幻想郷巡りを始めてから、
妖怪というものは、多くの場合それぞれの「縄張り」を積極的に移動しようとしない性質を持つ。人間と同じものを食べられるといっても、人喰い妖怪も少なくないし、そうした者たちには妖怪の賢者が「食べてもいい人間」を与えているせいで、わざわざ縄張りを離れて人を襲う必要がないのだから、なおのことだ。
ただ、それでも縄張りを離れて人間の里に現れる妖怪というのも、決してゼロではない。それらが里の人間を襲えば、当然ながら幻想郷の妖怪退治の専門家である「巫女」に退治されてしまうのだがら、人を襲うために里に出入りしているわけではなく、あくまで店や人に用事があって来ている、というのがほとんどだが。
そして、「その時」蓮鳳と走馬が出会ってしまったその妖怪は、そうした「気まぐれに里に現れる妖怪」の中では最悪にして最強とも言っていいレベルの妖怪――「花妖怪」の風見幽香であった。
「ぶつかってしまってごめんなさい、お姉さん。お怪我はありませんか?」
「いいえ。ただ、今日は人混みが多いみたいだから気を付けた方がいいわ。その花も、潰れてしまっては台無しでしょう?」
「たしかに、せっかくいいバラを見繕ってもらいましたし、渡す前に悪くなっては大変ですよね」
「ピンクのバラは感謝の贈り物ね。十三本ということは……恋人というよりも親しい友人へのものかしら?」
「はい。最近出会ったばかりのお友達へ。お姉さん、花に詳しいんですね。お花屋さんで花言葉は聞きましたけど、本数はお任せだったので、意味があるなんて知りませんでした」
穏やかな雰囲気で会話をする蓮鳳と幽香の二人を目にしながら、走馬は内心かなり焦っていた。花妖怪の幽香といえば、スペルカードルールにおいてはさほど強敵というわけではないものの、純粋な妖怪としての力はトップクラスだ。
人間に対する好感度はほとんど最低値と言っても過言ではなく、人間を積極的に襲おうとしないのは「嫌い」と「無関心」が彼女の中でほぼ同義であるためであって、少なくとも人間に親しみや愛おしさなどは微塵も感じていない。
今こうして蓮鳳と話しているのも、その性格が穏やかであるためではなく、あくまで蓮鳳を「格下」と見下しているせいで、彼女にとって「わざわざ巫女と対峙する面倒を冒してまで手を上げるのが無意味なほど矮小な存在」だからこそ、その態度に余裕が表れているだけなのだ。
こうした態度を取る妖怪は総じて自分の実力に絶対的な自信を持つ強力な妖怪に多く、その実力に比例してプライドも高い。だからこそ、「余裕が表れている内は無難だが、プライドを傷つけると容赦なく襲ってくる」者がほとんどである。
幸いにして、蓮鳳は他人を不用意に煽るような性格ではなく、それでいて自分を偽ったり無暗に
「花に限らず、意味を持たないものなんて多くないわ。意味のないものは「生まれる意味」もないもの。言葉も、物も、命も、すべてのものには何かしらの意味を持って生まれてくる。できれば、次に花を買う時はその意味を理解してあげなさい」
「はい。じゃあ、僕はこの辺で……って、走馬? 顔色があんまりよくないけど、どうかしたの?」
「い、いや……」
「――走馬? あら、チンピラ天狗の走馬じゃない。あなた、とうとう妖怪の山を追い出されて人間のお守り役になったのかしら」
幽香はまるで「今気づいた」とばかりに走馬へ視線を移すが、彼女ほどの妖怪が下っ端とはいえ幻想郷でもトップクラスの妖怪である天狗の気配に気づかないはずもなく、白々しい態度で口元を歪めるその様子は、まさしく不気味さと厭らしさを兼ね備えた「妖怪らしい妖怪」のそれであった。
事態を呑み込めず不思議そうに二人へ視線を行ったり来たりさせる蓮鳳は、幽香が少し手を伸ばせばすぐに届く距離にいて、いくら俊足の走馬でも、彼が蓮鳳を奪還してこの場を逃げ出すのと、彼女が蓮鳳の首を刈り取るのでは、明らかに後者の方が早いだろう。
