2016年4月6日 午後1時15分 神奈川県横須賀市 横須賀港 航洋直接教育艦『晴風』艦橋にて
人間であれば、よほどの悲観主義者でない限り自分に自信を持っている。己こそが優れた人間であるという自負がある。テストで100点を取れなくても、大会で優勝できなくても、何かの賞を取れなかったとしても、よほど鬱屈した人間でもない限り何かに自信を持っている。
例えばそれは、海洋医大始まって以来の天才、鏑木美波が自らの医学知識に対して自信を持っているように。
例えばそれは、明乃と秘密裏に協力関係を築いている
例えばそれは、ブルーマーメイド名家『宗谷家』の三女、宗谷ましろが自らの才能に自信を持っているように。
「うん、まぁ、これで大丈夫かな……?」
もはや、すぐ隣に居るはずの明乃の呟きすらもましろの耳には届いていなかった。
言うまでもなく、ましろもまたその他の有象無象と同じように
宗谷家という名家に生まれ、難関である横須賀女子海洋学校に入学し、『晴風』の副長になったという誇り。
弛まぬ努力してきたという自負、溢れんばかりの才能があるという自負、恵まれた環境にあるという自負。
表にこそ出さないでいて、ましろもまた明確にその自覚があるわけではなく、それ故に卑屈な態度をとることもあったが、少なくとも深層心理ではましろはそう思っていた。
2人の姉に比べれば無能でも、同年代では自分こそが最優だ、なんてことを思っていた。
そんな思いは明乃が『晴風』に乗船して僅か5分で粉々に砕かれた。
「ココちゃん、今言った航路をベースにサトちゃんと航路を再検討してくれる?一応、猿島には宗谷校長先生経由で遅刻の連絡を入れてもらってるけど、遅刻しないに越したことはないからね」
「分かりました!艦長!」
完璧だった。
ドタドタと、慌てながら幸子が艦橋から走り去っていく。そこまでして急ぐ理由は明乃に
「マロンちゃん、『晴風』の機関って最大船速で何時間持つかな?」
『……『晴風』は高圧缶だからな。最大船速なんか出し続けちまったら、3時間も持たねぇってんだい!』
「1時間最大船速、2時間第四船速で3時間ローテを組めば16時間半の航行に耐えられるかな?」
『西之島着いた時にゃ釡ぶっ壊れちまってると思うぞ』
「できるんだね?」
『……あー!やってやろうってんでい!』
「ありがとう、マロンちゃん!」
完璧だった。
伝声管を使って機関室と会話をしている明乃を尻目に、ましろは幸子が艦橋から走り去った理由を考える。ぼぉっと。
……理由は前者だろうな、とましろは思った。たった数時間程度の付き合いでしかないが、それでもましろは幸子が逃げを理由に急ぐほど薄情な人間でないことを知っているつもりだ。だからきっと理由は前者。幸子は明乃の雰囲気に中てられて、艦橋から全速力で海図室に向かったのだろう。
「リンちゃん、航海中は機関室と常に連絡を取って、機関の様子を気にかけておいて。機関の様子がおかしそうだったらリンちゃんの一存で速度緩めていいから。ただし、私とシロちゃんへの事後報告はだけは忘れないように」
「わ、分かりました!艦長!」
完璧だった。
泣きそうになりながら鈴がそう返事をする。無理もないことだろう。気の弱い鈴からすれば、今の明乃は怖くて仕方がないのだから。
……こんな話を知っているだろうか。
キュビスムの創始者、パブロ・ピカソの父親はピカソが13歳の頃に描いた鳩の描写力に驚き、筆を折ったらしい。絶対的な実力差を感じてしまえば、人間の誇りなどいとも簡単に砕け散る。特に、自分に自信を持っていた人間ほど明確に。
「タマちゃん、メイちゃん。航行中に撃つ機会はないと思うけど、たぶん西之島についたら演習で撃つことになると思うから、担当各員との連携確認をお願い。必要なら空いてる人の手を借りてもいいから」
「うぃ!」
「任されたよ、艦長!」
完璧だった。
努力では埋められない、絶対的な才能の差。
天才。
「…………ん」
そう、まさしく岬明乃という少女は天才だった。ましろなど足元にも及ばない天才だった。少なくとも、ましろでは不可能だ。明乃は乗船して僅か1分で艦橋メンバーの心を掴み、その後2分でましろたちが1時間かけて考えた航路を把握、さらに2分かけて航路に完璧な修正を掛けてみせた。
常人にできることではない。化物で、怪物だ。常軌を逸している。
「………………ちゃん」
ましろは自分には才能があると思っていた。確かにましろは落ちこぼれクラスの『晴風』に配属されたが、それは入学試験時にテストの回答欄を一つずつずらして回答したからで、本来ならばましろは『武蔵』にでも配属されていたはずなのだ。
だから、ましろは自分こそが『晴風』で一番優れた人材だと思っていて、
それが思い込みであると今知った。
「……………………シロちゃん」
努力が足りなかったとは思わない。ましろは毎日弛まゆ努力をしてきた。
環境が悪かったとは思えない。ましろの環境は『晴風』どころか横須賀女子海洋学校の誰よりも恵まれていた。
それでも明乃とこれほどの差があるのは、やはり才能が違うからか。
『も、もしよかったらっ、この制服を代わりに着たらどうかなって!!!』
優しくて、他者を気遣えて、才能に溢れる少女。
なるほどな、とましろは1人納得した。確かに、明乃と比べればましろなんて無能だろう。どう考えても艦長に相応しいのは明乃で、ましろは副長の座がお似合いだ。
けれど、とましろは疑問にも思った。
これほど有能な明乃が落ちこぼれクラスの『晴風』に配属された理由は何なのだろうか?
