幸福論   作:佐野すみれ

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少しのお時間、お付き合い願えましたら、嬉しいです。


幸福論

 人の縁は簡単に途切れないものなのだろう。

 

 開けたり閉じたりするガラパゴス携帯から、画面が常にむき出しの薄い板のようなスマートフォンやアイフォンといった精密機械が普及した今では尚のことそう思う。誰もが当たり前のように持つようになったこの小さな精密機械は、最早コンパクト化されたパソコンといっても過言でない代物に通信機能が備わり、インターネットという電波の海の広がりをアプリで簡単に拡張し、無数のSNSを作りあげた結果、人と繋がることも簡単にできるようになった。それは同時に簡単に人との縁を切ることができるということでもあるのだろうが、少なくとも、顔見知りや友人との縁が簡単に途絶えることはないと思える。まあ、それも向こうか此方が一方的に面会謝絶を決め込んで一報も連絡をしなくなれば、失ってしまうのかもしれないけれど。

 世界は容易に繋がることを許容し、拒絶もする。そういうことなのだろう。そして、僕は拒絶を選択しなかったため一年ぶりに連絡を寄越してきた友人に会うべくして、夏の日差しが照りつく炎天下のもと、額や鼻の頭に汗を浮かべながら歩いているのだったりする。あぁ、暑い。

 

 友人。(やなぎ)から突然連絡の通知がきたのは一週間前で、彼が指定してきた場所は、僕が住む街の最寄り駅から電車に乗って駅三つ分になる駅郊外から程なく離れた距離にある喫茶店であった。高校を卒業し、各々別の道を歩くが如く向かう進路が違った僕らは、各々が希望した大学へ入学してからというもの何の音沙汰もなく、僕は僕で新たな環境で新たな人間関係を築きはじめていたものだから、柳に連絡をする余裕というのか、概念がどこかにうっかりぽろんと抜け落ちてしまっていた。出会い頭に薄情者と揶揄されたらどうしようかと思う一報、柳という人物の人柄がこの一年という月日で何も変化していなければ、きっと彼がそんな女々しいことを冗談でも口にしないであろう。変わらぬ友情の祝福を願う。

 

 バスのロータリーや無個性を極めた同じ見た目のタクシーが無数に鎮座するタクシー乗り場を抜け、人でごった返していた駅直通の大型デパートからも離れていくと、人が段々と疎らになってくる。

 大勢の人間たちが漂わす湿気った熱量からは解放されたものの、電車のなかはやはり冷房が効いていたのだろう。激しい温度差に体が悲鳴をあげながら汗をかいているような気がする。間違っても僕が軟弱だからではなく、あくまで自然破壊が招いている人災による被害のために、こんなに暑くてへばりそうなのだと己に言い聞かせる。明日から大学までの通学にバスではなく自転車に乗ろうかな。

 現代っ子の体力の低下を身に染みながら心のうちで、ぜぇはぁぜぇはぁ歩いていけば、目的地の喫茶店に辿り着けた。マップアプリで事前に道筋を把握していたから、炎天下のなかをさ迷うことなく無事辿り着くことができた。全く、アプリ様々だ。

 

 個人営業していると思われる喫茶店の外装はチェーン店などと違って見慣れた看板や外観をしておらず、ログハウスのように木で作られた様相で、大きな古木で作られた看板がドアの上に貫禄と威厳たっぷりといった感じにびくとも揺れることなく、店名を刻んでいる。

 『アンフィビアン』という柳からメッセージアプリで聞いた名前と店名が同じことを確認し、僕は森のなかにありそうな喫茶店のドアに手を伸ばした。森なんて、木なんて一本も見えなくて、あるのは電信柱の灰色の柱だけであるけれど。

 

***

 

 店内に入って先ず感じたことは、極楽だった。

 程よく効いた冷房の涼風は、恵みの水のようだ。暑さでうだった体に張りついた汗が冷やされていく心地が、気持ちいい。そうして涼しさを噛みしめてからやっと感じたのが、コーヒーの芳ばしい苦味と酸味が絶妙に混ざりあった香りであった。