不良天狗の走馬は、その性格ゆえに敵も味方も多く作りやすい。多くの知り合いから「友達想い」と評価される裏には、友達でない相手に対する冷酷さや冷血さを表している面もないわけではない。そして天狗としての長い人生の中で、幽香という人物は彼の「友達」ではなかった。
明確な衝突こそ今まで一度としてなかったが、それは彼女と会ったことがないこととイコールではない。今までも宴会などで顔を合わせたことはあるし、なんなら何度か言葉を交わしたこともあるが、そのどちらにおいても走馬は彼女に対して好印象を与えるような態度をとったことはない。
だからこそ、今このタイミングで出会ったことは最悪と言えた。「自分が大切にしているもの(≒友人)と一緒にいる時に出会った」「友人が幽香の危険性を知らなかった」「友人が基本的に性善説を信じていて他人を積極的に疑わないタチだった」と、そのどれもが今この状況にとって悪い影響を与えていた。
「別に追い出されたわけじゃない。知り合いの息子だから付き合ってるだけだ。そうじゃなきゃ人間なんかのお守りなんかするわけないだろ」
「走馬……?」
「そう。まぁあなたみたいなタイプに天狗の社会は合わないでしょうし、抜け出すにはいい言い訳ができたんじゃないかしら」
今まで見たことがないような切迫した表情で幽香を睨みつける走馬を見て、蓮鳳はやや怯えたように彼を見つめる。どう考えても普段の素っ気なくも友達想いな彼の態度ではない。どうにか落ち着かせようと声をかけようとする蓮鳳に被せるように、幽香の言葉が先んじる。
「でも……だとすればなおのこと興味深いわね。今まで妖怪の友人しか作らなかったあなたが、人間の友人に付き合うだなんて。せっかくだし、私もちょっかいを――」
「友人なんかじゃないッ!」
「――ッ!?」
「さっきも言ったろ。こいつは知り合いの息子であって、それ以上でもそれ以下でもない。ただの人間よりも距離が近いのはこいつの親との付き合いが長いからだ。別にこいつに対して親しさなんて微塵も感じちゃいねぇ。旅のお守りさえ終わればそれでおさらばだ」
今まで蓮鳳には一度として見せることのなかった、白狼天狗としての冷酷で冷血な一面。外敵に対する排他的で見下すような視線を向けられた蓮鳳が、一歩後ずさる。
いつもの走馬ではない。蓮鳳の知る春海走馬という人物はこんなことを言うような者ではない。だがそれでも、蓮鳳とて彼の全てを知るわけでもない。むしろ、彼のことで知っていることの方が多くない。今こうして向けられる視線ですら、今初めて知ったのだから、当然といえば当然だろう。
だがそれでも、自分の知る走馬を、自分の信じる走馬を疑いたくはない。そう思って彼をまっすぐ見れば、彼の拳が固く握られて震えていることに気づいた。「無理をしている」――そう気づくのに時間はかからなかった。
だとすれば、彼が何よりも大切にしている「友人」に対して「友人なんかじゃない」とまで言わせる要因はすぐにわかった。今こうして自分の肩を撫で抱くように手を当てている女性――風見幽香の存在が、彼に「それ」を言わせているのだと。
「あら、そう? だったら、それはそれでいいじゃない。ちょうどお茶汲みの人間が一人くらい居てもいいと思ってたの。だからこの子、少し私に貸してくれないかしら?」
「それは俺の一存じゃ決められないな。そいつは俺の持ち物じゃなくて俺の知り合いのものだからな」
「なら、後で私から「挨拶」に行くから、あなたがその知り合いに言っておきなさい。じゃあ、借りるわね――」
「待てッ! 茶くらいなら俺が汲んでやる。俺が天狗社会に馴染んでないのはお前だって知ってるだろ。俺がお前んちに入り浸ろうが不審がる奴なんていない。そんなヒョロいガキより、俺の方が玩具としても遊び甲斐があんだろ!」
必死に引き留めようとする走馬を見て、一瞬の間を空け、幽香はおかしそうに笑い始めた。
「くすくす、あなたがそこまで必死になったところ、初めて見たわ。いつも仏頂面で生意気なあなたのその態度から、いつかその余裕を奪ってみたいとは思っていたけれど、まさかこんなに簡単にそれが叶うなんて思わなかったわ」
