

 

「____いや」

 

 ……ふと、マシュは立香がまだ正気を保っていた時のことを思い出した。寝込みを縛られて暗闇の中に放置されていった時の、あの不安と興奮に満ちた表情を思い出していた……。その時は、確かに「母親」などという顔など欠片も存在していなかった。寧ろマシュが本来想定していたような、快楽を貪る堕落した娼婦が如き姿というのは、思い返せばこの時分のものであったように思われた。であれば、一体何時、どのような時に……。

 

『__果たして、女装した姿を露にした時であっただろうか。……いや、その時はまだ被虐的な感情が強かった』

 

『__では、皆さんに死ねと……そう罵倒され続けていた、あの時だろうか。……いや、あの時もまた、自らを否定する文句を満足そうに快楽へと変換していた』

 

『__ならば、私の目の前で絶頂を迎えたあの瞬間だろうか。……いや、あの時は快楽と同時に罵倒を受け入れていたが、まだ色欲の相は確かに存在した』

 

 だとしたら、一体どこにその変遷は存在するというのだろうか。私の目の前で展開される混沌の基底は、一体何を根源としているのか……。____ふと、マシュは目の前の立香を見た。数多のサーヴァントに言葉を掛けられながらも、依然として反応を示す気配はなく、ただぼんやりと柔らかな笑みを浮かべるばかりである。その表情は自らの首を締め上げるマシュの両腕を抱きしめた時と何ら変わり様もなく、ただ慈母が如き表情のまま万物を眼前に漂流させていた。眼球の奥深くに肉々しい子宮を幻想させたまま……。その暖かな入り口を静かに開いたままに、何の遠慮も無く此方へと手を伸ばすその姿は、抗おうという意思さえも容易く飲み込み、快楽の内に回転させて緩やかに溶かし行くのである。……その姿に、マシュは強烈なデジャヴを覚えた。その姿は……マシュがこのステージ上に立ったその瞬間から見続けていた、受容の姿勢であった。そうだ、立香はあらゆるサーヴァントの罵倒も、侮蔑も、皮肉さえも、自らの内に宿して離すことは無かった。それをマシュは自らの快楽を強化せしめて更なる被虐に通じる物だと……つまりはその瞳に子宮を見る前。立香が快楽を第一義として人格を変換し、物事に対して逃避をするための物だと考えていたのだが……今、この状態を見れば、その様な考察は完全に的を外れていることは確かである。彼の表情には一片の快楽の欠片も存在せず、物事を静かに直視して見守っている。逃避などすること無く、微塵も動揺を示さずして、その子宮を秘めた瞳を通して……。

 

 ……であるのならば、そうであるのならば、あの受容は一体何を成したというのだろうか。あの被虐が……遠大なる自死が、直接的な自死が……現在に繋がるというのならば……それはあの受容した数多の言葉達が……本当に立香を殺したというのか。あの変容の過程……立香に男性的な要素を見出し、一瞬の希望に駆られたあの胎動も、単純な快楽への逃避では無く、自らの昇華を目的としたものであったのか。まさか……まさか、本当に、心の底から、立香は死ぬつもりだったというのか。そして……今此処に、目の前に存在するのが、自分を圧倒的に殺し尽くして生まれ出したものなのか。この「母親」で……一体何を成すというのだろうか。こんな……子宮を幻覚するだけの存在で……敬愛する立香は死んだというのか!

 

「何でですか!」

 

 マシュは叫んだ。自身を捕まえていた腕の数々が一層強く押さえ込み、宥め賺す言葉を投げ掛けても、彼女は立香の瞳しか見ていなかった。周囲の喧噪も考慮の外に置いて、彼女はただ言葉のみに専心していた。

 

「な……何で、何を思ってそんな事を! 意味不明ですよ! そんな事をして何になるって言うんですか!」

 

 ふ……と、その言葉に、立香は初めて反応らしい反応を示した。瞳を薄く閉じて、口角を微小に持ち上げて、眉尻を明らかに下げたのだ。青色の瞳は怪しげに焦点を合わせ、混濁から依然として精神を動かさぬままに、嫋やかに皮肉的な表情を浮かべたのである。その顔に改めてマシュは恐怖を覚えた。背筋は凍り、今現在に自身を押さえる体温の数々をも何処かへと離れ、ただ一人で宇宙に対決する心地であった。それは偏に、今まで曖昧に四方へと飛び散らかしていたその精神が、眼球の焦点と同様にぴたりと一直線にマシュへと向いた事による。混濁に混濁を重ねたそれが、示し合わせてただ一つの形成を織りなした結果として、現れ出でた物は果たして尋常では無かった。それは正しく異常なる精神であった。……そしてマシュは先程から感じていた奇妙な恐怖の、その根源をも察知したのである。ああ……それは直感にも似た先触れであったのだ。今この瞬間に対峙する物への予知染みた先触れに、マシュは無意識の内に恐怖していたのだ。それは危険信号を掻き鳴らし、決して触れぬように警告を発していた。発していたはずなのだ……。最早、何もかもが既に終わる。終わってそのまま始まること無く、永遠の停滞へと導かれるのである。……マシュはそれを確かに直視した。