 喫茶店であるけれどコーヒーの香りだけが店のなかを満たしているのを嗅覚でとらえたところ、この店は全面的に禁煙なのだろうか。それとも単に喫煙者がいないだけなのか。

愛煙家からは程遠い僕としては、前者であると大変喜ばしい。

 

「一名様ですか?」

 

 ぼーっと店先の出入口に突っ立っている僕に、従業員らしきウェイトレスの女性が微笑みながら訪ねてくれたのを気に、僕はトリップ状態から抜け出して慌てて店内を見回した。外装と連なるように木のあたたかみが感じられるテーブルとイスが置かれており、そこに間隔を開けるようにして数人の客が思い思いに飲み物を飲んだり、新聞を広げたり、静かに談笑しながらケーキをつついたりしている。

 柳はまだ来ていないのかと思ったけれど、よく見てみると彼は店内の一番奥まった隅の席で、本を読んでいるようだった。

 彼は昔からいつも本を読んでいたから、過去と変わらない姿が目に入ると、なんだか安心した。

 僕は隅っこの席で本を読み耽っている様子の柳を指差して「友人と待ち合わせしてまして」と一言告げると、ウェイトレスは僕が指差す方に顔を向けたあと、合点がいったと風に快く「ご案内致します」と僕を席へと案内してくれた。

 

 人が近づいてくる気配を感じたのだろう。柳は僕が向かい側の席に座る前に、本に落としていた顔を持ち上げて此方を向いた。

 名は体を表すという言葉がぴったりの柳の相貌は、高校生の頃と寸分違わず健在していた。

 流れるようにさらりとした真っ直ぐな黒髪。目元は筆の達人が墨ですっと線を引いたようになおやかで、鼻筋もそれに倣うようにすっきりと通っている。撫で肩で細身の体つきは、さらさらと風に揺られる柳のように涼やかで優美だ。

 彼は変わらず美しい男のようだ。

 

 僕が来たことに気がついた柳は、擦ったばかりの瑞々しい墨みたいな瞳に僕を写すと、目礼で軽く挨拶をした。久しぶりの再会でも彼は騒いだりなどしない。本当に植物の柳みたいである。

 目礼する柳に倣って僕も軽く頭を下げてから席に座ると、ウェイトレスは「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」と言い添えて僕らの席から離れていった。

 

 柳は読んでいた文庫本をぱたんと閉じた。真っ白で何の飾り気もないそれは、表紙のタイトルだけが金色で刻印されており、タイトルは『こころ』と書かれていた。僕みたいに小説を読まない人間でも一度は学校の授業で触れたことのある、有名な文学作品。これを書いた偉人は過去には日本の千円札の肖像画にもされ、もしかすると日本で一番名前が知られている文豪かもしれない。と僕は勝手に思っている夏目漱石が執筆した著名作だ。

 どんな内容だったかはうろ覚えだ。確か、先生と私とKというアルファベット一文字で表記された友人が登場していたのは何となく覚えている。どうして容疑者みたいに名前がアルファベットのみで記されているのだろうと、不思議に思ったからそこだけは確かに覚えている。

 人間の心なんて真っ白とは遠くかけ離れているのになと小説に目を向けていると、柳はそのタイトルとデザインが矛盾溢れる小説をテーブルに置くと、先に頼んで飲んでいた様子のコーヒーカップを手に取りながら言った。

 

「突然呼び出してすまない」

 

 凪いだ風みたいな声。柳はどこまでも植物の柳と同じ成分でできているようだと染々思う。

 

「いや、別にいいよ。急に連絡きたときはびっくりしたけど」

 

「あぁ…悪いな。本当に」

 

「だからいいって、気にするなよ。それにしても久しぶりだな。その後どんな感じ?確か美大行ったんだろ」

 

 申し訳なさそうに沈んだ声音で話す柳がなんだか痛ましく見えたので、僕はことさら明るい調子と笑顔で質問した。儚げな美青年というのは自然と優しくしてあげたくなるものなのだろうか。くそ。羨ましいなんて思わないぞ。いや、やっぱり本の少しだけなら、思わなくもない。

 

 柳は高校を卒業すると都内の有名な美術大学へと進学した。本が好きなようだし、成績も優秀な彼は名前の知られた立派な大学の文学部にでも進学するのだろうと思っていたから、進路調査書に美大の名前書かれていたのを見たときは目玉が飛び出すほど驚いた。

