窓辺から清々しい朝日の差し込む一室。空気の入れ替えの為に開け放たれた小窓から、薄らと寒さを感じる風がふわっと吹き込み、チュンチュンと雀の鳴き声が聞こえて来る。
すぅっと大きく息を吸い込むと風と共に草と土の香りを含んだ空気が運ばれ、
「
好きだったのだ。
傍から聞こえる可憐な声色に、信乃逗がそっと顔を向ければ、そこには声から想像できる通りの可憐と表現できる1人の少女がいる。肩より上で揃えられたふんわりとした淡い栗色の髪が窓から差し込む光を浴びて輝き、さながら御光のようになっている。
「あぁ、そうだな」
そんな美少女かつ優秀な後輩に信乃逗は仏頂面でそう答える。素っ気ないとも取れる言葉だが、それを受けた楓は何故か嬉しそうに歯に噛んで信乃逗の口元へと自らの手を近づける。匙を握って。
「じゃあ、はい、口を開けてください」
見るものが蕩けてしまうような微笑みを浮かべて少女は信乃逗へと迫るが——
「だが、断る」
一瞬の躊躇いすらなく信乃逗はそれを拒絶した。
「なっ、なんでですかっ!?」
「嫌だからに決まってんだろうがっ!?」
天使のような微笑みを崩して怒号をあげる楓にこれまた怒号でもって信乃逗が返す。
「はぁー!?こんな美少女が甲斐甲斐しく世話を焼こうとしてるのに、毎度毎度、信乃逗さんは一体何が不満なんですかっ!?」
「そこだよ、そこ!そこが一番嫌なんだよ!!ていうか自分で美少女とか言ってんじゃねぇー!」
「そこってどこですかっ!?…はっ!まさか信乃逗さん、女より男に食事を取らせて欲しいんですか?可愛い女の子より男の方がいいんですかっ!?」
「ちげーよ!?なんでそうなるの!?食事くらい自分でとるっていってんだよ!誤解されること言ってんじゃねー!」
「両手が使えないのにどうやって自分で食べるんですかっ!」
楓の大声に信乃逗はうっと言葉を詰まらせる。
そもそも齢16にして乙まで階級を上げるほど優秀な彼女がなぜこんな朝早くから信乃逗の隣にいるのか、そして何故甲斐甲斐しく食事を取らせようとしているのか、その理由は今の信乃逗の状態にある。信乃逗は今両手が使えない、どころか起き上がることもできない。
先日の洞窟内での戦闘。信乃逗は自らの打ち込んだ毒で鬼を仕留めたと油断しきっていた楓を庇って負傷した。驚異的な速度で発動した血鬼術、先端を鋭く尖らせて幾本も迫りくる岩槍に身体を貫かれた信乃逗は両腕と腹部に風穴を空け、結果、この蝶屋敷で久しぶりの療養生活を味わうこととなったのだ。最近は治療する側に回っていたし、最後に寝台に横になっていなければならない程の傷を負ったのは一年以上は前なので、きよ達には随分と心配をかけたようで、蝶屋敷で意識を取り戻した時には泣いて喜んでくれた。そこまではいい。これ程の怪我を負ったが、意識はきちんとあるし、後遺症らしい後遺症も今のところはない。強いて問題があるとすればそれは両腕が未だ使えないが為に、こうして色々世話を焼こうとする彼女の存在だ。
どうも楓は自らが油断したが為に信乃逗が重傷を負ってしまったと、随分と塞ぎ込んでいたようで数日間意識が戻らなかった信乃逗につきっきりで看病していたと、同じ病室に入っている同期の山本からは聞いた。しかし、こうして信乃逗が意識を取り戻して見る限り、そんな様子は微塵も感じさせない。むしろ何故か生き生きとしているように見える。今だってやたらと信乃逗に食事を取らせようと匙を口に向けて「あーん」なんて言ってくる程だ。これのどこが落ち込んで塞いでいるのか全く理解できない。というかこの光景にはいっそ既視感しかないのだが……
「おかしいなぁ、しのぶ様はこれで元気になるって言ってたのに……」
犯人発覚。
(おのれ、しのぶさ〜ん!!余計なことを言いやがってぇ!!)
