ヴォルデモート卿はグリンデルバルドから取り上げた杖を見つめていた。
「……ニワトコの杖か」
死の秘宝の一つ、ニワトコの杖。比類なき力を持つ最強の杖だ。
恐らくはダンブルドアが保有していたのだろう。それをグリンデルバルドに貸し与えていたようだ。
「愚かだな、ダンブルドア。これだけは死守するべきだったな」
魔力でヴォルデモート卿に並ぶ者などいない。唯一比肩していたダンブルドアもニワトコの杖を持っていたからだと判明した。
その杖をヴォルデモート卿が手中に収めた今、もはや誰にも止められない。
彼は実際に杖の力を試してみた。
第十四話『本当の望み』
「エクスペクト・フィエンド」
呪文を唱えると、空に火の龍が舞い上がった。
雲海を泳ぎながら英国全土を射程に収めた。
そこかしこで悲鳴があがり、悲鳴を上げていない者は揃ってアホ面を下げている。
仕方のない事だろう。突然、空に龍が現れたのだ。とても現実とは思えない。
「……さて」
ヴォルデモート卿が発動した呪文の名は『
憎悪を糧に燃え上がる最凶の魔術だ。その威力は死の呪文を上回り、あらゆる生命、あらゆる物質を焼き尽くす。
そして、この呪文は守護霊の呪文の対となるものであり、守護霊の呪文のように言霊を乗せる事が出来る。
『我が名はヴォルデモート卿』
火の龍を通じて、ヴォルデモート卿の言葉が英国全土に降り注ぐ。
『魔法使い達よ。そうではない者達よ。君達の命は俺様が握っている』
その言葉と共に龍はロンドンへ首を伸ばしていく。
そして、火は地上を呑み込んだ。
直下にある魔法省から咄嗟に飛び出てきた幾人もの魔法使い達の守護呪文は何の障壁にもなり得なかった。
数秒の後、龍が首を天に戻した。
その眼下に広がっていた筈の都市は消滅していた。
何も残っていない。建物も乗り物も人もすべて黒い炭に変わった。
『今、ロンドンを焼き尽くした。英国全土を焼き尽くされたくなければアルバス・ダンブルドアの首を差し出すがいい。さすれば生きて俺様に頭を垂れる事を許そう。諸君らが愚か者ばかりではない事を祈っているよ』
まるで、時が止まったかのようだ。
誰も動けない。
誰も声を発する事が出来ない。
けれど、火の龍は消える事なく空を泳ぎ続けている。
「……こんなところか」
ヴォルデモート卿はつまらなそうに呟いた。
もはや、勝負は決した。
透明マントにはしてやられたが、存在する事が分かっていれば問題ない。
グリンデルバルドを殺す事は出来なかったが、ニワトコの杖を手に入れた以上、もはやどうでもいい。
「つまらん……」
あと一歩ですべてが手に入る。
そう実感した途端、ヴォルデモート卿の中で何かが冷めた。
ずっと手を伸ばしてきたもの。栄光を得られる。理想の世界が作れる。
それなのに、簡単にロンドンを焼き尽くせた。
そこには魔法省があり、加減を間違えていたらすべてを破壊してしまっていた。
だけど、躊躇わなかった。
「何故だ……」
6つの分霊箱の内、ハリー・ポッター、蘇りの石、ヘルガ・ハッフルパフのカップ、ロウェナ・レイブンクローの髪飾り、少年時代の日記の5つが手中に戻って来ていた。
日記の分霊以外はすべて融合を済ませている。
本当はハリー・ポッターの分霊のみ回収する予定だったが、分霊は既に4つの分霊箱と融合を済ませていた。
ハリー・ポッターの分霊を回収した理由は二つある。
一つはダンブルドアの反撃に備える為だ。実際、ハリー・ポッターはグリンデルバルドに捕縛された。そして、ヴォルデモート卿が分霊を通じて意図的に与えた情報をグリンデルバルドに提供した。
もう一つはオリジナルが憑依術を使えるようにする為だ。この術はあくまでも分霊が独自に編み出したものであり、霊体としての在り方が少し異なるオリジナルでは扱えなかったのだ。それを解決する為にオリジナルと分霊は融合を果たした。同一の存在だが、オリジナルの中に分霊が宿っているような状態だ。意識と記憶は統一され、けれどオリジナルは魂の内の分霊を使う事で憑依術を使えるようになった。
「ああ、そうか……」
分霊箱は魂を分割する邪法である。
魂とは霊魂と精神によって構築されている。
魂を分割するという事は精神を分割するという事に他ならない。
分割した魂を回収する事はヴォルデモート卿の魂を原点に回帰させる事を意味していた。
魔法界を牛耳るという野心。