 

 皮肉的な笑みを浮かべたままに、立香は口を開く。匂い立つが如き色欲の念はいずこにか、今はただその瞳に肉の色を残すばかりである。その使い慣らされた膣内は一転して産道としての役割を担い、その深奥へとマシュを……いや、あらゆる全て、森羅万象を迎え入れようと、瞳を混沌に昏く輝かせているのである。

 

「マシュは……分かってるでしょ。ずっと一緒にいたんだから」

 

「わ……分かりませんよ! 何を……!」

 

「……俺はね、世界を救いたかったんだよ」

 

 は……と、声にならない息を吐く。それは立香とマシュの双方から発せられた、次へと繋がる言葉を探すための息であった。ただし片方は確信を以てそれを発したのに対し、もう片方は依然として困惑に満ち満ちたまま、半ば吐き出すようにして顕わとなったものであった。そのどちらがどちらの物かなど、今更言うことでも無いだろう。

 

「な……は……。そんな、そんなこと……」

 

「……今のままじゃだめだったんだ。今のままじゃ耐えられなかった。だからこうしたんだ。だからこうなった。どう? どうかな……? マシュ、俺はどう見える」

 

「そんな……不可能ですよ! あ、有り得ません! そんな、一人で世界を救おうだなんて……! ひ、一人で……う、うぅ……」

 

「ははは……うん。一人でやろうと思っているんだ。よく分かったね……さすが」

 

「う、嘘です! 嘘、嘘、嘘! 無理に決まってます! だって先輩には何も力など…………っ!」

 

 唐突にしてマシュの肉体を不快感が襲った。性器の最外部から脳天に掛けてまでの一直線に、重苦しい鉄の棒が突き刺さったかのような圧迫と吐き気が生まれたのである。「あ……!」と、まともな声を上げることも出来ず、ただ激痛の内に悶え苦しんでいたマシュであったが、暫くの内にその苦痛は縮小していった。そう、消えたのでは無く縮小していったのである。人体の広範囲に渡っていた苦痛がその存在自体を萎縮させるようにして、遙か膣内の最奥、子宮の内側へと渦巻いては和らいでいき、遂には後も残さずに消えてしまった。

 

「い、今のは……」

 

 思わず自らの下腹部を押さえながら瞠目を繰り返すも、その後に苦痛が残っているような気配もなく、ただ異常なる事態に目を白黒とさせるマシュであったが、ふと、自身の反応に対して、周囲が余りにも静かに過ぎることに気が付いた。は……と思い、蹲っていた姿勢から顔を上げれば、其処にあったのは、連なるようにして倒れ伏す数多のサーヴァントの姿であった。

 

「皆さんっ!? な……どうしたんですかっ……! あっ……! ぐ、うぅ……」

 

 心配して駆け寄ろうとしたその矢先、再び人体の中心を貫くようにして不快感が迸った。しかし二回目であるからなのか、その苦痛をマシュはより克明に、より鮮明に、自身の内に体験することが出来ていた。……人体を突き刺されたのかと思い違うほどの苦痛は、やはり収縮点である子宮から第一に発せられていた。胎の内側から得体の知れない物が、閉じられた肉の蓋を無理矢理に拡張して膨らませているかのような、悍ましい感覚……。それを中心として脳髄に至るまでに、様々な苦痛がその圧迫によって引き起こされていた。絶えず喉元に渦巻く嘔吐感や、全身に纏わり付く倦怠感、鈍器で殴られているかのような頭痛が、拷問とばかりにマシュの肉体を苦しませる。しかしその様な責め苦も、ほんの数秒も経てば、手足の先端から不可思議に消えていき、全身の神経を洗い流すようにして、その苦痛の収縮の一つ一つを一本の線として感じながら、それが子宮の内側へと、糸玉の様にして一つ塊に成っていくのを感じていたのである。

 

「ぐ……! は、あ……。 一体、何が……」

 

 マシュは苦痛に身悶えする中で、半ば救いを求めるような心地で立香に視線を投げ掛けた。先程まで言葉を交わし、尋常なる精神性を見せていた先輩ならば、このような事態にでも、何某かの回答を見せてくれるのでは……とでも言うかのような、依然として残る恐怖と以前までの暖かな畏敬を引きずったかのような感情を混合させて、マシュは真正面に瞳を向けたのである。……果たして、その様な曖昧なる希望の念は、確かに現実へと顕現していた。ありとあらゆる英霊の数々が等しく倒れ伏し、静寂にその身を横たわらせる中で、彼だけは依然として笑みを浮かべたままに座していた。この異常なる事態に目もくれぬまま、先程一瞬見せた皮肉気な表情など欠片も浮かべずして、立香は泰然自若にその場で笑っていたのである。