 本人曰く、本はいつでもどこでも好きな場所に行くことができて、文字という最小限のもののみで構築された無駄のない素晴らしい世界であって、その世界を踏み荒らすように根掘り葉掘り研究するのはごめんだとのこと。懐かしい記憶だ。

 柳は僕の質問に対して束の間逡巡したのち、そうだな…と口を開いた。

 

「どんな感じかか…なんというか、思ったより派手な奴が多いというか…自己顕示欲が強いというか…絵で自分をいかに表現するか。そのなかで如何にして特別な価値を他人に付加してもらおうかって、目がギラギラしてる奴らが多くて驚いた」

 

「あはは。そっか、でも芸術肌の人間なんて変り者に溢れてるものだろ」

 

「いや。真の意味で変わった奴はあんまりいない。ほとんどの奴は個性を無理矢理付けようと必死に身につけてるみたいで、なんか、変な感じだよ。仮面舞踏会にでもいるみたいだ」

 

「仮面舞踏会か…でも、個性なんて皆から自分がどうみえてもらいたいかって思うから付いてくるものなんじゃ?」

 

 テーブルに立てかけられたメニュー表を手にとって眺めながら聞き返してみると、柳は少しだけ自嘲するように乾いた笑いを漏らした。僕はおかしなことを言っただろうか。

 

「他人からどうみて欲しいかなんてただの欲求だよ。個性とは違う。それに、強制的に付け加えたものなんて、単なる設定と変わらない」

 

 人を突き放すことに一切の躊躇いが感じられない柳の言葉は、傲慢で冷たく思えるはずなのに、なんだか妙に寂しい空気の方が強く感じられて、僕はメニュー表から柳へと目線を変えた。

 柳は声音とは裏腹に淡々とコーヒーを飲んでいるようだった。

 テーブルにはスティックシュガーの紙屑がない。ミルクピッチャーがソーサーの側に置いてあるが、使用された形跡は全くない。ブラックコーヒーを好んで飲むのも、昔と変わっていない。

 どうしてブラックで飲むのかと過去に柳に問うてみたところ、彼は眉一つ動かすことなくぴしゃりと「苦いのが飲みたいからだよ」と言っていた。高校生という未成年だった僕には、ブラックコーヒーなんてただ苦いだけの黒い汁じゃないかと理解できなかった。この春に誕生日を迎えて成人した今でも、ブラックコーヒーの良さには気づけていないのだけど。

 

 身に付けた個性は個性じゃない。と柳は言ったけれど、もって生まれたものだけでそれを引き出すというのは、難しいのではないだろうか。その足りない部分を補うために努力するのは、決していけないことではないと思うのだけど、柳の言うことも間違いには思えず、僕は唸り声をあげてしまいそうになった。

 ちらり、と柳の姿を再び伺う。

 コーヒーみたいに真っ黒な半袖のカッターシャツに、同じく黒いスラックス。確か靴も黒だった。黒。黒。黒。一色のみで統一された柳の姿は個性的といえば個性的に見えるが、如何せん色が黒一色なので、そこまで個性に富んでいるわけではない。けれど、柳の白魚のように白く肌理(きめ)の整った肌に、黒はよく映えている。

 柳も殺戮兵器並みの灼熱の太陽の下を歩いてきたはずだが、涼しげにホットコーヒーを飲んでいる姿は優雅そのもので、汗一つかいていない。

 黒は日光の熱を吸収しやすいはずなのに、どうしてここまで涼やかなのか。美しい者は汗をかかないようにできているのか。汗だくで此処まで辿り着いた自分が、なんだか途轍もなく憐れな生き物のように思えてきそうだ。

 それにしても柳の姿は美大生とはかけ離れたように見える。さっきまで本を読んでいたし、線の細い彼は文学青年と言われた方がやはりしっくりくると思う。

 

「何か頼んだらどう?」

 

 カップから口を離した柳がぽつりと言った。柳の姿ばかりに目を向けている己に気がついて、僕は少しおたおたしながらもウェイトレスを呼びつけてアイスティーを頼んだ。コーヒーの香りが広がる空間なのだから、ホットでなくともアイスコーヒーでも飲むべきなのかもしれないが、柳の黒一色の姿とブラックコーヒーの香りだけでなんだかコーヒーは満足してしまったので、アイスティーにしてしまった。僕が注文し終えると柳も追加でガトーショコラを頼んだ。以外である。