その源に宿っていたものを思い出す。
「……壊したいのだな、俺様は」
脳裏に幾つもの光景が浮かび上がってくる。
物心ついたばかりの時、自分を見つめる眼はどれも恐怖を宿していた
孤児院の職員同士が「あの子は異常よ」「どこかに移せないの!?」「あんなの世話するなんて冗談じゃない!」と言い合いをしているところを目撃した事もあった。
子供達も誰も近寄ろうとしなかった。
敵意ばかりの中で魔力を使う術を手に入れた。離れていく者を恐怖で縛り付ける術を学んだ。
もはや、向けられる眼は人間を観ていなかった。悍ましいもの。名状しがたきもの。そういうものとして扱われた。
ダンブルドアが現れた時、ようやく居場所を見つけられたと思った。
けれど、ダンブルドアは常に疑いの眼を向けて来た。彼の不興を買う事は危険だと悟り、徹底的に善なる者として学生生活を送った。
僅かな悪意も漏らさない。それは人間として異常な生き方だった。
もう、その時点で取り返しがつかない程に歪んでいた。
そして、唯一残っていたものが砕け散った。
スリザリンの仲間との絆だ。
彼は自分が純血の魔法使いだと信じていた。周囲も納得していた。だから、調べてしまった。
自らの生い立ちを知り、初めは歓喜した。何故なら、彼の母は伝説の魔法使いの末裔だったからだ。
サラザール・スリザリンの子孫。まさに魔法界でも最高の血族の一つだ。
だから、疑いもしなかった。最高の血を引く母は、同じように最高の血を引く父を伴侶に選んだ筈だと……。
けれど、それは間違いだった。母は愚かにもマグルの青年に恋をした。そして、その男を卑劣な魔法で誘惑し、子を作った。
その事実は彼を徹底的に打ちのめした。
周囲にこの事を知られれば仲間達との絆は潰えてしまう。その事に恐怖を覚えた。
だから、スリザリンが遺したという秘密の部屋を探し求めた。
スリザリンの継承者の伝説。誰も見た事のない秘密の部屋を発見する事で自らの真実を覆い隠す事が出来ると信じた。
そして、見つけた。
歓喜した。
そして、喜びに酔いしれているところに彼女は現れた。
マートル・エリザベス・ワレン。
当時、彼は彼女の事など欠片も知らなかった。
ただ、場所が悪かった。そこは女子トイレだった。
秘密の部屋の入り口は何故か女子トイレに設置されていたのだ。
マートルは悲鳴をあげた。そして、女子トイレに男子生徒がいる事を糾弾し始めた。
このままでは不名誉な噂が広がってしまう。これまで築いてきた名声が崩れてしまう。
ダンブルドアの疑いが確信に変わってしまう。
あまりにも間抜けな話だ。
けれど、その時の彼は恐怖と絶望に支配されていた。
だから、命令してしまった。
―――― 殺せ。
それが最後に残っていた彼の人間性を粉々に砕いてしまった。
分霊箱は殺人によって魂を引き裂く邪法である。
裏を返せば、術の発動は殺人によって術者の魂を引き裂かれた証明となる。
彼の魂はその瞬間に引き裂かれたのだ。
そして、魔王は生まれた。
マグルが憎い。
アルバス・ダンブルドアが憎い。
父が憎い。
母が憎い。
憎しみは際限なく膨れ上がっていく。
どこまでも、どこまでも、闇が広がっていく。
やがて、ダンブルドアに疑われない為に演じていた善人の姿を尊ぶ者達にまで憎悪は広がっていく。
本物の自分を見ない者達が憎い。
魔法使い達が憎い。
この世界が憎い。
もはや、何もかもが憎くて仕方がない。
だから、まずは周りの者を闇に堕とした。
友人と思っていた者達を這い上がる事の出来ない奈落へ引き入れ、
そして、死喰い人達を唆し、革命という名目で魔法界を崩し始めた。
殺して、壊して、また魂を分割した。
そして、いつしか自分を失っていった。
「魔法界が欲しかったのではない」
目的がすり替わっていた。
魔法界を手に入れる為に壊すのではない。
壊す為に魔法界を手に入れるのだ。
その事を思い出した事で頭がすっきりした。
「ダンブルドアを殺す。グリンデルバルドを殺す。不死鳥の騎士団を殺す。魔法省を殺す。死喰い人を殺す。魔法使いを殺す。マグルを殺す。世界を壊す」
実にシンプルだ。
ようやく、ヴォルデモート卿は嗤い方を思い出した。
そして、ダンブルドアが姿を晦ましたと知り、また一つ、都市を焼き尽くした。
「ダンブルドアを殺すのが先か、世界を壊すのが先か……。まあ、どっちでもいいか」