 

「せ……先輩」

 

 マシュは立香に糾弾の言葉を掛けようと思ったのだが、ぐ……と、苦痛が再来しては通り抜けていったがために、其方へと意識を割かれることになった。それは以前より感覚も経過時間も少なくなってきており、否が応でもマシュにその苦痛の詳細な分布を再確認させたのである。肉体を再び通り抜ける苦痛は人体の一点に……子宮に起点を発しているのは変わりが無い。嘔吐を催すような圧迫感が全身に倦怠感をもたらす症状もまた変わりが無かった。故にマシュは確信が持てた。幾度も同じ苦痛を繰り返されたマシュには心当たりがあったのだ。しかし……それはこのような形式では決して無かったはずだ。第一それは今の彼女には決して現れるはずのないものだった。だが、現実にこの肉体に起こっているのは……妊娠の中期に現れる、悪阻の症状そのものであった。しかし、それは本来の順序とは逆転して発生していた。……始まりに耐えがたい苦痛が存在し、それらが明確な形を取り戻していくと同時に、腹部へと肉の感触が復活するようになり、やがては立ち消えるようにして、子宮へと違和感が収縮していくのである。それは正しく、細胞の分裂から胎児が発生し、羊水の中で肉体を形成しては膨張していく過程を逆になぞったものであった。つまり、これは出産の逆再生なのである。既に生まれた人間が膣内に入りきるまで縮小した後、無理矢理に入ってはさらにその身を生命の根源へと逆転させ、遂には跡形も無く消えてしまうのであった。

 

 しかし、その様なことが有り得るのか? 唐突にして何が起きたのかも分からない内に、この状態を悪阻だと判断するなど……。しかし、マシュには確信があった。それは自らの至高な井出の判断では無く、無理矢理に認識させられた現実としての理由であった。彼女は自らも認識の外に置いていた現実を……埒外の論理を、まざまざとその精神に深く刻まれたのである。……それは消失であった。目の前で座する立香の右肩に撓垂れかかる形で倒れていた清姫が、足の指先から消失していったのである。先程までは甲斐甲斐しく立香へと言葉を掛けていた清姫は、その意識が戻らぬままに、緩やかに曲げられた足下の、靴も衣服も肉の連なりでさえも、全て纏めて一緒くたに消失していくのであった。僅かに舞い散る黄金の粒子は次々にその肉体を侵食していき、足先から踝を通り越して太腿をと、順調に止めどなく消していくのだが、どうにも苦痛などは存在しないようであり、金色の瞳と透き通った薄青の髪に飾られた端正な顔には、僅かな歪みも変容も見られない。やがては数秒も経たぬが内にその顔までもが空気中へと消えていき、後には僅かな粒子の残光のみが残り、それも間もなく消失した。

 

 さて、問題はその後である。跡形も無く清姫が消失し、そのエーテル塊の残滓すら見受けられなくなった時分。再びにマシュの肉体に悪阻にも似た苦痛が通り抜けていくのを感じたのである。そう、それは通り抜けたのだ。マシュはそれをより鋭敏化した感覚で、明確に感じ取ることが出来た。単なる苦痛だと思っていたそれが、マシュの膣内を通って何処かへと「通り抜けて」行くのを。凡そ一個の人体に相当する質量が自らの肉体の内部へと転移し、それが丁度子宮内に収まるように収縮していき、遂には何処かへと消えていくのである。言うなれば、マシュの肉体は目的地へと赴くための道として使われているのであった。では、それは一体何で、何処へと行くのだろう? マシュには心当たりがあった……。そして今目の前で発生した消失を認識したことで、それは確信へと変わったのである。「来た……」とマシュは思った。丁度背骨を貫くようにして苦痛が肉体を軋ませるも、それは徐々に小さくなっていく。子宮へと、産道を通るようにと、自らの意思で質量を圧縮していくのである。不安定で凡そ物理的で無い非現実的な存在の正体とは、一つのエーテル塊であった。それも意思を持ち、先程までは生きて動いて物を喋っていたエーテル塊である。それは非常に親しみのあるものだった。互いに笑い、戦い抜いたものであった。その魔力反応、波長の微細なブレまでも、マシュは計器で確認し、実際に感覚として味わったことも幾度である。

 

「あ……! あ、ああ……清姫さん……!」

 