 

「甘いもの好きだったっけ?」

 

 ウェイトレスが注文を聞き終えて席から離れたあとに聞くと、柳は薄く微笑んだ。

 

「いや。桃矢(とうや)にと思って。甘いもの…チョコレート好きだろう?」

 

 呼び出したのだからケーキの一つでもご馳走させてくれと言う柳に、僕は感心と感激した。僕が滅法チョコレートに目がないことまで覚えていてくれたことも、素直に嬉しかった。

 

「いいのか?いやぁ。有り難い限りですな」

 

「あぁ、なんならもう一つもう二つでも食べるといい」

 

「いや流石にそんながめついことは…」

 

「昔、よくコンビニに寄ってはチョコレート菓子を大量に買って食べていたのはどこの誰だったろうか」

 

「すみません僕です」

 

 業とらしくしゅんと肩を竦めながら言うと、心なしか柳の微笑みに柔らかさが加わったような気がした。

 

「懐かしいな…そう遠い昔の話でもないが、桃矢が板チョコを五枚もいっぺんに平らげたときは、こいつ糖尿病でいつか病気になって死ぬんじゃないかと思った」

 

「若かったんだよあの頃は」

 

「今も十分若いだろう」

 

 柳が笑った。静かにだけど、確かに笑った。それをみた瞬間、僕はなんだか心のなかに提灯の灯りが灯ったような心地がした。

 

「桃矢はどうなんだ?大学、楽しいかい?」

 

「んー、まあぼちぼちやってるよ。平凡ここに極まれりっていうくらい、安穏無事なキャンパスライフ」

 

「そう。それはよかった。つまりほどほどに講義に出て、期限ギリギリまでにレポートを提出して単位は逃さないようにしながら、サークル活動に精を出しているということか」

 

「な、なんでそこまで分かって…いや、僕なんて真面目な生徒だぞ。毎日飲んだくれたり女の子のお尻ばっかり追っかけてるような、そんなサークルには入ってないし」

 

「そうか。怪しくて如何わしいサークルの勧誘に引っ掛かったりしてないようで、結構」

 

 柳は厳格な教師みたいな口調で僕の安否を確認した。僕の勉強スタイルを見透かされているのには辟易したけれど、大学生が皆のんべんだらりと遊び呆けていると思われてしまうのは心外なので、そこはきちんと訂正しておいた。

 レポートの提出がギリギリになるのだって、バイトをしているからであるし…と、これを言ってしまったら言い訳になってしまうだけである。つまりは僕の要領の問題にあるんだな。あまり器用にも秀才にも生まれなかった、いや育たなかった自分に反省をする。

 そんな風に他愛のないお互いの近況報告をしている間にアイスティーとガトーショコラが供された。

 氷が入った透明な飴色の紅茶は、見た目だけでも涼しい。僕はそこにガムシロップを入れようかどうか迷ったけれど、なんだかブラックコーヒーを飄々と飲む柳に妙な対抗心が湧いてきたものだから、そのままストレートで飲むことにした。小さな自尊心だ。

 柳は目の前に置かれたガトーショコラをそっと僕の方へ寄せると「おあがり」と微笑んだ。なんだか親戚の大人から可愛がられる子供のような気持ちになった。

 馬鹿にされている。とは思わないし感じられない。柳は心から僕にガトーショコラを食べてもらいたそうな、そんな風に見えた。

 同い年とはいえ数ヶ月ほど年上のはずで成人した僕の方がずっと年下で、まだ誕生日を迎えていない十九歳の未成年であるはずの柳の方がずっと年上に思える。

 無糖のアイスティーを飲んだところで、僕はガトーショコラをご馳走してもらっているし、ブラックコーヒーを飲んでいる柳には勝てないのだろう。いや、そもそも張り合う必要なんてなかったはずなのだが、全く妙な対抗意識なんて芽生えさせるものじゃない。

 