明乃ならばきっと、『武蔵』の艦長にだってなれたはずなのに。
「もう、シロちゃん!聞こえてるでしょ!!!」
唐突に、と言ってもいいのか。
いきなり明乃が大声でましろの名前を呼んだ。
「ッ!?」
それで、ようやく明乃が自分のことを呼んでいたという事実に気づいた。そのことに気づけないほどに、ましろは自分の世界に引き籠ってしまっていた。
それぐらいショックだったのか。
ハッとしてましろは己の頬を叩く。
そうだ。今はそんなことを考えている時ではない。今はもっとやるべきことがある。
「――――――シロちゃん?」
「す、すみません。艦長。少しぼーっとしていました……」
「ぼーっと?シロちゃんが?」
「はい、すみません。……それで、何の用でしょうか、艦長?」
気落ちするのは後でもできる。後悔するのはもっと後でいい。今はそれよりも、初めての航海を成功させるために
副長の仕事は艦長を支えること。それさえもできないのであれば、いよいよましろの存在に意義はない。
「うん、ちょっとこれを預かっててほしいんだ」
そう言って、明乃は被っていた艦長帽をましろに差し出した。
当然、その意味を理解できないほどましろは無知ではなく、
だからこそ
「は?艦長が艦橋を離れるつもりですか!?」
「その、私もできればこのまま艦橋で指揮を取りたいんだけど」
ばつが悪そうに、明乃は言う。
それが100パーセントの演技であることをましろは見抜けない。
いや、見抜ける方がおかしいのだ。だって、明乃は昔からずっと、こういう場面を想定してきたのだから。
「1度衛生長のみなみさんにこの腕を見てもらうように先生に言われててね」
「っ!」
ギプスをはめた左腕を示して、明乃はそう言った。
だからこそ、芽依は呆れていた。
(ほんと、よくやるよ。明乃は)
まぁ、そういうところも含めて、芽依は明乃を好いているのだが。
「す、すみません!失言でした……」
「ううん、今のは私の言い方も悪かったよ。ごめんね、シロちゃん。勘違いさせるようなこと言って」
「っ、いえ……。分かりました。そう言うことであれば、指揮権をお預かりします」
憧れていた艦長帽を手に取る。
だけど、なぜかましろはそれを心の底から被りたいとは思えなかった。
それは、
その理由は、きっと。
「たぶん1時間くらいで戻ってくるから、それまでお願いね!あっ、私が帰ってくるのは待たなくていいからね!航路の選定が終わったら、シロちゃんの合図で出航していいから!」
「はい。承知しました、艦長」
明乃が艦橋から去ったのを確認し、ましろは艦長帽を被った。
それが義務であり、責任だから。
――――――憧れていた艦長帽の感触は、とても苦く、重いものだった。
今話のサブタイトル元ネタ解説!
light社制作のエロゲ―、Dies iraeに登場する詠唱の一文。
多人数を動かすのが苦手だからこそはいふりの二次に挑んだんですが、さっそく苦戦しています。
さて、明乃はどういう意図をもって艦橋から離れたんですかね?
一応言っておきますが、まだ2人の繋がりは維持されていますよ?
感想、高評価をいただけますと大変やる気が湧いてきます!よろしくお願いいたします!!!
表紙絵の感想は?
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素晴らしい!
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特にない。