 そうだ。それは間違いようも無く清姫であった。魔力の反応も、霊基の性質も、親しく日常を過ごし、共に修羅場を駆け抜けたそれと完全に等しかった。今正に目の前で消えていった清姫は、完全に知らぬ場所へと向かったのでは無く、自らの胎の内側へと入り込み、その肉体を子宮内に収まるまで縮めては消えていくのであった。こうして言葉を呟くその間にも、幾億もの細胞を超高速に純化させていき、その内的構造は形を残すこと無く単純な情報へと帰化していく。心臓も肺も眼球も脳も、ありとあらゆる内臓器も単純な細胞の一つ一つへと戻ろうと、その形を崩しては一つ所に集まろうとしていた。これこそが収縮である。やがては純粋な一個の受精卵として、僅かばかりの魔力も減らさぬがままに人体の原初の姿へと至ると、そのままふっと何処かへと消えてしまった。いや……何処かなど、最早見当は付いていたのだ。それが埒外だっただけなのだ。それが考慮の他であっただけなのだ。結局は何時までも、何処までも、マシュ・キリエライトは藤丸立香を理解など出来ていなかった。

 

「先輩……貴方は」

 

 今度こそは返事などしなかった。マシュの目の前で静かに座する立香は、その嫋やかな笑みを絶やさぬがままに、マシュの肉体から消えて去ったはずの清姫をその身に受け止めていたのだ。丁度消え去った清姫が居た場所を撫でる様にして、両の腕を一つ所に合わせると、まるで非常に小さく脆弱な物を抱きかかえる様に中空に虚無を掬い、そのまま自らの胸の内に抱きしめたのである。何も意味不明に意味の無い事を成したのでは無い。彼は確かに清姫をその両の手で掬い上げ、自らの内に溶かし込んだのである。それは実体を伴った行為では無かった。マシュと立香の間に繋がる直接的な魔力のラインから、そのまま逆流させるようにして、マシュの内側に存在する清姫を取り込んだのだ。……いや、清姫だけでは無い。今までにマシュが苦痛を感じただけのサーヴァントが同様に飲み込まれ、そしてこれからも同様に飲み込まれ続けるのである。依然として変わりようも無く、苦痛と共にマシュの肉体を通して。……それは冒涜であった。それは精神と肉体の両方に対する虐待であり、純粋な純潔を踏みにじる行為であった。立香はマシュの肉体の、その全容から内臓器、膣口から子宮内部の奥深くに至るまで、その意思も尊厳も全てを無視して、単なる「産道」として使用していたのである。凡そ純潔を純情と共に保った少女に対して行う行為では無い。マシュはその精神そのものを一片も掛けること無く肉体を蹂躙されて、次々にサーヴァントという赤子を迎えるだけの穴へと変幻していたのである。

 

 しかし、事の是非を問う者など最早存在せず、善悪を問う段階など彼方の果てである。立香に使用され続ける当の本人のマシュもまた、その様なことには専心していなかった。今その心に渦巻いているのはその行為の過程と結果の魔術的意味であった。自身の肉体を次々に通り抜けていくサーヴァントに最早苦痛を覚えることも無く、純潔を失った少女が次第に快楽を貪るように、彼女はその魔力が行き着く先についての考察に耽溺していた。……実を言えば、彼女はこのような状態に……或いは位置配列に、心当たりがあった。しかし……それを認めるためには幾らかの……いや、余りに多大なる困惑と驚愕と、憤りにも似た不愉快さが存在したのだ。それを認めることがどれ程の冒涜か、この魔術と科学で彩られたカルデアに誕生し、その一心一体を常々に研究へと捧げられてきたマシュには、余りにも正確に理解できたのである。しかし、今現在目の前に……そしてこの身に起こっているものは__本来の聖杯戦争。日本は冬木にて行われた、カルデアの成立の起源となったあの儀式の形態に、非常に酷似しているのである。

 

「第三魔法……聖杯……天の杯……! その身に英霊を留めるつもりですか! その魔力で、先輩自身が願望機になるつもりですかっ!」

 

 ……マシュ・キリエライトが保持する英霊の盾を基点として、裾広がりに契約される種々の英霊は、その精神性が魅了されるがままに、立香の胎へと回帰している。それは正しく冬木の英霊が聖杯に留められ魔力塊へと貯められゆくものと同一であった。肉を保持した器へと溢れんばかりに英霊の魂が注がれ、立香は胎を膨らました生きる杯となっていたのである。その身には既に七騎を超え、際限なく今もマシュの肉体を道として注がれ続けているのであった。……しかし、本当に恐ろしいのは、本当にマシュが冒涜だと感じているのは、その機構でも、自らも含まれた位置配列でも無く、その様な特級の魔術儀式に同様の物が、魔術師でも無い単なる一個人の精神性によってのみ行われていると言うことであった。あらゆる術技、あらゆる思考方法を以て行われたかの奇跡に比して、立香は自らの精神性によってのみ、英霊の数々の自身に集合させているのである。それは正しく冒涜だ。数多の歴史を紡いできた魔術師に対する冒涜であり、これまでに紡いできた英霊達との絆に対する冒涜であった! しかし、しかし……マシュもまた、その胎内回帰に惹かれていることは事実であった。壮絶に隔絶した精神がもたらす異妙なる誘惑は、純粋な欲求としてマシュの中に増幅しては膨らみ続けていた。覆い隠されぬ肉に細工された、暖かく柔らかい胎の中は幸福で満ち溢れ、既にその胎に満たされた先人の声は、天の喇叭が如くに祝福を象徴している。ああ……肉であった。マシュの目の前に存在するのは、毛皮にも肌にも隠されぬ、あからさまに露出された肉であった。全く、人間の生肌の何たる醜さか! 外気に触れ続ける人肌は常に影を伴い、ただ肉に張り付いては浅ましく美を気取っている。それに比して内部に秘匿されし肉の美しさ! 人肌に感ずる恍惚など、所詮はその奥底に息づく肉の色が染み出ているに過ぎないのだ。マシュはその肉の内でも特に秘奥されし底の底、良識と恥辱に覆い隠されて追いやられた、人間の根源的な美の生まれる場所、子宮を見ているのである。それは最早尋常の精神では耐えようも無かった。それに屈することにすら快感を覚えていた程である。だが……それでも、あくまでも、形の上だけでも、マシュはその誘惑に抵抗しようとした。