 僕は柳の言葉を有り難く頂戴し、アイスティーで喉を潤したあとにすぐさまガトーショコラにフォークを刺すと、それを迷うことなく口に運んだ。

 濃厚で滑らかなしっとりとしたチョコレートのケーキの甘さが舌に触れた瞬間、僕は夏だけどこの世の春にいる感じがした。これぞ至福。幸せの一時。

 

「そんなに美味しい?」

 

 僕は余程表情が顔に出やすいのだろう。ガトーショコラを食べて悦に入っている僕の姿をまじまじと見つめながら、柳が聞いてきた。我ながら恥ずかしい。

 

「うん。凄く美味しいよ。幸せの味がする」

 

「…幸せの、味」

 

 柳の顔から笑顔が失われていった。無表情で再びコーヒーに口をつけはじめた柳に、僕はまたおかしなことを言ってしまったのだろうかと疑問になった。

 そういえば、どうして急に会えないかなどと僕に連絡を寄越したのか柳に聞いていなかった。まさかガトーショコラを僕に食べさせるためだけに態々呼び出したわけじゃあるまいし、何か悩みでも抱えて僕に会いたくなったのだろうか。でも、だとしたら、何で僕を相談相手なんかにしたのだろう。

 

「世界中の人間全員が幸せなんて願わなければいいのに」

 

 うんうんとあれこれ一人で思考を巡らせていたその時、その言葉は、落とされた。

 柳の葉が揺れるように流麗な響きを含んだそれは、決して聞き流してはいけないものだと直感で感じる。

 

「誰も彼もが幸せなんて望むから、不幸がうまれることになる」

 

 顔から表情が抜け落ちてしまったのと同様、柳の声からは感情がなかった。今まで談笑していた人物と同一と思えないほど無味乾燥な柳の声は、感情が失せてしまっているのに、耳が痛くなるような悲鳴に聞こえる。

 

「誰かが幸せになれば、別の誰かが不幸になる。この世に平等なんてない。いつも必ず表と裏が生じる。勝者は敗者がいなければ永遠に勝つことはできないし、金持ちがいなければ貧乏人は存在しない。善がなければ悪もない。光がなければ影はない。それでも何故世間はこんなに幸福ばかりを願うんだ。枠に嵌められた我欲を満たして何になる。欲望を満たすことが幸福なのだとしたら、この世から幸せが生まれるなんてこと、永遠にないだろう。皆が皆同じものを欲しているとは限らない。それでも同じ椅子を奪い合うのをやめないのは、何故なんだ」

 

 塞き止められたダムのゲートが解錠されたように、柳の言葉は止まることがない。唐突に速度が早くなり流れだされる言葉の数々に、僕はどう対処するべきなのか。柳の声は静かで、無表情で、疑問を投げ掛けているようでありながら断定的なはっきりしたもので、僕は柳にかけるべき言葉を探しあぐねる。

 幸せ。というワードがいけなかったのか。柳にとって幸せという言葉は琴線に触れるものだったのだろうか。そこに、柳が僕に会いたがった理由が隠れているのか。

 マネキン人形のように表情が失せたまま、柳は言葉の濁流を流す。僕は柳の濁流にされるがまま、身を浸すことしかできない。ガトーショコラが招いた幸福の味が、薄れていく。

 

「幸せの基準なんて誰が決めたんだ。そんなものがあるから人は不幸を回避しようと躍起になる。自分を見失う。自分にとっての幸せが分からなくなる。世間体にとらわれて、恥だ惨めだと他人に思われないよう、枠に嵌まった幸せを求める。それならいっそ、誰も幸せなんて願わなければいい」

 

 静かな店内には何の音楽も流されていないからか、柳の止まらない言葉の濁流がその役目を果たしているような、店内に流れるBGMの音楽みたいに聞こえた。幸せを望まない、悲しい曲だ。

 

「…何が幸せかなんて、個人によって違うものだろう?その当人が幸せなのだとすれば、それでいいんじゃないか?」

 

 強ばりひりついく喉からやっと絞り出せた言葉は、我ながら陳腐なものだった。でも、柳の発した悲しい言葉の数々に対して僕が言えることは、これくらいしかない。

 柳のマネキン人形のように褪せた表情が、歪んだ。

 笑っているのか、苦しんでいるのか、それとも、泣くことを堪えているのか、色んなものがごちゃごちゃに()ざりあったその表情の名前は、きっと、苦悶。

 