何故、こうも甲斐甲斐しく世話を焼こうとするのか疑問だったのだが、どうも裏で糸を引いている黒幕がいるようだ。
「食事を多少抜いたからって死にはしない。余計なことばっかりしてないで、少しは強くなるように鍛錬でもしてろよ」
割と強い口調で出たその言葉に、ピクッと楓が若干傷付いたように顔を伏せる。
(言いすぎたか。いやでもこれはしのぶさんが悪いだろ)
「おいおい信乃逗、テメェも懲りない奴だなぁ」
信乃逗が内心でしのぶにあらんかぎりの罵詈雑言を浴びせていると、同じ病室に入っている鬼殺隊の隊員が寝台から起き上がりゆっくりと近づいてくる。
「なんだよ、山本。藪から棒に」
同期の山本。信乃逗より年上の男子でありながらしのぶ並みの低身長で、両腕筋肉お化けと称される程上腕二頭筋が発達した階級
「おいおいしらを切るきか?往生際が悪いぜ、信乃逗」
「いや、だからなんの話だよ?」
そこはかとなく怒っているかのような、問い詰めるかのような空気を醸し出している山本に信乃逗は戸惑いながらそう声をかけると、
「そんな可愛い後輩に飯を食わせてもらおうなんてくそ程羨ましいことをしておきながら、嫌がる素振りで俺達に見せつけ、挙句彼女のお預け状態を愉しむとは、なんて性格の悪い奴だ!!この人でなしぃ!!」
「誰が人でなしだ!?どこからどう見ても楽しんでねーだろうがッ!妄想力豊かすぎんだろう、この目腐り野郎!!」
「うるせぇー!お表に出ろやコラァ!お前のような外道は、俺達生真面目で可愛らしい女を侍らせる男抹殺隊、略して『キサツタイ』が滅殺してやらァァ!!!」
「知らねーよそんな組織!!どんな隊作ってんだ!!代表者出せやコラァ!!」
「俺だぁ!!」
「お前かよっ!?」
(恥ずかしい!同期がそんな馬鹿で阿呆な男だったなんて恥ずかしい過ぎる!!)
信乃逗があまりにも哀れな同期の姿に内心で悶え苦しんでいる時それはやってきた。この場にいる全員よく考えるべきだった。ここは何処なのか、何をする場所なのか、そして、誰の管理下にあるのかということを。
スゥーと、決して激しくもなく、かといって無音というわけでもない。ただ静かになんの変哲もなくいつものように病室の引き戸は開かれた。扉の向こうに静かな怒りを伴った閻魔を宿して。
「あらあら、一体何を騒いでいるのでしょうか?」
鈴の音のような凛とした声が室内に響き渡る。
瞬間、それまで静寂とは何かと問いたくなるほどに音の絶えなかった部屋が一瞬で無音となる。寝台で横になる信乃逗は笑顔のままピキッと固まり、寝台の横に立つ楓は顔を青ざめてガタガタと震え、扉を背にして寝台へと体を向けていた山本は壊れたブリキのようにギチギチと硬くなった首を回し、視線を扉へと向ける。
3人の視線に共通して映るのは微笑みを携えた美女。蟲柱、胡蝶しのぶだ。見るものを魅了し、顔を赤く染め上げてしまうような微笑みを受けているにも関わらず3人の顔色は何故か悪い。
「どうしたのですか3人とも、黙っていたのでは分かりませんよ。私は質問しているのですが……」
一層微笑みを深めて一歩室内に足を進めるしのぶの姿に、山本と楓はひっと声を上げて後ずさる。
「聞こえなかったのならもう一度聴きましょう。こんな朝早くに、怪我人のいる病室で、一体何をそんなに騒いでいるのかと私は聴いているのです」
にっこりと最大級の微笑みを浮かべたしのぶに3人は声を揃えてこう言った。
「「「ごめんなさいっ!」」」と。
無論、彼女の回答はこうだ。
「許しませんよ」
◆
「全く、貴方達は毎度毎度反省の色が全くないのですから、これで少しは懲りてくださいね」
しのぶは満面の笑みを浮かべて病室を後にする。そんな笑顔で額に青筋を浮かべるという器用な師を前にして、