 

「う、あ、ああ…………こ、この……淫売! 恥ずかしいですよ! この……厭らしい、吐き気がする、汚い、汚い、汚い……! この……このっ……!」

 

 しかし、このような言葉など今更意味を成すのだろうか? 既に善悪は過ぎ去った。今はただ行為が存在するだけなのだ。マシュは自らが道として使用されていることには、快感と高揚は覚えこそすれ、悪感情など一欠片も抱いていなかった。しかしながら、その心身に深く刻まれるのは、目の前に肥大し続ける精神の、その構造形態に対する恐怖である。凡そ一人の人間がここまで変化し、変貌し得るものなのかと、そのような過程に対する驚嘆と関心を彼方に捨て去る程に、目の前で坐する立香の精神は隔絶を極めていた。浮遊、浮遊、浮遊の一言である。中空に停滞しては自らの陰部を晒し出し、善悪を問うことなく自らの内に抱くその姿は、正しく中立中庸が形を成した嘗ての立香の姿を連想させるものであったが、その受容を成す器の規格は広大にして無辺である。今現在も膨張と拡大を続け、留まる所を知らぬ有様は、最早人間の精神ではなく、一個の世界そのものが如くに横たわりては、其の肢体を艶めかしく歪曲させ、人間的律動を保ったままに次々と胎子を迎え入れるのである。肉感を宿した世界的な広がりは、嘗て対峙した地母神を連想させたが、そのように無機質な、単なる機構としての母親では無いのだと、マシュは改めて感じた。立香は明確に自らの自意識を保ったままに……つまりは、積極的に此方へと手を伸ばし、その恩恵として肉の抱擁を与えんと微笑みかけるのである。其れには全く抗いようもなかった。凡そ人間に対して根源的に通じる母親への愛情を、純粋に凝縮しては耽溺させるのである。この場に集まっていたサーヴァント達の、赤熱に浮かれた状態では堪え様もなく、そして一人が溺れれば、後は我先にと惹かれるばかりであった。今もマシュの肉体にはエーテル塊が収縮しては消えていく。最早その魔力の渦はこの限定された場所を越え、極致を極め異常に膨張した精神と魔力を以て、その手の先に導かれるがままに、あらゆる精神を持つ実体へと働きかけては溶かし込み、その影響は物理的な方面にまでも及んでいた。……マシュは立香の背後にある、舞台幕で飾られた壁面が異様に膨張しているのを見た。明らかに此方へと、奇妙に歪んで複雑怪奇に変化した壁面細工が、その白色に掛けられた赤色の幕をそのままに、外れることなく、破れることなく、一体に、言うなれば空間そのものごとに、此方へ向かって膨張しているのを見たのである。……いや、膨張しているのでは無い、収縮しているのだとマシュは察した。この背後に存在する空間は、渦巻いて回転し、一点を目指して歪んでいるのだ。それが目指す一点など、態々考えることもなく察すれた。見れば直角を保っていたはずの部屋の角は、逆転して曲線を描き、その陰影をそのままに伴いながら、奇妙に線を歪ませて収縮しようとしている。其ればかりでは無い、四方八方の壁が、いや、空間そのものが一つ所を目指して閉じようとしているのだ。一つ所、ああ、子宮、立香の子宮の内。その肉の内側へと世界そのものが眠ろうとしている。其れをマシュはただ一人孤独に見つめていた。最早森羅万象に孤立しながらも、マシュはただ一人其れを見つめ続けていた。拒絶を示しながら、その有様を否定しながら。ああ、しかし、マシュは本当ならば今すぐにでもその胸の内に飛び込み、抱擁されながら甘言に浸りたかった。今すぐにでも自らも子宮に抱かれて見果てぬ夢を見続けていたかった。しかし、其れは出来ないのである。何故ならマシュは立香に拒絶されていた。何もただ一人情動が所以に排斥されているわけでは無い。あくまでも立香があらゆる全てのサーヴァントを飲み込むための道として……言うなれば機構の維持として最後に残されているに過ぎないのだ。其れをマシュ自身も理解していた。理解しているが故に、その順序の差別に我が儘を言っているのであった。淫売だとか、吐き気がするだとか、そういった罵倒も所詮は構ってもらえぬ子供の喚きと同様なのである。恐怖など言い訳に過ぎなかった。本当は心の底からその肉に耽溺する第一人者になりたくて仕様がなかったのだ。