「そうだな…桃矢の言うことは最もだ。正しい。でも、この世には理解されない幸福が多すぎる。他人からの承認欲求なんて些末な自尊心だ。だが…だからこそ…」

 

 意外にもあっさりと僕の言葉を聞き入れてくれたことに、少し驚いた。もっと柳の意見を押し通す一方通行な会話になるかと思ったのだけれど。

 柳は一呼吸、歯切れの悪さを残すと苦悶の顔がみるみる蒼白くなっていく。もとから白い柳の顔色が、静脈が浮き上がりそうなほど青く、青く、染まっていく。炎のように見えた。赤よりも熱量が強い、綺麗な青い炎。

 柳に灯った青い炎を見るうちに、気がついた。柳の内側に秘められた感情は苦悶ではなく、恐らく、(いか)り。

 青い炎に染まった柳の口が、重い石の塊を吐き出すみたいに開かれる。火を吹くドラゴンのように。もちろん、火の色は青色。

 

「どうして…どうして誰も、あいつの死を祝福しないんだ」

 

 あいつ。という言葉。夏。死。この言葉が重なり連なった瞬間、僕は、柳が言うあいつが誰なのか直ぐに繋がった。記憶を司る脳細胞同士が、電流で繋がる感覚がするほど、その記憶は鮮明に思い出せた。

 

「もしかして…若葉(わかば)のことを言ってるのか?」

 

 ぴくり。柳の形のよい細い眉がそう音をたてたような気がした。

 

 鈴代(すずしろ)若葉。高校の頃の同級生で、僕とは当たり障りのない程度の級友だったけれど、そういえば柳は時々若葉と二人でいることがあった。

 階段の隅っこだったり、図書室の隅っこ。放課後の教室の隅の席。とにかく柳と若葉は学校の隅のどこかで、一緒にいた。そういえば柳は店の席も隅に座っていた。昔も今も隅が好きなのだろうか。彼らは隅っこの世界で特に会話を交わすこともなく、若葉は黙々とノートに絵を書き、柳は黙々と本を読んでいた。それでも確かに二人は一緒にいた。柳は僕ともよく遊んだり会話もしたから、仲の良い友達といえるし、それなりに相手についても知っている。けれど、僕が知っている若葉についての情報は、とにかく絵が凄く上手い奴だったということ。それから、高校三年生の夏休みに、死んでしまったこと。夏休み明けの始業式に若葉の姿はなく、若葉が座っていた席には白い菊の花が一輪生けられた花瓶が、若葉の代わりのように置かれていた。

 皆、暫くの間は級友の死を悲しんだ。先生から若葉が事故死したという話を聞いたとき、涙を流した生徒も幾人かいた。僕もそのうちの一人だった。柳は泣いていなかった。僕なんかよりも仲がよかったはずの柳は、涙を一滴も流すことなく、悼むこともなかった。

 柳のその姿を、悲しみのあまり感情が鬱ぎこんでしまったのだろうと勝手に解釈していたが、今にしてみればあまりに無関心すぎだったような気がする。それに、あいつの死を祝福しないって、どういうことだろう。

 

「若葉が死んだことを祝わないって…なんでそんなこと言うんだよ。若葉は事故で死んだのに」

 

「違う。事故なんかじゃない。あいつは自殺したんだ」

 

 自殺。という言葉を聞いた瞬間、心臓がどくんと一度だけ大きく嫌な鼓動を刻んだ。

 店内の冷房で冷やされてひいたはずの汗が、また肌に伝うような感覚がした。

 

「自殺って…そんな、だって先生たちも皆、鈴代若葉は事故死したって」

 

「あんなに狭い世界なのに誰一人噂にもあげないなんて、あいつの両親はどれだけ周囲に根回ししたんだろうな。世間に我が子が自殺したことを死ぬほど知られたくなかったようだ」

 

 柳は憤りの顔に酷薄な笑みを浮かべていった。若葉の死を改竄したご両親の対応がよほど気に入らなかったのか。けれど、もし柳の言うことが真実なのだとしたら、当時若葉の葬式が親族のみで開かれたことに、納得がいくような気がする。学校の誰も、若葉の亡骸に手を合わせることはできなかった。それは、単に身内だけで我が子の死を悼みたかったのではなく、遺体を誰にも見られたくなかったからなのか。自ら命を断った、若葉の姿を。