「さて、楓はこちらに、貴方はしばらく道場で鍛錬です」
この鍛錬が名ばかりの罰則であることは楓も十分に理解できた。どんな恐ろしい鍛錬かと楓が想像に恐怖していると
「楓、
道すがら、しのぶは後ろをちびちびとついてくる自らの弟子にそう声をかける。
幸い彼の傷は急所は避けていたし、止血が手早かったおかげか、出血量もそこまで多くはない。蝶屋敷で治療すれば命に別状はないだろう。そう判断したしのぶが楓に告げれば彼女は一瞬安堵し、数秒後には再び自己嫌悪の渦に呑まれてしまう。
まぁそうなるだろうと、しのぶも予想はしていたが、蝶屋敷についてからの落ち込みようは流石に目に余るものがあった。信乃逗が目覚めるまで彼女は頑なに信乃逗から離れようとしないし、ろくに睡眠もとっていない様子。このままでは先に楓が倒れると、しのぶは苦心の末、信乃逗の看病を楓に任せこう言ったのだ。
「この両腕では、雨笠君はしばらくは自分で食事はとれないでしょう。楓、貴方が食べさせてあげなさい。そうすればきっと雨笠君も元気になるでしょう」
と、確かにしのぶはそう言った。よもや、あそこまで信乃逗が拒絶するとも思わなかったし、そこまで頑なに自らの手で信乃逗に食事を取らせようとする楓の意地の張りようにも正直驚きだ。
最初はそれでも楓が元気になり、信乃逗もいつも通りの調子を取り戻しつつあるので、いいだろうと見逃してきていたが、5日も同じ状況が続いているのは流石に目に余る。特に信乃逗の拒絶の仕方は日に日に強くなってきているし、楓もそれに合わせるかのように意地を強めているように見受けられる。あまりいい状況ではないと、しのぶもついに口を出すことにしたのだ。
「雨笠君が貴方の行いを拒絶していることには気付いているのでしょう?どうして意地になって続けるのですか?」
どんなお仕置きかと身構えていた楓としては諭すようなしのぶの言葉に思わず拍子抜けしてしまう。
「もちろん、私も気付いてはいますが、その、ここで、引くわけにもいかないと言いますか……」
後半は何やらモゴモゴとして非常に聞き取りづらい。しのぶは煮え切らない様子の楓に思わず溜息をついてしまう。
「はぁー、貴方は一体何と戦っているのですか?雨笠君に申し訳ないと思うのであれば、一歩引いて見ることも大事だと思いますよ。押しつけがましい善意は悪意となんら変わりありません。雨笠君が嫌がっているのであれば、やめておくほうが無難です」
楓にそう諭しながらも、しのぶは今の信乃逗の態度には大いに文句を言いたい。楓はしのぶの大切な継ぐ子で、根はとても優しい女の子だ。そんな子がああも献身的に毎日看病にきているのに、意識を戻した信乃逗の態度は妙に辛辣に見える。負い目を抱える相手がああいう行動に出るのは信乃逗ならわかるはずだがなぜそうも頑なに拒むのか……
「その、しのぶ様、私は負い目から
ふとかけられたその言葉に、しのぶは思考に追いやられた意識を戻す。そういえば、彼女はいつの間に信乃逗のことを下の名で呼ぶようになったのだろうか?彼が眠りについている間も、彼女はずっと上の名で呼んでいたはずだが。自分の知らないところでこの2人に何かあったのだろうか?
「負い目からではない?では、楓は何の為にそんなに雨笠君の看病にこだわっているのですか?」
何気なく聞いた言葉だった。しのぶにはそれほど深い意味があるとはこの時は考えていなかった。だが、問いかけた後になって、彼女の意を決したような表情を見て、しのぶは全てを悟った。
(あの男は私の弟子に一体何をしてくれたんでしょうかねぇ〜)
しのぶは頬を痙攣らせて一層、青筋を深めた。
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