 

「ぐ、う、うう……。死ね、死んでしまえ! 死んで下さいよお願いだから! 何でそんなに入れるんですか他の人を。全部殺してしまえば良いじゃ無いですか。どうせ全部胎の中で眠らせるつもりなら、私以外を殺したって構わないじゃ無いですか!」

 

 泣きながら、喚きながら、マシュは口さがない罵倒を懸命に吐き出し続ける。死ねと、死ねと、この下劣な肉風情と。しかしその瞳は立香だけを見ていた。一つ他の子供が迎えられる度に深まる笑みを、恐ろしく憎しみに満ちた瞳でマシュは見つめていた。いや、瞳だけでは無い。最早痛みなど当に感じなくなった体を動かし、朗らかに佇む立香の、その下腹部を外気に晒しては、其処にある子宮へ向けて語りかけるのである。両の手に力を込めながら何とか醜く汚らしい肌を掻き分け、真髄の臓器を取り出そうとするのだ。

 

「こ、この肉が……この肌がいけないって言うんですか。だったら殺してあげますよ! このっ……!」

 

 そう言うとマシュは全身の力を一心に指先へと込め、丁度縦になるようにその肌を引き裂いた。指先に絡みつく皮膚とは裏腹に、血飛沫は鮮やかな赤黒の迸りを黄褐色の脂肪と共に溢れ出すが、その様なことは構いもせずに、マシュはより奥深く、より神秘なる秘奥へと、その爪先を露出された腹筋の筋に突き立て、興奮と疲弊に息切らしながら引き裂くのである。表面上に蓄えられた血の量では到底比べものにならない、本当に生物を動かして生かすための血液が、加えられた指先の震えに沿って歪に引かれる傷口より、堰を切って溢れ出る。一つ関節の微細なる運動により、確実に立香を殺していく。幻想の聖性に彩られ、常に背後で守り通し、何よりも恐れて忌避していたはずの危害を今、自分自身がその身に深く、取り返しが付かない程余りに深く、証明とばかりに刻んでいるのである。微細な細胞が肌と爪の間に入り込んでいくのを感じながら、その生来の接合を無遠慮に蹂躙していくことに、マシュは僅かな快楽を覚えていた。絶対なる希望を自らの仄暗い欲望で汚しているという事実に、マシュは単純に興奮していたのだ。しかし、その快楽に突き動かされ、上気した感情に酔うがままに、歪な笑みを意識的に浮かばせながら、意趣返しとばかりに立香の顔を見ようと顔を上げた途端、マシュの心身に満ち足りていたはずの快楽は全くの音も立てずに消滅した。立香は笑っていた。ただ只管に笑っていたのである。皮肉も苦みも含ませて無い、無邪気な子供がその情動の成すままに行った出来事を、情愛を以て見つめているかのような、これ以上無い程に優雅な笑みであった。

 

「う……あ……!」

 

 マシュは俄に硬直した。其れは立香が向けた笑みを見つめたがばかりでは無い。今もなお休めずに刻み続けていた肉体の、その掻き分けたが先、底の底に辿り着いてしまったが為である。腹筋を通り抜け、小腸と大腸の連なりを転び出させながら引きずり出し、溢れかえる鮮血を欠落に貯め続けながら掻き分けたその先に、マシュは辿り着いていたのだ。そうして辿り着いて、その先に、マシュは何も無いのを見た。何も無い。子宮など無かった。あるのはただ骨と肉と血だけであった。人体を構成する要素が、その構成そのままに、理路整然と揃えられているだけなのだった。……其れは当然と言えば当然であった。男に子宮など有るわけが無い。マシュが惹かれ、世界そのものを飲み込もうとしているのは、あくまでも精神的な子宮、実体を伴わぬ肉である。幾ら腹の底を開き、血肉を爪先に蓄えたとして、其処に残るのはただ鮮血を徒に振りまいたという事実だけである。其処には何も無い。何も無いのだ。丁度人の頭一つ分が入れる程の欠落を目の前に、マシュはただ呆然としていた。

 

「あ……ああ……そう、ですね……。そうなんですね……」

 