 

「若葉が死んだのが本当に自殺だったとして…なんでそれを柳が知ってるんだよ」

 

「電話がかかってきたんだ」

 

「電話?」

 

「あぁ。あいつが死ぬ前日の夜にな」

 

 遠くを見つめるように柳の目は虚空を眺めていた。その日の出来事を、一字一句正確に思いだしているように。

 

「死ぬ前日にあいつは言ったんだ“死んだら、楽になれるかな。生きていても、幸せが感じられないんだ”ってな。底抜けに明るい声で。死の先に幸せがあると信じているのが、電話越しからでも伝わるのが分かったよ」

 

「…それで、柳はなんて返してやったんだ…?」

 

「お前が幸せになれるのなら、好きなようにしたらいい」

 

 柳の声は穏やかな口調になっていた。まるで若葉に向けて言った時と同じように当時を再現しているように見えた。

 

「なんで…どうして止めなかったんだよ」

 

 仲の良い友達に冗談でもそんなことを言われたら、普通は止めるなり理由(わけ)を聞くものだろう。それなのに、柳は何も聞くことなく、若葉の死を受け入れるだけに止まった。僕には理解できない。

 柳は僕の返答を予期していたのか、少しうんざりした空気を漂わせた。

 

「生きているのが辛い人間を導いてやれるほどの度量が他人にどれだけあるんだ?抱えているものをほどいてやれるだけの器量があるのか?気休めに死ぬな、もっと生きてくれ。もっと、お前が描く絵が見たいとおべっかでも言った方がよかったと?」

 

「それは…」

 

 何も言えなかった。確かに死ぬなと言うだけなら簡単なことだ。でも、自分の知っている人間が、いや、たとえ赤の他人であったとしても死のうとしている局面に出会したら、本能的に止めてしまうものなんじゃないか。

 若葉が抱えていたものとはなんだったのだろう。柳は、それを知っていたのだろうか。知っていたとしてもただの級友にすぎなかった僕がそれを柳から聞くのは、烏滸がましいような気がして、深くは追求できない。死人に口なし。

 

「あいつが住んでいたのは高層マンションの一番上だった。だから、あいつは飛び降りることを決意していたようだ。事故死なんかじゃない。自分の意思で飛んだんだよ、あいつは」

 

 若葉が高層マンションの頂上に住んでいただなんて、初めて知った。そんなところに住めるなんて、若葉の家は金持ちだったのか。でも金があれば幸せというわけでもなさそうだと、若葉の死が言っているような気がした。

 金は幾らあっても困らないものだが、裕福だからといって心に募った暗い塵は払拭してくれない。金がもたらしてくれるのは安定と安寧だけなのかもしれない。それでも、困窮しながらも必死に生きる人間が多い世界で、少なくとも金銭面では不自由のない環境下にあったと思える若葉の死は、絶望は、一体どれほどのものだったのだろう。

 

「飛び降りはリスクを伴う。下手をすれば体や脳に障害が残って後世を生きることになるだろう。顔や頭だってぐちゃぐちゃでとても見られたものじゃない。それでもあいつは飛び降りた。だから夏休み明けに教師からあいつが死んだことを知らされたとき、俺は安心した。それなのに」

 

 ギリギリと奥歯を噛みしめると、柳に再び青い炎が灯った。憤りの炎だ。

 

「教師が口にしたのは事故死の一点張り。周囲にあいつがどれだけ苦しんで死を選択したかなんて分かるはずもない嘘の説明ばかりだった。当然周りは皆あいつのことを哀れむだけで、それも時間が流れることで風化していった。こっそり葬式の様子を見に行きもしたけど、酷いものだった。離れた場所からでも聞こえてきた。親より先に死ぬなんてなんて親不孝者だ。生きていればいいことがあったろうに。まだ若いのに。自殺なんて馬鹿なことをしでかしてくれた…どいつもこいつも、あいつの死を否定した。可哀想だと哀れんだ。あいつは…若葉は死ねて幸せだったと、誰も気づかない」

 

