【西絹代】
幽霊の正体見たり枯れ尾花、と言う。
幽霊など居ない。居ると思うから見えるのだ。
つまり、居ないと思えば見えることは無い。
仮に『幽霊』というものを知らない者があったとする。その者にとって幽霊は居るも居ないも無く、そもそも知らないのだから枯れ尾花を幽霊と見間違えることも無い。
なにしろ枯れ尾花は、最初から枯れ尾花。何かに化けることも無い、ただそこに生えているだけの枯れ尾花なのだ。
而して、それはあくまでも幽霊を知らない者の話。
世の人の大半は幽霊とは何かを知っているのだから、枯れ尾花を幽霊と見間違える場合もあるかも知れない。
見間違えたその時、枯れ尾花は幽霊となる。
幽霊だと思って見れば、枯れ尾花でも石ころでも幽霊となるのだ。
そして見間違えた者の中にはその正体を見極めずに逃げ帰る者もあるだろう。その者にとれば、幽霊は幽霊のまま。あとから枯れ尾花の生えている場所を指して、あそこに幽霊が居たぞなどと話せば幽霊が居たことになり、その時、枯れ尾花と幽霊は別物になる。
そうして、幽霊が居たぞと人に話せば、幽霊が居たことになる。見た当人は幽霊が居たと思っているのだから、そのまま幽霊が居たと話しているだけ。嘘をついている訳ではないのだ。
居たと言えば居たことになり、遡って事実となる。
居るのではなく、居たのが幽霊なのだ。
そしてそれは伝聞となり、幽霊が居たぞという話は、いつしか幽霊が居るぞという話に変化する。
幽霊が居るというのは、そういうこと。
私が宿泊した旅館の部屋にも、幽霊が居るぞという曰くがあったが、勿論幽霊なぞ出やしなかった。ただ、朝も夜もなく何処ぞの子供が入り込んでどたばたと五月蝿かったので少し困ってしまったが、あったことと言えばその程度だ。
深夜に西住まほ殿が所用で訪ねて来られた時も脇できゃあきゃあと騒ぐものだから、御迷惑でないかとはらはらしてしまった。
いや、そのお陰で幽霊も出る気を失くしたのかも知れないが。
まあそれはいい。そんなことよりも、だ。
どうにも呪(しゅ)を、掛けられた気分だ。
幽霊などよりも、余程はっきりとしている。
高速道路の休息所で缶コーヒーを飲みながら、思い出す。
これはきっと、当分忘れられないものになることだろう。
否、果たして『当分』で済むだろうか。まだ分からない。
コーヒーを飲むたび、あの方を思い出すようになってしまったようだ。
まあ、あのようなことがあっては当然だろう。
次はいつ、会えるだろうか。