 マシュは力なく両の腕を立香の膝元へと落とした。弾みで太腿に貯められていた血液が跳ね、清純を保っていた衣服と頬に血肉が染み渡り、赤黒く汚し続けるが、立香は何の反応も示すことは無い。寧ろ先程に比べより一層笑みは深まり、高まった広角に持ち上げられるようにして口は開き、眉根は下がりて瞳を震わせ、睫毛は開閉に伴って揺れており、其れは最早満面に程近かった。マシュはその表情の微細の推移を、肉の欠落から目を離して見つめていた。その満面が意味する所……即ち、立香の念願が果たされようとしているのだと理解しながら、自身の内に数多の魂が通り過ぎ、自分だけが世界全てに追い抜かれていくことに、もう喚きも泣きもせずに、言論を弄せず口すらも開かず、ただ黙して待っていた。……諦めた、と言うには語弊がある。諦観にその身を焼き尽くしてただその時が来るのを待っていたのではない。全てが終わり、自らが抱擁を受け取るその時を思い描き、情動を押し込んで堪えていたのでも無かった。マシュは……許せたのだった。立香が浮かべた笑顔を見て、あらゆる全てに置いて行かれ、あらゆる全てに立香を占有されることを、そして何よりも其れを実行した立香自身を、今正に目の前で完成した笑顔だけで許せたのだ。……其れは今日……いや、人理を巡る旅を繰り返していく内に……戦いが激しさと規模を増し、凄惨を極め、醜い欲求と果ての無い願望、数多の死体と暴力をその目に流して行くにつれ、血飛沫を上げながら失われていった純粋なる笑みであったのだ。最後のマスターとしての自分、唯一無二の存在としての自分、非戦闘員としての自分、数多の他者の幻想としての自分……それら全ての重荷を取り払って、ただ一個人の「藤丸立香」として見たときに、現れ出たのがその笑みだった。世界を救うために子宮を広げ、胎児に回帰させ続けるという、狂気的な夢が叶う瞬間に現れ出たのが、この笑みだ。これが本当に心の底から、立香が叶えたいと思う願いだった。これが数多の欲求に磨り潰されていた立香が、心身から望んだことだったのだ。……マシュには、それだけで良かった。それだけで、其れが本当に純粋な願いだと言うことだけで、自らが受けた冒涜も陵辱も全てが許せた。それだけで、その笑みが完成していく過程を静寂に、心緩やかに、血液が滴り落ちる水音に耳を澄ませながら待つことが出来たのである。其れは本当に幸福な時間であった。

 

「……マシュ」

 

「……せん、ぱい。……先輩」

 

 今の今まで黙して語らず、自らの肉体に対する破損も流るるがままに過ごしていた立香であったが、唐突にして舌を動かし、言葉と供にその右手をマシュの頭の上へと、労り、宥め賺す様に置いた。思わずマシュが顔を上げてみれば、嫋やかに喜色を満たした、艶やかにして慈悲に溢れた表情が浮かび上がっており、其れが確かにマシュを……目の前のマシュだけを見つめていた。そうだ、立香は確かにマシュだけを見つめていた。自身に帰来する物を受容する行為に気取られること無く、目の前の信愛する後輩と対話することに専心していたのだ。

 

「ああ……先輩、終わったんですね。……結局、最後ですか?」

 

「ははは……ごめんね? そうする必要があったからね」

 

「そう……ですか」

 

「ああ……。マシュのおかげで……みんなこの中さ。それにしても、まあ、随分と派手にやったね。こんなに……血まみれだ。折角皆が眠る場所なのに」

 

「…………別に、良いじゃ無いですか。どうせ出産に使う物は交尾の際のそれと同じでしょう。同じです。……どっちにしろ、愛液と精液で汚れているのは変わりがありません。其処を通った時点で既に穢れていますよ」

 

「そうだね……どっちにしろ、同じか」

 

「そうですよ。少々血で汚れても、構わないじゃ無いですか。……精液とか、愛液だとか、命あるものなら等しくその身に宿しているのですから。……血液だって同じです。汚いのは変わりがありません……でしょう?」

 

「ははは……言うね……マシュ。でも、違うさ。だって皆は産まれない。マシュだってそうさ。分かっているんでしょう? 君は産まれない。産まれさせる訳がないでしょう。外に何て出すはずが無い。永遠にこの胎の中で……」

 

 立香はマシュの頭に両の手を添えると、緩やかに自らの腹部があった場所へと……血肉に塗れた欠落へと、マシュの頭を押し込んだ。マシュもその手に自らの頭を預け、力を抜いて眠る様に目を閉じた。そのまま全てを預けるが如くに全身の力を抜いていき、手足も背骨も丸め、丁度胎児が如くに丸まって、暗闇に覆われた視界に、ただ二つの掌からの体温だけを感じていた。

 

「うふふ……はい。知ってました。其れを誰よりも望んでいたんですから……我が儘です。言ってみたんですよ。ごめんなさい……どうですか?」

 