 柳の言葉に疑問が浮かんだ。最初柳は誰も幸せなんて願わなければいいと言っていた。それなのに、今は若葉の幸せを強く願っている。矛盾している。けれど何故だかそれを指摘する気にはならなかった。

 柳の手は震えていた。憤りで震えているのか、悲しみで震えているのか、判断はつかない。

 

「…柳はさ、本当は若葉に生きていてほしかったんじゃないか?」

 

 僕の言葉に、それまで虚空を見つめていた柳が視線を僕へと戻す。瞳はやっぱり青い炎を帯びている。

 

「俺はあの時あいつを止めなかったことを後悔したことはない」

 

「なら、どうしてそんなに若葉の死に固執するんだよ。周りがどんなに若葉の本当の死を知らなくても、悲しんでも、柳、お前が若葉の死が幸せだったって、あいつは不幸なんかじゃなかった、幸福者(しあわせもの)なんだって知っていれば、それで十分じゃないか」

 

 柳が僕を呼んだ意味が漸く分かったような気がした。

 柳は多分、誰かにことの真相を知ってもらいたかったのだろう。自分一人が抱えているやり場のない感情をぶつけられる誰か。それが、僕だった。それだけの話だ。

 柳にも、自分の気持ちを他者に認めてもらいたい承認欲求があったようだ。それとも、友を思う気持ちが爆発しただけか。

 柳の体から力強い憤りがひいていく。青い炎は白い煙に変化して、蒼白かった顔が白くなる。

 

「…桃矢に会えてよかったよ」

 

 今にも消えてしまいそうな陽炎の微笑みを浮かべながら柳が言った。声はゆったりと凪ぐ柳の葉のようだった。言いたいことを言い尽くし燃え尽きたのか、柳はそれきり黙ったままコーヒーを飲みくだしてしまうと席を立ち、伝票をさりげなく流れるような手つきで持っていってしまうと会計を済ませ、そのまま店から出ていってしまった。

 結局アイスティーもご馳走してもらってしまった。

 

 柳が去ってしまったあと、僕は夢でも見ていたような気分になりながら、柳のことを考えた。

 柳は死を選択しそれを成し遂げた若葉は幸せだと主張した。けれど一方で、若葉の死を消化しきれていないのだとも思った。友人の死に囚われている。もしかすると、柳が一番彼の死を悼ましく感じているのではないか。だとしたら若葉の死を幸せなことだと言っているのは、言い聞かせているだけなのではないだろうか。自分が納得できていれば、態々僕なんかに全てを吐き出す必要なんて、ないのだから。

 

 ふと、テーブルを見ると白い文庫本が置いたままになっているのに気がついた。柳が読んでいた『こころ』だ。置き忘れてしまったそれに手を伸ばすと、思い出した。この物語が友人Kの自殺について先生が自分のせいだと思い悩んだ結果、自分も自殺をしてしまうことを。

 若葉と柳。二人の姿が鏡写しのように重なって、言い様のない不安が胸に広がった。

 今度あったら柳にこの本を返そうと思ったが、そういえば、柳は会えてよかったと言ったが、また会おうとは一言も口にしなかった。

 食べ掛けたまま手付かずだったガトーショコラに目を向ける。しっとりとした黒色が柳の黒一色の姿と同じに見えた。僕はその黒色に躊躇することなくフォークを刺し、体内へと取り入れた。

 こんなに暗澹たる気持ちになっていても、ガトーショコラの黒はやはり幸せの味がした。

 

 幸せの味を噛みしめながら、もう柳にガトーショコラをご馳走してもらえることはないような気がする。置き去りにされた『こころ』も、柳のもとに返すことはできないような予感がした。

 

 人との縁は簡単には途切れない。けれど、案外その縁の糸は容易く失われるのかもしれない。脆いその糸の名前は、生と死。若しくは、幸福と不幸。

 柳との縁がどちらに向いても、僕は、柳がご馳走してくれたガトーショコラの味を忘れないでいようと思った。

 残されていった『こころ』が、それを繋ぎとめるだろう。

 

 僕は読むともなしに『こころ』を開いた。そして、ガトーショコラをゆっくりと堪能した。幸せの、味がする。




最後までお読みくださった方がおりましたら、本当にありがとうございました。


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