二年前の夏、諏訪乃々香は俺にそう言った。
これは、ある一つの世界の終わりについての、俺と彼女の物語。
二年前の夏、うだるような暑さの中で、諏訪乃々香は俺にそう言った。
都心から遠く離れたド田舎に建つ一軒家。居間の畳の上に仰向けに寝転がりながら、乃々香は俺に突拍子もない質問を投げつけた。
「なんだよ、藪から棒に」
「いいからいいから。で、どうすんの?何して過ごす?」
乃々香は俺の言葉など意に介さず、強引に話を進めてくる。まあ、いつものことなので、俺も慣れてはいるのだが。
「うーん……そうだなぁ」
この状態の乃々香に抵抗しても無駄だと知っている俺は、しぶしぶ真面目に考える。
「まず、途中で止めてるゲームをクリアするだろ。それから、借りたまま観てない映画のDVDを観て、あとは……本でも読みながら、世界が終わるのを待つかな」
「何それ、くそつまらん」
乃々香は何故か不満げだ。俺の答えは、どうやら彼女のお気に召さなかったらしい。
「そういうお前はどうなんだよ」
「え、私?」
「他に誰がいる」
いきなり話題を振ってきたくせに、自分が答えることは想定していなかったようだ。
乃々香はしばらく考え込んで、
「んー、内緒」
と言った。
「おい、そんなのありかよ」
人が真面目に考え出した答えをつまらないと一蹴したくせに、そりゃあんまりだ。
「まあ、いいじゃん。小さい事を気にする男はモテないよ?」
「余計なお世話だ」
こうしてこの話題は流されてしまった。
昔からずっと、俺は彼女のペースに呑まれっぱなしだ。そしてきっと、この先も。
「そうだ、知ってる?今日、神社で縁日があるの。行こうよ。どうせ暇でしょ?」
そう言って乃々香は立ち上がる。
彼女の後ろに見える向日葵畑と室内に差し込む太陽の光が、彼女の屈託のない笑顔と合わさり、より一層眩しく見えた。
じりじりと照りつける太陽が肌を焼く。蝉の声がサイレンみたいに辺りに鳴り響く。
舗装もされていないあぜ道の上、俺は乃々香の後ろを歩いていた。
「そういえば昨日、昔の夢を見たよ」
「昔の夢?」
俺の言葉に、乃々香が聞き返してくる。
「ああ。お前が、世界の終わりに何をしたい?なんて聞いてきた、あの日の夢だよ。憶えてるか?」
「あー、あったね、そんなこと」
乃々香は懐かしそうに目を細め、少し恥ずかしげに笑った。
「俺は真剣にお前の質問に答えたのに、お前はそれをつまらんと言い放って、挙句自分は答えなかったんだ。あまりに理不尽だったから、夢で見るくらい印象に残ってるんだな」
「もう、二年も前のことでしょ?しつこい男はモテないよ」
「余計なお世話だ」
いつも通りのやりとりに、二人で笑い合う。
そう、いつも通り。昔から、何も変わらない。
俺と乃々香が出会ったのは、もう十年も前のことである。
小学二年生になって少し経った夏の頃、俺は両親に連れられ、父方の祖父母の家を訪れた。両親の仕事の都合で、しばらくの間、預けられることになったのだ。
祖父母とは東京で何度か顔を合わせたことはあったが、俺がこちらに来るのは初めてのことで、あまりの田舎っぷりにとにかく驚いたものだ。
まずビルがない。道路はあるにはあるが車が通ることは殆どなく、当然信号機もない。カラオケも、ボーリングも、映画館もない。唯一ある個人経営のコンビニまでは、歩くと四十分もかかる。
都会育ちの俺にはかなりのカルチャーショックだった。それでも、たまに見かける地元の子どもたちは、何一つ不便を感じさせない笑顔で、川や茂みで遊んでいた。
俺は子どもながらに捻くれた発想で、「彼らはここの外を知らないから、そもそも不便を感じられないんだ」と考えた。今思えば、仲間たちとああして楽しそうに遊ぶ彼らに、俺は嫉妬していたのかもしれない。
俺は学校で友達が作れずにいた。いや、作ろうともしなかった。周りの同級生が、やけに幼稚に思えてならなかったのだ。変に早熟していた俺は意味のないプライドから、彼らから距離を置いた。「俺はこいつらとは違う」と、無駄な虚勢を張った。
その結果、同級生たちは俺から離れていき、教師は俺の扱いを面倒くさがった。我ながら、可愛くない子どもだったと思う。
そんな俺を変えたのが、諏訪乃々香という少女との出会いだった。
彼女は祖父母の家の近所に住んでいる同い年の女の子で、いつも一人で絵本を読んでいた。
周りの子どもが鬼ごっこをして遊んでいても、同じ。彼女は木陰に座り、一人黙々とページを捲っていた。
彼女はなぜ一人でいるのだろう?