「ははは。良いね……。嬉しい。ありがとう。とても……良い感じだ。……さあ……眠ろう。子宮の中へ。マシュのおかげで……世界を救うことが出来るんだ。皆この中に包み込んでしまえば、同じさ。全てを飲み込んで、永遠に眠りに就かせてあげたいんだ。皆の願いを叶えて、皆を幸せに……」

 

「其れは……素晴らしいですね。皆さんも喜んでいるでしょう? 羨ましいです……。ああ……先輩、私の夢も叶えてくれますか?」

 

「もちろんさ。さあ……お休み」

 

「……はい。……お願いですよ? ねえ、先輩……………………」

 

 マシュは瞳を閉じた。その先には子宮が広がっていた。深い、何処までも続く暗闇が、確かな暖かさと愛情を以て形成されており、その先に導かれるようにして、マシュの意識は奥深くへと沈んでいく。先人には数多の見慣れた魔力の数々。気まぐれに後ろを振り向けば、空間と世界そのものが続々と波立ちて渦巻き、撹拌に撹拌を重ねて染み渡っている。その中には今までに遭遇した種々の時代の人々、動物、魔物、精霊、自然、凡そ人理そのものが、各々に独立して肉に包まれていた。羊水は万人に行き届き、枯渇すること無く喉奥を潤わせる。

 

「先輩」

 

 音は響かず、ただ意思だけが響く。深い眠りが鼻先を擽り、手招きされるようにして幸福な夢へと誘われる。その中には永遠だけが……永遠に、永久に渦巻きて、破れること無く存在している。黄金に柔和な精神の回転によって形成された、歓楽にして清純なる白亜の天空には、欠落など一片も見えず、ただその肉と肉の交わりだけを臍の緒に感じながら、極小の世界に自らの宇宙を預けるのである。その様に安楽を以て形成された、無窮が約束された世界卵が連なる中で、マシュは自らもまた只管に純化していくのを感じていた。幾億たる細胞の数々が、各々に互いを慈しみ、ただ一人の母を敬愛することで、原初の荘厳たる単一の細胞へと回帰していくのである。其れは本当に幸福だった。其れは根源にも繋がる始まりの快楽であった。しかし……マシュは最後に一言だけ。一言だけを、例え届かなかろうとも伝えたかったのである。其れは感謝であり、謝罪であり、贖罪であり、崇拝であり、そして何より愛であった。胸に轟き熱情を発する感情が、胡蝶に邯鄲に消えようとする今こそ、混沌に撹拌される哀楽喜悦のその全てを伝えたかったのだ。ああ……全てが崩れて落ちていく。一つ所へと快楽と共に感情さえも落ちていく。その最中に思考を響かせ、マシュは一つ、望んだのだ。

 

「ああ……先輩…………あらゆる全てを望むがままに……貴方の全てを許します」

 

「例え貴方の成す物事が悪逆と誹られようとも…………私は許します。きっと皆さんも許します。誰一人として、貴方に守られているものは、貴方を許します」

 

「……貴方は全てから恋されているのですから。貴方は全てから愛されているのですから。だから……貴方自身も、貴方自身が幸福であるように、祈って下さい。…………先輩」

 

 ……快楽は音も無く。完全に思考は溶け落ちる。凡そ光あるものは全て子宮の内側へと。万物は眠り、真なる暗闇に胎を慈しむは藤丸立香ただ一人。空も地も無く、空間も時間さえも存在しなくなり、立香は静かに世界として鎮座していた。あらゆる始まりも終わりも全ては一点へと集中し、神魔も善悪も分別を保持したままに同一に眠っている。全てが其処にある。全てが立香の子宮の中へと存在する。即ち立香は最早世界そのものだと言うことだ。世界そのものであるが故に、物事が始まり終わるその全てを停滞させて保存して守護し、結果として……根源に何も介すこと無く直接接続しているのだ。その回線から溢れ出る力の奔流は壮絶に途切れること無く立香を強化し続ける。その腹の内に何れの害悪をも通さぬよう……我が子らを害すものを見せることすらないよう、その肉壁は厚みを増して胎児らを包み込むのである。ただ一人の母親として、永遠に、永久に、無限を以て、慈愛に胎を撫でながら、足を歩くために動かしながら、新たに自らが救うべき子供達を、平行世界の過去未来を跨がって、自らの内に溶かし込みながら、藤丸立香は歩き続けるのである。世界を救うために自らを進化させ続け、胎を膨らませ続け、子供達に愛を振りまきながら、万物を、そして何れは根源そのものを自らの子宮に眠らせるために。……獣と呼ばれたことがある。人類悪と呼ばれたことがある。その他あらゆる罵倒、あらゆる蔑称、あらゆる解析、あらゆる定義付け、それら全てを撥ね除けて、立香は今日も歩くのである。____そして、子宮の内は常に静かで暖かく、そして幸福なのであった。



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