「うるせぇ、俺のことなら好きに言って好きにしろ」
「ふふっ、そうね。じゃあ今日のところは見逃してあげるわ。面白いものも見えたし……私に命を握られてなお、そのバラを落とさなかったこの子に免じて、ね」
その胸に抱くバラを見て、幽香は満足げに笑う。さっきまでの厭味を含んだものではなく、心から溢れた喜びを隠し切れないような、そんな笑顔に、蓮鳳はどうしても彼女を嫌えなかった。
今こうして走馬を苦しめているのは間違いなく幽香だ。だが、彼女の花へ向けた優しさもまた間違いなく本物だ。その優しさが人間や妖怪に向けられていないだけで、それを悪だとは言い切れない。人によって価値を見出す対象が異なるのは、本好きな姉・パチュリーからも教わった。
大切なものが必ずしも「誰か」である必要などない。意思なき「何か」や命なき「何か」であっても、そこに向けられる愛が本物であるのなら、その人にとって最も価値のあるものを否定することは誰にも許されない。
「お姉さん、さっき花の本数によって意味が違うって言ってましたよね」
「ええ。あなたが今持っている十三本は「永遠の友情」ね。友人に送るなら、それが一番いいと思うわ」
「じゃあ、初めて出会った相手に渡すには、何本がいいんですか?」
「初対面の相手なら……そうね、それが恋なら一本が「一目惚れ」、三本が「告白」、十二本が「付き合ってください」、あと……恋じゃなく単純に出会いへの感謝とかなら五本が「出会えた喜び」ね」
幽香からそれを聞くと、蓮鳳は持っている花束から五本のバラを取り、幽香に渡した。
「お姉さん、走馬の知り合いなんですよね。だったらきっと、悪い人じゃないと思うから。これからも出会ったら声をかけさせてください。そして、よかったらもっと花のことも教えてください。僕、まだまだ知らないことばっかりなので」
邪気のない彼の笑顔に、幽香は毒気を抜かれたように肩を竦める。
今しかない、と走馬は蓮鳳の手を引き、彼を自分の背の後ろへと隠した。
「……走馬。あなた面白い子の世話をしてるのね」
「そのせいで苦労も絶えないけどな」
「でしょうね。その無垢さは無知の証でもあるわ。早々に改めさせた方がいいわね。でも……そうね、次に会った時は世間話くらいにしておきましょう。その氷の結晶のように綺麗で儚い心が汚れない内は、手を出さないであげるわ」
じゃあ、さようなら、と言って幽香がその場を後にすると、走馬は蓮鳳の袖を掴んだままその場に膝をついた。
「走馬!」
「蓮鳳……さっきは悪かった。本心じゃないとはいえ、お前のことを友人じゃないなんて――」
「そんなことわかってる! 僕はまだ走馬のことあんまり知らないけど……それでも走馬が嘘つきで友達想いなことくらい知ってる! きっと僕のために嘘をついてくれたんだよね。ありがとう……それと、ごめんね」
きっと、走馬にとって最も言いたくない言葉だったのだろう。嘘つきというものは総じて、言葉の意味をよく知っている。幽香も言っていた通り、あらゆるものには「意味」がある。言葉というものは、そういう「意味」を最も強く表現する。
だからこそ、友達想いな彼がその友情を裏切るような「言葉」を吐くことは、彼という人物のアイデンティティを崩壊させるほどの意味が込められているはずなのだ。それなのに、彼がそれを躊躇なく口にしたということは、それだけ切迫した状況が今しがたまで迫っていたということ。
幽香のことを嫌いにはなれないが、それでも走馬に「それ」を言わせたことだけは、蓮鳳の胸にゆらゆらと薄暗いものを燻ぶらせた。
「謝んな。お前はいつもみたいに妖怪も人間も区別なく接しただけだ。お前はそれでいい。知識や経験なら後からいくらでもつけられる。けど妖怪や人間への純粋な想いや偏見のない視点ってのは一度曇るとよっぽど戻らない。だからお前は、なるべくお前らしくいればいいんだ」
「うん……。ありがとう、走馬」