俺はふと疑問に思った。同時に、彼女と話してみたくなった。
俺は彼女の近くに歩み寄り、恐る恐る話しかけた。
「何を読んでいるの?」
無難な切り出しだと思った。というのも、親以外とろくに会話したことがなかったので、他に思いつかなかったというのもある。
彼女はこちらを一瞥したが、すぐに本へと視線を戻し、そのまま黙ってページを捲った。
つまり、シカトされたわけだ。
予想外の反応に俺は驚いて、
「そんなに面白いんだ、その本」
と、重ねて尋ねた。
すると彼女は、本に視線を向けたまま、
「つまんない」
と、呟くように言った。今にも消えてしまいそうな細い声だった。
「じゃあなんでいつも読んでるの?」
「他のことするよりはましだから」
「へぇ……」
これが、俺と乃々香の最初の会話だった。要するに、俺たちははぐれ者同士だったわけだ。
俺はその後も、彼女を見かける度に話しかけた。
「こっちの夏はすごく暑いね。涼むところもないし」
「川にでも飛び込んでくれば?」
彼女は相変わらずそっけなかったが、無視されることはなくなった。
俺は、彼女と二人でいる時間を楽しんでいた。もしかしたら、彼女もそうだったかもしれない。
そして、俺が東京へ帰る日がやってきた。
俺は、友達に挨拶してくると言って家を出た後、彼女の家へ向かおうとした。しかしその途中の道で、俺と彼女はばったり鉢合わせた。
「あ…………今日、東京に帰るって聞いて……お母さんから、挨拶してきなさいって」
彼女はどこか落ち着かない様子で、俯きがちにそう言った。
「だから、その……なんというか……」
その日の彼女の手に、絵本は握られていなかった。
彼女は一呼吸置いた後、
「また……来てくれる?」
上目遣いでこちらを向いて、そう言った。
それから毎年、夏休みと冬休みに俺は祖父母の家に泊まるようになった。その度に、彼女と過ごした。
いつのまにか彼女は俺に対して積極的になり、今では完全に立場が逆転してしまったが。
「昔は可愛らしかったよな、お前も」
「何それ。今でも可愛いでしょ」
そう言って乃々香はむくれる。表情こそ見えないが、声だけで彼女が頬を膨らますのがわかる。それだけ、俺たちの関係は深いものだった。
「ねぇ、来年も来るの?」
乃々香の何気ない問いかけ。なのに俺は即答できない。
来年の夏、彼女が生きているかどうかは、わからないからだ。
彼女は重い病気を抱えていた。それがわかったのは二年前の秋頃、俺が東京へ帰った後のことだった。
聞いたこともない難しい病名だった。
彼女は隣県の大きな病院に入退し、ベットの上で寝たきりでいることが多くなった。身体はみるみる痩せていき、一人で立つことすらままならなくなった。
俺は学校が休みの日には毎日彼女の元へ通った。最初は授業を休んででも通おうとしたが、彼女に叱られてしまったのでやめた。
何ヶ月経っても、彼女の容態が良くなることはなかった。
そして、彼女の病気が発覚して二年が経とうとしている今、彼女は延命治療を拒否し、自らの故郷で過ごすことを選んだ。
「……なんかごめんね」
俺の前で車椅子に座る乃々香が言った。
「何がだよ」
「君の家の前の向日葵畑が見たいなんて、わがまま言ってさ」
「まあ、俺も久しぶりに見たいと思ってたからな。それより、おじさんとおばさんに怒られないかが心配だよ。勝手に娘、連れ出しちゃったわけだし」
「それは安心していいよ。事前に伝えてあるから」
「……手際のいいこった」
徐々に祖父母の家へ近づいてくる。俺は車椅子のグリップを握る手に力を込めた。
「ねぇ、二年前、私が本当は言おうとしてたこと、わかる?」
少しばかり沈黙が続いた後の、彼女の一言。その声は、嬉しそうにも、寂しそうにも聞こえる。
「二年前っていうと……さっき話した、世界が終わる日のことか?」
「そうそう。あのとき私、ちゃんと答えは考えてたんだよ。恥ずかしくて、言えなかっただけで」
「なんだそりゃ。お前に恥ずかしいことなんてあったのか」
「私を何だと思ってるのよ」
また二人で笑う。この時間が、永遠に続けばいいのにと思う。
「ほら、見えたぞ」
前方には、大きな向日葵畑が見えていた。どれも等しく、太陽に向かってその黄色い顔を向けている。
俺は車椅子をその場で止めた。
「わあ、何度見ても凄い光景だね、こりゃ」
乃々香が嬉しそうな声を漏らす。
「それで?」
「え?」
俺の言葉に、乃々香が気の抜けた声を出す。
「二年前、本当は何を言おうとしたんだ?」
「あー……やっぱ聞いちゃう?それ」
「まあ、あんな言い方されたらな。気にもなる」
「んー、そうだなぁ……ほれ」
ちょいちょいと、指で手招きするような仕草をする。耳を貸せ、ということだろうか。
言われた通り、彼女の近くで屈み込み、耳を向ける。
「……絶対笑わないでよ?」
「ああ」
彼女が息を吸い込むのが聞こえる。
そして、
「私は──────────」
このときの彼女の言葉を、俺は一生忘れないだろう。
言い終わった後の彼女は、照れながら笑っていた。俺も笑えていただろうか。いや、彼女に笑うなと言われていたから、笑う必要はなかったはずだ。
だから、俺が泣いてしまったことは、別に何も悪くなかったんだ。
その二日後、彼女はこの世を去った。自宅の布団の上で両親と俺に囲まれ、安心した顔で最期を迎えた。彼女が苦しまずに逝けたことだけが、せめてもの救いだった。
翌日、俺は一人で向日葵畑を見ていた。
「そりゃ、不機嫌にもなるわなぁ」
俺は呟く。
明日世界が終わるとしたら。
俺が選んだ答えは確かにつまらないものだった。そこには、諏訪乃々香という少女がいなかったのだから。
「……これから俺、どうすんだろ」
彼女の世界は終わってしまった。けれども俺の世界は、まだ続いていく。
俺は生きていけるだろうか、彼女のいない、この世界を。
────私は、世界が終わるその時まで、君といることを選ぶよ。
三日前、彼女が俺に言った言葉が蘇り、また涙が出そうになるのを堪える。
向日葵は何も言わず、ただそこに力強く咲いていた。